エマオ途上での出来事
ルカによる福音書 第24章13-27節
柳沼 大輝

主日礼拝
先週、私たちは主の甦りを喜び祝う復活主日の礼拝を共に捧げることができました。今朝の礼拝では、その復活された主が二人の弟子と一緒に道を歩んでくださった、その喜びの物語に聴きたいと思います。
主がお甦りになった日曜日の夕方、二人の弟子がエマオという村に向かってとぼとぼと歩いていました。二人の表情は沈んでいて真っ暗です。二人の弟子は、いわば都落ちをするように挫折を抱え、自分たちの故郷に帰ろうとしています。
この物語はルカによる福音書だけが記す主の復活の日のもう一つの出来事ですが、二人の弟子は道々、「この一切の出来事について話し合っていた」と言います。この一切の出来事というのは、言うまでもありません。主イエスが祭司長たちや議員たちによってピラトに引き渡され、十字架で死なれたこと、そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたのに、三日目にその墓から主イエスの遺体がなくなっていたこと、そのことで婦人たちが主イエスが復活したと言っているということでありました。
これらのことについて、二人はああでもない、こうでもないと話し合い論じ合っていました。「話し合った」というのは、主イエスがピラトに引き渡され、十字架につけられ、そこで死なれ、墓に葬られたことについて話し合ったと考えてよいでありましょうし、「論じ合った」というのは、婦人たちが主イエスが復活したと言っているのは本当なのかどうか、またどうしてそんなことを婦人たちが言っているのかを論じ合っていたと言ってよいでありましょう。二人は主イエスが十字架の上で死なれたという事実を話し合い、主イエスが復活されたという婦人たちの証言について論じ合っていたのです。
もちろん、主イエスが復活されたということを受け止めることができないので、彼らは論じ合っているのです。そうです。この二人は主イエスが復活したという婦人たちの証言を信じられないので、暗い顔をしているのであります。
実はこの二人の弟子は婦人たちから直接、主の復活を聞いた者として語られています。24章9節には「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」とあります。いわば、この弟子たちはここで言われている「ほかの人皆」のうちの二人なのであります。
ここに十一人の使徒たち、婦人たちのほかにも主イエスを慕っていた弟子たちがいたことが示されています。そして彼らは主イエスの死後もまだ一緒にいたようです。けれどもそれは一致団結してというのではありません。彼らは主イエスの死に戸惑いを覚えつつ、この先どうしようかとまだ先のことが決められずに、かつての仲間たちのところに留まっていたに過ぎません。しかしこのままじっとしていてもどうしようもない。そこでこの二人は仕方なく自分たちの故郷に向かってとぼとぼと歩いて帰ることにしたのであります。
しかし、彼らは歩きながらどんなに話し合っても、論じ合ってもどうして主イエスが死ななければならなかったのか、本当に主イエスは復活したのか、その答えを見出すことはできませんでした。いくら自分たちの頭で考えても、議論を重ねても分からない。彼らはまるで先の見えない迷宮の中をさまよっているようでありました。
復活の主がそんな二人に近づいて来られ、彼らと一緒に歩き始められました。主イエスは、先の望みを失っている者に寄り添って共に歩んでくださるお方です。主イエスは、力を失っている者たちに自ら近づいて、自ら共に歩んでくださるお方なのであります。
しかしこの二人はその方が愛する主だとは分かりませんでした。目が遮られていたからであります。この「遮られ」という言葉は「囚われ」「支配され」という意味の言葉でもあります。このとき、彼らの目を遮る何かがあったのです。どんなに論じ合っても見出すことができない。先に進むことができない。彼らの心はいったい何に囚われていたのでありましょうか。何に支配されていたのでありましょうか。それは自分たちが期待を寄せていたあの愛する主が死んでしまったという動かしがたい事実であります。激しい衝撃であります。深い絶望であります。
マタイによる福音書第14章22節以下にこのような物語が記されています。かつてあの北のガリラヤ地方で主イエスが活動しておられた頃のことです。弟子たちは主イエスに強いられて、大きな湖、ガリラヤ湖の向こう側に渡ろうとして舟を出しました。しかし湖の中ほどで逆風に悩まされ、困難し、彼らは先に進むことができませんでした。そこに荒れる波をかき分けて主イエスが姿を現し、水の上を歩いて弟子たちのもとに近づいて来られました。弟子たちは「幽霊だ」と言って怯え、恐れました。そのとき、やって来た主はなんとか言われたか。「私だ」と言われました。これはギリシャ語では「エゴ―・エイミ」と言います。英語で言うと「I am」。つまり「私がここに存在している」「私がここにあるのだ」。もっと砕いて言うのであれば「私がいまあなたと一緒にいる」「だから恐れるな」と主イエスは言われたのです。
