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だから憎まれる

2026年2月8日

ヨハネによる福音書 第15章18節-第16章4節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

 

 

主イエスが、弟子たちとの別れが迫ったときに、語られなくてはならなかったことは、将来の迫害についてでした。こう言われました。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい」(15:18)。そして「人々は、私の名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる」(15:21)とも言われました。

主イエスがあなたがたは憎まれるだろうと、あなたがたは私と同じ目に遭うだろう、と言われました。でもそれは私のせいだ、とおっしゃいました。

本日の説教題を「だから憎まれる」といたしました。鎌倉雪ノ下教会で説教題をつけるのは、昔から外に向かって、と言われておりまして、その日の礼拝に来た方たちに、というよりは、外に向かって、掲示板に記されるために説教題をつける、というのはもう何十年も前からなされてきたことです。
「だから憎まれる」。そう書かれたものを、通りかかった方が見た時に、もしかしたら、ちょっと目が行って、それで傷つく人もいるかもしれないな、と思いました。
「だから憎まれるんだ」。だからあなたは憎まれるんだ。
職場や、自分のいるコミュニティの中で、そのことで苦しんでいる人が、どれだけ多くおられるだろうかと思います。だから、だからなんだ。「だから」というのは、理由や原因です。どうしてだろう、と、自分の、何がいけないだろうと、いうのがわからなくて、理由を探してみて、どうしてなんだろうと、それで自分を責め続けている人が、どれだけたくさんおられるだろうかと思うのです。

けれども、私どもキリスト者にとっては、主が、それは私のせいだ、とおっしゃいます。
「私の名のゆえに」、
私をあなたが信じているゆえに。
私の存在のゆえに。だからあなたは憎まれる。

子どもが公園で遊びながら、周りからいじめられて、それで泣いてお母さんのところに来た時に、お母さんが、その子を抱いて「私のせい」と言う。

実際にこのあと、歴史の中でそのことは実現してゆきます。今、退任長老が「キリスト教と世界史」という学びをしてくださっていますが、ちょうど迫害について語ってくださっています。ローマ帝国の中で、当時どんな処刑が行われたか、それに対して進んで殉教をしていったキリスト者たちや、それを評価しながらも、でもその熱狂を戒め、世にとどまるために、世もまた神の支配下としてそれを踏みとどまった教会の姿なども、そこで語られています。
ちょうど、このヨハネによる福音書が書かれた二世紀の初め頃、というのも今日の第16章の2節にもありますけれども、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」と、主イエスが言われておりますが、まずユダヤの人たちからキリスト者たちが会堂から追放されるということが起こりました。それまではいささか奇妙な連中だけれども仲間として、ユダヤの会堂を使わせてくれていたユダヤ人たちが、しかしユダヤ教の結束を図るために、キリスト者たちを会堂から一掃するということをいたしました。そうすると、ユダヤに対しては寛容であったローマ帝国の前で、キリスト者たちは丸裸にされて、その迫害の的となりました。主イエスと同じ目に遭う、ということが起こったのです。そしてそういう時には、その人がどんなことをしたかとか、そういうことは一切問われないで、ただキリスト者であるかどうか、その人がどんな人間であるのか、あるいは何をして、何をしなかったのかというのが問題ではなくて、ただ、キリスト者である、ということだけで死ななくてはなりませんでした。

つまり、その理由は、所属なのです。
キリストのものである、という一点なのです。

あなたがたは世に属さず。と主が言われました。
「あなたがたは世から出た者ではない。」「私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎む」と。

私が昔、社会に出た時に、ある会社の方たちと夜、時々食事会に行きました。ある時、そのお店を出た所に「お稲荷さん」がありまして、商売繁盛を願う祠ですね。そうしたらご一緒した方たちがパンパンと笑いながら柏手を打つわけです。それで誰かが私のほうを向いたときに、その会社のある信頼している方が、こう言ってくださったのです。「ああ、この人は信仰があるから」って。もちろん私はそんなことをするつもりはなかったので黙ってみていて、でももし言われたら、「いえ私は」と、言おうと思っていたのですが、でもその方が「この人は信仰があるから」と、言ってくださったのが、なんだか今も心に残り、とても嬉しかったんですね。でもそのとき、私のほうが、改めて心の中で思ったのです。
「私は主のものだから」。
私は主のものだから、他のものを拝んだりは、しないんです。でも、もしそれがこの時代だったなら、それで連れて行かれて、殺されるっていうことだったのです。

先ほど、「だから憎まれる」というのを、掲示板で見た人がどう思われるか、と言いましたが、どちらかというと「嫌われる」というほうなら、何となくわかると思います。嫌われるというのなら、私どももよくわかります。もちろん、自分にそれなりの理由があるかもしれない。でも理由なくということもあるかもしれません。虫が好かない、何となく生理的に合わない、そんなことでも、嫌われる理由になってしまいます。でも「憎まれる」というのです。
憎まれるというのには相当の理由があります。それは相手に、自分の何かが関わってゆくから、なにか害を与えるから、だから憎まれる。

私どもがキリスト者であるということが、たとえば皆さんの友人や親戚や、会社や近所や学校で知られたとしても、もしかしたらかつてや、一時期問題になった時よりは、それで「憎まれる」ということは今はあまりないのではないでしょうか。むしろ、そうなんだと、割と先ほどのように尊重されたり、寛容であったりするほうが多いかもしれません。でもその向こうには、自分には関係ないけれど、というのがあるかもしれません。あなたはそれでいいですね、でも私には言ってこないでくださいね。そうすると、教会に行きましょうとか、礼拝はどうですか?なんてむしろ言えない状況があるかもしれません。そういう踏み込まない関係というのも、多いのではないでしょうか。そうしたら、何も、嫌われたり、憎まれたりなんてことは起こってこないです。

ですが主イエスが言われているのは、「私が来た」ということを知っていれば、世がそれを知っていれば、憎まれるというのです。知らなかったら、無関係で、無関心でもいられるけれども、でも「主イエスが来られた」ということを知っていたら、それは罪が明らかになった、ということで、そうしたら、もうほんとうは、人は無関心でも無関係でも、いられなくなると思うのです。しかしそれはもう知らされていると。

24節以降で主イエスが言われています。「誰も行ったことのない業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。だが今は、その業を見て、私と私の父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由なく、私を憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」(15:24-25)と。

「人々は理由なく、私を憎んだ」
というのは、旧約聖書の詩編第35篇や第69篇と言われておりますが、理由なく憎む。
主イエスを憎む。神を憎む。
それが罪と言えるでしょう。
罪に理由なんてないのです。強いて言うなら罪だから。主イエスを知ったら、腹が立つ。自分をえぐってくる。そういう存在がたまらなく嫌で仕方がない。だから殺しにかかる、亡き者にしたい、というのが罪であって、それが人間の中にあって、

だからキリストは憎まれたのです。だから十字架で殺されたのです。

けれどもそういう心というのは、何も外だけではなくうっかりすると、私どもの中からも湧き起こってきます。自分は世に属していないと言いたいですけれども、誰かと話しながら、噂話、いやなんか違う、自分では言いたくないのに、同調し、いや、ほんとうは自分が言いたいんじゃないか。

そうやって罪は私どもの中からも湧いてきて、でも、罪の関心は私どもじゃなく、ほんとうは主イエスなのです。罪は主イエスを憎んでる。私どもは悔い改めながら、ごめんなさいと思います。主のものなのに、ごめんなさい。だけど、罪は私じゃない、主イエスを憎んで主イエスを痛い目に遭わせたいのです。私を神に対して殺せば、主イエスを痛めつけられるのをわかっているのです。だから主イエスが、こう言われました。
「世があなたがたを憎むなら」。
「あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい」。

でもそれくらいに、
あなたは、私のものなんだ。

現任長老でいらっしゃるある方が、もう前になりますけれども教会学校の中学科の礼拝で説教をなさいまして、私もそれをよく覚えているんですね。先ほど読みました旧約聖書の、申命記第7章の説教でしたけれども、そこは、神様がイスラエルの民を「宝の民」と呼ばれる、神様がご自分の民を愛して止まないというところです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。

そこでその長老が語られたことは、神様が私たちを「宝の民」と呼ばれるけれども、ヘブライ語を調べると「宝」とは書いてない。そうじゃなくて、そこは「所有する」って書いてある。「所有する」。あとは自分の大事なもの。だから神様がこの民は「俺のもんだ」っていうことなんだよね。神様が「俺のもんだ」って。

「聖なる民」とそこで言われておりますけれども、「聖なる」というのは、神様のものということです。ただ自分が汚れていないとか、きれいとかきれいじゃないとか、私どもは考えますけれどもそうじゃないんだと。そうじゃなくて、これは神様のもんだっていう。じゃあどうしてそうなったのか、どうしてこの民が選ばれたのか、というと。と、でもその理由は何かっていうと、と、そうしたらその長老が言われたんですね。
「理由はないんだよね。理由ね、ないの。とにかくこの民を愛している。」
「愛するのに理由はないの。」

ただ愛しているから、「主の愛のゆえに」、あなたを奴隷の家から贖い出したんだって(申命記7:8)。

神様がこの民を選ばれたのは、それは最終的に世を贖い出すためで、それで神様が私どもを選ばれたのですけれども、でもそれもあなたがたに理由があったわけじゃないんだ。罪を抱えている私どもなのに、罪深いのに選ばれているわけです。そうしたらその長老が言っていました。私たちは普通さ、だれかを目にかけてやるってときには、なんか、この子は見どころがあるな、とか、この子には将来性があるなとか思って、そうするんだけれども、そうじゃないんだもん。理由ないんだもん。
私たちは理由を探すでしょ?「なんでかな」って。なんでこの人わたしのことを好きでいてくれるんだろとか、なんでこの先生は自分によくしてくれるんだろ、とか、友達もなんで好きでいてくれるんだろとか、思うでしょ?だけど、
理由ない。神様には理由ないんだ。
ただ、神様が見つけて、愛している。それをね、聖書は一貫してるって。旧約聖書も新約聖書も一貫してる。神様があなたたちを、愛しているってことがね。

ちょっと記憶の限り長く申し上げましたけれども、ほんとうに、神様には理由ない。相手がどうだって愛してんだ。どうにも理由なんてつけられようもない。

それで神様が最終的に出した答えというのは、ご自分を憎む世に対して、和解をされたということなのですね。
十字架というのは、この世が神様に対してなした最後の決断なんですけれども、同時に、神様がこの世に対してなした最後の決断なんですね。
「独り子を賜ったほどに」(3:16)、それでも、世を愛しているという。

ほんとうに、理由なく神は愛してるんだもの。それなのに世はそれを知らないんだもの。だから主イエスが「証し」(15:26、27)と言われるんですね。主イエスがこのお話の本筋に戻られるといいますか、聖霊のお話をなさいます。聖霊が「世に証しをなさる」、主イエスを証ししてくれる。それをあなたがたの中で、あなたがたの中からしてくれる。思い出させてくれる。迫害の時から、教会はずっとそれをやってきて、そしてその愛が勝っていくんです。憎しみに、憎しみで返すことをしなかった、この愛が世に勝っていき、どんな政策も歯が立たないくらいにキリスト者たちが増えてゆき、やがて、ローマの国教、世界の信仰となってゆくのです。

先ほど言いましたが、いじめられた子どもが、泣いてお母さんのところに帰ってくる。泣いて、お母さん、仕返ししなかったよ。抱きしめるお母さんの手にも傷があって、でもお母さんが言う。「私はこれから見えなくなるけどね。でもね、お母さんはあなたから離れない。それをね、あなたの大事な味方がいつも教えてくれるの。お母さん、見えなくなっても、あなたは、神様が『俺のもんだ』って、「私のものだ」って教えてくれる。」
それを聖霊が、いつも思い出させてくれるの。

憎まれるのに理由はあっても、それでも
愛するのには理由はないんだということを、
思い出させてくれるのです。

 

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