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まだ見ぬものを待ち望み

2026年5月3日

ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■先週に引き続き、伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙第8章の18節から、予定を変更して、段落の区切りを越えて26節までを朗読しました。なぜこのような不自然な区切り方をしたのか、しかし多くの方は私の思いをすぐに汲み取ってくださったのではないかと思います。ここでたいへん際立った印象を残すのは、「呻く」という言葉です。

実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています(22節)。

被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます(23節)。

霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです(26節)。

既に救われた私どもです。神に愛され、主イエス・キリストに救っていただいた私どもです。ところがここでは、その救われたはずの私どもの生活の特質を、「呻く」という言葉で明らかにしようとするのです。

この「呻く」と訳されている言葉のいちばん基本的な意味は、「ため息をつく」です。「はあ~、もう、いやだ」と、私どもの生活も、ため息の種には尽きることがありません。したがってまたこの言葉は、文脈によっては「不平を言う」という意味にもなります。ヤコブの手紙第5章9節には、「互いに不平を言ってはなりません」と書いてあります。私どもの生活には、いろんなことが起こります。思わずため息が漏れます。それが不平不満に変わります。ヤコブの手紙は、「互いに不平を言ってはなりません」と、つまり「互いにため息をついてはいけません」と言うのですが、言われてみると、私どものため息がいちばん深くなる場面は人間関係であるかもしれません。「お互いにため息をつき合うな」。

ところがここローマの信徒への手紙第8章においては、呻きは禁止されておりません。私たちも呻いている。私も呻いている。それどころか、被造物全体が、つまり天地万物、神の造られたものすべてが、深いため息をついている。そして決定的な意味を持つのは、「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」。神の霊、聖霊ご自身が呻いておられる。言葉にならない呻きをもって、弱い私たちを助けてくださる。そのことに目を開くとき、今ここで私どもが呻いている、その呻きが、決して絶望に終わる呻きではないことに気づきます。

既に22節で読んだように、これは「産みの苦しみ」である。実際に産みの苦しみを経験された女性たちは、なおよく理解できるかもしれません。体中から汗が噴き出て、目の前が暗くなるような思いをしながらも、呻きながら、来たるべきものを待つのです。そんな呻きを、「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」。それどころか、神ご自身にほかならない霊自らが、共に呻いていてくださると言うのです。

ローマの信徒への手紙第8章は、神の救いについて語る、ひとつのクライマックスです。神に救われるって、どういうことなんだろう。神に救われて生きるって、どういう生き方なんだろう。それをここでは、呻きながら、すべての被造物と共に産みの苦しみを苦しみながら、しかもその呻きを神の霊が共に呻き、共に助けてくださると言うのです。それが、救われた者の生活である。今ここにおける、私どもの生活である。たいへん不可解な、しかしまた不思議な深みを持った言葉だと思います。

■しばらく前に、ある教会の仲間の葬儀をしたときに、やはり同じ伝道者パウロの書いたコリントの信徒への手紙一の第13章を読みました。もちろん、これがその人の愛誦聖句だったからです。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(4~7節)。

「かつてある人の葬儀で」と申しましたが、きっと皆さんは、誰の葬儀の話だかわからないだろうと思います。多くの人に愛されてきた聖書の言葉であり、事実また私も、多くの人の葬りに際してこの聖書の言葉を読んできました。たいへん印象深い聖書の言葉、たいへん感動的な聖書の言葉だと言ってもよいと思いますが、しかしなぜこういう言葉が私どもの心を動かすのでしょうか。端的に言って、私が忍耐強くないからです。私が情け深くないからです。「私は」と敢えて強調して申しますが、私だって妬みます。隙あらば自慢します。そうやって高ぶりたいんです。その結果、礼を失し、自分の利益を求め、怒りをあらわに、あるいは怒りをうまいこと隠して悪を企むのです。「〔愛は〕不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」って、いや、もう、見事に、私の正体とは正反対のことが書いてあるのですが、だからこそ、この聖書の言葉がたまらなく慕わしいのです。だからこそ多くの人が、文字通り自分の命を賭けるようにして、このみ言葉の前に立たずにおれなくなるのです。

