神のえこひいき
ローマの信徒への手紙 第9章6-18節
川崎 公平

主日礼拝
■「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」(13節)。これは、先ほどローマの信徒への手紙とあわせて読みました、旧約聖書のマラキ書からの引用です。ここでの「私は」というのは、「神は」ということです。「神は、ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。いったい、どういうことでしょうか。おそらく多くの方が、いくら何でもこの言葉は受け入れにくいと感じておられると思います。「いや、なんで? 神はすべての人を分け隔てなく愛してくださるんじゃないの?」それで今日の説教の題を「神のえこひいき」としました。えこひいきというのは、どう考えても悪い意味の言葉です。ところがこの13節は、神がえこひいきをなさる方であることを、あからさまに表明しているかのようです。
そこに当然生まれるはずの問いが、すぐさま14節に続きます。「では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない」。……「決してそうではない」と言われて、「あ、そうなんですね」と引き下がる人はひとりもいないでしょう。なぜ神は、こんな不当なえこひいきをなさるのでしょうか。それでも神に不正はない、ということであるならば、このような神の正しさを私どもはどう受け止めるべきなのでしょうか。今朝は、この一点に集中して礼拝をしたいと思います。
■ここにヤコブとエサウという双子の兄弟の名前が出てきます。今「ヤコブとエサウ」という順番で申しましたが、エサウのほうがお兄さん、ヤコブは弟です。たとえ双子であっても、どちらかが兄であり、兄でないほうが弟になる。今や令和の時代、長男かどうかということがそんなに深刻な意味を持つことはなくなってきたかもしれませんが、昔は長男と言えばそれだけでかなりの特権を与えられました。この双子の物語でひとつ面白い話は、母親のおなかの中で既に押し合いへし合い、喧嘩していたというのです。そして遂にふたりが生まれたとき、まずエサウが先に生まれた。あとから出て来たヤコブは、エサウのかかとをつかんでいたと言うのです。それで、「かかとをつかむ」という意味を持つ「ヤコブ」という名が付けられたと聖書に書いてあります。ちょっと面白いですね。日本語にも「人の足を引っ張る」という言い方がありますが、旧約聖書のヘブライ語にも同じような表現があるらしい。それがそのまま「ヤコブ」という名前になりました。
この出産の時のエピソードに象徴されるように、ヤコブはエサウの足を引っ張り続けました。そして遂にある時、父親を騙し、兄を騙して、ヤコブは長男の特権を奪い取ることに成功するのです。このあたり、この旧約聖書の物語を延々と紹介するいとまはないのですが、どこをどう読んでも、ヤコブのほうが悪いんです。エサウは、何も悪くないのです。おそらくほとんどの人は、特にほとんどの日本人は、ヤコブよりもエサウの味方をしたくなると思います。ところが、聖書が単純に告げることは、神の祝福を受け継いだのはヤコブであってエサウではない。なぜか。ヤコブが賢かったからではない。ヤコブの作戦が見事に成功したからでもない。神が最初からそうお決めになっていたからだ。「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」。……いやいや、そんなひどい話があるか。そんなひどいえこひいきが、どうして許されるんだ。ところが聖書はこう答えるのです。
では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない。神はモーセに、
「私は憐れもうとする者を憐れみ
慈しもうとする者を慈しむ」
と言っておられます。(14、15節)
それが神の正しさだ、神に不正なんかないと言うのですが、いったい誰がこんな理屈に納得するだろうかと思います。
■なぜパウロはここでこんな話をしているのでしょうか。ひとつ忘れてはならないことは、ここでパウロは、一般的な原理を述べているのではないということです。「神とはこういう方である。神の救いとは、こういう筋道のものである」という議論を机の上でしているのではなくて、パウロの目の前で起こっている現実を、そのまま語っているのです。その現実というのは、神に愛されたイスラエル、すなわちユダヤ人が、イエス・キリストを受け入れようとせず、パウロが宣べ伝えているキリストの福音を受け入れようとしないということです。イスラエルは、神に特別に選ばれた神の民であるはずなのに、なんでだ。
明らかにここでパウロは、そのイスラエルの人びとを兄エサウになぞらえています。なぜかと言うと、全人類の中でイスラエルは、兄中の兄、長男中の長男だからです。だからこそユダヤ人は――現代に至るまでそうだと言っても過言ではないわけですが――われわれこそが神の祝福を受け継ぐのだという特権意識に生きておりました。「神の祝福を受けるのは弟どもではない。兄であるわれわれが、神の祝福を独占するのだ」。そういうユダヤ人・イスラエルの選民意識、繰り返しますが現代に至るまでそういう特権意識が生き続けていることを私どもはよく知っているわけですが、それはある意味では正しいのです。ユダヤ人・イスラエルは、神に愛され、神に選ばれた神の民です。だからこそイエス・キリストもまた、ユダヤ人のひとりとしてお生まれになりました。ところがその主イエス・キリストが神の救いの筋道を明らかになさったとき、たとえば、〈放蕩息子の譬え〉のような話をなさったとき、ユダヤ人はこの神の救いの物語を頑として受け入れようとしませんでした。
新約聖書のルカによる福音書第15章に、〈放蕩息子の譬え〉と言われるたいへん有名な話があります。主イエスご自身が、神の救いとはこういうものだと、その筋道を鮮やかに物語ってくださいました。ある人のところにふたりの息子がいた。これまた兄と弟の物語です。再度念を押しますが、この話の中でも兄はひとつも悪くないのです。どこをどう読んでも兄はひとつも悪くない。徹底的に悪いのは弟のほうです。その弟がどういう悪さをしたかというと、相続財産の生前贈与をしてもらって、そのとたんに家を飛び出して行って放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たし、飢え死にしそうになったところでようやく我に返って家に帰る、という話です。ところが父親は、すべてを赦して、まるですべてを水に流すかのように、この弟息子を家の中に迎え入れ、それどころか、誰も見たことのないような贅沢な宴会を始めたというのです。それを知った兄は、怒りに震えます。「どうしてあんな弟が、こんなに愛されるんだ。こんなえこひいきが、許されるわけないだろう」。本当は、父親は、兄のことも愛していたに違いない。事実、この父親は兄をなだめて、「お前も家の中に入りなさい。お前の弟が生きて帰って来たんだぞ。一緒に祝おう」と言ったのですが、兄はこの神の愛を受け入れることができませんでした。
「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」というのは、たとえばそういうことです。ここでひとつ注を付けると、「憎んだ」という言い方は、必ずしも文字通りの意味に取る必要はありません。創世記のヤコブとエサウの物語を読んでも、別にエサウが神に憎まれたとか、そのせいでひどい目に遭ったとか、そんな話はひとつもありませんし、あの放蕩息子の譬えにおいても、兄は決して神に憎まれてなどいないのです。兄もまた、愛されていました。けれども、兄息子自身は、どうしても神の愛を受け入れることができませんでした。兄息子の台詞をそのまま引用します。
「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」(ルカによる福音書第15章29、30節)。
「そんなの、おかしいじゃないですか。どうしてお父さんは、あんな弟を愛して、ぼくを憎むんですか。こんなの、えこひいきじゃないですか」。そうです、えこひいきかもしれません。けれども、神は、それでも、どんなことがあっても、自分の息子を愛したかったのです。
■それにしても、「憎む」という聖書の言葉に、やっぱり引っかかるという人がいるかもしれません。そこで大切なことは、「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」というこのマラキ書の言葉にきちんとさかのぼって理解することだと思います。
私はあなたがたを愛してきた――主は言われる。
しかし、あなたがたは言う
「どのように愛してくださったのか」と。
エサウはヤコブの兄ではなかったか――主の仰せ。
しかし、私はヤコブを愛し
エサウを憎んだ。
神がなぜこのようなことを言わなければならなかったかというと、これに先立つやりとりがあったからです。つまり、「私はあなたがたを愛してきた」と主は言われるのに、われわれは納得できないのです。「どのように愛してくださったのか」。「わたしはまだ納得していませんよ? 神よ、あなたが愛だとおっしゃるなら、わかるように説明してくださいよ」と文句を言っているのです。こういう頑なな私どもの心を、神がどんなに懇ろに扱ってくださるか、その神の思いをよく考えるべきであります。
そこで、神はこう言われるのです。「エサウはヤコブの兄ではなかったか」。けれども、その本来の順序を曲げて、わたしはあなたがたを愛したのだ。あなたがたの先祖であるヤコブすなわちイスラエルは、何の取り柄もないのに、むしろ悪いことしかしなかったのに、それでも神に愛されて……。神は、どんなえこひいきをしてでも、ヤコブを愛したかったのです。なぜそのわたしの思いがわからないのか、というのが、このマラキ書の主旨です。
■少しずつ皆さんにもアピールを始めていますが、今年の11月は伝道月間と称して、特に11月の15日には青山学院大学の塩谷直也先生を説教者として迎えます。お察しの通り青学出身の柳沼先生のつてで来てくださるわけですが、私も昔からこの塩谷先生の文章がとても好きでした。おそらく塩谷先生の最初の著書だと思いますが、『迷っているけど着くはずだ』という本があります。その中に、ご自身の小学4年生の時の話が出てきます。小学生の頃、いつも通知表に「生活態度が悪い、落ち着きがない」という否定的なことばかり書かれていたのに、どういうわけか4年生の時の担任のO先生は違った。何かというと自分のことをほめてくれる。持ち上げてくれる。それはどうも具合が悪いくらいで、同じ小学校に6年間通ったはずなのに、「あのO先生と過ごした1年間だけは、別の小学校に通っていた気がしてならない」とまで書いています。その4年生の時の話として、たとえばこんな話を書いておられます。
こんなことがあった。先生の机に、僕を含めた何人かの生徒がガヤガヤと集まっていた。実は先生はその中のある子を誉めていたのだが、その時、先生はチラリと僕を見た。きっと彼女は僕の目に、燃え上がる妬みの炎を見たのだろう。突然こう切り出した。
「塩谷君の黒髪はきれいだなあ」。
本当に美しい髪だったのか、それともよっぽど誉めるところがなくて苦しまぎれに出た言葉だったかは、ここでは立ち入らない。ただ、僕はそれを聞いてすこぶるご機嫌になり、もう張り切ってこう答えたのだ。「だって先生、僕はいつもワカメ食べちょるからね」。馬鹿な子である。先生も「髪がきれい」と言っただけで、これだけ喜ばれ当惑したことだろう。
先日、そんな小4の頃の友達と再会した。自然とO先生の話題になった。私は「あの先生、僕をひいきしていたかもな」と言った。すると彼は不思議そうに答えた。「いや、多分あの先生は、俺をひいきしてたと思ったけど?」おかしな話だ。どうも彼女は、「先生は自分だけが好きで、ひいきしてるんだな」と皆に思わせる先生だったようだ。きっと皆、あの人から「髪がきれい」とか言われたのかなあ。ちょっぴり悔しいけど、ま、いいか。楽しかったしね。「髪がきれい」という言葉、それをたとえ全クラスの人に言ったとしても、それで私の喜びは減りはしない。先生、あなたは忘れたかもしれないけど、僕はあの一言が決定的だったのです。あの日以来、私の人生の色合いは確かに変わったのですよ。
「人生の色合い」って、いい言葉ですね。自分は何も変わっていない、はずなのに。相変わらず生活態度は悪い、落ち着きもないかもしれない、はずなのに。それでも自分は愛されている。「きみの髪はきれいだなあ」。たとえそれが、ほかにほめるところがなくて困った上での言葉であったとしても、その深いところには、根本的な愛があって、無条件の愛があって、その愛に触れたら、人生の色合いが根本的に変わるのです。
神の愛って、きっとそういうものだと思うのです。われわれだって、神からご覧になったら、ほめるところがひとつもなくて、神さまもお困りかもしれない。「困ったな、こいつのことは、何をどうやってほめたらいいのかな……」。それでも、神は私どもをえこひいきして愛してくださるのです。そういう神のえこひいきがなかったら、私どもは決して救われないのです。
■これまた他人の文章の引用で恐縮ですが、横浜指路教会の藤掛順一牧師がこの箇所についての説教の中でこういうことを言っておられます。
……神が私を愛し、えこひいきして下さっているのは不義でしょうか。正しくないことでしょうか。しかしもしも神が一切えこひいきをせず、私たちが満たしている条件をきちんと判定して、それに従って、十の者には十の、八の者には八の、五の者には五の恵みや救いをお与えになるのであればどうでしょうか。私たちは誰一人として救われないのではないでしょうか。滅びるしかないのではないでしょうか。神が、私たちの側の条件を一切無視して、えこひいきをして下さったからこそ、私たちは救われるのです。
これ以上、何の説明も必要ないと思います。この神のえこひいきの典型的な姿が、あの放蕩息子の譬えの中に描かれているのでしょう。それがそのまま、私自身の話なのだということがよくわかったら、私どもの人生の色合いもまた、根本的に変わるのです。
先ほど紹介した塩谷先生の文章の題は、「どこにいても――神の国」です。神の国、言い換えれば天国です。「天国ってどんな場所なんでしょう。どこか遠い異国だろうか。死んでから行くあの世のことを指すのか。それとも努力によって、この地上に造り出すものだろうか。いや、天国とは常に身近に、突然出現するものじゃないか。あの小4のクラスのように」。「どこにいても」であります。いつ、どこにいても、私どもは神の愛の中にいます。神の民イスラエルは、そのことを証しするために神にえこひいきされるように選ばれたのですし、今ここに教会が生かされているのも、この神の愛の証しのためでしかないのです。お祈りをいたします。
父なる御神、今ここに私どもが集められているのも、あなたのえこひいきの結果でしかありません。どこにいても、どんなときにも、私どもはあなたの愛の中にいるのですから、その全生活をもって、あなたの愛を証しさせてください。喜びの時には感謝し、不幸の中にあっては忍耐し、将来のことについてもただあなたに信頼する者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン








