共に呻く神
ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
川崎 公平

主日礼拝
■今朝は、聖霊降臨の記念の礼拝です。聖霊、神の霊が教会に注がれて……。しかし、改めて問います。聖霊が与えられると、いったい何がどうなるのでしょうか。聖霊は、今私どものために何をしてくださるのでしょうか。
礼拝の中で、伝道者パウロの書いたローマの信徒への手紙を読み続けてきて、今朝たまたま第8章26節以下を読むことになりました。聖霊の恵みを記念する礼拝のために、いちばんふさわしいみ言葉を神が与えてくださったことを感謝しています。26節に、「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます」と書いてあります。今朝はこの一句に集中して、聖霊降臨の記念の礼拝をしたいと思います。「弱い私たち」です。そんな弱い私たちを、だからこそ、神の霊が助けてくださる。神の霊が私どもに与えられたのは、私どもが弱かったからです。私の弱さと、神の助けと。聖霊降臨の記念の日に、このことを改めて学び直さなければならないと思うのです。
■そこで第一に問わなければならないことは、「霊もまた、弱い私たちを助けてくださる」と言うのですが、いったい私たちの弱さとは何でしょうか。そんなことは説明されなくなってわかる、という感想もあり得るかもしれません。いろんな弱さがある。あれが弱い、これが弱い、こういうことですごく困っていると、すぐにいろんなことを考えることができるかもしれません。しかしここで改めて読まなければならないのは、今朝は26節から読み始めましたが、その直前にこういうことが書いてあります。
私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです(24、25節)。
それに続けて、「霊もまた弱い私たちを助けてくださる」と言うのです。私どもの知るさまざまな弱さ、私どもがすぐに思いつくような弱さを、否定するのではありません。むしろそういう私どものさまざまな弱さの、いちばん深いところに何があるのか。神の霊によって助けていただかなければならない、私どもの弱さの根本原因がいったいどこにあるのか。そのことを、24節以下は明らかにしてくれていると思います。
私どもは、希望を与えられているのです。私どもは神を信じて、キリストに救われて、まことの希望を与えられている。ところが問題は、その希望は希望であるがゆえに、まだ私どもはそれを現に見ていないのです。「現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」。その忍耐ということの関連で、さらに23節にさかのぼると、「〔私たちは〕心の中で呻きながら待ち望んでいます」。それどころか22節では、すべての被造物が、つまり天地万物すべてのものが、共に呻いていると言います。なぜ呻くのか。希望があるからです。だがしかしその希望をまだ見ていないからです。その希望をまだ手の内に入れていないから、そこに呻きが生まれるのです。
昨日、ある教会員のお宅を開放していただいて、地区集会をいたしました。そこでもこの聖書の言葉が話題になりました。「現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか」。注意深く読みますと、この言葉は、この言葉だけを取り出すと屁理屈のように読めなくもない。理屈っぽい人は、すぐに反論したくなるかもしれません。「いや、目に見える希望があってもいいじゃないですか。既に手の内にしっかり握りしめている希望があってもいいじゃないですか」。しかしなぜパウロがこのような言い方をしなければならなかったかというと、事実として私どもが目に見えるものに頼りたがるからだと思います。その誘惑は決して小さくないのです。
ルカによる福音書第12章13節以下に、主イエスの語られた「愚かな金持ちの譬え」と呼ばれる話があります。ある金持ちの畑が豊作だった。そのために、この金持ちは、遂に自分が死ぬまで遊んで暮らせるだけの蓄えができたらしいのです。それでこの金持ちは、自分で自分にこう言うのです。「私の魂よ、さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」。ところがこの金持ちは、その日の内に死んでしまうのです。そうすると、やっぱり聖書の言葉のほうが本当なんだと、私どもだって気づくのです。
私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
それでも、やっぱり私どもは、目に見える希望が欲しいのです。目に見えるものに頼りたいのです。見えないものを望むなんて、やっぱり忍耐できないのです。それが、聖書が厳しく指摘する私どもの弱さです。主イエスは、その愚かな金持ちの譬え話をお語りになったあと、すかさずこのようなみ言葉をお語りになりました。「何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな」(ルカによる福音書第12章29節)。神さまを信じないから、そんな悩みが出てくるんだろう? でもあなたには、目に見えない希望が与えられているんだよ。その希望に立ち続けなさい。
■昨日、地区集会で、と申しましたが、その集会で読んだのはローマの信徒への手紙でもルカによる福音書でもなく、ヘブライ人への手紙を読みました。新約聖書の中であまり目立つほうの文書ではないかもしれませんが、この手紙には私の大切にしている聖書の言葉がたくさん詰まっています。第2章1節に、こう書いてあります。この箇所に限っては、個人的に新共同訳の翻訳のほうがずっと魅力的だと思いますので、新共同訳で紹介します。
