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神の忍耐と、寛容と

2026年8月23日

ローマの信徒への手紙 第9章13-29節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■予告していた聖書の区切りを少し変更して、ローマの信徒への手紙第9章の13節から29節までを読みました。これはなぜかと言うと、8月に入ってから既に2回の礼拝で第9章の6節から18節までを読んだ。けれども結局、その最後のほうの言葉にはほとんど触れずに終わってしまったからです。たとえば18節。「このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです」。ちょっと、聞き捨てならない言葉です。そしてもうひとつ、特に今読みました18節などは、そのあとの19節との関連で理解しなければならないと思いますので、少し長すぎるかもしれない箇所を、一気に読みました。

そこで改めて、この部分の話の流れを確認しておきたいと思います。先週の礼拝では、13節を中心に、「神のえこひいき」という題で説教しました。「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」と書いてあります。ここでの「私は」というのは、「神は」ということです。「神は、ヤコブを愛し/エサウを憎んだ」。これまた聞き捨てならない言葉で、ひどいえこひいきです。その通り、神はえこひいきをなさるのだ。けれどもそこで忘れてはならないことは、もしも神がえこひいきをしてくださらなかったら、私どもの誰も決して救われることはないということです。いつもテストで0点しか取れない私どものことを、けれども神はえこひいきしてくださって、「きみは100点ってことにしてあげるから。特別だよ」。私どもがどんなに罪深くても、その本来の筋を曲げてでも、神は私どもを愛してくださる。えこひいきしてくださる。そういう説教を、先週の礼拝でしたのです。

■その先週の礼拝のあと、説教を聴き分かち合う会という集会をしました。15人くらい集まったでしょうか。なるほど、われわれは皆、神にえこひいきされて、神に愛されているんだ。それはわかる。そこまではわかった。でもやっぱり疑問が残る、という率直な意見が出ました。「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」。では、エサウはどうなるんだ。先週の説教で、この「憎む」というのは必ずしも文字通りに取らなくてもいいのだ、という説明をひと通りしたつもりですが、その程度の説明じゃあ、やっぱり納得いかないのです。それなら、結局ひいきされなかったほうの人たちはいったいどうなるんだ。15節以下に、こう書いてあります。

神はモーセに、
「私は憐れもうとする者を憐れみ
慈しもうとする者を慈しむ」
と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。

これはまるで神さまが、「俺のしたいようにして何が悪い」と開き直っているかのようです。そんなこと言われたら、やっぱり私どもは納得できないのです。その疑問は、17節以下を読むとますます深まります。

聖書はファラオに、「私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、私の名を全地に告げ知らせるためである」と言っています。このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。

それなら、その頑なにされた人はどうなるんだろう。ファラオが今も地獄で苦しんでいたって、それはまあどうでもいいけど、でもやっぱり気になることは、選ばれていない人は、どうなるんだろう、ということです。絶対に洗礼なんか受けそうもないわたしの家族はどうなるんだろう。とうの昔に死んだおじいちゃん、おばあちゃんはどうなるんだろう。

■ローマの信徒への手紙第9章以下を読むときに、ひとつ非常に大切なことがあります。このような聖書の言葉を根拠にして、〈予定論〉という教会の教えが確立していきました。「予定」というのはつまり、誰が救われるか、たとえばこのわたしが救われるかどうか、それを決めるのは人間ではなく、神がすべて最初から予定しておられるのだ、ということです。この神の予定を言い換えて、〈神の選び〉とも言うこともあります。「この人を救おう」と、神が予め選んでくださったから、このわたしも救われたのだ。わたしが神を選んだのではない。神がわたしを選んでくださったのだ。それはもうわたしが生まれる前から、それどころか天地創造の初めから、神はわたしを選び、愛し、救いのうちへと予定してくださったのだ。

けれども、この予定論という教会の教えは、実にしばしば誤解されてきました。その誤解のひとつは、誰が救われるか、誰が滅びるかは全部最初から決まっているのだから、人間が何をしようと無駄だ。どんなにでたらめなことをしても、最初から救われると決まっている人は必ず救われるし、逆に最初から滅びに定められた人は、どうあがいても無駄だ。もしもそうだとすると、私どもの教会が伝道に励んでいることも全部無駄だということにさえなりかねません。

けれども、神の選び、神の予定というのは、そういうことではありません。決して、そうではないのです。しかし、それなら、どういうことなのでしょうか。ここでパウロは、いったい何を言おうとしているのでしょうか。

■既に何度もお話ししたことですが、ローマの信徒への手紙第9章から第11章までの大きな主題は、〈イスラエルの救い〉です。神に愛され、特別に選ばれたイスラエル、それはつまり要するに、神にえこひいきされたイスラエル、すなわちユダヤ人、ところがよりにもよってそのユダヤ人が誰よりも激しくイエス・キリストを憎み、誰よりも頑なにキリストの福音を受け入れようとしないのです。なぜだ。このようなことは、先ほど言ったことの繰り返しになりますが、われわれもやっぱり気になるのです。あの人は、どうなるんだろう。あの人、すごい頑なだけど、やっぱり選ばれていないのかな。天地創造の初めから、神に見捨てられることが決まっちゃっているのかな。

そこでパウロが具体例として取り上げるのは、旧約聖書の出エジプト記に出てくるエジプトの王ファラオです。出エジプトの物語については、どこかで聞いたことのある人も少なくないと思います。ユダヤの民イスラエルは、430年間という長きにわたって、民族全体がエジプトの奴隷であり続けた。ところがあるとき神は、この奴隷状態からイスラエルを救い出そう、ファラオの圧迫から逃れさせようと決断なさいます。ところが、まさしくこのあたりが出エジプトの物語の中でいちばんおもしろいというか、スリリングというか、むしろ呆れてしまうほどの話で、どうしてもイスラエルを手放したくないファラオの心がどんなに頑なだったか。いや、もう、人間というのはここまで頑なになれるものなのか。それは驚くべきものがあります。

しかし、なぜパウロはここでファラオの話を始めたのでしょうか。明らかにここでパウロは、自分が直面しているユダヤ人の頑なさを、ファラオの頑なさと重ね合わせています。それは、キリストを十字架につける頑なさであり、キリストの教会を迫害する頑なさです。かつてパウロ自身が、そのような頑なさの中にあったのです。

そして、ここからが大事です。そのユダヤ人の頑なさ、あるいはパウロ自身のかつての頑なさが、ファラオの頑なさとどのように重なるかというと、実はその頑なさは神のご計画のうちにあったと言うのです。もう一度17節以下を読みます。

聖書はファラオに、「私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、私の名を全地に告げ知らせるためである」と言っています。このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。

■そうすると、当然問いが生まれます。19節ですかさずこう言うのです。「そこで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか』」。これは、おそらく誰もが気づく素朴な疑問だと思います。つまり、ファラオが頑なになったのは、自分でそうしようと思ったわけではない、そうではなくて神の計画通りにファラオが頑なになったのであれば、そのファラオの頑なさ、あるいは罪深さは、ファラオの責任ではない。こんな頑なな王に誰がしたのか。神さま、それはあなたがそうなさったのではないですか、神さまの責任ではないですか、という当然の疑問が、19節に言い表されているのです。

このあたりに、先ほど申しました、予定論という教えに対する誤解の中心点がよく表れていると思います。つまり、誰が救われるのか、そして誰がファラオのように頑なになるのか、最初から全部神が決めておられるなら、どうしようもないじゃないか。「神の御心に誰が逆らうことができようか」と書いてあります。結局、ファラオも含めて、誰も神の御心に逆らってなどいないではないか。全部最初から神さまの段取り通りに事が進んでいるだけだ。つまり、全部神さまのせいだ。けれどもそれは正しい聖書の読み方ではありません。聖書の教える予定論というのは、そういうものではありません。

特にここで大切な意味を持つのは第9章2節です。既にパウロは第9章の最初のところでこう言っているのです。

私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。

なぜ神に愛されているはずのイスラエルが、こんなに頑なになってしまったのだろうか。「それも神のご計画だというのなら、しょうがないですね」というわけにはいかないのです。「神さま、それなら、わたしを代わりに呪ってください」とパウロは言うのです。それは、最初から全部決まっているのならしょうがない、という態度とは真っ向から対立するものです。

■ところがパウロは、さらに20節以下にこう続けます。「神の御心に誰が逆らうことができようか」というこの疑問に答えて、こう言うのです。

ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。

これも、ひとまずは、なるほどと思います。なるほど、確かにそうだ。人間は、神がお造りになったものです。そうであれば、神が誰をどのように造ろうが、それは神さまの自由じゃないか。「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか」。確かにそうです。けれども、私どもはそう言われたって心の底では納得しないのです。むしろ、こういう言葉を聞かされると、私どもの心はそれこそますます頑なになるかもしれません。どうして神さまは、こんなふうに自分を造ったんだろう。もうちょっといい感じに造ってくれたらよかったのに、と言いながら、他人と比べてひがんだり、ねたんだり、逆に傲慢になったり。あるいは他人についても、神さま、あの人はどうしてあんなにわがままなのですか。ああ、なるほど、神さまが同じ粘土の塊から、ああいう卑しい器を造られたんですね。……なんだか、いつの間にか、聖書の心からどんどん離れていくようです。そこで大切な意味を持つのは22節です。

神が怒りを示し、ご自分の力を知らせようとしておられたが、滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうでしょうか。

ここに「怒りの器」と書いてあります。このわたしがひとつの器だとすると、その器には怒りの心が山盛りに盛られていて、いつも怒ってばかりいる、という意味ではありません。22節の最初に「神が怒りを示し」と書いてあるように、私どもが神の怒りを受けなければならない存在だということです。ところが、そういう怒りの器がどうして捨てられずにすんでいるかというと、それは神が「大いなる寛容をもって耐え忍ばれた」からだと言うのです。

「怒りの器」とは、いかにも厳しいものの言い方です。いくら何でも言葉がきつすぎると、反射的に拒否反応が起こりそうです。けれどもここでパウロは、机上の空論をやっているのではありません。誰か他人の話をしているのでもありません。頑なにされた者、それはわたし自身だ。怒りの器、それは自分自身だ。その怒りの器が、神の忍耐と寛容によって、今このように生かされている。それが神の計画だ。

■もともと、教会の迫害者であったパウロです。そのパウロが聞き取った福音の中心がこの22節にあると言っても言い過ぎではないと思います。あれだけ頑なにされたファラオも、実は神の計画のうちにあったのだ。そして、ファラオに負けず劣らず頑なになって、キリストの教会を迫害したパウロないしサウロも、等しく神のご計画のうちに置かれていたのです。それは決して、人間の責任をなかったことにするのではありません。パウロ自身、自分がかつてイエスさまの教会を迫害したことを、どんなに悔やんだことでしょうか。ところがそのような「滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうでしょうか」。23節ではさらにこう言うのです。

それも、栄光を与えようと準備しておられた憐れみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせてくださるためであったとすれば、どうでしょうか。

神の怒りを受けるべき「怒りの器」に対して、23節で語られるのは、神の憐れみを受けるべき「憐れみの器」です。くどいようですが、こういう誤解をしてはなりません。「神に選ばれて救われる〈憐れみの器〉と、棄てられて滅びる〈怒りの器〉と、神が予定されたこの区別は最初から決まっていて、この運命を人間が変えることはできないのだ」。ここでパウロが語っていることはそういうことではありません。むしろまったく正反対です。怒りの器でしかなかったこのわたしを、神は「大いなる寛容をもって耐え忍ばれた」。怒りの器を、憐れみの器として扱ってくださるのだ。パウロは、自分自身が、まさしくそのような扱いを神から受けたことを確信しておりました。「このわたしが、選ばれたのだ。この怒りの器を、だからこそ神は選んで、憐れみの器に変えてくださったのだ」。

すべては神のご計画の中で起こったことです。頑なな心を、必ず柔らかな心に変えてくださる神のご計画です。その神の憐れみを信じるからこそ、パウロは愛するイスラエルのためにこう祈ったのです。「神さま、どうしてあなたの愛するイスラエルが、ここまで頑なになったのでしょう。どうか神さま、わたしにしてくださったように、あの人たちの頑なな心を柔らかな心に変えてください。そのためなら、わたしが代わりに地獄に落とされても構いません」。——教会の伝道というのは、そのような祈りから始まるものだと思うのです。

■パウロはしかし、そう言いながら、頑ななイスラエルのために呪われるのは、本当は自分ではないと知っていました。同じ手紙の第5章で既にパウロが書いたことは、キリストがわたしのために死んでくださったということです。神の敵でしかなかったわたし、神に呪われるべきこのわたしのために、キリストが死んでくださったのだ。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです(第5章8~10節)。

このキリストの死に贖われて、パウロ自身が救われたのです。「いちばん頑なな者が救われた。それが、わたしだ」。だからこそ、このイスラエルのためにわたしも命をささげるのだという志があったと思います。

先月7月26日の礼拝で、讃美歌502番を歌いました。それからしばらくして、ある方から、「川崎先生は、502番が好きですね」と言われました。うーん、そうかなあ……少し気になって、私が鎌倉雪ノ下教会の牧師になってから17年の間に日曜日の礼拝で502番を何回歌ったか調べてみました。12回しか歌っていませんよ? でも、「好きですね」ということがばれたということですね。きっと、ここぞというときにこの讃美歌を選んでいるのでしょう。本当を言うと、今日の礼拝でも502番を歌いたかったのですが、あまり頻繁に同じ讃美歌を歌うのもどうかと思って避けました。なぜ今朝歌うわけでもない讃美歌の話を始めたかというと、この讃美歌502番は、ローマの信徒への手紙第9章以下の心をよく歌っていると思うからです。だからこそ7月26日、この第9章を読み始める日の礼拝で502番を歌ったし、これから数ヶ月の間に、また何回かこの502番を歌うことになるかもしれません。

「いともかしこしイエスの恵み」と歌い始めます。今ここにわたしが生かされているのは、ただただキリストの恵みによるのだということを、ひたすら歌います。この讃美歌の中でとりわけ心を打たれるのは、最後の節で「あるに甲斐なきわれをも召し」と歌うところです。「あるに甲斐なき」、もっとはっきり言えば、このわたしが神の敵でしかなかった、怒りの器でしかなかったということです。けれども、そんなわたしが神の憐れみを受けたのであれば……この讃美歌は最後にこう歌うのです。「たれか洩るべき 主のすくいに」。誰が主の救いから洩れてよいだろうか。その確信が、パウロにはあったと思います。「このわたしが救われたのだから。いちばん頑ななこのわたしが」。

私は明日から夏休みをいただいて、来週の日曜日にはここにおりません。その次の日曜日には、またここに立たせていただいて、その日には振起日を記念して洗礼入会式を行います。「振起日」、奮い立つと書くのですが、私どもは決して自分で立つのではありません。あるに甲斐なきわたしが、だからこそ、ただ恵みによって立つのです。そうであれば、「たれか洩るべき 主のすくいに」。キリストの恵みをひたすらに信頼しつつ、伝道の志をみ前にお返ししたいと願います。お祈りをいたします。

 

ただ恵みによって、ただあなたの憐れみに救われて、ここに立ちます。頑なな私自身の心を嘆きつつ、また今なおあなたに対して頑ななこの世界であることを、この国であることを思います。あなたの忍耐と、寛容とを信じて、私どもも辛抱強く伝道の志に立ち続けることができますように。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン

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