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実を結ぶ生き方

2026年2月1日

ローマの信徒への手紙 第7章1-6節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙を礼拝の中で読み続けてきて、今日から第7章に入ります。この第7章というのは、ローマの信徒への手紙の中でも際立って印象深い章であり、しかしまたそうでありながら、とても解釈が難しいところでもあると思います。

そういう第7章の中でも、特に今日読んだ最初の部分は、何と申しますか、皆さんにとっては微妙な印象を残したかもしれません。「いったい、何の話が始まるのだろう。わけがわからん」という印象が生まれるひとつの理由は、〈律法〉ということではないかと思います。第7章を貫く主題は〈律法〉です。それがしかし、たいへんわかりにくい。

少し正直なことを告白しますと、今まで1年間以上ローマの信徒への手紙を説教してきて、ちょっと気になっていることがあります。それは、この〈律法〉という大切な主題を、けれども私の説教においてはほとんど正面から取り上げてこなかったということです。過去1年間の私の説教のいくつかを取り上げて、「なぜ川﨑牧師はこの聖書箇所の説教で律法の話をひとつもしないのか」という批判があったとしても不思議ではありません。少しだけ言い訳をさせていただくと、語り忘れたのでもないし、難しい問題から逃げたのでもないのであって、第7章に進んだらいよいよ本格的に律法の話が始まるから、そのときにきちんと説教すればよい、と考えていたところがありました。

それにしても、注意深い人は既に違和感を抱いておられたかもしれません。たとえば、先週の説教です。第6章の15節以下を読みました。「では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから」(15節)という言葉を丁寧に説き明かしながら、けれども遂にひと言も、「私たちは律法の下にはいない」という話はしなかったのです。注意深い人は疑問を持ったかもしれない。「川﨑牧師は、何か大切なことを語り忘れてはいませんか」。しかも、その先週の説教を皆さんがどのくらい覚えておられるかと思いますが、「私たちは、恵みの下にいるのだから」ということを説明するために、延々と十戒の話をしたのです。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。「だから、あなたには、わたし以外に神はいないんだ。わたしだけが、あなたの神なんだ」。あれ? 話がおかしくないですか? パウロは、「私たちは律法の下にいるのではない」と言っていますよ。それなのに、どうして十戒の話ですか。律法の中心に立つのが十戒じゃないですか。私たちは律法の下にはいないんですよね?……先週の私の説教を聴きながら、「騙されてる気がする」という感想があったとしても不思議ではありません。どうでしょうか。

■第7章の主題は〈律法〉であると申しました。その主題を巡って、パウロはたいへん周到な議論をしています。たとえば12節に、「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」と言っています。ところがその直前の10節では、「命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました」とも言います。律法は良いものです。神が与えてくださったものです。先週の礼拝でも口を酸っぱくしてお話ししたことですが、律法の中心に立つのは、「わたしだけが、あなたの神なんだ」という、神の愛の語りかけです。「わたしがあなたを救ったんだ。だから、わたし以外に神があってはならないんだ」。けれども問題は、そのように神に愛され、律法を与えられた人間が、罪人であるということなのです。どんなに深い神の愛も、罪人の愚かな心の中で、あらぬものに変質してしまうということが起こります。

今日読んだ第7章6節の最後に、「古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになった」と書いてあります。えらく難しい話になってきた、という感想もあるかもしれませんが、おそらくこれがいちばん大事なところです。神の生き生きとした愛の語りかけが、人間の罪の中で「古い文字」に変わります。「文字は殺し、霊は生かします」(コリントの信徒への手紙Ⅱ第3章6節)という有名な聖句を思い出される方もあるでしょう。神の愛が死んだ文字に変わるとき――人間の罪によってそういう化学変化が起こってしまうのですが――本当にその〈律法の文字〉が人を殺すことがあるのです。

■福音書を読むと、この〈律法〉というものをいちばん大事にした人たちが、いちばん罪深くなってしまったということがよくわかります。その典型的な存在が「ファリサイ派」と呼ばれる人たちです。ちなみにこの手紙を書いたパウロも、ファリサイ派の中のファリサイ派でした。

福音書においてしばしば問題になる律法は、十戒の第4の戒めです。「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」と、いつも私どもはその最初の言葉だけを礼拝で唱えるのですが、本来はもう少し長い文章が続きます。あなたは、休まないといけない。でもそれは、あなたひとりの話じゃない。あなたの家族も、あなたの奴隷も、あなたの家畜も、それだけではありません、あなたの町の中にいる人たちも皆、信仰が違う外国人も含めて、せめて週に1日は、ゆっくり休みなさい。あなたには、休みが必要でしょう? 働いて、働いて、働いて、疲れ果てている日本人のためにも、こんなにありがたい神の言葉はないだろうと思うのですが、これがファリサイ派の手にかかると、変なものになります。死んだ文字に変わります。「神が休ませてくださる日」が「働いてはいけない日」に変わります。安息日に移動していい距離は何メートルまで。料理もしちゃいけないので、前の日に準備しないといけない。今でもイスラエルに行くと、そういう戒めが生きているようで、たとえば「ボタンを押す」というのは、安息日に禁止されている労働に含まれるらしい。ボタンも押せないとなると、エレベーターにも乗れない。でもだいじょうぶです。安息日のイスラエルでは、すべての階にエレベーターが止まるそうです。……スマホをタップするのはいいんですかね? まだ調べていません。

こういう話を聞くと、われわれはつい笑ってしまうのですが、主イエスはそういうファリサイ主義と正面から戦われました。ある日、主イエスが安息日の礼拝に行かれると、会堂の片隅に片手の萎えた人がいた。ファリサイ派はじっとその様子を見ながら、心の中で、「イエスよ、まさかお前、安息日にこの人を癒やしたりしないだろうな。そんなことをしたら、どうなるかわかってるんだろうな」。主イエスは彼らの思いにすぐに気づき、あえてその人を会堂の真ん中に立たせて、人びとに問われました。「安息日とはいったい何だ。命を救うための安息日でなかったら、いったい何なんだ」。そう言って、その人の手を癒やされました。福音書にははっきりと、「イエスは怒って彼らを見回し」(マルコによる福音書第3章5節)と書いてあります。神の聖なる律法を「古い文字」にしてしまった人びとに対する、神の怒りの現れでしかありません。「なぜあなたがたは古い文字にこだわって、神の愛を忘れるのか」。

ファリサイ派であったパウロには、この主イエスの怒りがよくわかったに違いない。神の愛の表現でしかなかった律法が、罪深い自分の中で、どんなにおかしなものに変質してしまったか。それが神にとってどんなに悲しいことであったか、それどころか、神がどんなにお怒りになったか。

第7章1節では、「きょうだいたち、私は律法を知っている人々に話しているのですが」と言います。「律法を知っている人々」というのは、厳密にはユダヤ人のことです。こういう表現に触れると、どうも自分には関係なさそうだと、聖書との距離を感じる人もいるかもしれませんが、パウロはまさしくこういうところでこそ、自分の全存在を傾けるようにして書いたと思います。律法を知っている人たちよ、それだけ神に愛されている人たちよ、それなのに、なぜあなたの心はそんなに神から離れてしまったのか。

■こういう話をするために、ここでパウロは、「結婚の比喩」という、妙な話を始めます。私どもの使っている聖書にも「結婚の比喩」という小見出しが付いています。でも、どうでしょう。「私たちは、律法の支配下にはいない」ということを言うために、夫婦の関係を比喩として用いるのですが、これを読んでどのくらいの人が納得しただろうかと思います。

それとも、きょうだいたち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。ですから、もし夫の生存中、他の男のものになれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由な身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません。それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです(1~4節)。

この話は、老若男女問わず、複雑な思いになった人が少なくないと思います。「夫が死ねば、妻は自由になれるのだ」と、要するにそれだけの話です。しかし冷静に考えてみると、ずいぶん物騒な話です。「まさか自分の妻は自分の死を願っていないだろうな」と心配し始める男性もいるかもしれませんし、「いや、実を言うと、自分も妻の死を願っているんだ」、「早くこの夫から自由になりたいんだ」という自分の隠れた思いに気づかされて、ぎくりとしている人だっているかもしれません。しかしまた、特に配偶者を喪う経験をした人たちは「冗談じゃない」と反発するかもしれません。「夫が死ねば妻は自由になれるんだとか、冗談でもそんなこと言ってほしくない」。けれども本当の問題は、私どもと神との関係です。

夫婦関係に限らず、私どもはいろんな人間関係に悩むのです。こじれにこじれてしまって、どうにも解決しようがない。それが高じると、相手が死ぬか、自分が死ぬか、本当の解決はどちらかしかないということにもなります。もちろん本当に死んだり殺したりするわけにはいきにくいですから、できるだけ距離をとる。口もきかない、目も合わせない。そうでもしなければ、自分は生きることができないと思うからです。だがしかし、そこでよく考えてほしい。それと同じような深刻な問題が、あなたと神との間に起こっているのだ。自分が死ぬか、神が死ぬか、それくらい深刻な問題が、あなたと神との関係において起こっているのだ。

■そのことを典型的に示すのが〈律法〉なのです。「わたしだけがあなたの神なんだ」、「あなたには、せめて1日くらいは休んでほしいんだ」という神の愛の言葉も、ファリサイ派・律法学者の手にかかれば、古い文字に変わります。死んだ文字に変わります。その死んだ律法の文字が、人を殺すことさえあるのです。

私どもは、厳密な意味では律法を知らないのです。先ほども申しましたように、パウロは1節で、「私は律法を知っている人々に話しているのですが」と言います。その意味では私どもには、直接には関係ないとも言えます。けれども、そんな私どもでもユダヤ人と共通するところが、まさにここだと思います。私どもだって、いろんな意味で、いろんな場面で、そしていろんな人間関係の中で、ファリサイ派になることがあるでしょう。自分の正義だけがすべてです。自分は正しいんだ、あの人が悪いんだ、自分だけが正しいんだと信じて、言ったりやったりしていることが、神からご覧になるといちばんたちの悪い律法主義者になっていることは、いくらでもあると思います。ファリサイ派にとっては、神の愛なんか、どうでもいいのです。

先ほど紹介した福音書の記事の中で、主イエスは手の萎えた人をあえて会堂の中心に立たせて、怒りもあらわにお尋ねになりました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコによる福音書第3章4節)。「あなたがたは、このひとりの人を殺している!」あなたがたの大事にしている古い文字が、今この人を殺している。なぜそのことに気づかないか。

その福音書の話は、ただファリサイ派の人びとが安息日の律法にこだわって、体の障害のある人に対する優しさを忘れた、ということではないのです。ファリサイ派は、古い文字にこだわりながら、ただ文字にこだわっただけで、神の思いを忘れた。神の愛を忘れた。そうやって、神との関係を自分から断ち切ってしまった。そうしたら、神が死ぬか、われわれが死ぬか、どちらかなのです。

説教の準備をしながら、私も悩みました。特にこの「結婚の比喩」については、何をどう語ればいいのか、本当に悩みました。「夫が死なない限り妻は自由になれない」だなんて。きっといろんな人が、いろんな傷つき方をするだろうな。けれどもそこで、はたと気づいたことがあります。なぜこんな悲しい比喩を聖書は使うんだろう。神と人間との間にも、たいへん不幸な関係が作られてしまって、そのことについて、いちばん苦しまれたのは神だからです。われわれの夫婦関係がどうとかこうとか、そんな次元の話ではないのです。神の苦しみです。神の痛みです。そのことについて、われわれはどれほど気づいているだろうか。

■少し気が早いようですが、今年の受難週は3月29日の日曜日から始まります。毎年のことですが、その週の月曜日から金曜日まで、毎日受難週祈祷会が行われます。何名かの教会員が聖書を説き、奨励をします。奨励を引き受けてくださった人たちが、既に準備を始めています。ぜひこの受難週祈祷会のために、特に奨励者のために祈ってほしいし、1回でも2回でも、自分も出席できる可能性があるのではないか、そのことをよく考えてほしいと思います。受難週祈祷会ですることはいつも同じです。主イエス・キリストが十字架で殺された物語を聞くのです。誰が主イエスを殺したのでしょうか。憎むべき悪党たちが乱暴を働いて主イエスを殺し、心の清い人たちはそれを見て悲しんだ、という話ではないのです。当時の社会でいちばん正しい人たちが、その正義感を突き詰めた結果、神の名においてイエスを殺したのです。まさしくそのようにして、人間の正義が裁かれたのです。

その上で、ここでパウロは言うのです。「それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです」(4節)。あなたがたも、死んだのだ。なぜ死ななければならなかったのでしょうか。夫が死ぬか、妻が死ぬか、解放が起こるためにはそのどちらかしかない。それと同じように、われわれが死ぬか、それとも神が死ぬか、どちらかしかないじゃないか。そこでパウロは言うのです。「きょうだいたち、あなたがたも、死んだのです」。ただし、そこに言葉を添えて、「キリストの体によって、律法に対して死んだのです」。何だか難しそうな言葉です。「キリストの体によって」というのは、「キリストの体を通って」と訳すこともできます。あなたは、死んだのだ。ただし、ひとりで死んだのではない。キリストの体を通って、あなたは死んだのだ。十字架につけられて死なれたキリストの体を仰ぎながら、「ああ、わたしは、あそこで死んだのだ」。

そのことを表す洗礼であり、聖餐です。洗礼については既に第6章の最初のところで学びました。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです(第6章3、4節)。

その洗礼の事実を再確認するための聖餐を、今朝このように祝います。私どものために十字架につけられ、復活されたキリストの体と血であります。それを噛み締め、味わいながら、私どもは知ります。「わたしは、死んだのだ」。ことにファリサイ派パウロは、よくわかったと思います。わたしは死んだ。律法に対して死んだ。あの誇り高きファリサイ派パウロは、死んだのだ。けれども、死んで死にっぱなしではありません。「それは、あなたがたがほかの方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。今、私どもの体も魂も、キリストのものです。そんな私どもが、今なお律法主義者のように生きることはできません。ファリサイ派パウロは死んだのです。ファリサイ派川﨑公平も死んだのです。そして、復活させられて、今ここに生かされているのは、神に愛された花嫁たる教会でしかありません。こんなにも愛されているのですから、そんな私どもが、神の愛の言葉を死んだ文字に変えることなど、二度と考えられないことです。お祈りをいたします。

 

私どもの救い主イエス・キリストは、私どもの罪のために死に渡され、私どもが義とされるためにお甦りになりました。今、あなたに愛された者として私どももここに立ちます。死人の中から生かされた者として、私どもはここに立つのです。今、あなたの愛を、心いっぱいに受け止める者とさせてください。死んだ文字ではなく、今生きておられるあなたの愛の言葉を聴く者とさせてください。そうすれば、私どもは生きることができます。愛に生きることができます。望みに生きることができます。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン

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