愛に挫折している私どもなのであります。何かと言えば互いに不平を言い、互いにため息をつき……だからこそ呻くような思いでこの聖書の言葉の前に立ち、涙さえ流れることがあるのです。「神さま、愛って何ですか」。同じコリントの信徒への手紙一第13章には、「愛がなければ、無に等しい」(2節)とも書いてあります。私どもは、実は既にそのことを十分承知しているのです。愛がなければ、すべては無。愛がなければ、人間は人間として生きることができません。そこに呻きが生まれます。すべての人が呻いている。いや、ここはなるべく正確に話を進めましょう。聖書の証しするところに従えば、天地万物が、今に至るまで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちも知っているのです。

■そのコリントの信徒への手紙一第13章の12節には、さらにこんなことが書いてあります。

私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。

これは、話があまりにも唐突で、あっけに取られてしまうかもしれません。「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」とか、「その時にははっきり見えるようになる」とか、まるで愛の話とは関係がないように思えるからです。しかし、そうではありません。むしろこれを書いたパウロは、愛についていちばん大事なことをよくわかっていたのだと思います。

「神さま、愛って何ですか」と呻きながら、ため息をつきながら、だからこそ私どもが知らなければならないことが、このことなのです。「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります」。いつか私どもも神の前に立ちます。顔と顔とを合わせて。「私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります」。今既に、私は神にはっきり知られているのです。見つめられているのです。神の愛のまなざしで、はっきりと。神の愛のまなざしに曇ったところはひとつもないのですが、今私どもの側からは、それを鏡におぼろに映ったようにしか見ることができません。

その「鏡」というのは、古代の人が使っていた鏡で、今の鏡ほどはっきりとは映らなかったのだ、という説明をすることがありますし、私も基本的にそういう説明をすることが多かったのですが、でも本当はそれだけじゃないだろうなと感じていました。どんなに性能のいい鏡だって、鏡に映っているだけじゃあ、どうしようもないじゃないですか。どんなに鏡にはっきり映っていたって、鏡に映っているだけじゃあ、愛する人を抱きしめることも、抱きしめられることもできないじゃないですか。けれども、「その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります」。「神さま、わたしは、こんなにもはっきりと知られていたんですね。こんなにも愛されていたんですね」。「その時」を、私どもは待っているのです。

■それと同じことを、ローマの信徒への手紙第8章では、またさまざまな表現で教えてくれるのですが、たとえば19節にはこう書いてあります。「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」。「神の子たちが現れる」というのは、どこかからスーパーヒーローが現れるように、神の子たちの集団が雲に乗ってやって来るという話ではありません。今既に神の子とされている私たちが、その正体を明らかにするということです。私どもは、神に愛された神の子です。だがしかし、その正体はまだ隠されています。悲しいほどに隠されています。だからこそ私どもは今、呻いているのです。愛に挫折しながら。23節にこう書いてある通りです。

被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます(23節)。

「霊の初穂を持っている私たち」であります。そのこと自体、決して小さなことではありません。第8章15節には「この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と書いてあります。霊の初穂を頂いて、私どもは今既に神の子です。神を「アッバ、父よ」と、今そのように礼拝をしているのです。それなのに、どうして私は忍耐強くないのでしょうか。どうして情け深くないのでしょうか。呻きながら、しかしなおこう言わなければなりません。

私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです(24、25節)。

私たちは、まだ見ていないのです。まだ見ていないからこそ、それは希望なのです。だからこそまた、忍耐しなければなりません。

■今朝はローマの信徒への手紙第8章とコリントの信徒への手紙一第13章と、何度も行ったり来たりするようで申し訳ありませんが、コリントの信徒への手紙一第13章のほうで、特に私の心に刺さっている言葉があります。「愛はいらだたない」と言うのです。皆さんの中で今聖書を開いておられる方は、えーと、第13章の何節だっけ、と探しておられるかもしれません。聖書を開かないまでも、「そうそう、そんな言葉があった」と頷いてくださる方のほうが多いかもしれません。ところが残念なことに、今私どもが読んでいる聖書協会共同訳という新しい翻訳では、「愛はいらだたない」という私の好きな言葉が消えてしまいました。第13章5節の中ほどに、「怒らず」と書いてあります。「愛は怒らない」。まあね、どちらでもいいじゃないかと言われればそれまでなんですが……。

「愛は怒らない」でも「愛はいらだたない」でも、自分のこととしてよくわかるのです。私も、すぐにいらだってしまいます。牧師があまりそういうことをはっきり言い過ぎないほうがいいのかもしれませんが、事実ですからどうしようもありません。どうしてイライラしてしまうんだろう。私は神に愛された神の子なのに、こんなにも愛されているのに、こんなにもはっきりと知られているのに、そんな自分のことをはっきりと知ることができないからでしょう。まるで、鏡におぼろに映ったものを見ているように。いや、もしかしたらもっと深刻なことは、神に愛されている、神に知られている隣人の姿を、はっきりと見ることができないことであるかもしれません。あの人も、この人も、こんなに神に愛されているのに、それが鏡におぼろに映ったようにしか見えません。そのためにいらだつのです。いらだちながら、ため息をつくのです。呻くのです。

けれどもそんなときに、神の霊もまた同じように、共に呻いておられるとしたら、どうでしょう。被造物全体が共に呻いている、その中で私も、私たちも呻いている、その呻きが実は産みの苦しみだということに気づくならば……そうであるならば、たとえいらだちながらであっても、呻きながらであっても、自分自身に繰り返し言い聞かせなければなりません。私は、私たちは、まだ見ていないものを待ち望んでいるんだ。「現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」。忍耐しながら、呻きながら、今はまだ見ていないものを待ち望むのです。たとえ、今はそれが鏡におぼろに映ったようにしか見えなくても、いやだからこそ、それを呻くように待ち望むのです。それが、神に救われた者の今ここにおける生活です。

忍耐とか、見ていないものを待ち望むとか、ずいぶん厳しい話だと感じられるかもしれません。「せっかく礼拝に来たのに、もっと元気の出る話を聞きたかったなあ」なんてことにさえなるかもしれません。しかしこれは、とても大事なことです。「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ています」。「現に見ている希望は希望ではありません」。そのことを忘れるとき、私どもは目に見えるものだけを追い回すことになります。それに振り回されることになります。それは言い換えれば、呻くことしかできないような苦しみの中で――そういう現実がいくらでもあるわけですが――その苦しみを信仰によって受け止めることもできなくなるということです。そういう信仰生活は、率直に申しまして、弱いです。目に見えるものだけに振り回されるような、そういう弱い信仰は、いらだちに勝つことができません。自分の罪に勝つこともできなければ、隣人の呻きに真実に耳を傾けることもできません。けれども私どもに与えられている希望は、まだ見ていないものを待ち望む希望です。私どもは、まだ見ていない希望によって、救われているのです。

■そういう私どもの信仰を支えているのが、私どもの内に宿っておられる聖霊であると言います。23節には、「霊の初穂を持っている私たち」と書いてあります。「初穂」というのはつまり、その年の収穫の最初の実りです。まだ本格的な、豊かな収穫は得られていないのですが、何の根もないところに実りが実るわけはないのであります。初穂が実ったということは、そののち必ず与えられるはずの豊かな収穫の保証です。それをここでは、「霊の初穂を持っている私たち」と言うのです。

その聖霊に導かれて、今共に祝う聖餐の食卓もまた、初穂のひとつの形であります。ここで私どもがいただく小さなパン、小さな杯は、文字通りあまりにも小さすぎて、ここに神の愛が見えるとか、そんなこと言われても。けれども今、神の霊に導かれて、私どもは「アッバ、父よ」と、神を呼ぶことができます。呻きながらでもいい、ため息をつきながらでもいい、いやむしろ神の霊ご自身が言葉にならない呻きをもって私どものために執り成してくださるのですから、私どもも今正直に、自分自身の呻きを吐き出すようにして、この小さなパンを噛み締めます。この小さな杯を味わいます。そのとき、私どもの罪のために十字架につけられた主イエス・キリストの、甘さと、苦さを、感じ取らないわけにはいかないのであります。

そこで私どもは知るのです。鏡におぼろに映ったようにであっても、やっぱりわかるのです。「神さま、わたしは、こんなにも愛されているのですね。こんなにも赦されているのですね」。いつか主が再び来てくださる日、顔と顔とを合わせて神の愛を確かめることができるようになる、その時を待ち望みながら、希望と忍耐の生活が今私どもに与えられているのです。お祈りをいたします。

 

あなたの霊に導かれて、今心からあなたの名を呼びます。「アッバ、父よ」。神さま、あなたは本当に、私どもの父、わたしのお父さんでいてくださいます。そのことを知るからこそ、呻きが生まれます。お父さん、お父さん、どうしてこんなに苦しいのでしょう。霊の初穂を与えられているのですから、まだ見ていないものを待ち望む勇気を、希望を、新しくお与えください。自分自身の呻きだけでなく、隣人の呻きにも、また被造物すべての呻きにも、敏感に耳を傾けることができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

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