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神を愛する者の望み

2026年5月31日

ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙第8章の、特に今朝は28節に集中して主の日の礼拝をしたいと思います。

神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。

聖書にはすばらしい言葉がたくさん詰まっているのですが、この聖句以上に人びとに勇気を与えた言葉はなかなか見つからないかもしれません。なかなかうまくいかないことばかり起こる、この世の中なのです。「どうしてこんなことが起こるんだろう。この悲惨は、いつになったら終わるんだろう」。私どもひとりひとりの人生においても、この真っ暗なトンネルはいつまで続くんだろう、どこに光が見えるんだろう、どこに希望を見出すことができるんだろう……ところがここでは、「万事が共に働いて益となる」と書いてあります。どんなに苦しいことがあっても、どこにも希望が見えないと思うときにも、そのすべてが最終的には私の利益になる。私たちの利益になる。その時にはわからなくても、あとから振り返ってわかるということもあるでしょう。「ああ、そうだったのか。私があの時、あれほどの苦しみを受けたのは、この時のためだったのか」。「万事が共に働いて益となる」。

そういう聖書の言葉を聞かされて、「本当にそうだ。その通りだ」と心から感謝できる人もいるでしょう。しかしまた逆に、「いや、本当にそう言い切れるのかなあ」と首をかしげる人がいたとしても不思議ではありません。「万事が共に働いて益となる」。本当にそうか。疑おうと思えば、いくらでも疑う材料を見つけることができると思います。すべての人が、真っ暗なトンネルの出口を見つけることができるとは、限らないのです。

■それだけに心を打たれることは、ここに「私たちは知っています」と書いてあることです。28節の最後に「私たちは知っています」と書いてあるのですが、聖書の原文では逆にこの言葉は冒頭にあります。「私たちは、知っています!」私たちには、知識が与えられています。神が与えてくださった知識です。神を知らなかったら、遂に知ることができなかった新しい知識です。「私たちは知っています。神を愛する者のためには、万事が共に働いて、すべてが益となるのです」。そうなるといいなあ、と言っているのではありません。きっとそうなると信じている、というのでもないのです。「私たちは、知っています」。いったい、パウロはどこからこのような知識を得たのでしょうか。

その関連でどうしても読み直さなければならないのは、この直前の24節以下です。「私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか」と書いてあります。私たちには、希望が与えられているのです。けれども問題は、その希望というのがまさしく希望であるがゆえに、私どもの目にはまだ見えないのです。この真っ暗なトンネルの先には、必ず出口があるんだ。必ず希望の光が見えるんだ。けれどもその光を、われわれはまだ見ていないんだ、まだ見ていないからこそそれは「希望」なのだと、パウロははっきり言います。それで、25節。「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」。その「忍耐」という言葉はまた22節、24節の表現で言えば「呻く」ということにもなるだろうと思います。

今朝の礼拝の準備をしている間、いつの間にか讃美歌第二篇の58番が、ずっと私の頭の中で響き続けていました。先ほど歌いました讃美歌80番も、まさしくローマの信徒への手紙第8章28節を典拠にした讃美歌ですが、いつの間にか私の心の中には、讃美歌第二篇の58番が響き続けていました。「知るをえず知るはただ」というフレーズが何度も繰り返される讃美歌です。多くの人に愛されている讃美歌ですが、私は特にこのフレーズがとても好きです。神に救われた人の望みを、実に見事に歌っていると思います。「知るをえず知るはただ」。私ども人間は、どんなに偉そうな顔をしてみたって、知らないことだらけなのです。だからこそ忍耐しなければなりません。そこに呻きが生まれます。けれども、何も知らない、何もわからないというのでもありません。私たちには、知識が与えられている。何から何までわかっている、というわけにはいきません。けれども、肝心なことは知っている。神が教えてくださる。それで、こう言うことができるのです。「知るをえず、知るはただ」、「神を愛する者のためには、万事が共に働いて、すべてが益となるのです」。しかし、もう一度問います。いったいこの手紙を書いたパウロは、どこからその知識を得たのでしょうか。

■「知っている」というひとつの言葉を、少し丁寧に考察してみました。実はこの言葉が、この28節だけでなく、少なくとも26節から30節までの段落、あるいはもしかしたら第8章全体を貫く大切なキーワードになっています。たとえば先ほど触れました22節にも、「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」と書いてあります。ちなみにここでも文の最後に「知っています」と書いてありますが、原文では逆に文の最初にこの言葉が出てきます。

その次に同じ言葉が出てくるのは26節です。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」。ここでは逆に、「私たちは知りません」と書いてあります。私たちは知りません。私たちは、わからないことだらけなのです。しかし、私どもは何を知らないのでしょうか。何がわからないのでしょうか。「私たちはどう祈るべきかを知りません」。それがいちばん根本的な問題だ。26節の表現を正確に捉えるならば、それが私たちの根本的な弱さだ。そのことに私どもは気づいているでしょうか。

神は愛です。私どもは聖書を通して、そのことを何度も教えられているのです。そのことを、私どもはそれこそ知っているのですが、その知識は、実に簡単に揺らぎます。「神は愛です」って、いや、本当にそうか。本当にちょっとしたことで、神の愛がわからなくなります。そのようなとき、私どもがすることは何でしょうか。たぶん、必死に祈るのではないでしょうか。神よ、この真っ暗なトンネルはどこまで続くのですか。神さま、本当にいるんですか。そんなことを思いながら、祈れば祈るほど、苦しくなってきます。どうして神さまは沈黙しておられるのだろう。神さまだけじゃない。誰も自分の悩みをわかってくれない、誰も助けてくれないと、言いようのない孤独を覚えます。まさにそういう時にこそ、祈れば祈るほど、逆に「私たちはどう祈るべきかを知りません」という聖書の言葉が本当だということに気づかされるのではないでしょうか。

ところが、「知るをえず知るはただ」、私どもはどう祈るべきかも知らないのですが、そんな私どもを助けてくださる方が、ひとりだけおられます。その助け手のことを、26節ではこう言うのです。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」。どんなに祈っても出口が見えない。どうして神さまは沈黙しておられるのだろう。もしかして、神さまなんかいないんじゃないか。それで、もうどう祈ったらよいか言葉が見つからず、ただ呻いている、まさしくその時に、神の霊が「言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と言うのです。どこにも出口が見えないと思うとき、自分はひとりぼっちだと思うとき、けれどもそんなときにこそ、27節にあるように「人の心を見極める方」、すなわち神ご自身が、私どもの呻きを聴き取っていてくださるのです。

「人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と書いてあります。どう祈るべきかも知らない私どもなのです。けれども、「知るをえず、知るはただ」……そんな私どもを助けて、神の霊が何をどう祈っていてくださるかというと、それがまた言葉に表せない呻きであると言うのですが、神はその霊の思いをきちんと理解してくださる。もちろんそのことによって、神は私どもの祈りを、祈りにもならないような私どもの呻きを、正しく聞き取ってくださるのです。神は、愛だからです。

■このことを少し別の方向から言い直すと、こういうことにもなると思います。第8章14節以下にも、神の霊の大切な働きが語られていました。「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」。その神の霊に導かれて、私どもは神の子とされ、神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶのだと書いてあります。私どもの祈りというのは、結局のところ、このひとつの言葉に尽きるのではないでしょうか。「アッバ、父よ」。「アッバ」というのは「お父さん」と、子どもが親を呼ぶ声です。「お父さん、お父さん」。

私どもの人生というのは、わからないことだらけなのです。私たちには希望が与えられていると言うのですが、その希望が希望であるがゆえに、まだ私どもの目には見えないから、そこに呻きが生まれます。「知るをえず、知るはただ」、神がわたしの父でいてくださるということです。真っ暗なトンネルの中で、だからこそ、神がわたしの父でいてくださる、そのことだけが頼りなのです。「お父さん、お父さん」と、呻くように、叫ぶように神の名を呼びます。何をどう祈ったらいいのかわからない私どものために、神の霊は、ただ神を父と呼ぶ声を与えてくださるし、「人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」。呻きにしかならない祈りも、「神さま、神さま、神さま」と叫び続けるだけの祈りであっても、神はそれだけで、すべてをわかってくださる。それが、27節の意味です。

■この神の愛の中で、私どもはひとつのことを知りました。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」。私どもの人生経験の中で獲得できる知識ではありません。「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」とか、「終わり良ければすべて良し」とか、そんなレベルの話ではないのです。私どもの目に見えるところ、どこにも光が見えなかったとしても、その目に見える現実に抵抗するように、「私たちは知っています」。「私たちは、神を愛しているのです」。神を愛しているから、だから私どもは今このように礼拝をしているのです。もとよりそれは、まず神が私どもを愛してくださったからでしかありません。

その神の愛を忘れたところで、「万事が共に働いて益となる」と、そのことだけにこだわると、とてもみじめなことになります。もちろん私どもの人生の中で、時に不思議な仕方で、塞がれていた道が突然開かれることもあるでしょう。自分にとっては禍としか思えなかったことが、実は神の恵みを知るための大事な過程だったのだと、あとから振り返ってわかることもあるでしょう。けれども、そのことにこだわり過ぎると、時に行き詰まることだってあるだろうと思います。このあと教会総会を行います。しばしばこういうときに使われるひとつの表現は、「恵みを数える」というのです。私もよく使います。けれども「恵みを数える」というときに、気を付けないといけないことがあるかもしれません。この1年、こんな恵みがあった、あんな恵みがあった……。私どもひとりひとりの人生においても、恵みを数えるということが大切でしょう。けれども、もしも、この1年を振り返って、どうも恵みを数えにくいということになったらどうするのでしょうか。それでもなんとかして恵みを数えるネタをひとつでもふたつでも見つけなければいかんと頑張るのでしょうか。

けれども本当は、「現に見ている希望は希望ではありません」。恵みを数えるというのは、目に見える希望だけを追い続けることではないのです。決して、そうではないのです。そのことがわかっていないと、自分の人生に起こるひとつひとつのことを吟味して、今年は恵みが多かった、今年は恵みが少なかったと損得勘定をし続けて、遂に死ぬ時になって、あーあ、結局自分の人生は……やり直せるなら、やり直したいな。

けれどもここで聖書が「万事が益となる」と教えているのは、まったくそういうことではありません。むしろそういう人生の損得勘定から、私どもを解放する言葉です。そのために、「神を愛する者たちは」と書いているのです。神を愛するんだ。呻きながらでもいい。言葉にならなくたっていい。それでもあなたは神に愛された、神の子なんだから、聖霊もあなたのことを助けてくださるんだから、ただあなたのお父さんの名を呼び続ければいい。人生の損得勘定なんかやめなさい。「知るをえず、知るはただ」、わたしは、神に愛された神の子なんだ。

■そのことをまたここでは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには」とわざわざ言い直しています。「召された」というのは、もう少し日常的な日本語で訳し直せば「呼ばれた」ということです。わたしは、神に呼ばれたんだ。「知るをえず、知るはただ」。知らないことだらけなのです。けれども、ただひとつわかっていることは、わたしが神に召されたということです。わたしが神を愛したんじゃない、神がわたしを呼んでくださったのです。ただ恵みによって。ただご自身のご計画に従って。それどころか29節では、「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました」とまで言います。私どもを呼んでくださったのは神です。神を愛する者として、神が前もって私どもを知っていてくださり、あらかじめ定めてくださったのです。

「神に愛されて、神に呼ばれて、わたしはここに立つ。ここに生きる」。そのことを知っていれば、私どももパウロと共に、確信をもって言い表すことができます。「わたしたちは、神を愛しているのだから、わたしたちは、神に愛されているのだから、万事が益とならないわけがない」。わたしたちは、そのことを知っています。神に対してその信仰を言い表し、またすべての人に向かってこの信仰を証ししていくこの教会の歩みであることができますように。お祈りをいたします。

 

私どもの父なる御神、弱い私どもですが、だからこそあなたの霊が私どもを助けてくださいます。現に見ている希望は、希望ではありません。その希望に立ち続けることは、決して容易なことではありませんが、み霊の執り成しに助けられて、「アッバ、父よ」と、あなたを愛し、あなたの名を呼び続ける者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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