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神のために祈っていますか

2013年2月3日

ルカによる福音書第11章1-2節
川崎 公平

主日礼拝

この礼拝の中で、皆さんと一緒にルカによる福音書を読み進めてまいりまして、既に前回から、第11章に入っております。これからしばらく、この第11章の最初の部分、私どもが〈主の祈り〉と呼んでおります祈りの言葉を、まさに主イエスが私どもに教えてくださった祈りの言葉として、ご一緒に聴き取っていきたいと考えています。このように祈れと、主が教えてくださった祈りであります。今日はその主の祈りの最初の部分だけを読んだのです。私どもが普段祈っております〈主の祈り〉と少し違うところがあります。たとえば、「み心が天になるごとく……」という祈りをルカによる福音書は伝えません。マタイによる福音書の伝える言葉の方が、いつも私どもが祈っている祈りに近いようです。

けれどももうひとつ、このルカによる福音書を通して主の祈りを教えていただく時に、私どもが心を吸い寄せられるような思いで読みますのは、まずその最初の、1節の言葉ではないかと思います。主イエスがあるところで祈っておられた時、その祈りが終わった時、弟子のひとりが思い切ってお願いをいたしました。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。そしてこのひとりの弟子の願いは、こののち、すべての人間のこころに繰り返された願いとなりました。私どもの心に憧れを呼び起こすような言葉だと思います。「主よ、わたしにも祈りを教えてください」。これまで自分でも気づかなかった、わたしの本当の求めはこれであった。わたしは、祈れるようになりたかったのだ。けれどもどのように祈ったらよいか分からない。そのような私どもの願いを、主イエスご自身が私どもよりも深く聴き取ってくださって、それに答えていてくださる。

ただし、ひとつ正直に問い直すべきことがあると思います。これはこの箇所について説き明かす幾人もの人が指摘することです。「祈りを教えてください」などということを、われわれは本当に切実に願っているだろうか。別に祈らなくても、まあやっていけないことはない。日曜日の朝の生活だけを考える必要もないのです。われわれの毎日の生活を振り返って、祈りを教えてくださいと切実に願っていたか。わたしは祈らなければやっていけないのだと、そんなことに気づいていただろうか。そんなことを願っていただろうか。そういうことを反省してみることにも、意味があるかもしれません。

けれども逆に、こう考えることもできると思います。なぜ、この弟子は、このような願いを申し出たのだろうか。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。そのような願いを呼び起こす、憧れを呼び起こす、魅力のようなものが、主イエスの祈りの姿にあったのだと思います。このお方の祈りの姿を見ていると……今のままでは、だめなのではないか、わたしは新しくならなければならないのではないか。このお方に新しく祈りを教えていただかなければ。他の何を教えてもらう必要もない。ただ祈りを教えていただきたい、このお方に。……主イエスの前に立って初めて、このような願いが呼び起こされたのです。

もうひとつ考えるべきことがあります。既に先々週、この箇所をご一緒に読みました。その時には13節までを読んだのです。「祈りを教えてください」という願いに答えて、まず1節から4節まで、「主の祈り」と私どもが呼んでいる祈りの言葉が教えられ、けれどもそこにとどまらず、5節以下では、言ってみれば〈祈りのこころ〉とでも言うべきものを主イエスは教えてくださいました。そこで主イエスが教えてくださる祈りのこころとは、子が親に食べ物を求めるように、あるいは夜中に友人のところに行って、旅人に出すパンがないから分けてほしいと、寝ている友人をたたき起すようなものでした。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。寝ている友人をたたき起すような思いで祈る。ひたすらに自分の必要なものを求め続けるのです。それが主の教えてくださる祈りのこころであったということを思う時に、そこで少し複雑な思いにさせられるのは、主の祈りにおいてまず求めるように言われたことが、「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」。こういう祈りと、夜中に友人をたたき起すような祈りと、どう重なり合うのか、ということです。

今日の説教題を「神のために祈っていますか」といたしました。少し正直なことを申し上げますけれども、この一週間、この説教の準備をしておりまして、「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」という祈りの言葉を日々心に刻みながら、なんだか自分の心が盛り上がらないな、と思っていました。それはつまり、夜中に寝ている友人をたたき起こすような熱意をもってこの祈りを祈っていない、自分の心と直面させられるということでもあったと思います。その自分の思いに逆らうようにして、既に説教題を「神のために祈っていますか」といたしました。こういう説教題をご覧になって、皆さんがどういう思いになったか。どきりとしたかもしれないし、なんだかつまらなさそうな説教だなあと思われたか、どうか。私どもが主の祈りを祈る時に、どうもこの祈りが、自分にとって切実なものにならないと思ってしまうひとつの理由は、ここにあると思います。こういう祈りを教えられて、ああそうだ、これこそわたしが熱心に祈らなければいけない祈りだと、誰が考えるでしょうか。

私どもは教会に来て、聖書の教えを学ぶようになりますと、たとえば、こういうことを理解した「つもり」になります。「祈りとは願いではない、願掛けではない」ということです。自分の願いをひたすら神に申し上げる、それだけが祈りだと考えるならば、それは誤解である。祈りとはむしろ、感謝であり、賛美である。何をさしおいても、ひたすらに神のみ名があがめられるように祈るべきである。それに対して、商売繁盛、家内安全、合格祈願などというような次元の低い、幼稚な、偶像礼拝にも似た祈りは、まことの神に出会うときには卒業しなければならないのだ。……ある意味では正しいことかもしれません。けれどもそこで、たとえば第11章8節で「しつように頼む」というような、熱心に自分の願いを申し述べるということが忘れられるということになると、これはどこかがおかしいということになります。

少し話が難しくなってきたかもしれません。ここはなるべく分かりやすく、単純にお話しすべきだと思います。私どもが熱心に願い求めること、夜中に寝ている友人をたたき起こすほどに熱心に願い求めることが、神のみ名があがめられること、神のご支配が実現することでないとしたら、どこかが間違っているということになるのです。

以前、説教の中で紹介したことがあります。しばらく前に、日曜日朝の求道者会でテキストとして用いておりました、平野克己牧師という先生が書いた『主の祈り イエスと歩む旅』という書物があります。短くて読みやすい、ただひとつの難点は、その割には値段が高い、ということ以外、すばらしい書物だと思っています。以前私がこの平野牧師の本を紹介した時に引用したことですが、この本の最初のところで、「主の祈りがもしもこういう祈りであったなら、もっとなじみやすかったであろう」と、主の祈りを書き変えて見せました。

わたしの名を憶えてください

わたしの縄張りが大きくなりますように

わたしの願いが実現しますように

要するに、これが私どもの心の内に潜むものではないか、と言っているのです。ただそれを露骨な形で口にしないだけです。けれども、改めてこのように表現されると、私どもの心の内に何があるのか、突き付けられるような思いがいたします。「わたしの縄張りが大きくなりますように……」。このようなわがまま祈りが、わたしを生かすことはないのです。そして、この平野牧師は、改めて、その書物の中で「み名をあがめさせたまえ」という祈りを説き明かしながら、こういう言葉を紹介しています。この牧師が学生時代に聞いた言葉だそうです。

神を忘れ他者を忘れた自己実現は、人間を化け物にする。

いかがでしょうか。強烈な、しかしよく分かる言葉ではないでしょうか。そこで、この牧師は、こう語っていくのです。

愛に隠された暴力。奉仕に隠された要求。友情に隠された計算。犠牲的行為に隠された功名心。そして、祈りというもっとも敬虔な姿においてさえ、わたしたちは化け物になってしまうことがあります。

まず〈神のため〉に祈る。そこにわたしたちが化け物になることから救い出される道があります。主イエスは、わたしたちが主の祈りを祈ることによって、まことに人間らしく生きることを望んでいてくださるのです。

「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」という祈りは、〈自己実現〉の祈りではないのです。だからこそ私どもの罪深い〈ほんね〉からは生まれにくい祈りなのです。けれども主イエスのご覧になるところ、私どもは、まさに祈りにおいて化け物になってしまう。考えてみれば誰もが気づいているのです。「わたしの縄張りが大きくなりますように」。このような祈りが、私どもを人間らしく生かすことはありません。そのことを主イエスもまたよくご存知だったのだと思います。

「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」。原文をなお丁寧に翻訳すると、「あなたの名前が、崇められますように、あなたの国・あなたの支配が来ますように」という言葉です。はっきりと「あなたの」、「あなたの」という言葉を重ねます。わたしではなく、あなたのお名前が、という思いが込められていると読むことができます。そこで、いくらでも思い当たることがあるのです。私どもも自分の小さな支配にこだわる心を持っています。どんなに小さくてもいい。けれども他人に侵されたくはない自分の王国を造っているのです。その中で、自分の名が崇められることを願います。多くのことを語る必要もないと思います。

私どもが聖書を読みます時に、何よりも主イエス・キリストに出会います時に、直面させられる私どもの弱さというのは、自分を認めてもらいたいという悲しみです。そうでなければ立てない自分であるという悲しさです。そして自分を誰かに認めてもらおうと、一所懸命何かをするのです。まさに自己実現を求めます。私どもも体験的によく知っているのです。自分に不安がある人は、相手のことを顧みずにしゃべります。相手のことなんかお構いなし。自分のことだけを、しゃべりまくります。そうやって、自分の存在を一所懸命確かめようとしているのです。けれども、あなたのお名前があがめられますように、という祈りは違います。そこから私どもを解き放つ祈りです。わたしの支配ではなく、父なる神のご支配の中に自分を置くのです。そこに人間が化け物にならず、人間らしく、すこやかに生きる道があるのです。主イエスがその祈りの姿において見せてくださったものは、まさにそのようなものではなかったかと思います。

ルカによる福音書は、その最初から、そのような人間の救いの道を説き続けているとも言えます。第1章に、主イエスの母となったマリアが出てきます。婚約者がいたのに、結婚する前に、身ごもっていることが明らかになった。そこに天使が訪れ、「恵まれた女よ、おめでとう」。あなたが宿している子どもは、誰の子どもでもない、神さまの子どもなのだ。ここから、神のご支配が始まるのだ。その言葉を聞いた時、マリアは不安でした。あえてこういう言葉を用いるならば、マリアはここで、自己実現の道を断たれたのです。ヨセフと結婚して、平凡であってもいい、幸せな家庭を築いて……そんな夢も断たれた。誰の子か分からない子どもを身ごもるなんて……そんなことはあり得ない。考えられない。もしも誰かに訴えられたら、ヨセフがわたしを訴えたら、石で打たれて殺されるほどのことでした。けれどもそのマリアの心に語りかけるように、天使は告げました。「主があなたと共におられる」「神にできないことは何一つない」。この神のご支配を受け入れてほしい。マリアは、静かに、神の御国、神のご支配を受け入れます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。多くの人が心に刻む信仰の言葉です。教会に来ていない人ですら、幼い頃にどこかで聞き覚え、どこか心に残ってしまうような美しい言葉です。「自分の縄張りが大きくなりますように」という醜い祈りとは違います。私どもも、実は既に気づいているのです。このマリアの祈りこそ本物だと。そしてその時にマリアが歌った歌は、すべてのキリスト者の歌、すべての教会の祈りとなりました。第1章の47節以下であります。

わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

ここに、この歌を歌うところに、人間の幸せがあるのです。

神の御国と言えば、こういう言葉を思い起こす方も多いと思います。「幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」。特にルカによる福音書はこの有名な主イエス・キリストのお言葉をこのように聴き取りました。イエスに触れていただくために、人びとは「乳飲み子までも」連れて来たと言うのです。乳飲み子です。歩くこともできない。話すこともできない。けれどもこの乳飲み子は、主イエスに抱かれております。主イエスの祝福の手がそこに置かれております。マリアともまた、この乳飲み子のように神のご支配の中に立ち、いやむしろ抱かれるようにして、自分を委ねただけです。私どもが主の祈りを祈りながらすることは、たとえばマリアのように、たとえばこの乳飲み子のように、神のご支配の中に自分を委ねる練習をしていくのだと思います。逆に言えば、この、主イエスに抱かれているという事実を忘れるからこそ、私どもはなかなか、わたしの縄張りが大きくなりますように、という祈りから解き放たれないのだと思います。

私が今日もうひとつ、皆さんとご一緒に丁寧に読みたいと思いましたのは、ルカによる福音書の第23章39節以下であります。いずれの福音書も、主イエス・キリストと共にふたりの犯罪人が共に十字架につけられていたと伝えます。主イエスを中心にひとりは右に、ひとりは左に十字架につけられた。このふたりの犯罪人というのは、おそらく政治犯であったのではないかと昔から考えられてまいりました。なぜかと言うと、ローマ帝国に反逆したというくらいの重罪人でないと、十字架という厳しすぎる刑罰を受けることは考えにくいと思われたからです。自分の正義を信じて、まさに自分の正義の支配の実現を求めて、突っ走ってきたのだと思います。そして十字架につけられてもなお、正しいのは俺だ、この俺を十字架につけるローマ帝国こそ間違っているのだと思い続けていたかもしれません。殺すなら殺せ、今に神の裁きがお前らに下るのだと、心の中で思い続けていたかもしれません。けれどもその隣りに、イエスという男が十字架につけられている。こいつは何者だろうか。どうも、ローマ帝国に反逆したかどで十字架につけられているらしい。同士のような思いをも抱いたかもしれない。けれども、その人の口から、この犯罪人が聞いたこともない祈りが聞こえてきました。第23章の34節であります。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

この方の祈りこそ、まことの人の道であると悟ったのではないでしょうか。自分の支配が実現しますようにと、突っ走ってきた自分は、どこか間違っていたのではないかと悟ったのではないでしょうか。そこで申しました。もうひとりの犯罪人がなお主イエスを口汚く罵っているときに、けれどもこの男は申しました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。自分の正しさに固執し、突っ走ってきたことを悔い改めています。この自分もまた、罪の赦しを祈る主イエスの祈りの中に含まれていることを悟ったのではないでしょうか。そして申します。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。主イエスは明確に答えてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この男のところにも神の御国が来たのです。この男によってもまた神のみ名があがめられるようになったのです。

そしてこの福音書を読む者は皆、ここに自分の姿がある。ここにまことの自分の祈りの姿があると読み取ってまいりました。私どもも、この主イエスというお方に出会って、もう一度まことの祈りの道を見出させていただいたのです。神の御名があがめられ、神のご支配が実現するところに、わたしの救いがあり、わたしの幸せもある。

その主イエス・キリストのご支配を最も鮮やかに現わす聖餐の食卓に、今共にあずかります。主イエスが私どもを人間らしく生かすために、どれほどの重荷を負ってくださったか。今私どもが、自分の縄張りが大きくなることのみを願う化け物としてではなく、神に愛された幼な子として、神の愛のご支配の中に立つ、そのような経験をここで新しくさせていただきたいと願います。お祈りをいたします。

もう一度、幼な子の心をあなたに与えていただいて、今あなたに抱かれるようにしてこの食卓にあずかることができますように。私どもはあなたの子どもです。そこに生まれる人間らしい祈りを、今、御前に集めることができますように。父よ、あなたの御名があがめられますように。あなたの御国が来ますように。今ここにも。感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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