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無効にならない神の救い

2026年8月2日

ローマの信徒への手紙 第9章6-18節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■先週の日曜日から、ローマの信徒への手紙第9章に入りました。先週も、そして先ほども聖書朗読をお聴きになりながら、「いったい何の話だろう」と、つい眉間にしわが寄ってしまった方もあるのではないかと思います。まあ、もしかしたら既に第8章までの部分でも、「ロマ書って難しいなあ」という感想があったかもしれませんが、それにしても第9章に入って、いよいよ意味がわからなくなってしまったかもしれません。

この第9章から第11章までが、ひとつの区分になります。その主題をひと言で言えば、〈神の民イスラエルの救い〉ということです。それは、どうも、私どもの生活とは何の関係もなさそうです。けれども、先週の礼拝でも申しましたが、もしかしたらこの手紙を書いた伝道者パウロが、実はいちばん書きたかったことが、この第9章以下であるかもしれません。

その大きな区分の中心主題、あるいは中心命題が、先ほど読みました第9章の6節です。「しかし、神の言葉が無効になったわけではありません」。神の言葉は無効にならない。そのことを明らかにするために、わたしパウロはこの手紙を書いたのだ。

■私がローマの信徒への手紙を説教するために、いろんな参考文献を読みあさるわけですが、ひとつ皆さんにその存在を知っておいていただいてもよいと思うのは、ワルケンホーストというドイツ人の註解書です。ドイツ人の書いた本ですが、ドイツ語の本ではありません。ドイツ語からの翻訳でもありません。ドイツ人が、日本語でロマ書の註解を書いた。長く上智大学で教えた先生で、実は私も東京神学大学で少しだけこの先生からシリア語という珍しい外国語を習ったことがあります。このドイツ人の先生が日本語でロマ書の註解を書いたのですが、全部で4巻。興味深いことに、この4巻のうちまず第3巻、第9章から第11章までの部分を最初に刊行されました。そのことにも、ワルケンホースト先生の特別な思いが込められていたようです。

その第3巻のあとがきに、こういうことを書いておられます。「なぜ、イスラエルについて書くのか」。「そこで、少し個人的なことを説明したいと思う」。「私がドイツ人であることが、このような本の特色に強い影響を与えているのは確かである。つまり、私はイスラエルを迫害した民族に属している」。ご自身もまたドイツ陸軍で働かされた経験に触れながら、「戦争が終わったら、必ず聖書を勉強しよう」と決意したと書いています。もともとプロテスタントの方ですが、思うところがあったようで、カトリックに改宗されます。「戦争後のドイツの状態を恥ずかしく思った私は、イスラエルに対して犯したドイツ人の罪をあがなう生活を送りたいと考えた」。それは、よく日本人が口にする「罪滅ぼし」などというようなものではなかったと思います。「イスラエルとは、いったい何か」。そのことを、自分の人生をささげて明らかにしたい。

延々とワルケンホースト先生の紹介をするわけにもいかないのですが、とりわけ私が心を打たれたのは、そのあとがきの結びの言葉です。「目的はただ一つだけである。すなわち『みことばは無効にならない』というパウロのメッセージをきょうもあしたも日本人に宣教したいのである」。私がワルケンホースト先生の註解書を読むとき、いつも心を打たれることは、「よくここまで日本語を習得してくださった」ということです。下手な日本人の文章よりもよほど力があります。生来の才能もあるのかもしれませんが、その根本にある願いは、「神の言葉は、無効にならない」。そのことを、「きょうもあしたも日本人に宣教したいのである」。それはただイスラエルという特定の民族のことを知ってほしい、ということではなくて、「日本人よ、イスラエルの物語を通して、どうかこのことを知ってほしい。神の言葉は、無効にならないんだ」。そう言われるのです。言い換えれば、「神の言葉は無効にならない」ということを証しするのが、イスラエルという神の民の存在だ、ということでしょう。

■しかし、なぜここで「イスラエル」などということが問題になるのでしょうか。これも先週の礼拝のくり返しのようになりますが、それは、伝道者パウロの実際の経験が土台にあります。パウロという人は、しばしば「異邦人の使徒」と呼ばれます。つまり、もっぱらユダヤ人以外の異邦人に福音を伝えた人だと受け止められることがありますが……私は思うのですが、パウロ本人がそのことを聞いたら、顔を真っ赤にして反論するかもしれません。「違う! わたしは異邦人の使徒なんかじゃない。わたしはどこの町に行っても、とにかく最初はまずユダヤ人にキリストの福音を伝えたんだ。救いは、まずイスラエルから始まるのだ」。けれども、パウロの意図に反して、結果としては、異邦人のほうがたくさんイエス・キリストの福音を受け入れて、それに対してユダヤ人は少数の例外を除いて福音に耳を傾けることなく、むしろますます教会を憎み、イエス・キリストを憎むようになってしまった。

こういうことは、おそらく私ども日本人にとっては、どうでもいいことかもしれません。「いや、もちろんユダヤ人もイエスさまを信じて救われてほしいけど、伝道ってうまくいくときと、そうじゃないときがあるよね」。けれども、それでは済まないのはなぜかというと、ユダヤ人、すなわちイスラエルは、神がお選びになった神の民だからです。「イスラエルはわたしの民だ。わたしが、この民を救う」と神がイスラエルを選んでくださったのに、そのイスラエルがイエス・キリストの救いを拒否しているとするならば、それは要するに、「神に選ばれても救われないことがある」ということになります。神の救いはあとから無効になることがあるのだろうか。「わたしは神に救われた」といくら自分で思っていても、それがあとからキャンセルされるということが、あり得るのだろうか。もしもそうであるならば、きっと皆さんもすぐにお察しくださると思いますが、私ども自身の救いだって、いつ無効になってしまうかわからないじゃないですか。

私どもはよく、「信仰によって義とされる」と教えられます。わたしたちが救われるのは、善いわざによるのではない。善い行いをすることによって救われるのではない。ただ信じるだけなんだ。それはもちろん、その通りです。「信じれば救われる」。「ちゃんと信じている限りは、救われる」。その信仰が揺らいだら、救いは無効になるのでしょうか。

ここでパウロは、はっきり言うのです。「神の言葉が無効になることは、ありません」。神の救いは、ただ神の恵みによります。ただ神の約束の言葉によります。その神の恵みの約束が、私どもの不信仰とか、私どもの反逆とか、私どもの罪深さによって無効になることは、絶対にない。それが、この第9章以下でパウロが言おうとしていることのすべてである、と言っても過言ではないと思います。

■きっと皆さんも、ここまで私の話を聞いてきて、なるほど、それはそうだと納得してくださったと思います。少なくともその理屈は理解していただけたと思います。「神の言葉は無効にならない」。ところが、この聖書の言葉をそのまま読み進めていくと、実は、実にわかりにくい文章が続きます。もう一度、6節、そして7節を続けて読んでみます。

しかし、神の言葉が無効になったわけではありません。〔なぜそう言えるのか。その根拠は何かと言うと、〕実際、イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません。

この文章は、何を意味するのでしょうか。ここでうっかり者は、このように早とちりしてしまうかもしれません。「要するに、血筋によるイスラエル人がすべて機械的に救われるのではなくて、本当の意味で神に選ばれているのは、実はイスラエルの中のごく一部の限られた人だけだ。イスラエル・ユダヤ人を名乗っていても、実はその大部分は偽物なんだ」。「実際、イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません」。

けれども、そう読んでしまうと、その少し前の2節以下のたいへん激しい言葉が、ほとんど意味を持たなくなります。「私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています」。イスラエルが救われるためなら、神よ、代わりにわたしを地獄に落としてください。このようなパウロの心の痛みは、「イスラエルを名乗る人の大部分は、実は偽物なんだ」というような屁理屈で乗り越えられるものではないでしょう。それだけではありません。もしも、神の救いがこういう屁理屈でいくらでも再解釈できるのであれば、「洗礼を受けた人が皆救われるわけではない。クリスチャンを名乗っていても、実はかなりの部分は偽物で、本物のクリスチャンはごく一部なんだ」という話にもなってしまいます。

そうすると、改めて問わなければなりません。「イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません」というこのパウロの言葉は、いったい何を意味するのでしょうか。

■少し話が飛ぶようですが、今から約40年前、当時この教会の牧師であった加藤常昭先生が、ロマ書の連続講解説教をなさいました。加藤先生の説教全集で読むことができます。この箇所の説教の中で、やはり現代のイスラエル問題に触れておられます。第二次世界大戦のあと、国連の助けもあって、二千年の時を越えてもう一度イスラエルという国家が誕生した。その背後には、ずっとユダヤ人を差別し、迫害してきたキリスト者たちの反省もあっただろう。けれども、問題はそんな簡単なものではない。「神のご計画はすばらしい、イスラエルをお救いになるという神のご計画が、遂にこのような形で実現したのだ」と、もろ手を挙げて喜ぶことができるわけではない。

そう言って、加藤先生がしばらくドイツに滞在していたときにたまたま聞いたラジオ番組のことを紹介されます。ドロテー・ゼレという女性の神学者がイスラエルを旅行した、その報告のような番組です。詩のリフレインのように語られた言葉は、「わたしの愛した国イスラエルはどこに行ったのか」。加藤先生の言葉をそのまま紹介すると、「私はその人が、マイクロフォンを前にして泣いているのではないかとさえ思いました」。「わたしの愛する国イスラエルはどこに行ったのか、わたしの愛する国イスラエルは今、世界の第二のアパルトヘイトの国になった」。アパルトヘイトというのは、少なくとも私より年上の方は皆ご存じだと思います。南アフリカという国家が、かつてたいへん残酷な有色人種差別を行った。加藤先生がこの説教を語られた40年前、もちろんまだアパルトヘイトは終わっていません。「イスラエルは、世界の第二のアパルトヘイトの国になった」。「他民族に対する侮蔑、憎悪の思いが養われている」。もちろんそれは、神がイスラエルをお選びになった目的は、そういうことではないはずだ、という嘆きの言葉であります。

加藤先生の40年前の説教を読みながら、きっと皆さんも同じ感想を持ってくださるだろうと期待しているのですが、40年という時の隔たりをまったく感じませんでした。まるで先週か先月あたりの誰かの説教を読んでいるような思いがいたしました。むしろ、南アフリカのアパルトヘイトはとうの昔に終わったのに、「わたしの愛する国イスラエルはどこに行ったのか、わたしの愛する国イスラエルは今や、世界で最後の、いちばんひどいアパルトヘイトの国になった」。

なぜそういうことになったのか。ひとつ火を見るよりも明らかなことは、そこに歪んだ特権意識があったということです。われわれは神に選ばれた、特別な国なんだ。世界でいちばん、われわれが偉いんだ。二千年前、伝道者パウロが悩んだことも同じことでした。そして、こういう歪んだ特権意識があるからこそ、イエス・キリストの福音を受け入れることができなくなったのです。キリストの福音を受け入れるということは、自分が罪人であるということを受け入れるということです。何の取り柄もない、むしろマイナスの価値しか持たない罪人が、ただ恵みによって、ただキリストの十字架によって救われるのだ。それが、イエス・キリストの福音です。けれどもその福音は、特権意識に凝り固まったユダヤ人にとっては、いちばん受け入れにくい教えでしかなかったのです。

それで、パウロは言うのです。「イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません」。それは決して、「あなたがたの半分以上は偽物だよ」という話ではないのです。そうではなくて、あなたがたは正真正銘のイスラエルなんだ。けれども、あなたがたがイスラエルであるという、その根拠はどこにあるのか。血筋によるのか。違う、そうじゃない。あなたがたが偉いからか。違う、そうじゃない。イスラエルから出たから、イスラエルなんじゃないよ。アブラハムがご先祖様だから自分も偉いとか、そんな話じゃないんだよ。ただ恵みによって、あなたがたは選ばれ、救われたんだ。その神の恵みが無効になることは、絶対にない。だからこそ、恵みは恵みなんだ。

■そのことを明らかにするために、パウロはさらに旧約聖書の話をします。そのあたりが、われわれにとってはいちばん理解が難しいところだと思うのですが、今日読んだところは、ひとつの読み方をするならば、「イスラエル」という名の由来をもう一度確かめていると言うことができます。「イスラエル」とは、そもそも何でしょうか。普通に考えれば、まず国の名前を考えます。現在、そのイスラエルという名を持つひとつの国を中心軸とするように、いろんな出来事が起こっているわけですが、もともとイスラエルというのは国の名前でもなければ民族の名前でもなく、ひとりの個人の名前です。今日読んだ13節に「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」とありますが、このヤコブとエサウというのは双子の兄弟です。エサウが兄、ヤコブが弟。その弟のヤコブのほうが、ある時「イスラエル」という別名をいただくことになります。イスラエルの信仰の父祖たちの名を、たいてい三人組で「アブラハム、イサク、ヤコブ」と呼ぶのですが、その三人目のヤコブの別名がイスラエルです。そのヤコブとは何者か。イスラエルとは何者か。そのことを、ここでパウロは改めて考えさせようとするのです。

先ほど読みましたように、13節には「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」と書いてあります。これはにわかには飲み込みにくい発言です。このときの「私は」というのは、「神は」ということです。神は、ヤコブを愛した。そして、エサウを憎んだ。神の救いのご計画はそのようにして進められるのだ、と言われるのですが、それはいくら何でも。どうして神さまは、そんなひどいえこひいきをなさるんだ、という疑問については、再来週の説教で取り上げたいと思いますので、しばらくお待ちください(ちなみに再来週の説教の題は「神のえこひいき」です)。今朝の礼拝では、まずそもそもなぜヤコブが愛されたのか、そのことに集中して考えてみたいと思います。

と言っても、ここでヤコブの物語を丁寧に紹介する時間はもうありません。関心のある方は、旧約聖書の創世記第25章から第33章あたりまでを読んでみてください。物語としては非常におもしろい。ただ、その上で個人的な感想を正直に申しますが、私は昔から、このヤコブという人間がどうしても好きになれませんでした。どこをどう読んでも、ヤコブのほうが悪いんです。双子の兄であるエサウはヤコブのせいで割を食うことになるのですが、どこをどう読んでも、エサウはひとつも悪くないのです。ヤコブは、双子の兄を騙し、老いさらばえた父親を騙し、長男の権利を奪い取ろうとするのですが、結局そのために家にいられなくなり、逃亡の生活をしなければならなくなります。言ってみれば、それだけの人間です。どうしてヤコブなんだろう。どうして「アブラハム、イサク、ヤコブ」なんだろう。いや、もう、どう考えたってヤコブのほうが悪いよ? おそらくですが、大部分の人は、少なくとも大部分の日本人は、ヤコブよりもエサウに同情するだろうと思います。

この聖書の物語を理解するための道はただひとつ、「神は罪人を愛されたのだ」ということを理解することです。罪人でしかないこのわたしを、それでも、ただ恵みによって赦してくださった。救ってくださった。愛してくださった。そのことが本当によくわかったとき、このヤコブ、すなわちイスラエルの物語が、「わたしの物語」としてよくわかるようになるのです。「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」。なんで? どうして? 理由なんかないのです。このわたしが、愛されたのです。罪人が愛されるのに、理由なんかありません。パウロは、そこにイスラエルを招こうとするのです。イスラエルよ、初めの愛に帰れ。「神の言葉は無効にならない」。たとえイスラエルの罪がどんなに深くても、そして今、イスラエルがどんなにイエス・キリストを憎んだとしても、神の言葉が無効になることはありません。神は、罪人を愛し、罪人を招かれるのです。

■私どもは、そのことを信じて、洗礼を受けます。そして今朝もこのように、聖餐の食卓を祝います。聖餐への招きの言葉の中で、いつも伝道者パウロのこの言葉を読みます。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です(テモテへの手紙Ⅰ第1章15節)。

私どもの教会では、聖餐を祝ったあと、最後に長老が感謝の祈りをします。そしてそのとき、聖餐を受けた人だけが立ち上がります。まだ洗礼を受けておられない方、それゆえにまだ聖餐を受けることができない方は、座っていなければなりません。そのために少し寂しい思いをしなければなりません。私ども教会の願いは、どうか座っていないで、立っていただきたいということです。洗礼を受けて、罪を赦していただいて、一緒にこの聖餐の食卓に加わっていただきたい、神に愛された罪人の群れに加わっていただきたいということです。聖餐のあと、私どもキリスト者は偉いから立つのではありません。「私は、その罪人の頭です」と信じて、立つのです。何の理由もないのに、何の手柄もないのに、ただ神に愛されて……。

「イスラエルよ、あなたは神に愛されたのだ。あなたは、神に選ばれたのだ。その神の愛が無効になることはない」。そう呼び掛ける伝道者の言葉が、今も私どもの心に迫ります。だからこそまた私も、「『みことばは無効にならない』というパウロのメッセージをきょうもあしたも日本人に宣教したいのである」。それが私どもの教会の願いです。お祈りをいたします。

 

あなたに選ばれて、あなたに名を呼ばれて、私どもはここに立ちます。何の手柄もないのに、むしろマイナスの価値しかないのに、しかし、あなたに呼ばれたら、立たないわけにはいきません。何があっても無効にならないあなたの恵みを信じて、今ひとつの祈りを集めたいと思います。あなたのお選びになったあなたの民を、どうか見捨てないでください。あなたの愛が無効になることはないのですから、どうかその恵みを、今日も明日も私どもの全存在を用いて宣べ伝えさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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