この弟子たちとエマオ途上にあるこの二人の弟子の状況はよく似ています。この二人も主イエスの死という逆風に悩まされ、これから自分たちはどうしていったらよいのかと当惑し、なかなか先に進むことができない。そのような深い悲しみに目を遮られて、いまここにおられる方が主ご自身だと分からない。でしたら、このエマオ途上の出来事においても、主は同じように言われたって良いではありませんか。一所懸命に話し合っても論じ合っても答えが分からない、迷宮の中をさまよっているようなこの二人の弟子たちに向かって、目が遮られ何も見えていない弟子たちに向かって「私だ」って言ってあげたら良いではありませんか。その方がこの二人だって安心できるではありませんか。けれどもそのようには言われない。そうではなくて「何を論じ合っていたのか」と、主は二人の弟子に尋ねるのです。
二人は、困惑してしまいます。自分たちと共に歩まれるこの方は、都エルサレムからの道を一緒に来ているわけですから、その途上にいま共にいるわけですから、あなたも私たちと一緒にあのエルサレムに滞在していたのですから、ここ数日で起こったあの主の十字架という事件をあなたが知らないなんてことはあり得ないではないかと二人は呆れてしまっているのであります。だから「どうしてあなただけがそのことを知らないのですか」と二人の弟子は主イエスに言うのです。
その答えに対して主は問いを重ねます。「それはどんなことか」。そこでクレオパという弟子が口を開き、やがて、二人で語り始めます。ここで主は、敢えて二人に自分の言葉で語らせることによって、自分たちがいま何に囚われているのか、何に自らの心を支配されているのかに気づかせようとしています。
二人は「ナザレのイエス」のことについて言います。二人にとって主イエスは、神と民全体の前で、行いにも言葉にも「力のある預言者」でした。だからこそ皆、主イエスに期待を寄せていました。しかし彼らの祭司長たち、議員たち、つまり、指導者たちによって主イエスは引き渡され、十字架につけられ、殺されてしまいました。
彼らの期待は「あの方こそイスラエルをローマから解放してくださる」ということでありました。彼らの心は地上における、いわば、過ぎ行くものでしかないこの世の期待に固執していました。しかし、主は反抗することなく、十字架につけられ、あっけなく殺されてしまった。そこで自分たちがかけていた望みは完全に途絶えた。
「もう今日で三日目になります」とは、もはや生き返る望みはないということです。主イエスは完全に死んでしまった。それなのに、仲間の婦人たちは主の遺体を見つけられずに戻って来て、「イエスは生きておられる」との天使の言葉を伝える。そんなこと信じられない。しかしそれでは主の遺体がどうしてないのか。自分たちにはいくら考えてみても理解できないのだと言うのです。
彼らは「主の復活」を信じられないでいるのであります。だから彼らの顔はずっと暗いのです。主イエスの復活を信じられない者の心は暗いのです。その思いは「過去」の絶望に囚われて、いまここに生きておられるはずの復活の主の姿を見出せません。また終わりの日の甦りのいのちを望み見ることができません。主の復活を信じられない者には「死」という「過去」しかなく、いまも未来もないのです。そんな絶望的な「暗さ」がここにあるのであります。
主イエスは、そんな暗い顔をして立ち止まる彼らに今度こそ「私だ」と言われたか。いや、ここでも主はそのようには言われませんでした。その代わりに主はなんと言われたか。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」と言われました。この言葉は一見、冷たい言葉のように思えます。いきなり他人から「愚かだ」と言われたら、誰だって「反発」したくなるでありましょう。しかしこの言葉は、ある大切なことをこの二人の弟子に伝えようとされている主イエスの言葉なのです。それはお前たちが求めている答えはここにあるのだ、お前たちが向かうべき方向はここなのだと彼らに語りかける神の言葉であります。
まるで迷宮の中をさまよい、心に暗さを抱えて、どこに向かって行けば良いのか分からないでいる二人に主イエスは言いました。向かうべき方向は「預言者たちの語ったことすべて」であると。つまり、お前たちが見るべき方向は「聖書」なのだと。「主がどうして十字架につけられ、苦しまれたのか」「主は本当に復活して、いまも生きてここにおられるのか」、その「苦難の意味」「復活の意味」、そして本当に自分を救ってくださるお方を知りたいのであれば「聖書に聴け」と復活の主は言われる。いや、ただ言われるだけではない。主が自ら解き明かしてくださいました。主イエスは「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」とあります。このモーセは単にモーセ個人のことを言っているのではありません。モーセが書いたとされていた「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」からなるいわゆる「モーセ五書」から始めて、この当時の「聖書」であった旧約聖書全体にわたってということであります。「聖書」に聴くとき、お前たちが向かうべき場所が分かる。本当の救いはここにあるのだと主は言われたのです。
そして主イエスは、物分かりが悪く心が鈍く、信じることのできない者に御言葉をもって臨まれ、この聖書が証しする救い主こそが「私だ」とご自分をお示しになったのであります。
私たちは、目に見えるような奇跡やしるしを通して主を知るのではありません。少なくとも現在はそのようなかたちで主イエスご自身がご自分の姿を私たちの面前に現わされるということはほとんどないでありましょう。しかし私たちには聖書があります。いや、私たちにはこの聖書しかないのです。聖書の御言葉を通して、その言葉に聴くことによって、私たちはここに主が生きて働いてくださることを心の目で見、そして受け取るのであります。
後になって、この二人の弟子は「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(32節)と語り合ったとあります。この燃え方は不思議な燃え方でありました。後で振り返って、ああ、あのときはそう言えば、燃えていたねと言うのです。途中でかっかして、火のように燃え上がったというのではないのです。燃えているとき、そのほてりをその場ですぐに感じ取れるほど熱くはなかったのです。静かな燃焼です。しかしじっくりと、確かに燃え始めていた。それはただ彼らの心が熱く燃えただけではなくて、聖書の言葉が冷たい言葉ではなく、生きた神の言葉として、一つひとつが鮮やかに彼らの心に刻みつけられたということであります。
エルサレムからエマオまでは「六十スタディオン」離れていました。これは約12㎞の距離であります。歩いて行くには、なかなかの道のりです。しかしその間、主ご自身から聖書の話を聴いたのですから、こんなに素晴らしい旅路はないでありましょう。初めのうちはこれから先どうしようか、エマオへ帰ったってどうしようもない、足取りも重かったでありましょう。しかし途中から加わってくださった主イエスが、共に歩んでくださった主イエスが、聖書を説き、これを神の言葉として聴き直すようにしてくださった。だから彼らはこの旅路を最後まで歩むことができました。彼らの顔はもはや「暗く」ありません。彼らの心は静かに、しかしいま確かに燃えています。
私たちもこの二人の弟子のように途方に暮れて、暗い顔をしながら人生を歩まなければならないときがあります。これから先、どうしたらよいのか、自分はこれからどこへ向かうべき、いくら頭で考えても答えが見つからず、とぼとぼと重い足取りで人生の旅路を行かなければならないときがあります。その道を一人で歩むときもあれば、二人、三人で、暗い顔をしながら歩まなければならないときもあるでしょう。ときに立ち止まりながら、うずくまりなりながらも、それでも、一歩一歩、一足一足、その道を歩まなければならないときがあるでしょう。
しかしその暗い顔の二人、三人と共に主イエスが歩んでくださるのです。けれどもそこで主は「はい、私がここにいる」と目に見えるかたちで、例えば、十字架の御傷を示してご自分の姿を見せてくれるわけではありません。ですから、私たちはすぐに悲しみに心を囚われ、過去に心を支配され、ときに信じられなくなるのです。心が鈍くなるのです。しかし復活の主は「聖書」を通して、確かにいま語りかけてくださる。「私の命の代償をもって、まことにお前の罪は赦されたのだ。だから恐れるな。天を見上げよ。そして私に従え。私はここにあるのだ。私はいまお前と一緒にここにいるのだ」と。この言葉をいま生きておられるお方の言葉として、神の言葉として受け取るとき、私たちの心もあの二人の弟子と同じように静かに、しかし確かに燃えるのであります。
今日も、明日も、これからも変わらず主イエスは私たちと一緒に歩んでくださいます。もしその主の姿を見失ったら、その主の真実を信じられなくなったら、何度だって立ち止まったらいい。そこで聖書の御言葉に聴いたらいい。祈ったらいい。そのなかで主が共にいてくださるということの「恵み」がきっと分かるでありましょう。
「信仰」は、自分で答えを知ろうとして必死に道を捜して掴み取るものではありません。知識として頭で考えて、誰かと論じ合って理解しようとするものでもありません。「信仰」は、聖書の証言を通して、主からいただくものであります。主が与えてくださる賜物であります。今日も御言葉をもって主が立ち上がらせてくださる。主が歩ませてくださる。主が走らせてくださる。
その「恵み」に感謝し、私の人生の旅路を今日も主と共に歩んで行きたい。もはやここに私たちの心を捕らえる「暗さ」はありません。復活の主が御顔を向けて、私たちを照らしています。私たちを支えています。私たちを生かしています。だからいま共に立ち上がろう。歩き出そう。走り出そう。もう恐れるな。主が一番、近く、あなたと共におられ、あなたと一緒にこの道を歩んでくださる。ここに私たちの生きる道が、進むべき方向が、まことの喜びがあるのであります。
復活の主イエス・キリストの父なる御神、いま私たちの心を捕える暗さを、その痛みを、悲しみを、傷を、罪を、あなたの御顔の光によって照らし出してください。そのためにいつも変わらず御言葉を与えてください。その御言葉をもって私と共に歩んでください。私たちは今日、あなたが説き明かしてくださったこの言葉を、生きたお方の言葉として、神の言葉として受け取りました。あなたがここにいる。復活の主がここに生きておられる。ここに私たちの希望があります。福音の喜びが、永遠のいのちの望みがあります。この恵みに感謝して、この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン








