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いつまでですか

2026年5月10日

ヨハネによる福音書 第16章16-24節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

先ほど詩編第13篇をご一緒に読み交わしました。「いつまでですか」という詩編です。
いつまでですか。

いつまで主よ、「私は魂に思い煩いを、心に悲しみを日々抱き続けるのですか」(詩13:3)。

この詩編を聴きますと、私は母を思い出します。母が昔、私にふとこう言ったことがありました。「いつまでですか、と神様にお祈りしてた」。

私には、それだけで通じるものがありました。苦労していましたけれども、この苦しみは、いつまでですか。

その思いは、どなたにもお分かりになるだろうと思います。人生には苦しみのときがあります。それがひとときで終わることもあれば、その苦しみが延々と長く続くように思える時もあります。そして生涯、生きている限り、消えないであろう、そういう苦しみもあります。その中で私どもはどう生きるのでしょうか?

「あなたがたの心は苦しみで満たされている」(16:6)と、主イエスが、この直前になりますが弟子たちに言われました。それは主イエスがこれから、いなくなられるからです。

このあとすぐになりますけれども、主イエスが十字架に向かわれます。そのことは弟子たちにもまだほんとうには、よくわかっていないところがありますけれども、でも主イエスが「私は父のもとに行く」とか、「あなたがたは私を見なくなる」と言われましたので、弟子たちの心は、その苦しみで、いっぱいになっています。
ちょうど余命宣告を受けた家族のように、と言ってもいいかもしれません。衝撃で、死にのみ込まれてしまうような、そんな苦しみです。

主イエスがここで言われました「苦しみ」という言葉は、以前の新共同訳では「悲しみ」と訳されておりました。

「あなたがたの心は悲しみで満たされている」。

そうすると、あらためて悲しみというのは、苦しみなんだ、と思わされました。悲しみは、苦しみになるんだ。それは、ここで言うなら「失う」という苦しみです。

でも、きちんと申し上げなければならないことは、人生の最大の苦しみは、そこで主を失うことです。その悲しみや苦しみの中で、主を失うことです。主が見えなくなり、その声も聴こえなくなり、主イエスから何の慰めも、希望も、いただけないことです。

そんなことはないと、今心の中で言いたいですけれども、でもそれはそんなに簡単なことではないということも、おわかりになると思います。

この時の主イエスには、そういう私どもの心の中がおわかりで、主イエスがそれにここで勝とうとしておられる。つまり、この苦しみの克服について――。

苦しみの克服というのは、それは、弟子たちのこれからの生活について、これから受ける苦しみの中でどうやって生きて行ったらいいか、その危うさを知りながら、でも主イエスには、それに負ける気なんて、さらさらないのです。

だから強くおっしゃいます。
その苦しみを、通過しなくてはならない。
あなたはこの苦しみを通過しなくてはならない。

だが、と。

「その苦しみは、喜びに変わる」(16:20)。

私は、この主イエスのお言葉に深く慰められました。
今のこの苦しみが、喜びに変わる。

今のこの苦しみが、無かったのではなく、
今のこの苦しみが、この苦しみこそが、喜びに変わる。
その日が来る。とおっしゃいます。

それは、この苦しみがあるから、と言っていただけているのです。

この苦しみがあるから。
それが、喜びに変わる。

たとえば、あの産みの苦しみのようにと。
出産の、あの死ぬような苦痛が、わが子を腕に抱いた時には、もう、その苦痛を思い出さない。それほどに、さいごには喜びが勝つ。喜びで終わるんだと。

その「喜び」というのは、主イエスにお会いすることであると、主が、言ってくださっています。22節で「私はあなたがたと会う」と言われています。

「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない」(16:22⁻23)。

私どももまた、将来、主イエスにお会いすることができます。そしてその日には、何も尋ねることはない。それくらいに、ただ主に、お目にかかれる喜びで私どもの心は満たされるというのです。

そんな喜びが待っていると、主は言ってくださっています。そしてその時にはもう「何も尋ねることはない」といいますと、同じヨハネによる福音書の第21章を思い出します。ガリラヤの湖で、およみがえりの主が弟子たちに会いに来てくださいましたが、漁から戻ってきた弟子たちに、岸辺で火を熾して、主イエスが弟子の一人ひとりに、パンを渡してくださった、その時にも弟子たちはもう誰も「あなたはどなたですか?」と尋ねることはありませんでした。尋ねなくてよかった。その方が「主である」とわかっていたからである。と、言われています。

よみがえりの朝の湖で、朝の光の中で、弟子たちはその喜びで、もう何も尋ねなくてもいいくらいに、この世のものではない喜びで、満たされたのです。

そこに主イエスがこれから向かって行ってくださいます。それは私どもの、この罪と死の克服のためであった、ということでありましたし、でもそれによって更に、彼らには、この世での苦しみが待っていたわけですが、でもそれにもかかわらず、彼らは「主を失わない」で、生きてゆくことができました。どうしてか、というと、
主イエスがこのとき父のもとに行ってくださったからで、そうして主イエスご自身である聖霊が来てくださったからで。だから、それで彼らはどんなときにも、どんな試練のときにも、慰めを受け、希望をいただいて、そして、この「主である」という喜びが、彼らを生かし続けたのです。

私どもも聖霊によって、今もうすでにこの喜びの中にあるわけですが、将来、いつの日か、終わりの日に、私どもも、主にお目にかかることができます。その日には、苦しみは何もない。もう完全に喜びに変わっている。

そしてその日には、私どもの「失う」という苦しみも、失ったきりにはならないということを、主がお与えくださるでしょう。「永遠」という喜びを、主が私どもに与えてくださるでしょう。主イエスの御苦しみによって、私どもの失ったものを、失ったままにしておかないでいてくださるでしょう。
そのために、主はこれから、「しばらくのあいだ」去られるのです。

この「しばらくのあいだ」ということですが、主イエスが「しばらくすると」、と何度も言われました。

「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、あなたがたは私を見るようになる」(16:16)。

弟子たちも、それが気になって仕方がなかったのですね。だからそれはいつですか?と、尋ねたかったのです。それはいつまでのことですか。

この「しばらくすると」っていうのは、本当に、どなたも気になると思いますが、私も気になりまして調べましたら、じつは「ちょっと」という意味なんですね。ちょっと。ちょっとのあいだ。ええっ、と思いました。しばらくすると、といったら、私どもには果てしなく長く感じます。でも主イエスにとっては、ちょっと。「暫時」と言いますが、短い間なんですね。

それは弟子たちにとっては、本当に「ちょっと」で、よみがえりの主イエスにお目にかかれましたし、そして御霊の到来も「ちょっと」で叶ったわけで、私どもも今その中にいるわけです。

でもそういえば、「しばらくすると」というのは、前にも主イエスが言ってくださっていました。第14章の19節です。その前の18節からお読みいたします。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる」(14:18-19)。

ちょっとしたら、私はあなたがたのところに戻ってくる。それは、御霊によってということでしょう。そのときには、世はもう私を見なくなるが。けれどもあなたがたは、真理の霊によって、私を見る。ですから、それは本当に「ちょっと」のことだったのだと思います。でも、もっと大事なことは、ここで主が、こう言ってくださっていることです。

「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」。

私はこれが、苦しみの克服であると思います。

私が生きているので。あなたがたも生きる。

もう、前になりますけれども、教会のある方が、私に、こう言われたことがありました。
「これは神様からいただいたものだから」と、その方はおっしゃいました。その方はご家族のすべてを亡くされた方で、重い言葉でした。
「これは神様からいただいたものですから」。私はその言葉をお聴きしながら、ああ、ほんとうにそうだ、と。この苦しみは、主がお与えになったって。厳しいですけれども、それ以外に、ほかにどこから来るのでしょう。けれども、その一点に頼っているのです。それしかないのです。
だからこそ「私は生きている」という、主のお言葉に慰められるし、希望をいただけるし、それに頼らなければ、歩いてゆくことはできないし、そしてこの苦しみが苦しみで終わらないことも、信じることができます。

そしてその方が、そのときにひと言、「ここに」って、言われたのです。胸を手で押さえられて、「ここに」って、「ここにある」って言われたのです。ここに、ある。何があるか。
ここにある。悲しみも、苦しみも、なお、ここにある。けれども、ここにある。

さっき、人生最大の苦しみは、「悲しみの中で、主を失うことです」と、申しましたけれども、事実、そんなときもあります。事実、絶望の瞬間というものはあると思います。毎日毎日朝起きて、忘れたことは一度もない。そんな苦しみを持っている。それでそのときにふと、絶望に陥ることもあるのです。

だけど、ある人が、こう言いました。
「信仰を持っている人ほど、生きるという深い絶望を知っている」。
信仰を持っている人ほど、生きるというその絶望を知っているんだ。
だけど、そこに主がいるんだ。

ここに。

私どもはそこで主に会っています。

その苦しみのどん底で、そこでこそ、
生きておられる主がここに、在る。

それは、誰にも奪うことのできない、
私どもの喜びであるのです。

そういえば、いつまでですか。というのは、私は結構、信頼の言葉だと思っております。私どもが、かの日を待ち望みながら、この苦しみはいつまでですか、と、問うのは、それは主を信頼し、主にたすけを祈りながら、
その日が来ることを信じる人の言葉だと思うからです。そしてその祈りは、今日主イエスが最後に言ってくださっていました。
主が、その名によって、父なる神様に届けてくださることでしょう。

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