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あなたの主が見つける本当のあなた

2024年6月30日

ヨハネによる福音書 第14章15-21節
大澤 正芳(栗平教会牧師)

主日礼拝

 

2024年度の神奈川連合長老会交換講壇として、今朝は、半原教会を除く神奈川連合長老会に属する12教会と、牧師が個人加盟しておられる大磯教会を含めた13教会で、牧師たちがシャッフルされ、主の日の説教をそれぞれの教会で担当しています。

選ぶ旧約聖書箇所、また、新約聖書の前後の長さは自由に任されていますが、今朝は、この13の教会で、ヨハネによる福音書14:15以下を共通の聖書箇所として定め、共に聞いております。この中にも、参加された青年、参加予定の中高生がいらっしゃるかもしれませんが、3月の青年修養会、夏の中高生修養会のメインテキストとなっている聖書箇所を、選んだものであると思います。4月から7年ぶりに、神奈川連合長老会の教会に戻ってきましたばかりの私は、久しぶりの牧師会で、右も左もわからぬままに、あれよあれよという間に決まった聖書箇所でした。

けれども、準備を重ねる中で、本当に良い御言葉を神様がくださったと思います。まさに、私が、2012年に、この教会の牧師として召され、5年間、仕える内に、肚の底から納得し、主なる神様の前に、ひれ伏したキリスト信仰の醍醐味のような主イエスの声が、ここにも、ありありと響いていると感じました。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。……あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」

そうです。主イエスは戻って来られます。私たちはこのお方を見ます。このお方が、生きておられるので、私達も生きます。生かされます。

私が四月からお仕えしている栗平教会では、主の日の礼拝以外に、二つの平日の集会があります。詩編をずっと読み続けている聖書黙想祈祷会と、ハイデルベルク信仰問答を学び続けている教理を学ぶ会です。二つとも私が来てから始めた集会ではありません。前任の高橋牧師から、あるいは、もっと前から、教会が大切にしてきた二つの集会です。

聖書自身に親しむこと、また、歴史的な教理の言葉に親しむこと、その両方を大切にする栗平教会の姿勢をたいへん好ましく感じています。この二つの髙橋先生から引き継いで、5月より再開いたしましたが、まずは、牧師と出席者の歩調を合わせようと、どちらの集会も、改めて、詩編という書物はどういう書物であるか、また、ハイデルベルク信仰問答というのはどういう書物であるか、私自身学び直しながら概略的なお話をしました。

改めて、その一つである詩編という書物とどう向き合っていくか、どう取り組んでいくかと、牧師と出席者、共通の土台を確認していく中で、私はこんな言葉と出会い、深く頷きました。一人の人の言葉というよりも、詩編に親しむ複数の人々の言葉が重なるようにして、受け取ったものです。

詩編というのは、私たちの心を乗せる小舟のようなものである。普段、私達は、私たちの経験した厳しい出来事を、なるべく見ないようにして、何とか、心の安定を保とう、生活を滞りなく回していこうとしている。しかし、心の深いところで、悲鳴を上げている、傷が全然癒えずに、血が滲んでいる。けれども、詩編は、自分でも見ないように押し隠している私の本当の心に、言葉を与えてくれるものなのだ。詩編を繰り返し繰り返し読む内に、その小舟に自分の心が載り、嘆けるようになる。涙を流せるようになる。一人きりではなく、神様の御前で、凍っていた心が息を吹き返します。

そのような言葉を語りながら、多くの詩編の解説者、説教者が引用するのは、ローマの信徒への手紙8:26の御言葉です。

「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」

霊、神の霊、聖霊が、どう祈って良いかわからない、私たちの言葉にならない声を、その呻きによって天の父に届けてくださいます。この祈れない私に代わって、私の祈りとして、届けてくださいます。それどころか、喜んで言葉を与えてくださいます。祈れるようにしてくださいます。

使徒パウロはこの霊は、私たち一人一人の内に住まわれると語りました。パウロはしばしば「知らないのですか」と、私たち信仰者の当然、常識とすべきことを語ってくれますが、このことも、キリスト者ならば、誰でも弁えているべき当然のこととして、語ってくれています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

当然知っているでしょう。知らなかったならば、もしも、忘れてしまったならば、今から後は、二度と、忘れてしまうことがありませんように。あなたがたは、神の神殿であり、神の霊はあなたの内に住んでいます。このことにしっかりと、しがみついていなさい。

ここまで、少し遠回りしてきたようですが、もう、お気付きになっていることと思います。すべて、今日の主イエスの御言葉と、関係のあることです。16節以下です。

「私は父にお願いしよう。父はもう一人の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなた方のもとにおり、これからも、あなた方の内にいるからである。」

主イエスは仰います。私の願い、私の父への祈りは、あなたがたにもう一人の弁護者が送られることである。あなた方のもとにおり、あなた方の内にあり、二度と離れない弁護者、永遠にあなたがたと一緒にいる弁護者である真理の霊を、遣わして頂くことである。これが私の祈り、私の願い、そのために、私は全力を尽くすんだ。その行く手は十字架です。

この御言葉が語られたのは、主が身を屈めて、弟子たちの埃まみれの足を一所懸命に洗ってくださったあの洗足と十字架の出来事の間です。その一続きの出来事が始まる13:1には、「過ぎ越し祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる自分の者達を愛して、最後まで愛し抜かれた」とあります。弟子たちへの愛、私達への愛を、主が貫き通されるための霊の派遣の約束です。

この世から父のもとへ移り、もう弟子たちのためにしてやれることがなくなってしまうから、その前に、できるだけ、あるいはご自分のいなくなった後の備えとしてというのではなさそうです。少し先の16:7では、「しかし、実を言うと、私が去っていくのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」と仰います。

つまり、むしろ、この弁護者なる聖霊を送り、このお方が、私たちと共に永遠にいるようにするためにこそ、去って行かれるのです。

私が去り、あなた方の肉の目に見えなくなるということ、あなたがたが不安を覚えている。みなしごのようになってしまうのではないかと恐れている。しかし、その私の去っていくこと、実は、それこそ、私の愛の貫きが出来事となるのだ、もっと間近に私を見るようになるのだと、仰っているのです。これによって、主の愛がこの世界にいよいよ迸り出るようになるのです。

なぜならば、今度はほんの少し遡りますが、14:12、「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。」

私が去っていくのは、あなたがたともっと近くになるため、私のしてきたことを、あなたがたがするようになるため。私がしてきたよりも、もっと大きく、その業を行えるようになるため。

主イエスが天の父のもとに赴かれることによって、整えられ、送り出され、私達一人一人に与えられる専属かつ凄腕弁護者である聖霊との二人三脚の歩み、一体の歩みが、この私たちの日常において始まるのです。出来事となるのです。

わが内に住みたもう神の霊と、一体となって私たちが行う主イエスの業の継続、主イエスがなさったよりも、もっと大きく行っていくその出来事となる業とは何でしょうか?今日の箇所にも、何度か語られています「私の戒め」、主イエスの戒め、主イエスの掟です。この戒め、どのようなものであるか?単純なことであると思います。それは、13:34で洗足の主が言葉化された戒めでしょう。

「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

愛の戒め、愛の掟であります。私達が互いに愛し合うこと、そしてまた、この主の戒めを重んずることによって、主イエスご自身を愛することです。主イエスを愛する者として、主イエスが愛し抜いた者を、私達も愛し抜くように、背中を押されます。これは比喩ではありません。我が内に住みたもう聖霊が、今日、ここに集められたお一人お一人を、主イエスの愛の業を継続するように、押し出す。事実、一緒に乗り出してくださいます。

しかし、今日、与えられました聖書箇所を説くある説教者が、次のような趣旨のことを問いかけます。

このような言葉を聞きながら、あなたは、自分の現実との距離を感じているだろうか?あなた方は、愛に生きる、それも、私がしたよりも、もっと大きな愛の業に生きる。なぜならば、あなたには、神の霊が送られているから。この霊をあなた方は知っているから。世は私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。そういう近さに生きるようになると。この主イエスの御言葉に距離を感じるだろうか?自分はそんな愛に生きえていない。自分の背中を押している神の霊の促し、二人三脚、主の息遣いを感じてはいない。主イエスは、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。」と仰る。それならば、隣人への愛、それどころか信仰の兄弟姉妹への愛にさえ生きえず、挫折してばかりの私は、真理の霊を見ようとも、知ろうともしないこの世そのものではないか、主イエスのことを見ないこの世ではないか、そんな風に、感じてしまっていないだろうか?

その説教者は言います。この御言葉に向き合った時の、途方に暮れる思い、それは正直なことだろう。この主の御言葉を最初に聞いた弟子たちの内にも、同じ思いがあったろう。そして、主はその思いを見抜かれておられただろう。しかし、だからこそ、言われたのだ。「私は父にお願いしよう。父はもう一人の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

そうです。主は途方に暮れる者達に、この弁護者をお遣わしになるのです。この愛の戒めを前に、言葉を失ってしまうあなたの代わりに、弁護し、語ってくださるお方を送ってくださいます。このお方は、永遠に共にいる弁護者なる霊です。

この件は引き受けられ、この件は引き受けられそうにない。この人のことは引き受けられる、この人のことは引き受けられないと、TPOに応じて、味方になったり、突き放したりしません。どんなに不利で、難しい事案であっても、全部引き受けて、永遠に私たちと一緒にいてくださる弁護者をお遣わしになるのです。

たとえ、私達が諦めても、この弁護者は、黙っておられない。私たちが心責められ、いたたまれなくなり、愛の戒めの前に、消えてしまいたくなっても、この弁護者は、盾となります。私たちの代わりに、私たちのために、あなたに成り代わって弁護し、あなたを立ち直らせ、あなたが生きられるようにしてくださいます。息ができるようにしてくださいます。

しかし、この弁護者なる霊は、裁きの父に逆らってとか、愛の戒めをお与えになる主イエスと私たちの間に割って入ってというのではありません。この霊がいつも私達の側にいてくださるということ、私たちの内に住み、味方となり、一つになっていてくださるということ、それは同時に、20節、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」ということでもあるのです。

私達と聖霊の一体とは、さらに詳しく言えば、主イエスが御父と一体であり、私達が主イエスの内におり、また、主イエスが私たちの内におられるということと、一つのことです。

ちょっと、ややこしいことを語っているようですが、ある説教者の言葉に触発されて言い換えるならば、私達は入り組んだ愛の鎖によって、父、子、聖霊なる愛の神様にしっかりと結びつけられているのです。自分はふさわしくないと身を引こうとしたって、自分は愛の戒めに生きられないと、消えて行こうとしたって、逃げられません。

主イエスが命を懸けて造ってくださった父、子、聖霊の愛の鎖によって、しっかりと、繋ぎ止められている私達です。このことを忘れてしまっても、必ず思い出させてくださいます。知らないまま、忘れたままでいることは、もうできません。

この教会にとって忘れることのできない加藤常昭先生が、お亡くなりになる一週間前に、私は、妻と共に、その病床を訪ねることが許されました。想像したよりも、厳しい様子に、一瞬言葉を失いました。色々話したいことがありましたが、正直に申し上げて、もう会話は難しいと思いました。それで、一瞬言葉を失いました。

けれども、キリスト者はどんな重い病の床にある者を訪問する時も、どこか静かにも明るい輝きをもってその場にいられるというある神学者の言葉を思い起こしました。消えない光を見ているからです。

会話はできなくても、見舞う者、見舞われる者が共に仰ぐことのできる光である、生ける神の御言葉を読み、短い説き証しをいたしました。そしてそこで、加藤先生が編まれた信仰の言葉のアンソロジーの中で出会った三谷隆正という人の言葉を引用いたしました。

私たちの薄い信仰も、欠けた行いも、私達を神の大愛、大きな愛の御手から引き離すことは出来ない。我々は、この神の大愛、大きな愛によって大磐石上の金縛りにあっているんだ。風が吹こうが、雨が降ろうがビクともするものではない。大磐石上の金縛り、大きな岩の上に、太い金属製のワイヤーでぐるぐる巻きにされているように、私達は父と、子と、聖霊なる神に結び付けられている。だから、大丈夫ですよ。先生、神様からは離れられませんよ。

加藤先生は、苦しい息で、しかし、呼吸の混じった声で笑いながら、「そうだ、そうだ」と仰って、私の手を取り、私の顔をご自分の顔に引き寄せ、祈られました。ほとんど聴き取れませんでしたが、私達夫婦を、家族を祝福する祈りでした。

公平牧師の葬儀説教で紹介されていました。前回も、入院中の加藤先生に呼ばれてお見舞いに行った。加藤先生はほとんど震えるようにして、ご自分がどうなってしまうのかと、心配しておられた。死の恐怖に脅えていた。自分自身、何度も、いいえ、何百回と死の床を訪ね、脅えている人に慰めの言葉を語って来たその教師が脅えていた。御言葉を聴きたい。公平牧師、死ぬのが怖いです。私に御言葉を聞かせてください。そして、聖書を読み、御言葉を聴くと、本当に穏やかな顔になった。そこで、もう一度、主イエスにお会いしたのです。私たちの不信仰を突き破って、出来事となる主と出会い直したのです。

私は思います。たった一人で信仰を保てる人などどこにもいません。唯一人で、愛に生き続けられる者はおりません。けれども、主イエスは仰います。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」

「私は生きている」。自分の信仰に頼れなくても、自分の行いに頼れなくても、この言葉に固くしっかりとしがみついていれば良いのです。いいえ、生きておられる主が、父、子、聖霊なる生ける神の愛の交わりの内に、私達をしっかりと、結び付けておられるのです。

私ははじめに、今日の聖書箇所は、自分で選んだものではなかったけれども、この日のための準備の内に、自分がこの教会の牧師として5年間、仕えることによって教えられた信仰の神髄のようなものを、もう一度、見させて頂くような思いを与えられたと申しました。

それは、これまでのところ全てがそうですけれども、また、私がこの教会で骨身に沁みて学んだ神の霊を信じる信仰、聖霊の信仰というのは、改めて、くっきりと語るならば次のことです。

すなわち、聖霊の信仰とは、私たちのすべての思いに逆らって、聖霊が、私達を神を拝む者、神と人を愛する者として、先立って見なし始めてくださるそのことを信じるということです。それゆえ、聖霊を信じる信仰と言うのは、今日、私がここまで語って来たことによって、少しも心動かされない、説得されない、ちっとも実感が湧かないとしても、愛の鎖に結ばれている者として、あなたをご覧になる神のまなざしは少しも変わらないということを信じることなのです。聖霊の信仰、それはあなたの実感に逆らって、あなたをご覧になる神のまなざしの内にあるあなたを、本当のあなたとして見る信仰です。

神の霊は言葉にならないあなたの言葉を見つけてくださる霊だと、最初の方に申し上げましたが、それはただ押し殺されている感情を語れるようにしてくださるだけではありません。それ以上に、聖霊は、父、子、聖霊なる神が、形作っていこうとされているまだ私の実感となっていない本当の私のことを見つけていてくださるのです。

主が、「私は生きている。だから、あなたがたは生きるようになる。」と仰った、主の命によって、主の御言葉によって、掘り出される新しい私、三位一体の神の愛の鎖によって、ぐるぐる巻きにされており、雨にも風にもビクともしない命に充ち満ちている本当の私たちのことです。

もう、長い話は出来ません。本当は、ここからもう一つの説教が必要だったなと思う豊かな主の御言葉です。でも、そういうわけにはいきません。だから、色々スキップして申し上げます。

結局のところ、私たち教会が、主の愛の戒めに生きるようになるとは、このような人間の姿を、実感に逆らって、お互いに語りあっていくことです。暗い穴倉に蹲っているような人の心に語り込んで行くことであると思います。

この教会にも何度も訪れ、たいへん親しい交わりを作られた、皆さんにとって懐かしい神学者のルドルフ・ボーレンという人は言います。

「私は生涯を顧みて、ただ感謝するよりほかないのは、いかなるところにおいても、慰めであるキリストの恵みのわざにあずからせてくれた、キリストにあずかって生きている人びとを見出すことができたことである。聖霊は、兄弟たちを通じて、姉妹たちを通じて慰めてくださる。これらの人びとから受けた慰めを思うと、たぶん、この人びとに共通項があった。私が見出したのは、私自身よりも、その人びとにとって、私という存在が気に入られていたと言える人びとである。私が立っているところよりも高いところに立たせてくれた人びとである。私を私自身よりも抜きん出た者としてくれたために、私を慰めることができた人びとである。」

聖霊を信じるということ、聖霊と共に歩むということ、キリストの愛の戒めに生きるということ、それは、私の隣に座るあの人、この人を、その人自身よりも、その人のことを気に入ってしまうことです。その人が自分のことを評価しているよりも、もっともっと高く、その人を、特別に良いものとして見、そのような者であることを語り聞かせることです。

多分、私達はこのような霊のまなざしによって人を見ることがたいへん下手くそです。このような聖霊のまなざしによって自分を見ることは、さらに下手くそです。生まれながらのものではないのです。学ぶべきことなのです。

けれども、下手くそなりに、神は私たちを用いられます。私たちを用いることを諦めることがありません。それが、ここに、教会があるわけです。何度も何度もやり直せます。主の日の度に、悔い改めて、もう一度やり直しております。

大磐石上の金縛りの上で、私たちは、生ける主のまなざしを学び直します。そのまなざしによって、共に生きる仲間を見直します。その人が自分のことを評価しているよりも、もっともっと高く、その人を特別に良いものとして見、そのような者であることを語り聞かせます。ただ、そのような者として接し、言葉を交わし合います。

そのような言葉は、生きる力を与えるだけではありません。死を越える力を与えるのです。死の床にあっても、告げ合える祝福です。

そのための教会です。信徒も、教師も、長老も、執事も、喜んでこの教会に連なる主に呼ばれた求道者も、お互い、この魂の配慮に生き合う群れです。そのためにこの地に立てられている鎌倉雪ノ下教会です。

「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」

皆さんは、ここで主の愛の戒めに生きます。主が皆さんを生かしてくださいます。そして、その皆さんのほんの小さな愛のまなざし、ほんの小さな愛の言葉を通しても、死に打ち勝つ命の息が、人の内に吹き込まれるのです。