だめだなあ、俺という人間は
ローマの信徒への手紙 第7章13-25節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第7章というところは、聖書の中でも特に際立って、多くの人の心を捕えてきた箇所であると思います。既に聖書朗読をお聞きになりながら、いろんな言葉が心に留まったことだろうと思います。しかし何と言ってもひとつの頂点に達するのは24節だと思います。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
多くの人が心捕えられ、また深い共感を与えられてきた言葉です。「私はなんと惨めな人間なのでしょう」。ある人はこれを「だめだなあ、俺という人間は」と訳しました。あまりにも衝撃的な翻訳で、思わずそれを今朝の説教の題として流用させていただきました。「だめだなあ、俺という人間は」。しかも実はこれが、きわめて逐語的な、聖書の原文に沿った翻訳なので、ますます心を打たれました。たとえば、原文には「なんと」なんて言葉はありません。英語を習い始めた中学生なら、「How……」などと作文を始めるかもしれませんが、Howにあたる言葉は原文にはない。「みじめな」「私は」「人間」という三つの単語からなる文章です。それを「だめだなあ、俺という人間は」と訳したわけです。
「だめだなあ、俺という人間は」。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と言うのですが、ここも翻訳に注文をつけると、原文はもっと単純に「死の体」と言います。自分自身の体を指差して、「この死の体から」。誰か、私を、この死の体から救い出してくれ。引っ張り上げてくれ。激しい問いです。まさしくここに、すべての人間の問いが集中している。すべての人が、この問いに、この叫びに、招かれないといけない。いや、もちろん、さらに25節に進んで、「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と、すべての人がこの感謝に招かれなければなりません。その意味でも、最初に「頂点」という言葉を用いましたが、聖書全体の中のひとつのクライマックスがここにあると言わなければならないだろうと思います。
なぜこのような聖書の言葉が、多くの人の心を捕えるのでしょうか。よくわかるからです。共感するからです。たとえば15節。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです」。あるいは21節。「それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます」。自分の中には、そういう分裂がある。あるいは葛藤がある。説明なんかなくたってよくわかるのです。皆同じようなことで苦しんでいるのです。こんなことをしてはいけないと、頭ではわかっているのだけれども……わかっちゃいるけどやめられないのです。
それで22節以下ではこう言うのです。「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです」。自分の中にこういう深刻な分裂があるのは、自分の中に「異なる法則」が住んでいるからだ。はっきり言えば、「罪の法則」が住んでいるからだ。この「法則」という不思議な言葉については、またあとで触れます。とにかく自分の体の中には、罪が住みついてしまっているのだ。こういう言葉に共感しない人はいないのです。もとよりパウロは、「だから、これは罪のせいであって自分は悪くない」などと屁理屈を言っているわけではありません。その罪の法則と戦うことができない自分自身が、いちばん悪いのです。しかし問題は、ではどうするのか、ということです。
■「だめだなあ、俺という人間は」という、たいへんわかりやすい、誰もが共感するはずの言葉だという前提でこの聖書の言葉を読んできましたが、実はこの箇所は、解釈の上で少し複雑な議論が生まれました。この第7章が私どもの心を強く捕える、その大きな理由のひとつは、ここでパウロが徹底して「私は」という言い方をしていることです。正確には第7章の7節から最後の25節まで、どういうわけかここでだけ、パウロは「私たち」とか「あなたがた」という言い方はせず、「私は」と言うのです。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」。しかし多くの人がここで首をかしげました。この「私」って誰のことだ。
なぜそんな疑問が生まれるのでしょうか。そんなばかな、パウロが「私」と言っているのだから、パウロ自身のことに決まっているじゃないか。しかし問題は、ここでパウロはすべて現在形で語っているのです。「なんてみじめだったんだろう、かつての私は」と過去を振り返っているわけではないのです。「私は、自分が何をしているか、わかっていなかったんです。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしていたからです」。「けれども今、私はそんな生活から救われました。イエスさまが救ってくださいました」という話なら筋が通るのですが、既にキリストに救われ、洗礼を受け、あまつさえ教会の指導者にまでなって、今ローマの教会のために手紙を書いているパウロが、「みじめな人間なのだ、私は。今、現に」と、そう言うのです。それはおかしいじゃないか。だからこれはむしろ、救われる前の人間のみじめな姿を、「私は」という文学的な表現でありありと物語っているのだ、と読むのです。そうすると、本当はパウロ自身は、もうみじめな人間ではない。みじめさから救われた人間として、福音伝道の手紙を書いているのだ、ということになります。「嘆いている人よ、呻いている人よ、みじめさに耐えかねている人よ、どうかキリストのもとに来て、みじめさから救われなさい」というわけです。
けれども、このような聖書の読み方には決定的な問題があります。それなら、パウロは、かつてはみじめだったのだろうか。今はそこから救われたのだろうか。事実はこれに反します。パウロ自身は、キリストに救われる前、ひとつも悩んでいなかったのです。かつてこの場所で説教したこともありますが、フィリピの信徒への手紙第3章というところに、パウロの自叙伝とも言われる短い文章があります。その中でパウロがはっきりと言っていることは、私は律法の行いについては非の打ちどころがない生活をしていたのだ、ということです。まさか自分が、「だめだなあ、俺という人間は」などという言葉を口にするなんて、夢にも思わなかったのが、パウロという人間です。
したがって、話は逆で、律法の義については非の打ちどころがなかったパウロが、キリストに救われて初めて、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と言えるようになったのです。その点、私どもは聖書を読み間違えてしまったかもしれません。「だめだなあ、俺という人間は」と言われると、たいへん共感しやすい言葉であるがゆえに、これを簡単に自分の身に置き換えたくなるのです。そうだ、そうだ、自分もそうだ。生活のいろんな場面で、人間関係に悩んだりして、できるだけ罪を犯さないように生活したいと思うのだけれども、どうしても誘惑に負けて、悪いほうに、悪いほうに流されてしまう。そんな私が、キリストに救われて、みじめさから救われました……という話は、パウロとは無縁であります。かつてのパウロは、みじめさという意識からはいちばん遠いところに立っていたのです。ところがそんなパウロがキリストに救われた結果、生まれて初めて、「だめだなあ、俺という人間は」という嘆きを口にするに至りました。パウロにとって、キリストに救われるということは、自分のみじめさがわかるということにほかなりませんでした。
すべての人が、この嘆きへと招かれなければなりません。そのためにパウロはこの手紙を書いたのです。すべての人が、自分と同じみじめさの中に招かれなければならない。
■このような〈手紙〉が書かれたということ自体が、考えてみればたいへん衝撃的なことだと思います。パウロという伝道者がローマの教会に宛てて書いた手紙を私どもは読んでいるわけですが、パウロはまだローマの教会の人たちに直接会ったことがないのです。このあたり、ぜひ皆さんの想像力を働かせていただきたいと思います。パウロがこれから初めて訪ねようとするローマの教会、何人かのことは知っていたようですが、割合としては知らない人のほうが多かったかもしれません。そういう教会に対して、自分の訪問に先立って手紙を書きました。そういう手紙の中で、「だめだなあ、俺という人間は」という、半ば叫びにも似た言葉が記されるということは、やはり異様なことだ思います。もしも私が、説教の途中で同じようなことを叫び始めたらどうでしょう。「……何かあったのかな」といぶかる人も、いるかもしれません。しかし少なくとも、パウロの手紙を読んだローマの教会の人たちは、ここでパウロが仮定の話をしているとは、あるいは過去の話をして見せているとは読まなかったと思います。いったい、パウロ先生のみじめさとは何だろう。一種の衝撃と、また深い共感を抱いたことだろうと思います。
きっと皆さんだって、よく考えてみれば、「このパウロの嘆きは、現在形の嘆きだ」と言われたほうが、よほど共感できるのではないでしょうか。もしも私がここで説教しながら、「かつての私はみじめな人間でした。けれども今はキリストに救われて、みじめさとは無縁になりました」などと言われたって、かえってひとつも共感できないのではないでしょうか。既に洗礼を受け、キリスト者として生活しておられる方なら、容易に理解できることだと思います。キリストに救われた。洗礼を受けた。その日からきれいさっぱり、何の自己分裂も葛藤もない、言葉も行いも神のみ心にかなった生活をしております、という人はひとりもいないのです。むしろ、なまじ聖書を学んでしまったがゆえに、悩みが深まるということだってあるだろうと思います。なぜここで、「敵を愛しなさい」などという面倒な話を聞かなければならないか。神のこともキリストのことも、何も知らなかったころのほうがずっとのんきに生きていた。けれども今や、キリストの恵みを知れば知るほど、「あなたの敵を愛しなさい」というみ言葉の前で、実は自分の生活がどんなに悲惨なものになっているか。そのことにおののかざるを得ない。きっとそういうこともあるだろうと思います。
■そこで、改めて丁寧に読み直さなければならないのは、25節の後半です。もう一度24節から続けて読みます。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ここは特に注意深く読まなければならないところです。不思議な文章ではないでしょうか。「キリストを通して神に感謝します」と高らかに感謝の祈りを献げ、そうであれば、「こうして私はみじめさから救われました」という話になるかと思ったら、そうではなくて、「このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。まるで、元の木阿弥であります。つまり、22節以下の状態に逆戻りしてしまっているかのようです。
内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう(22-24節)。
そのみじめさへと、もう一度帰って行くのです。「キリストに感謝、神に感謝」と言いながら、その感謝の中で、もう一度あの自己分裂を語るのです。「私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。それが、キリストに救われた私の生活です。
たいへん不思議な話です。どうしてそんな話になるのでしょうか。しかしむしろ、まさにここに、キリストに救われた私どもの生活の秘密があるのではないでしょうか。
■ここに「法則」という言葉が出てきます。21節以下、また第8章にも「法則」という言葉が頻繁に出てくるのですが、やはり決定的な意味を持つのは最初にこの言葉が出てくる21節だと思います。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
自分自身の行動をよくよく観察してみると、ひとつの法則が存在することに気づく。原文を直訳すると「法則を発見した」と書いてあります。実は「法則」という翻訳についても詳しい説明を始めるときりがなくなるのでやめますが、たいへんわかりやすいし、ある意味強烈な翻訳だと思います。「法則」と言えば、たとえば万有引力の法則というのがあります。りんごは木から落ちる。私が今このコップを傾けたら、必ず水がこぼれる。これはもう、どうあがいたって、私どもの意志とか努力とか、そんなものには関係なく、すべてを支配するのです。
りんごが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したという話が本当かどうか知りませんが、パウロは自分自身の生活をつぶさに観察した結果、ひとつの法則を発見しました。「善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則」です。「何か善いことをしようとすると、必ず悪いことをしてしまう」。これは法則ですから、常に、いつも、必ず。絶望的な法則ではないでしょうか。
このような法則を最初に発見した人が、ほかでもないパウロであったということにも、深い意味があると思います。先ほどもお話しした通り、律法の義については非の打ちどころがなかったパウロであります。自分の正しさ、自分の善さを信じて疑うことはありませんでした。だから、確信を持って教会を迫害したのです。そうでなくても、私どもも言われてみれば、この法則通りだと気づくことがたくさんあるのではないでしょうか。人間というのものは、「自分は正しい」、「私は悪くない」と、自分の正しさを確信すればするほど、罪深くなることができるのであります。それが、人間を支配している法則なのです。そこでこそ、パウロと共に叫ばなければなりません。「だめだなあ、俺という人間は」。
■「善をなそうとすると、必ず悪がつきまとう」。この絶望的な法則が、いちばん深刻な形で現れたのが、イエス・キリストの十字架であります。人びとが主イエスを十字架につけたとき、誰ひとりとして自分のみじめさに苦しんだ人はおりませんでした。自分たちは善いことをしているのだ、正しいことをしているのだという確信がありました。みじめさに苦しまれたのは主イエスおひとりであります。
主イエスの十字架の周りには、たくさんの人が集まり、そのすべての人が、主イエスをののしって言いました。「おーい、お前、キリストだってな。他人を救ったと言うのなら、今ここで自分を救ったらどうなんだ。今すぐ十字架から降りて来い。そうしたら、信じてやったっていいんだぞ」。祭司長、律法学者、ファリサイ派の人びと、そしてすべての民。皆、自分の正しさを確信しておりました。誰も自分の罪を嘆く人はおりませんでした。俺たちは正しい。悪いのはこいつだけだ。「善をなそうとすると、いつも、必ず、そこに悪が存在する」。
そのような法則の中で、ただひとり苦しまれたのは、主イエス・キリストご自身であります。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書第15章34節)。ところが、まさしくこのローマの信徒への手紙が証ししていることは、このお方は私どもの罪のために、私どもに代わって死んでくださったということです。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました(第5章8節)。
このキリストの十字架の前で、この神の愛の前で、私どもは初めて自分のみじめさに気づくのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。違う、本当はそうじゃない。私が、神に見捨てられなければならなかったんだ。このお方が、私のために、私に代わって、神に見捨てられたのだ。そこに生まれる叫びが、24節であります。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。
そうであるならば、この嘆きが過去形になることは考えられません。キリストの恵みを深く知れば知るほど、主イエスの十字架の前で、私どもの嘆きはますます深くなるはずです。「自分のみじめさとは。まさか、ここまでとは」。しかもその自分のみじめさが、すべてこのお方の十字架のみじめさによって担われていることを知るのです。キリストの恵みがどんなに大きいか、この方の死によって贖われた自分のみじめさがどんなに深いか。そのことを、どんなに嘆いても嘆き足りないことはありません。すべての人が、この嘆きへと招かれなければなりません。お祈りをいたします。
今共にみ子イエスの十字架の前に立ちつつ、救われた罪人の幸いを思います。すべての人が、ここに招かれなければなりません。「誰が私を救ってくれるでしょうか」と、すべての人と共に問い、すべての人と共に、「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と申し上げることができますように。そのために、この教会を、あなたのご用のために用い尽くしてください。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン






