貪欲の末路
ローマの信徒への手紙 第7章7-13節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第7章7節以下を読みました。なんだかまた難しい話になりそうだなあ、という感想が生まれたかもしれませんが、この手紙を書いたパウロがここで言おうとしていることはそんなに複雑なことではありません。「なぜ人間は罪を犯すのか」ということです。この罪の問題が、どうしてこんなにややこしい話になってしまうのかというと、「なぜ人間は罪を犯すのか」という問題に、〈律法〉の話が絡んでくるからだと思います。この律法というものが、私どもにとってはたいへんわかりにくいのです。
〈律法〉というのは、その漢字をひっくり返すと「法律」という言葉になります。もちろん律法には法律という一面がありますが、しかしそれ以上のものです。12節には、「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」と書いてあります。神がお定めになったものですから、当然です。そういう律法の中でもいちばん大事な〈十戒〉と呼ばれる言葉を、私どもは毎週礼拝の初めのほうで唱えているわけです。十戒こそ、聖なるもの、正しいもの、善いものなのですが、でも、どうでしょう。毎週この十戒を皆さんと一緒に唱えながら、ふと皆さんに尋ねたくなることがあります。いったいどんな思いで十戒を唱えていらっしゃいますか。今、こういう言葉を唱えながら、何をお考えになっていますか。
今朝読みましたローマの信徒への手紙第7章の7節にも、十戒の引用があります。
では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
ここに「貪るな」という律法の言葉が引用されています。十戒の最後の戒めです。私どもが毎週唱えている表現では、「汝、その隣人の家を貪るなかれ」。聖書の箇所で言えば、出エジプト記第20章です。ただ、この「貪る」という言葉が、もう時代遅れだと考えられたのでしょう、私どもの使っている翻訳で出エジプト記第20章を開いてみると、「貪るな」という伝統的な翻訳は姿を消して、その代わりに「隣人の家を欲してはならない」と書いてあります。
「貪ってはならない」、「欲してはならない」。皆さんはどちらの翻訳がよいと思われるでしょうか。あるいは、どちらの言い方のほうがきついと思われるでしょうか。言葉としては、「貪るな」と言われるほうがきつい感じがするかもしれません。今私どもが使っている聖書協会共同訳だけではなくて、その前の新共同訳から、「隣人の家を欲してはならない」というように翻訳が変わりました。私は、この「欲してはならない」という翻訳に初めて触れたとき、どきっとしました。「貪り」という言葉よりも、もっとはっきりと神の声が聞こえたような気がしました。「あなたは、隣人のものを欲しがっているね」。「そんなことをしてはいけないよ」。自分の根深い問題を見事に言い当てられたと思ったのです。
私は思うのですが、十戒の十ある戒めの中でも、いちばん厳しいのが、この最後の戒めではないでしょうか。「あなたは、隣人のものを欲しがってはならない」。「ええ? 欲しがるだけでもだめなんですか?」こういう戒めを、変に律法主義的に受け取ってはならないだろうと思います。けれども、このことについて考えれば考えるほど、実はこんなに鋭く人間の根本的な問題を言い当てた言葉もないのではないかと思います。まさしく、「貪る」のであります。「もっと欲しい、もっと欲しい。まだ足りない、まだまだ足りない」。それが隣人に対する妬みに変わります。憎しみを生みます。それが終わりのない戦いにまで至ります。「もっと欲しい。まだ足りない」。「それは、あいつらが取り過ぎているからだ」。「取り返してやる」。そんな人間の貪りが、遂には世界を滅ぼしてしまうのではないかという不安を、私ども特にこの5年、10年の間に、深めているのではないかと思うのですが、その根本的な原因を突き詰めていくと、結局のところ、「汝、その隣人の家を貪るなかれ」という、このひとつの戒めに行き着くのではないかと思うのです。
いちばん難しい戒めです。いちばん大切な戒めなのだと思います。ところが、それがいちばん難しいのです。「あなたは、隣人のものを欲しがってはならない。隣人のものを貪ってはならない」。あなたは、神に愛されているんだから。神があなたを愛し、あなたを守る。だから、隣人のものを貪るな。
■しかしそれにしても、ここでたいへんわかりにくいのは、この言い回しです。「律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」と言うのですが、いったいこれはどういうことでしょうか。「盗むな」と、律法に書いてなかったら、誰も盗まないのでしょうか。「殺すな」と法律に書いてあるから殺人が起こるので、そもそも「殺すな」という法律そのものをなくしてしまえばいいのだ、ということでしょうか。もちろん、そんなわけはないのですが、こういう言い方でなければ言い表し得ない人間の罪の現実があったということに、気づかなければならないと思うのです。
ある牧師が、この聖書の言葉を説き明かしながら、こんな話をしていました。その牧師の教会には同じ敷地内に附属の幼稚園があって、その牧師もしょっちゅう幼稚園の子どもたち、また先生たちと関わりがある。その幼稚園の先生から教えられたことだと言うのですが、子どもたちが教室で自由に遊んでいるというときに、先生が何かの用事で部屋から出ないといけない。子どもたちだけ、部屋に残しておかなければならない。そういうときに、「ここにあるものは大事なものだから、さわらないでね」。そう言って部屋を出ると、必ずさわる子が出てくる。それはもう、絶対、必ずそうなるのであって、ひとつの法則のようなものだ、と言うのです。何も言わずに部屋を出れば、きっと誰もさわらなかっただろう。わざわざ注意したから、逆の結果になってしまう。だから、当たり前と言えば当たり前のことですが、こういう時はあえて何も言わずに外に出るのが正解なのだ、と言うのです。
これは本当にたわいもない話で――私も最初この話を読んだとき、いくら何でも聖書の話を次元の低いものにしてはいないかと疑ったのですが――むしろこういうところにこそ、私どもの罪の現実がよく現れているのだと思わされました。そこでこの牧師はすかさず、創世記第2章、そして第3章の話をするのです。創世記第2章には、神が最初の人間、最初の夫婦をすばらしい楽園に住まわせ、ここにあるものは何でも食べてよい、ただし、楽園の中央にある木の実だけは食べてはならないとお命じになったと書いてあります。「これだけは食べちゃいけない。食べたら、あなたは必ず死んでしまうよ」。ところがそれが、人間の貪りを呼び起こしました。蛇の誘惑に負けて、結局それを食べてしまいました。それが何を意味したか。この牧師の説き明かしがたいへん優れていると思いますので、そのまま紹介したいと思います。
ここで禁じられていることは、ひとつだけである。他は何を食べてもよいのである。それが意味していることは、人間はこの園の中でほぼ完全な自由を与えられていたということである。ただひとつ、神の御心には服従が求められた。つまり、この世界は神のものであって人間のものではない。それを示すものが中央にある木の実である。これを食べないことによって、人間は、神がこの世界の支配者であり、自分たちは神に服従すべき者であることを明らかにするのである。それを食べたということは、たったひとつの神の命令に背いたことであり、それは神に向かって「あなたの言うことは何一つ聞きません」と言うことに等しい。それを食べることによって、自分がこの世界の支配者になったのである。
『説教黙想 アレテイア』第89号、2015年。吉村和雄による第7章21-25節のための黙想)
この文章について、なお多くの言葉を重ねる必要はないだろうと思います。神は人間に、善いものだけをくださったのです。そしてまた、完全な自由を与えられたのです。神は、愛だからです。「あなたは、この愛の中に立ち続けなさい」。そこでしかし、神はひとつの警告を加えられました。「この木の実だけは食べちゃいけない。食べたら、必ず死ぬからね」。それは、その木の実に猛毒が含まれていたとか、そんな話ではありません。今紹介した牧師の文章が見事に説き明かしているように、「ただひとつ、神の御心には服従が求められた」のです。それこそ十戒が最初に言うように、「わたしがあなたの神だから、わたし以外に、あなたの神はいないのだから」、「だから、あなたは、わたしの愛の中に立ち続けなさい。そこから出たら、あなたは死ぬよ」。けれども、そのたったひとつの戒めが、人間には我慢ならなかったのです。それで、最初の夫婦はふたりそろって禁断の木の実を食べました。それは、もう一度この牧師の説き明かしを引用するならば、「それは神に向かって『あなたの言うことは何一つ聞きません』と言うことに等しい。それを食べることによって、自分がこの世界の支配者になったのである」。
先ほど、「殺すな」という法律があるから殺人が起こるので、「殺すな」という法律そのものをなくしてしまえばいいんだ……という、ばかばかしい話をしてみせましたが、もちろんそんな話ではないのです。「貪るな」、「この木の実だけは食べるな」と言われたときに、そう言われた神に対して、われわれ人間がどういう態度をとるのか。それが問題です。もう一度申します。神は、人間に、善いものだけをくださったのです。神は、愛だからです。「あなたは、この愛の中に立ち続けなさい」。そうすれば、隣人のものを貪ったりする必要なんか、ひとつもないんだよ。その神の愛に対して、「いやです」と言いたくなる人間の心にある根本的な問題は、神なんか信じていないということでしかないのです。どんなに豊かなものを与えられても、神さまだけは信用できない。だからこそ、「もっと欲しい、もっと欲しい」。隣人のものだろうが、神のものだろうが、お構いなしです。
■8節に、「しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました」と書いてあります。似たような言葉が11節にも繰り返されます。「罪は戒めによって機会を捉え」という言い方は不思議な表現ですが、創世記第3章をあわせて読むことによってよく理解できると思います。7節の最初にあるように、律法そのものが罪なのではありません。最初に読んだように、「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」と12節に書いてあります。「この木の実だけは食べちゃいけない」と言われた神の戒めは、神の愛でしかなかったのです。ところが「罪は戒めによって機会を捉え」、蛇がやって来てこう言うのです。「こんなにおいしそうな木の実を食べちゃだめだなんて、神さまってひどい決まりを作りますね。あれもだめ、これもだめ、がんじがらめじゃないですか」。「この木の実を食べると死んでしまうとか言いますけどね、それ、うそですよ」。創世記第3章5節には、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」と書いてあります。「神に従うなんてばかばかしい、あなたが神のようになればいいじゃないですか」。
「罪は戒めによって機会を捉え」というのは、そういうことです。「この木の実だけはだめだ」と言われたら、罪はその戒めによって機会を捉えて、何が何でも神に逆らいたくなるのです。「貪るな」と言われたら、馬鹿を言うな、貪らずに生きていけるかと言いたくなるのです。そこに現れてくる根本的な問題は、私どもが神なんか信じていない、ということでしかないのです。
神なんか信じられない。神の愛なんか嘘だ。神の愛なんて、絵に描いた餅だ。そういう人間が、アダムとエバから始まって今に至るまで、隣人のものを貪り続ける世界を作り上げてしまっていることを、創世記は見事に物語っていると思います。創世記第2章、第3章の話をしましたが、第4章に至ると、今度は人類最初の夫婦から生まれた人類最初の兄弟の間で、兄が弟を殺すというたいへん悲しい事件が起こります。その話を長々とする必要もないと思いますが、要するに、兄のカインが、弟のアベルを妬んだのです。「なぜあいつだけがいいものをもらっているんだ」。「なぜ俺だけが貧乏くじを引かなければならないんだ」。しかしそれにしても、そんな理由で兄弟を殺すなんて、そんな馬鹿な話があるでしょうか。けれども、今私どもの生活を振り返って、あるいはこの国のこと、この世界のことを顧みて、創世記第2章、第3章、そして第4章の、いかにもおとぎ話のような物語が、実は無限の広がりを持っていることに気づかないわけにはいかないのです。互いに隣人のものを貪り合って、文字通り際限なく貪り合って……「もっと欲しい、もっと欲しい」。そういう世界の根本的な問題は、神なんか信じない、神の愛なんて嘘だと言っている、孤独な罪人のみじめさなのです。
■「では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか」(7節)というところから、話は始まりました。むしろここは、「律法が罪なのか」と訳すべきだと思います。「律法が罪なのか。決してそうではない」。悪いのは律法ではなく、人間が罪人だったのです。したがって、律法を廃止したり、書き換えたりする必要はありませんでした。新しくされなければならないのは、私ども自身です。そして事実、神は私どもを新しくしてくださいました。主イエス・キリストの救いによって。そのことについては、第8章の叙述を待たなければなりません。
そうであっても、今私どもは事実として、救われた者として、新しくされた者として、新しい思いで、神の律法をもう一度聴き直すのです。「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」。永遠不変の神のみ旨を、もう一度、新しく救われた者として、聴かせていただかなければなりません。そのために、私どもは礼拝のたびに神の戒めを唱え直すのです。「我は汝の神」。わたしだけが、あなたの神なんだ。わたしがあなたを生かす。わたしがあなたを守る。だから、あなたは、隣人のものまで貪らなくていいんだよ。わたしがあなたの神だから。あなたは、神に愛されているのだから……。この神の声を聴くための、礼拝であります。神に造られたすべての人が、ここに来なければなりません。万物が救われて、神の声を聴かなければならないのです。お祈りをいたします。
私どもの救い主、イエス・キリストの父なる御神。今なお絡みつく貪りの罪を思います。だからこそ、あなたの語りかけを聴かなければなりません。悔い改めて、あなたの愛の中へ立ち帰らなければなりません。あなただけが、私どもの神です。そこに生まれる確かな平安の中に立ち、今から後どこに行っても、誰と過ごすときにも、あなたの愛を信じて、隣人のものを貪ることなく生きることができますように。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン





