神の子たちの復活
ローマの信徒への手紙 第8章12-17節
川崎 公平

復活主日礼拝
■主イエス・キリストのご復活を祝うイースターに先立って、今年も先週の月曜日から金曜日まで、毎日、毎朝、受難週祈祷会をすることができました。今年の受難週祈祷会では、〈十字架上の七つの言葉〉を読みました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書が共通して伝えていることは、主イエス・キリストの十字架のことです。その中に、特に主イエスが十字架の上でお語りになった言葉が七つあるのです。先週、ちょうど七回行われた祈祷会で、その七つの言葉をひとつずつ読んでいくということをいたしました。教会の仲間と共に聖書の言葉を聴き、また共に祈りを合わせながら、主イエスご自身の声が鮮やかに聞こえてくるような、たいへん恵まれた経験をいたしましたし、そしてまた同時に、世界の声が聞こえてきたと、私は思いました。「世界の声」とは、ずいぶん唐突な話だと自分でも承知しておりますが、そのことの意味は少しずつ明らかにしていきたいと思います。
■〈十字架上の七つの言葉〉、主イエスが十字架上でお語りになった言葉が七つあるというのですが、その七つを思い出すことができるでしょうか。ここでその七つを全部紹介することはしませんが、伝統的に必ず最初に読まれるのは、ルカによる福音書第23章34節です。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。
主イエスを十字架につけた人たち。それを見て、あざ笑う人たち、罵る人たち、侮辱する人たち。ところが主イエスはその人たちの声を聴きながら、「父よ」と祈られました。「お父さん、お父さん」と、父親の手に取りすがるように、主イエスが何を祈られたかというと、「父よ、彼らをお赦しください。どうか、この罪のゆえに、この人たちを責めないであげてください。滅ぼさないでください」。「自分たちが、今何をしているのか、わからずにいるのです」。
私どもは、今も変わらず、自分たちが何をしているのかもわからず、右往左往行き悩んでいるのではないでしょうか。まさにそこで罪を犯し、互いに傷つけ合い、命を縮め合っているのではないでしょうか。「自分が何をしているのか分からないのです」。そんな中、ひとり十字架につけられたお方が、「お願いですから、彼らを赦してください。罪を責めないでください」。もしも主がこのとき、このように祈ってくださらなかったら、その瞬間に世界は滅びたのです。しかし、それだけに私どもが心を痛めずにおれないことは、神が赦してくださっているのに、私どもが互いに赦すことができず、互いを滅ぼし合っているという、この現実であります。
■この世界は、救われなければなりません。何とかしなければなりません。誰もが、うすうす、そのことに気づいているのです。この世界は、救われないといけない。根本的に、何とかしないといけない。応急処置じゃだめだ。もっと根本的な解決が。そこで私どもも、神に祈ってみたりするのです。「神さま、本当にいるんですか。いるなら、助けてくださいよ」。
でも、救われるってどういうことでしょう。神は、私どもをどのように救ってくださるのでしょう。「キリストの十字架と復活によって、神は救いを成し遂げられた」と教会は教えるのですが、「はあ? それが何の解決になるの?」いったい、何のための十字架と復活なのでしょう。
私はしかし、先週の受難週祈祷会でみ言葉を聴き続け、教会の仲間と共に祈る日々を重ねながら、「神の救いって、いったい何だろう」、そのことが、少しずつわかってきたような気がするのです。
■救いって何でしょう。神は、どのようにしてこの世界を救ってくださるのでしょう。そのことについて、聖書の中でもいちばん丁寧に教えてくれるのがローマの信徒への手紙であり、中でもその第8章であると言っても、過言ではないと思います。
そのローマの信徒への手紙を読み続けて、今朝は第8章の12節から17節までを読みました。が、私が少しだけ後悔しているのは、もう少し先まで読めばよかったということです。その先の19節、22節以下にはこう書いてあります。
被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。
不思議な文章です。すべての人が、というのではありません、「すべての被造物が」。神が造られたのでないものなどひとつもありませんから、要するに、天にあるもの、地にあるもの、一切合切すべてのものが「共に呻いている」、「共に産みの苦しみを味わっている」と言うのです。でも、そう言われると、何となくわかるのです。「確かにそうかもしれない。あの人も呻いている。あの人も、この人も。そうだ、わたしも呻いている。実に、被造物全体が共に呻いているんだ」。そこまではわかる。ところが、その上で聖書が何と言うかというと、「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」。神の子たちが現れないといけない。「この世界は、神の子たちの出現を切望している」。それが救いだ、と言うのです。
その神の子たちの出現について、今日読みました第8章14節以下ではこう言うのです。
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
読めば読むほど、不思議な恵みを語る聖書の言葉だと思います。もちろんここに書かれているのは、私どものことです。「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」。どこか遠い所の話をしているのではありません、皆さんのことです。今ここで神を父と呼び、礼拝をしている皆さんのことです。ところが、それにしても不思議なことは、「アッバ、父よ」と呼んでいる、そういう私どもの存在を、全世界が呻くように待ち望んでいると、そう言われるのです。
■〈十字架上の七つの言葉〉の中で、優劣をつけるのもおかしなことかもしれませんが、おそらくいちばん有名なのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ福音書第15章34節)という、主イエスの絶望の言葉であると思います。しかし、この言葉がいちばん有名になったのは、必ずしも積極的な理由だけではなかったかもしれません。むしろ多くの人がこの言葉につまずきました。「神の子イエスともあろうお方が、どうしてこんな情けない言葉を口にしたか」。「神の子といえども、最後の最後で取り乱してしまったか」。けれども私は、話はまったく逆だと思います。むしろこのような叫びにこそ、主イエスの神の子らしさが際立っていると言わなければならないと思います。しかも、この主イエスの最後の絶望の叫びに、すべての被造物の呻きが重なっているように思えてならないのです。
それこそ、受難週祈祷会でこの言葉を読んだときにしみじみ思わされたことですが、本当は、この世界は、神を信じたいのです。神を呼びたいのです。「神よ、わたしの神よ。あなたはわたしの神ではありませんか。どうか、わたしを見捨てないでください」。呻くように、叫ぶように、この世界は、本当は、神を呼びたいのです。その叫びを、神の子イエスが、十字架の上で叫ばなければなりませんでした。
多くの人が、この言葉につまずいたと申しました。しかし、よく考えていただきたい。なぜこの言葉がつまずきになるのでしょうか。私どもが最初から神を捨てているからです。神の愛なんて嘘だ。神なんていない。結局この世界は、力の強い者が勝つんだ。だから、私どもは神に見捨てられても、もちろん少しはいやだけど、でもそれよりも人から少しでも批判されることのほうが、何十倍もこたえるのです。そのように神を無視して生きている人間が、主イエスの思いがけない叫びを聞きながら、「情けないこと言っちゃって、この弱虫が」。「もしも神の子なら、もっと強いはずじゃないか。こんな弱音を吐くわけがないじゃないか」。そうではなかったのです。このお方は、まことに神の子でいらっしゃいましたから、だからこそ最後の最後まで神の名を呼び続けられたのです。「お父さん、お父さん、ぼくを見捨てないで」。本当は、すべての人が、この叫びのもとに立たなければなりません。私どもも、等しく神の子だからです。
実に、被造物全体が、そのような神の子たちの出現を切に待ち望んでいます。被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっているのは、このような叫びを上げるためだったのです。「アッバ、父よ」。どうか、見捨てないでください。
神を無視して生きているこの世界の思い上がりは、神からご覧になったら、我慢ならないものがあると思います。「神なんかいない」。その思い上がりと、孤独と、惨めさと。そんな私どもの身代わりになって、主イエスは神から捨てられる絶望を味わわれたのです。十字架の上で。そうであれば、もう私どもの誰も見捨てられていないのですから、今は確かな望みをもって、主イエスと共に叫ばなければなりません。「わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」。「父よ、どうか、見捨てないでください」。
■〈十字架上の七つの言葉〉の中で、伝統的に最後に読まれるのは、ルカによる福音書第23章46節です。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます」。こう言って息を引き取られた。
神を父と呼ぶ、神の子イエスの心がいちばん鮮やかに表れたのが、この言葉であるかもしれません。「父よ、私の霊を御手に委ねます」。「お父さん、どうか、わたしを手放さないでください」。ところが、またおかしなことをお話しするようですが、この言葉につまずく人もいないわけではありません。つまり、先ほど読んだマルコによる福音書の最後の言葉と比べて、あまりにも雰囲気が違うように思えるからです。「神よ、なぜあなたはわたしをお見捨てになったか」。「父よ、わたしの霊をあなたに委ねます」。全然話が違うじゃないか。それで、批判的に聖書を読む人は、たとえばこんなことを言います。「マルコの伝えるすさまじい叫びを、ルカはすっかり骨抜きにしてしまった。どこにでもあるような、ありきたりのお祈りに置き換えてしまった」。
けれども私は、まったくそうは思いません。マルコの伝える最後の言葉も、ルカの伝える最後の言葉も、いずれも大声の叫びであったと伝えられます。私は、このふたつの叫びは、何の矛盾もなく、むしろ深く通じ合うものがあると思います。世界の闇が、いちばん深くなったところから、その闇を突き破るような叫びです。「神よ、見捨てないでください」。「お父さん、わたしのすべてをあなたの手に委ねます。どうか、わたしを手放さないでください」。いずれも等しく神の子の叫びです。父を呼ぶ幼子の叫びです。
受難週祈祷会の最後の回で、この言葉を読みました。私は、本当に感動しました。「父よ、私の霊を御手に委ねます」。私も、そう祈ることができるんだ。ここに世界の望みがある。いつものように、祈祷会の最後にはひとりずつ、ひと言ずつ祈りました。私もひと言、すべての思いを込めて祈りました。「父よ、委ねます。どうか、委ねさせてください」。そう祈ることができたら、それで十分なのです。だがしかし、そのような祈りを失ったところにこそ、この世界の悲惨の根本原因があるということに、気づかないわけにはいかないのです。
今日読んだローマの信徒への手紙第8章15節には、正確にはこう書いてあります。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」とは何でしょう。不思議な表現ですが、でも、とてもよくわかるような気もするのです。その対極にあるのが、「アッバ、父よ」という神の子たちの祈りです。「お父さん、すべてをあなたに委ねます。どうか、委ねさせてください」。けれどもその祈りを知らない人間は、恐怖の奴隷になります。怖いから、委ねることができないのです。父を呼ぶ心を持たないから、孤独なのです。怖くてたまらないのです。ただひと言、「お父さん、あなたに委ねます」と言えればいいのですが、それができない人間が、どんなに悲惨な姿を見せるか。怖いのです。手放せないのです。委ねられないのです。だから大きな声を出すのです。拳を振り上げて、脅すのです。恐怖の奴隷になっている人が、また他の誰かを恐怖でもって奴隷にしようとするのです。
ところがそんな世界の中に、神の霊に導かれて耳を澄ますと、呻き声が聞こえてきます。「神の子たちが現れるのを切に待ち望」む、すべての被造物の呻きです。
「父よ、私の霊を御手に委ねます」。このような主イエスの祈りに耳を傾けていると、またそれに重なるように、世界の声が聞こえてきます。この世界は、本当は、父なる神を呼びたいのです。お父さんに、すべてを委ねたいのです。ところが既に、私どもは今このように、神を父と呼んでおります。ここに、神の救いが果たされ始めていると言わなければなりません。
今朝は、イースターの礼拝です。神は、もちろん、と言ってよいと思いますが、神の子イエスの祈りを受け止めてくださいました。「父よ、私の霊を御手に委ねます」。神の手が、それを受け止めそこねるなんてことは考えられません。その証しが、キリストの復活です。神は、まことに、主イエス・キリストの父、また私どもの父でいてくださるのです。
この父の愛を信じて、私どもは祈ります。「アッバ、父よ」。神がわたしのお父さんでいてくださるのですから、「奴隷として再び恐れに陥れる霊」からはまったく自由です。何も怖いことはない。神がわたしの父だから。キリストの復活こそが、その確かな証しなのです。
■「アッバ」という不思議な外国語について、ここまで何の説明もしてきませんでしたが、ひとつの説明はこうです。「アッバ」というのはアラム語という、旧約聖書が書かれたヘブライ語の親戚のような言葉です。もちろん意味は「父よ」ということですが、むしろ別の人の説明によれば、アラム語だとか何語だとか言うのもおかしい、まだ言葉もしゃべらないような赤ちゃんが、大好きなお父さんを見つめて「アッバ、アッバ」と言っているだけだ。大好きなお父さん。お父さんがいてくれれば、何も怖いことはない。だからこそ、私どもも大好きな神さまを見上げて、「アッバ、父よ」と呼びます。何かのはずみで神の姿が見えないと思うと、ますます大きな声で叫びます。「お父さん、お父さん」と、存在そのものが叫んでいるような、そんな神の子たちの存在そのものが、神の愛の証し、そのものなのです。
ローマの信徒への手紙とあわせて、旧約聖書のイザヤ書第63章15節以下を読みました。これ以上長い話をするつもりはありませんが、私なりの思いを込めて、この言葉を読んだつもりです。
天から見下ろし
聖なる美しいお住まいから御覧ください。
あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか。
あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、私には届きません。
ここで預言者は、神の愛が見えないと嘆いています。「神さま、どこにも見えないじゃないですか。あなたの愛はどこにあるのですか。私には、何も見えません」。だからこそ、父の名を呼ぶのです。「お父さん、お父さん」。
あなたは私たちの父です。
アブラハムが私たちを知らず
イスラエルが私たちを認めなくとも
主よ、あなたは私たちの父です。
このイザヤの祈りが、私どもの祈りそのものになることは、いくらだってあるだろうと思います。「神よ、私には見えません。あなたの愛は、私には届きません」。悲しければ、だからこそ神の名を呼びます。苦しければ、だからこそ神の胸倉をつかむように、「お父さん、お父さん」と、父の名を呼ぶのです。「アッバ、父よ、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」。神の霊に導かれて、そのように神の名を呼ぶとき、既に私どもは絶望から解き放たれているのです。十字架につけられ、お甦りになった主イエスが、祈りにおいて共にいてくださるからです。私どもの苦しみにおいても、私どもの絶望においても、主が共にいてくださる。いや、それどころか、主イエスは私どもよりももっと深い場所に立ってくださったのです。その主イエス・キリストを、父なる神が甦らせてくださったのであれば、どんな時にも恐れから解き放たれて、神を呼ぶことができます。
どうか、今ここにあるすべての方に、神を父と呼ぶ幼子の心が与えられますように。お祈りをいたします。
父なる御神、あなたは私どもの父です。どんな時にも。行き悩むこの世界を、どうか憐れんでください。私どもの罪が、悲しみをますます深くしています。苦しみを、ますます悲惨なものにしています。そんな私どもの救いのために、十字架につけられ、お甦りになったみ子イエスを仰ぎつつ、今私どもも望みをもってあなたの名を呼びます。どうか、見捨てないでください。手放さないでください。主のみ名によって祈り願います。アーメン







