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神さまの国が来ますように

2026年5月10日

ルカによる福音書 第17章20−24節
柳沼 大輝

子どもの日・花の日 教会学校・小礼拝合同礼拝

 

 

本日は子どもの日・花の日として教会学校と小礼拝との合同で礼拝を捧げます。今年度、教会学校では、主の祈り、使徒信条、十戒からなる三要文の言葉を順に聖書の言葉を通して、共に学んでいます。

本日は主の祈りの2つの目の祈り「み国を来たらせたまえ」との言葉に思いを向けます。「み国」、それは「神さまの国」「神の国」です。「国」と言っても日本やアメリカのように地図上に領土をもった「神さまの国」があるというわけではありません。「神の国」とは神さまの愛があふれる場所、神さまの思いがすべてをご支配される場所です。そこにはもはや悲しみや涙はありません。そこには平和と喜びがあります。

いま、国同士で争っている、人同士がいがみ合っている、互いに傷つけ合っている、そのようなこの世界の悲惨な状況を見るとき、私たちも祈りを合わせざるを得ません。「み国が来ますように」。

本日の聖書の箇所に登場するファリサイ派という人たちも、ずっと神さまの国を待ち望んでいました。ファリサイ派と聞くと、私たちはついついイエス様に言いがかりをつけたり、イエス様に難しい質問をして、イエス様がどのようにお答えになるのかと試したり、イエス様に意地悪をしていた人たちのことを考えてしまいます。しかしファリサイ派の人たちほど聖書の言葉に真面目で、神さまへの情熱に満ちていた者たちはいませんでした。「ファリサイ」という言葉は「区別する」「分ける」という意味の言葉です。彼らは神さまの言葉に不従順で、神さまの言葉を守れない人たちと自分たちとを「区別して」、自分たちはこの人たちとは違う、自分たちは聖書の言葉に忠実で、神さまの言葉を守っているのだと自負していました。そうやって、神さまの教えをしっかりと守ってさえいれば、いつか神さまの国が来るとそのように信じていました。

イエス様がまだこの地上で活動しておられた時代、イスラエルの人たちはローマ帝国という大国に支配されていました。多くの者が追いやられて、苦しんで、涙を流していました。だからファリサイ派の人たちはイエス様に問うたのです。「神の国はいつ来るのか」。「お前が本当に神の子、救い主であるならば私たちを救ってみろ。イスラエルをローマ帝国の支配から解放してみろ。お前が本当にメシアならいつ旗揚げをして、民衆を巻き込んでローマ帝国と戦ってくれるのだ」と彼らはイエス様に問うたのです。

ここにはファリサイ派の人たちのイエス様を救い主と信じたい、けれど、周りの厳しい現実を見たときにやはりまだ信じられないという迷いがあったように思います。事実、ファリサイ派の人たちのなかにもイエス様に従っていくと決意した者もいました。夜の闇に紛れてイエス様のもとにやって来たニコデモという人がその代表です。しかしここにいるファリサイ派の人たちはまだ信じられない、決めきれない、まだ迷いのなかにいるのです。だから、彼らはイエス様に問うたのです。「お前が本当にメシアなら自分たちをローマ帝国の支配から救ってくれ。この悲しみから涙から解放してくれ。その時はいったいいつ来るのか」。

しかしイエス様は「いつ来るのか」という彼らからの問いには答えられず、「神の国」は、お前たちが期待しているようなローマ帝国を打ち破るようなかたちでは「来ない」と言われ、「ここにある」とか「あそこにある」というものでもない。神の国は「あなたがたの中にある」のだと宣言なされました。

「あなたがたの中に」この「中に」という言葉は。「手が触れるほど近くに」とか「その真ん中に」とか「その内側に」という意味を持った言葉です。そして驚くことにイエス様がここで「あなたがた」と言っているのはけっして弟子たち、後の教会のことを指してそのように言っているのではありません、イエス様を救い主と信じることのできない、いまだ迷いのなかにあるファリサイ派の人々を指して「あなたがたに」とここでイエス様は言っているのです。これはいったいどういうことか。つまり迷う者もどっちつかずの者も含めてすべての人が「神の国」にその神の愛のなかに招かれているということです。

「神の国」、それは、神さまの愛が満ちあふれる場所、神さまのご意思、私たち人間に対する神さまの思いが実行される場所です。ファリサイ派の人たちが考えていたように神さまの教えを厳守することによって神の国が来るのではなくて、父なる神のご意思に従っていくことによって神の国が来るのです。

イエス様はこれから都エルサレムに向かって行きます。しかしそれはファリサイ派の人たちが期待していたようにローマ帝国をやっつけてやろうというのではありません。そうではなくて、人間の抱える罪をゆるすために、ファリサイ派の人たちが抱えていた、自分たちは神さまの言葉を守っているようで本当は神さまの思いから離れてしまっている、そのような罪をゆるすためにイエス様は十字架へと向かっていく。そこに神さまのご意思がなるのです。そこに神の国が実現していくのです。

このみことばが語られた段階ではまだそのことは明らかにされていません。しかしイエス様が自分たちと共に、その近くにいてくださるということによって「神の国」はもうすでに始まっていました。たしかに自分たちのもとに近づいていました。そのことをいま私たちは礼拝において、そこで福音が解かれることによって知るのです。

ここにいる私たちも「神の国はいつ来るのですか」とイエス様に尋ねたファリサイ派の人たちのように迷いのなかにあるかもしれません。イエス様を救い主と信じたいと願いながらも、自分の周りの悲しい現実を前にしたとき「神さま、いつまでですか」「神の国はいつ来るのですか」と嘆き、一歩踏み出せないでいるどっちつかずの私がここにいるかもしれない。

しかしそのような様々な思いを抱いている私たちの間に、その只中に、その真ん中に復活の主イエス・キリストは生きて、私たちに語りかけてくださる。「私はいまお前と共にいる。だから恐れるな。私を信じろ。あなたの上に、あなたのうちに私はいる」。

この言葉によって立ち上がらせていただき、イエス様のみ跡に従って、そのあとについていくとき、そこからまた神の国は前進していきます。

イエス様は弟子たちに言います。「神の国」が完全なかたちでこの地上に来るのは「人の子」つまりイエス様が再び、この地上に現れるときであると。そのときは神さましか知りません。しかし私たちはその希望を待ち望みつつ、こうやって毎週、父なる神の名を呼び、主に礼拝を捧げ続けます。ここに神の愛がある。神の恵みがあふれている。ここから神の国の福音が、救いの喜びがたしかに世界へと広がっていきます。だからもう恐れなくてもよい。大丈夫。いま改めてイエス様と共に父なる神に心を向けて、悲しみや憎しみ、悲惨に満ちているこの世界のために祈りを合わせたい。「天にまします我らの父よ、み国を来たらせたまえ」。

 

父よと、あなたをそのように呼ぶことのできる喜びに感謝をいたします。私たちの周りにはたくさんの悲しみがあり、涙があります。神の国はいつ来るのかと尋ねたくような苦しみがあります。けれどいま、あなたによって招かれた私たちの間に、そのなかにたしかに神の国があります。あなたの愛のご支配があります。だから今日も喜んで、父よと、あなたに向かって祈ることができますように。神の子として歩むことができますように。私たちの歩み一歩一歩をあなたが守り導いてください。この願いと感謝、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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