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いのちの入り口

2026年8月9日

ヨハネによる福音書 第17章1-8節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

 

主イエスの祈りを読みました。
「大祭司の祈り」、あるいは「大祭司キリストの祈り」と呼ばれている祈りです。十字架の前の、最後の食卓での最後の祈りです。

大祭司というのですから、とりなしをするのです。神様と人とのあいだに立って、「どうぞこの人をおゆるしください。どうぞこの人々をおゆるしください」と、祈るのです。でもこのとき、主イエスが神様に祈られたのは、こうでした。彼らは信じました。

彼らは信じました。

それはとりなしを願う、祈りでもありましたが、しかし、報告でもあったのです。
彼らは信じました。

今日の最初のところに「天を見上げて」(17:1)と、ありますけれども、天を見上げてというのは、ほんとうにお父さんをまっすぐに見上げて祈る子どもの祈りです。そして主は、言われました。

「父よ、時が来ました」。

十字架の時が来ました。その十字架において、父よ、あなたがあなたであることの栄光が、私を通して、現わされますように。そういう祈りです。

でも、そのときの主イエスには、死を前にした悲壮感などは、きっとなかったと思います。それよりも、その栄光が輝く喜びと、そして死に勝つ、勝利の光というものが、もうその瞳に映っていたと思います。十字架というのはそうやって、父と子が、これからなされる栄光の御業、栄光の光です!

そして弟子たちも、なんだかその光の中に、置かれたような感じです。弟子たちは、この祈りを、主イエスのすぐそばで聴いたのです。

神の子が、神に祈っている。――
そういう場に弟子たちがいたのです。弟子たちはこれまでも、主イエスの祈りのお姿を見たでしょうし、そしてその祈りの言葉というものを少しは聴いたかもしれませんけれども、でもこんなに長く、こんなに近くで、しかも自分たちのことを祈ってくださっている。その声を聴きながら、その一言ひと言に耳を澄ませながら、弟子たちは思ったと思うのです。

こんな神々しいところに、自分たちがいさせてもらっている。神様と神の御子のお二人だけの空間に、自分たちも入れてもらえている。

さっき「大祭司の祈り」と言いましたが、旧約聖書に出てくる大祭司というのは、聖所にたった一人で入って、人々のためにとりなしをするのです。たった一人で入るのですから、そこにはほかの誰も、入ることはできません。それなのに、そのところに、いわば、その入り口のところに入れてもらえている。大祭司のいる聖所に、向こうから栄光の光が当たっているようなその場所に、自分たちもいさせていただいている。

私どももまた、今、そのようにして、この祈りを聴かせていただいているのです。

そうしたら、その大祭司が、響くような声で「永遠の命」と、祈られました。

「永遠の命」とは、何なのでしょう?感覚ではわかるけれども、説明しづらいと思われるかもしれません。そしてすべてを捉え切るのは難しいです。そもそもこの「永遠」とは。私どもは、すぐに時間と考えますけれども、そうではなく、「永遠」とは神様のご性質です。
ですから、それは主イエスも同じです。主イエスもまた「永遠」であって、そして「命」である。私どもは造られたものだから、永遠なんていうものはないのです。でもその私どもにその命を与えるために、主が来てくださいました。これまでもそれは主がずいぶん言ってきてくださいました。「私は彼らに永遠の命を与える」(10:28)。そのために来たのだ。いわばそれは主イエスのライフワークであった。使命であった。

ですから、私どももそれに応えます。先ほども、使徒信条で「我はとこしえの命を信ず」と告白しました。それは、私は、「私の永遠の命」を、信じるというのです。私は、「私の永遠の命」を信じます。

今朝も私は朝、起きて、ああ、信じているな、と思いました。自分の永遠の命を信じる、そう言われたら、皆さんもどうでしょう?皆さんも、そうではないでしょうか。ああ、信じているな。永遠の命を、信じているな。
そうしたらそれは何を信じているのでしょうか。

主イエスがここで言われたのは、こうでした。

父よ、あなたは私に、永遠の命を与える権能を与えてくださいました。私にその支配の力を、与えてくださいました。だから私は、あなたが与えてくださったすべての者に

「永遠の命を与えることができるのです」(17:2)。

そして言われました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:2-3) 。

永遠の命とは、と、主がはっきりと言われたのです。それは、あなたと私を「知る」ことです。

そう言われましたら、どうでしょう。それなら、知っています、と言うのではないでしょうか。私は神様を知っています。私は、イエスさまを知っています。――――

「知る」といえば、あの「よい羊飼い」を思い出します。

「私は良い羊飼いである」(10:11,14)。
良い羊飼いは、羊のために命を捨てる(10:11)。

そして言ってくださいました。

「私は自分の羊を知っており、
羊も私を知っている」(10:14)。

そう、信頼をもって言ってくださいました。

この「知る」というのは、聖書ではそういう深い信頼関係を意味します。頭で知っているとか、知識で知っているというのではないのです。そうではなく、愛をもって互いによく知っている。互いに一つになるような、そういう愛の交わりです。
そしてそれが「永遠の命」だと、主が言われたのです。

そうしたら、それは今そうだ、ということになります。

今日は8節までお読みいたしました。その後半のほうに「彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り」(17:8)、とあります。またすぐに、「彼らは、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです」ともあります。彼らは、私があなたのところから遣わされて来たことを、本当に知りました。

それはこの方が、世界が造られる前から、宇宙が造られる前から父と共におられた方で、「永遠」というご性質をもち、主イエスご自身が「永遠の命」そのものである。そのことを。そしてその方と、決して切り離されない、愛の交わりの中にあることを、「彼らは、本当に知り」、そして言われました。彼らは信じました。

前に加藤常昭先生が、妻であるさゆり先生をなくされたときに、親しくされていたクリスティアン・メラー先生に、そのことをお伝えになった時のことを話してくださいました。加藤先生はメラー先生にこうお知らせになった。「妻は、私の手のなかで眠るように逝きました」。すると間もなく返信があった。「常昭、さゆりは眠るように死んだ。それは神がさゆりを受けとめてくださったからだ。今は神のみ手のなかで眠る。そして神が定められた日、こう呼びかけられる。『さゆり、起きなさい!甦りの朝だよ!』」。

加藤先生はそのメールを読みながら「泣き続けた」と言われました。「しかし、強く慰められていました」と、言われました。「58年、ともに生きた妻を喪うのは耐えられない悲しみです。しかし、それよりもっと深い慰めがありました。さゆりが『死んでも生きる!』と、甦りのいのちの主が、声をかけてくださいました」。
そう言われました。

私はそのお話の中に、「永遠の命」というものが、とてもよく言い表されていると思いました。一つは、私どもが死んだあと。私どももいつか、そういう日が来るんだろうなということはわかっています。造られたものだから、限りのあるものだから、いつかはこの世界からいなくなるんだろうなということはわかっています。けれども、それで終わってしまわないで、主イエスと決して切り離されることのない命がある。その者は、いつか、神様が定められたときに、終わりの日に、主が起こしてくださる。死の眠りから目覚めさせてくださる。そして言ってくださる。「起きなさい!蘇りの朝だよ!」

それが永遠の命であり、それが永遠の命の完成の時です。

けれども、そんな遠いことだけではなく、加藤先生はそれだけではなく、もう一つのことを言われています。それは「今」生きている間も。加藤先生が死の悲しみ以上の深い慰めを受けた。泣き続けている自分に、主の声が聴こえた。
常昭、さゆりは、「死んでも生きる!」
その声が、自分を深く慰めた。「甦りのいのちの主が、声をかけてくださいました」。

羊は、その声を知っているのです。
永遠の命である主が、甦りのいのちの主が、愛をもって声をかけてくださいました。そして、自分の愛する者にも、自分にも、その命を与えてくださっている。

私どもにはなお、死はありますけれども、主が共に死に、主が共に生きてくださっている者は、死んでからも、生きているあいだも。主と決して切り離されることのない永遠の命に、今もう、生かされているのです。

羊飼いのところで主が、こうも言われました。

「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない」(10:28)。

さっき報告と言いましたけれども、主イエスが、こんなことをおっしゃっています。

「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(17:4)。

不思議なことに、まだ十字架の前ですのに、もう「地上であなたの栄光を現しました」と言われたのです。それはもう成し遂げられました。その祈りは、父なる神様の御業への信頼でありましたし、それから、「彼らはもう永遠の命を、得ています」という、報告を、感謝をもって、なさっているのです。

大祭司がこの祈りの時、父と子の愛の交わりに弟子たちを招き入れてくださったように、私どもも今、そこに入っている。永遠の命の入り口に、私どもも入れていただいているのです。

少し変な話をするようですけど、今日の説教題を、ついこのあいだ変更しました。予定表とは違ってしまったので、申し訳なかったですけれども、「いのちの入り口」という説教題に変えたのです。それに伴って、掲示板のほうも変えなくちゃいけなくなりました。そうしたら、ちょうど、その毛筆奉仕の方が、教会にいらっしゃったので、それでうかがってみますと、すぐに書き直してくださいました。

「入り口」という言葉だけを、すぐに書いて、そして掲示板に貼ってくださいました。そうしたら、一枚だけ書き損じが生じました。書き損じというにはふさわしくない、味のある字です。ですから私はそれをいただいて、いま私の執務室に貼ってあるのですが、みなさんにもぜひ、来ていただけたらいいと思うのですけれども、

その部屋に入るたびに「入り口」というのが目に入るんですね。その「入り口」という字を見るたびに、ああ、と思うのです。
自分はもう、永遠の命の入り口にいるんだな。

そこに入っているんだな。と、思うのです。

皆さんの、今の生活の中にも、礼拝の生活の中にも、大祭司がいてくださって、その輝く命の光の中に、もう自分はいるのだなと、そのことを共に信じて、生かされていきたいと思います。

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