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
私どもは今、聞いているのです。既に、聞いているのです。そのための礼拝です。今私どもが聞いている神の愛も、キリストの救いも、あるいは今朝ここで聞いているように、神の霊が弱い私たちを助けてくださることも、聞いているのですが、聞いているだけで、まだ見ていませんよね? その「聞いたこと」に、「いっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。私は、この「押し流されてしまいます」という言葉が昔からとても好きです。「好き」という表現はおかしいかもしれませんが、とにかく忘れることができません。「今、あなたがたは聞いているだろう。聞いたことにいっそう注意を払いなさい」。「さもないと、押し流されてしまいます」。あなたは、押し流されちゃいけないんだ。滅びてはならないんだ。だから、聞いたことにいっそう注意を払いなさい。「現に見ている希望は希望ではありません」。目に見えるものだけに振り回されると、押し流されてしまいます。しかし、まさしくこのようなところで、私どもの弱さが無残にも露呈してくるのだと言わなければならないのです。
■そんな私どもを、神の霊が助けてくださると言います。聖霊は、どのように助けてくださるのでしょうか。そこで26節から語られることは、少し私どもの意表を突くところがあるかもしれません。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます」。そのあとに、私どもの翻訳には現れていないのですが、原文には小さな接続詞があって、「というのは」、「なぜならば」と書いてあります。「霊もまた弱い私たちを助けてくださいます。というのは、私たちはどう祈るべきかを知らないからです」。私たちはどう祈るべきかを知らないから、だから、神の霊が私たちに代わって、執り成しの祈りをしてくださると言うのです。
「私たちは、どう祈るべきかを知らないから」。あるいは、「何を/何と祈るべきかを知らない」と訳したほうがよかったかもしれません。皆さんは、こういう自分の弱さをよく考えたことがあるでしょうか。自分には、こういう弱さがある。こういう愚かさがある。もっと言えば、こういう罪深さがある。「だめだなあ、俺という人間は」。ところが、そういう私どもの弱さの中でも中心的な弱さは何かと言うと……言い換えれば、神の霊が私たちを助けてくださる、その私の弱さとは何かと言うと、「どう祈るべきかを知らないから、何を祈るべきかを知らないから」、だから聖霊の助けが必要なんだ。そんなことを考えたことがあるでしょうか。
しかもここでは、神の霊が「言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と言います。私どもは何を祈るべきかを知らない。どう祈るべきかを知らない。そんな私どもを助けるために、私どもの代わりに祈っていてくださる神の霊が何をどう祈っていてくださるかというと、言葉にならない呻きをもって執り成してくださるというのです。これはたいへん不思議な恵みを語る聖書の言葉だと思います。
■話があっち行ったりこっち行ったりするようで申し訳ありませんが、今年も6月に神奈川連合長老会の講壇交換を行います。今年は横浜指路教会の川嶋牧師がここに来て説教をしてくださいます。もう15年来の慣例になっているのですが、毎年の講壇交換で、共通の聖書テキストを決めて、すべての教会で同じ箇所を説教することにしています。私はその日浦賀教会に行くのですが、やはりそこでも同じ聖書の言葉を読んで礼拝をします。今年はマタイによる福音書第6章の12節以下を読むことになりました。主イエスが私どもに教えてくださった主の祈りの、5番目の祈りです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。
もうひとつ、やはり神奈川連合長老会の中で長い習慣になってきていることですが、毎月行われる教師会、牧師たちの集まりで、5月にはこの講壇交換の聖書テキストを共同で黙想しました。先々週、十何人かの牧師たちが集まって、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」、このみ言葉を一緒に読み、黙想を深めました。余談ですが、来月ここに来てくださる川嶋先生も、原文のギリシア語の読み方について結構鋭い質問を私に対してしてくださって、私も一瞬たじろいだりしたのですが……楽しみですね。
その席で、また別の牧師が、ヨシタケシンスケという人の書いた(描いた)『ころべばいいのに』という絵本を紹介してくれました。たいへんユーモラスな絵本を次々と発表している人で、私も妻も息子も大好きな絵本作家です。『ころべばいいのに』というのは、小さな女の子が主人公の話で、「わたしには、きらいなひとがいる」。「どうしてあんなことを言うんだろう。自分がされたらイヤなことを、どうして人にできるんだろう」。「みんな、ころべばいいのに」。何だかばかばかしくて、笑っちゃうんですけれども、実は思いのほか人間の根源的なみじめさを鋭く突く内容で、ぎくりとさせられます。「ころべばいいのに」。「私に罪を犯す者を……神さま、あの人が、ころべばいいのに」。そんなことばかり考えている人生、もったいないんじゃないですか。そのことを面白おかしく問いかけてくれる作品だと思うのですが、本当は、まさしくこういうところに私ども罪人のみじめさの根本原因があるのです。
「私たちは、どう祈るべきかを知らないから」。「何を祈るべきかを知らないから」。だから、神の霊に助けていただかなければならない。私どもは、祈ることができないというよりも、むしろ祈りにおいてこそいちばん罪深くなるのです。祈るときにこそ、いちばん自己中心的になるのです。それを伝道者パウロの言葉遣いで言い換えれば、「肉の弱さ」と呼ぶのです。「ころべばいいのに」。
しかし、なぜ私どもはどう祈るべきか、何を祈るべきかを間違えるのでしょうか。目に見えるものだけに振り回されているからだ。見えない希望に望みを置いていないからだ。そう言うほかないだろうと思うのです。
■そんな私どものための、み霊の助けであります。聖霊ご自身が、「言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と書いてあります。何を祈るべきかを知らない、どう祈るべきかを知らない私どもであります。珍しく祈りを始めたと思ったら「ころべばいいのに」、そんなことばかり考えている私どものために、私どもに代わって、あるいは私どもを執り成して、聖霊が何を祈っていてくださるかと言うと、それは言葉にならない呻きであったと言うのです。たいへん不思議な恵みを語る、また深い畏れを呼び起こす聖書の言葉だと思います。
この手紙を書いた伝道者パウロには、聖霊の呻きがよく聞こえたのだと思います。言葉にすらならない聖霊の深い呻きを、パウロは聞き取ることができました。いったいパウロは、どこでみ霊の呻きを聞いたのでしょうか。主イエス・キリストの十字架の意味を知ったからだとしか言いようがありません。主イエスもまた、十字架の上で執り成しの祈りをされました。ご自分を十字架につけた人たち、ご自分を罵る人たちに取り囲まれながら、「父よ、どうか彼らを赦してください。自分が何をしているのか、わからずにいるのです」。そうして、呻きながら、大声で叫びながら息を引き取られたと書いてあります。主イエスは決して、どんな人に対しても、「ころべばいいのに」と祈られたことはありませんでした。ただ私どものために、呻くように執り成しをしてくださった主イエスのことを思いながら、また今も私どものために執り成してくださるみ霊の呻きを、聖書はこのように証ししてくれるのであります。
■ローマの信徒への手紙とあわせて、創世記第11章のバベルの塔の物語を読みました。たいへん不思議な話ですが、これはもともといわゆる原因譚と呼ばれる類の話で、なぜ世界にはたくさんの言語があるんだろう。みんなが同じ言葉をしゃべっていたら便利なのに、どうしてこうなっているんだろう。その由来・原因を説明するための伝説です。いかにも古代人が考えそうな話ですが、このような物語を編んだ人の心の中にも、やはり呻きがあったと思います。「なぜ言葉が通じ合わないんだろう。なぜ心が通い合わないんだろう。なぜ国と国との間に敵意があるんだろう。いつまで争い続けるんだろう」。その深いところにある人間の心を、こんなにも正確に物語ってくれる話はなかなかないだろうと思わされます。
「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう」(4節)と書いてあります。もっと高く。もっと偉く。われわれは遂に天にまで届く塔を建てるのだ、というのは端的に言えば、「神になりたい」ということでしかありません。「俺たちがいちばんだ。世界でいちばん偉いのは、俺たちなんだ。そのことを見せつけてやろう」。そこから人間の言葉が互いに通じ合わなくなったというのは、極めて現代的な意味を持つ話だと言わなければなりません。
ついでに言えば、この第11章をもって創世記は最初の部分が終わります。第12章からはまた新しく、信仰の始祖たるアブラハムの話が始まります。つまり、創世記は第1章、第2章の天地創造の話から始まり、けれども神の祝福に満ち満ちていたこの世界が、アダムとエバの反逆、楽園追放、兄弟同士での殺人事件、ノアの洪水というように、最初あったはずの神の祝福が音を立てて崩れていく。その人間の罪の最後の仕上げが、バベルの塔であったと理解できると思います。
創世記の最初の物語は、どれをとっても単なる昔話ではありません。今も私どもは、バベルの塔を建て続け、まさにそのゆえに言葉が通じ合わない、心が通い合わない時代を生き続けているのです。「神になりたい」。「俺たちがいちばんだ」。「ころべばいいのに」。……聖書が教えてくれる通りです。私たちは、何をどう祈るべきかを知らない。それが私どもの根本的な弱さです。ところが、実は神は最初から人間の弱さをご存じで、その人間の弱さのために、今も聖霊が呻きをもって執り成してくださると言うのですが、その神の呻きは、はるか昔、バベルの塔が建てられた時から変わることはなかったのです。
■聖霊と言えば、もうひとつ、ローマの信徒への手紙第8章に大切な言葉があります。
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(14、15節)。
「俺たちがいちばん偉いんだ」ではなくて、「アッバ、父よ」。「ころべばいいのに」ではなくて、「アッバ、父よ」と呼ぶために、聖霊の執り成しがありました。この神の霊の呻きに気づいたら、私どももまた真実の祈りに立つことができると信じます。今あらゆる苦しみの中で、呻くように、けれどもだからこそ確かな希望を抱きつつ、「アッバ、父よ」、「神よ、あなたは私の父です」と祈る者でありたいと心から願います。お祈りをいたします。
弱い私どもです。何をどう祈るべきかも知らずに、思い返せば顔が赤らむほどの恥ずかしい願いを、実は今も心に隠し持っている私どもであります。聖霊の執り成しに気づかせてください。言葉にすらならない聖霊の呻きを聞き取らせてください。その背後にある、十字架につけられた主イエス・キリストの苦しみに、その執り成しに心打たれつつ、今聖餐の恵みの食卓にあずかる者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン











