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神が私の味方なら

2026年6月28日

ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■私どもの信仰の生活というのは、イエス・キリストを愛する生活のことです。主イエス・キリストに愛され、だからこそこのお方を愛する生活、それが私どもに与えられた信仰の生活であって、それ以外ではありません。倫理的・道徳的に正しい生活をするとか、それを言い換えて隣人愛に生きるとか、そういう面もちょっとはあるかもしれませんけれども、それは言ってみれば信仰生活の付録みたいなもので、それが中心になることはありません。私どもの信仰の生活の中心は、主イエス・キリストを愛し、このお方と共に生きる生活のことです。

私のような者が毎週日曜日の朝にここでお話しすることも、また同じであって、イエス・キリストに愛された私どもが、だからこそこのお方を愛する者として生きる。それ以外の話が中心になることはありません。昔、あるミッションスクールの出身で、しばらくこの場所で私の説教を聴き続けてくれた人がいたのですが、その方が正直におっしゃったことは、「若い頃からずっと牧師の話を聴いているけれども、いまだにさっぱり意味がわからない。キリスト教って、結局何ですか」。すぐに私が答えたことは、「私は礼拝でキリスト教の話なんかしたことはありませんよ。私が説教の中で一度でも『キリスト教は~』なんて話をしたことがありますか」。「そうじゃなくて、私はあなたにイエスさまの話をしているので、そのつもりで説教を聴き直してください」。次の週にはすぐに嬉しそうな顔で、「やっとわかりました。イエスさまの話を、わたしは聞いていたんですね。昔から」。

主イエス・キリストを愛し、このお方と共に生きるための、そのための主の日の礼拝です。しかも私どもは、日曜日の朝だけイエスさまの前にまかり出るわけではありません。いつどこにあっても、イエスさまは皆さんと共におられます。朝目を覚まして、布団から出て、「イエスさま、おはようございます」。いや、実はイエスさまに挨拶するのに布団から出る必要もありません。布団にくるまりながらも……たとえば昨日の朝、私が目を覚ますなりイエスさまに相談したことは、「イエスさま、どうしましょう。土曜日の朝なのに、全然説教の準備ができません」。何でもイエスさまに相談すればいい。何でもご存じですから、だからこそ何でもお話しすればいい。ただ、そういうときに、時々こういうことを尋ね直してみてもよいかもしれません。「イエスさま、あなたはいつもわたしと一緒にいてくださるっていうけど、本当ですか? どうしてあなたは、何のために、今このわたしと一緒にいらっしゃるのですか?」主イエス・キリストは、何となくぼんやりと、目的もないのにおいでになるわけではないのであります。

■皆さんがこういう言葉を聞いたことがあるかどうか、500年前に教会の大きな改革をしたマルティン・ルターという人が、あるところで「小さな聖書」という表現を使いました。「聖書に大とか小とかあるのだろうか」と思われるかもしれませんが、それはヨハネによる福音書第3章16節のことで、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書いてあります。ルターは、聖書のメッセージのすべてがこの一句に込められていると信じて、これを「小さな聖書」、あるいは「小福音」と呼びました。

「イエスさま、あなたは何のために、今ここにいらっしゃるのですか?」われわれが神を愛したのではなく、神がまず私どもを愛してくださって、その愛のゆえに神はその独り子イエスをお与えになったのだ。それで今は、私どもも、イエスというこのひとりのお方を愛しながら、「わたしは神に愛されているのだ、この世界は神に愛された世界なのだ」と、そのことを日々確かめていくのが、私どもに与えられた信仰の生活なのです。

そのことを、ローマの信徒への手紙第8章31節では、「神が味方なら」と言うのです。これは仮定の文章ではありません。「もし神が味方ならありがたいけれども、もし神が味方でなかったら、どうでしょうね」、という話をしているのではありません。事実、神がわたしたちの味方なのだから、「誰が私たちに敵対できますか」、できるわけがないでしょう。しかも、そこですかさず、「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は」と言うのです。神がわたしたちのために、その御子をさえ惜しまずお与えになったということが、そもそも神が私どもの味方になってくださったということでしかないのです。

そのことを、日々確かめていく私どもの信仰生活です。それこそ寝ても覚めても、いつも共にいてくださる主イエスの前で、「イエスさま、あなたはどうして、何のために、わたしと一緒にいらっしゃるのですか?」「あなたの味方になるためだよ」。それ以外の理由なんかない。どんなことがあっても、わたしはあなたの味方になってあげたいから、だからわたしはあなたのところに来たんだよ。

■そのような言葉で始まる、このローマの信徒への手紙第8章の31節以下は、明らかにこの手紙におけるひとつのクライマックスです。第9章以下もまた非常に大切なところであるに違いありませんが、そうであったとしてもこの第8章でひと区切りつく。その最後のクライマックスのところに、私どもの使っている聖書には小見出しとして「神の愛」と書いてあります。時々、不適切な小見出しを見つけることもなくもないですが、この段落の小見出しは、ずばりこの通りです。「神の愛」。結局、このひとつのことに尽きるのだ。

その段落の最初のところには、「では、これらのことについて何と言うべきでしょう」と書いてあります。この「これらのこと」というのは、おそらくは、この手紙の第1章から第8章までの全部を指しているのでしょう。ずいぶん長い手紙を書いてきました。私どももこの場所で、本日をもってちょうど1年半、この手紙を読んできたのであります。これまでのところを振り返りながら、「これに加えてさらに何を言うことができるだろうか。いや、結局はこのひとつのことに尽きるのだ」。「神が味方なのだから」、その証拠に、神はその御子をさえ惜しまずお与えになったのだから、「誰が私たちに敵対できますか」。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」。「私は確信しています。どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」。「神が味方なら!」ここに、すべてがかかっているのです。

ルターと並んで大きな教会の改革をしたカルヴァンという人が、この聖書の言葉についてこういう趣旨のことを言っています。「『神が味方である』という、このことこそが私どもの唯一の支えである。その支えがなかったら、どんな幸せの中にあっても私たちは本当の意味で立つことができないし、逆にもし『神が味方なら』、その支えがあるならば、どんな苦しみにも悲しみにも耐えられる」。感傷的になって申し訳ありませんが、このカルヴァンの言葉を読んだとき、なんだか泣けてきました。自分のことを忘れたわけではありませんが、しかしまた同時に、いろんな人のことを一挙に思い出さずにおれなかったからです。もしも、万が一、神が味方でなかったら、ほかにどんなにたくさんの味方を集めたって意味がないし、けれども「もし神が味方なら」、どんなに苦しいことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、決して倒れることはありません。くどいようですが、そのことを日々確かめていくための信仰生活です。寝ても覚めても、たとえ枕を涙で濡らすようなことがあったとしても、「神が味方なら、どんなことがあっても」。この神の愛を信じているから、私どもは立てるのです。

■そしてそういうときに、ひとつ忘れてはならない、大切なことがあります。「神が味方なら」、どんなことがあっても……その「どんなこと」の中には、結構いろんなことがあるものです。先週は神奈川連合長老会の講壇交換で、横浜指路教会の川嶋牧師がここで説教してくださいました。その説教の中でも川嶋先生がお話しになったと思いますが、年に一度の神奈川連合長老会の講壇交換では、すべての教会で同じ聖書の箇所を読みます。それぞれの教会の牧師がいつもと違う教会に遣わされて、けれどもすべての教会で同じ聖書の言葉を聴きます。15年前、東日本大震災のあとから、そういう習慣が始まりました。

神奈川連合長老会の牧師会が、今年の講壇交換で共に聴くべき言葉はこれだ、と信じて選んだのは、マタイによる福音書第6章12節以下です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という、〈主の祈り〉の一節です。私も先週は浦賀教会でこの言葉を説教しました。その時から、既に本日28日の聖書の言葉がずっと頭の中でぐるぐるしていました。「神が味方なのだから」。その確信に立って、この祈りをすることができるでしょうか。「神さま、わたしに罪を犯す人がいます。でも神さま、あなたはわたしの味方ですよね。それなら、あの人をやっつけてください」とは、祈れないのです。なぜかと言うと、「神さま、わたしの罪を赦してください」。「神さま、もしあなたがわたしの味方なら、そのために御子をさえ惜しまず死に渡されたのであれば、どうか、まずわたしの罪を赦してください」。

こういうことは、案外昼間起きているときよりも、夜布団に入ってからのほうが祈りが深まるかもしれません。わたしに罪を犯す人がいます。そう簡単には赦せません。ますます眠れなくなってきます。そういうときに、「イエスさま、なぜあなたは、何のために、今もわたしと一緒にいてくださるのですか?」「あなたの味方になりたいからだよ」という主イエスのみ声を聴くとき、私どもはやっぱり、どんなに時間がかかっても、主が教えてくださったとおりに祈らないわけにはいかなくなるのです。

「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。神はわたしの味方だから、だからこそわたしの罪を赦してくださる。どんな罪でも、赦してくださるのです。まさしくそこで知ることは、わたしに罪を犯したあの人のためにも、神は味方になってくださるのです。そのことを明らかにするために、ここでパウロは、「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」と言うのです。「惜しまず」、「私たちすべてのために」、神はその独り子の命をお与えになりました。神が私どもの味方になってくださったというのは、そこまでのことを意味したのです。その神の愛の中で、当然生まれるはずの祈りが、〈主の祈り〉という形で与えられているのです。

■「神が味方なら」という、この言葉について、これは仮定の文章ではないと申しました。多くの人がそういう説明をします。「事実、神が味方なのだから」。そう読んだほうがよい。それはその通りです。けれども、決して忘れてはならないことは、最初からそうだったわけではないということです。今は神が味方だとしても、過去においてはそうではありませんでした。そのことについて、第5章では、「わたしたちは神の敵であったのだ」と、そこまで言うのです。第5章の6節以下をそのまま朗読するのがいちばんだと思います。

キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。

このキリストのみわざを前提として、「今や、神が味方なのだから」と言うのです。そして今も、私どもは毎日の信仰生活を、このキリストのみわざを前提として造っていきます。寝ても覚めてもキリストと共にあり、このお方に愛され、だからこそこのお方を愛する生活です。そうして繰り返し、「神は私の味方だから」と、神の愛を自らの魂に刻み込んでいくのです。

■そこで、最後に34節を読みます。「誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです」。神がわたしの味方なのですから、誰もわたしを罪に定めることはできません。その理由をここでもうひとつ、「キリストが執り成してくださるからだ」と言います。寝ても覚めても、私どもはこのお方のことを忘れることはできません。布団の中に入っていたって忘れることができないことは、このお方がわたしの罪のために死んだこと、否、むしろ復活させられたこと。けれども話はそこで終わりません。このお方が「神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです」。必要なら、毎朝でも毎晩でも、主イエスに問い続けてみればよいと思います。「イエスさま、あなたは何のために、今わたしと一緒にいてくださるのですか?」「あなたの味方になりたいからだよ」。そのために主イエス・キリストは、わたしのためにも、わたしに罪を犯した者のためにも、神の前で執り成していてくださるのです。

ルカによる福音書第23章34節の伝える、十字架上のキリストの言葉をも思い出します。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。ご自分を十字架につけ、その周りでひたすら悪口を言い続けた罪人たちのために、主はそのように祈られました。今、私どものためにも、同じように執り成してくださるのです。「父よ、どうかこの人を赦してください。この人の罪を、これ以上責めないでください。わたしがこの人のために、この人に代わって死んだのですから」。このお方に愛され、このお方を愛するがゆえに、私どももまた隣人に対して、わたしに罪を犯す人に対してもなお、広やかな心に生きることができるのです。お祈りをいたします。

 

天にあるものも地にあるものも、どんな被造物も私どもを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。父なる御神、今もいつも、そのような者として私どもを生かし抜いてください。日々丸太のように重い罪を犯しながら、そのくせ隣人のおが屑のような過ちに我慢ができない私どもです。どうか憐れんでください。「神が味方なら」と、あなたの愛を、何度でも心に刻ませてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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