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神のたぎる思いを信じる

2014年6月15日

イザヤ63章15節~64章4節
ヘブライ人へ手の手紙2章:14~18節
大澤 正芳

主日礼拝

今日共に聴きます聖書の言葉を含みましたイザヤ書という書物でありますが、このイザヤ書という書物は、文章のジャンルで言えば、預言書に数えられるものであります。神がお立てになった預言者の口を通して、神が語られた言葉が記されていると信じられる預言書に数えられるものであります。しかし、そのイザヤ書のなかで、今日共に聴きました聖書の箇所は、前後の数節を含めて、神が私たちにお語りになった言葉というよりは、詩編の祈りの言葉を思い起こさせる形式で書かれています。すなわち、「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮からご覧ください」と始まる一連の言葉は、神が預言者を通して語った私たちに対する神の言葉というよりも、むしろ、人間が神に向かって祈っている祈りの言葉であります。人間が神に向かって祈っているのです。「どうか、天から私たちのことを見ていてください」と。

それだから多くの学者は、はっきりと、これは、詩編と同じ祈りの言葉であり、その人間が神さまに捧げる祈りの言葉が、イザヤ書の預言の言葉の中に組み込まれているのだと言います。イザヤ書の後半部の救いの確かな約束の言葉を語る神さまの言葉の只中に、何の前触れもなく唐突に、人間の祈りの言葉が挿入されているのです。

詩編を読む時も、いつも私は、このように思うのですが、人間が神さまに向かって語った、祈りの言葉が、なぜ神の言葉として、今この礼拝のなかで私たちに読まれるのか、不思議な気がいたします。祈りの言葉として、賛美の歌として、恵みをくださる神さまへの応答として、詩編は、確かに我々の信仰の中に位置を持ちます。詩編は、言葉にできない私たちの魂の叫びを言葉にしてくれています。詩編を祈るとき、その言葉を歌う時、私たちは、そうだ、これこそが私の言いたかったことだ、叫びたかったことだ、呻きたかったことだ、これこそが、私が神さまに出会って頂いた感謝の心だと、私たちの魂の言葉を得ます。けれども、なぜそれが、私たちが神の言葉と信じる聖書の中に含まれるのか。

それは、単純に言って、その祈りの言葉は、人間が好き勝手に祈った祈りではなく、神が与えてくださった、神がこう祈ってほしいと願われる祈りであると信じるからです。「祈る言葉がわからない、祈りを教えてください」と願った弟子たちに、主イエスが、主の祈りを教えてくださったように、神が私たちに与えてくださる祈りの言葉が旧約聖書のなかにもあるのです。

その詩編の言葉と同じ形式で書かれた祈りの言葉が、今日共に聴きますイザヤ書の御言葉であります。神が苦しむ民を、この私が救い出すと語ってくださっている力強い約束の言葉の只中に、突然、挿入された祈りの言葉です。

その唐突な挿入は、救いを約束してくださった神が、その救いの御計画を実行するに当たり、まず、苦しむ者の魂に働きかけ、祈りを与えるのだと語っているかのようです。

この祈りが最初に祈られた、ずっとずっと後に使徒パウロは語りました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)主イエスも仰いました。「また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:18~20)

そのような、人間の言葉にならない心のうめきを祈りの言葉として紡ぎだしてくださる神の霊の言葉が、私たちのなかで、私たちに代わって語ってくださる父なる神の霊の言葉が、実にこの言葉なのだよと言いたいかのように、神の救いの約束の言葉の真ん中に突然、挿入されているのが、今日私たちが共に聴いておりますイザヤ書の言葉であります。

既に、決断された神の救いのご意志、「起きよ、光を放て。/あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。/見よ、闇は地を覆い/闇黒が国々を包んでいる。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。」、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。/初めからのことを思い起こす者はない。/それは誰の心にも上ることはない。/代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。/わたしは創造する。/見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。」こう決断され、語ってくださった、その神の言葉の只中で挿入された祈りの言葉です。その祈りの言葉はこのように始まりました。

「どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。/どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。/あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしには示されません。」

主イエスが私たちに与えてくださった主の祈りのように、神さまがどう祈るべきかを知らない、言葉を失ってしまっている私たちの為に与えてくださった祈り、聖霊のくださった祈り、神の確かな救いの約束に支えられている祈り、そのような祈りとしてこの祈りに注意深く耳を傾ける時、私たちは、驚かずにはおれません。

この祈りは、神さまを告発しているのです。この祈りは言います。「神よ、あなたが私の生活に働いてくださっているようには見えません。あなたは、全く息をひそめられています。かすかにも、あなたが私たちを愛し、守ってくださるお方だということを実感させるしるしは、私の人生のどこを見回してもちっとも見つかりません。」

この祈りは、神に捨てられたすべての人を代表して、叫んでいます。私たちの言葉に表せない呻きを、言葉にするために、私たちのためにも祈っています。

「どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。/あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしには示されません。」

私たちの生涯にも、神さまの愛が見えない時があります。慈しみ深い方だと信じることのできない時があります。 しかし、そのようなことを口にするのは恐ろしいことです。そのような呻きを押し殺してしまう時があります。けれども、この祈りは、私たちのために、このような言葉を獲得してくれています。「あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしには示されません。」

このようなことを言うことが私たちには赦されるのでしょうか。神の憐れみが見えないというのは、神さまの責任ではなく、私たちの心が鈍いから、神さまの憐れみを見ることができないだけではないでしょうか。私たちが気付かなくとも、神さまは、良い者にも悪い者にも、太陽の光のように恵みを降り注いでいてくださるのではないでしょうか。あるいは、神さまの恵みが事実取り去られているとしても、神さまの御業と、憐れみが私たちに抑えられていることに、不満を申し述べることがそもそも許されるのでしょうか。そもそも、私たちは、憐れみを願えるような立場なのでしょうか。一体、神さまが私たちに憐れみをお与えにならなければならない義務などあるのでしょうか。

しかし、このような問いを全く顧みることなく、神さまの熱情と、力強い御業、自分に対するたぎる思いと憐れみを、私たちに与えられたこの祈りの言葉は、当然のこととして願い求めています。この大胆さはどこから来るのか。ひとえに16節の確信に拠ります。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。」

神の憐れみが全く見えないと嘆く者が、不信仰な者ではないのだということが、この言葉から本当に良くわかります。嘆くことは不信仰ではありません。私たちは、神が私たちの父であり、わたしたちの借金を肩代わりしてくださる贖い主であることを信じているからこそ、嘆くのです。

最初から神様を期待していなければ、神さまに嘆くことはありません。神さまが私たちの父であられるから、嘆くのです。そして、この信仰はわたしたちの自分勝手な思い込みではありません。神の言葉に取り囲まれて、この祈りは祈られているのです。イザヤ63章8,9節にこうあります。「主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。/そして主は彼らの救い主となられた。/彼らの苦難を常にご自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」

これは、イスラエルの民がエジプトから脱出を成し遂げた物語を思い起こしている言葉です。それ以来、イスラエルの民に響き続けてきた神の言葉です。イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、神の御前に彼らが正しい者であったからではありません。神にわたしの民、偽りのない子らと呼んで頂いた者達は、私達と何ら変わるところのない者たちです。

神が一方的にそのように見做し、関わってくださったのです。その恵みの事実に支えられて、約束の言葉に支えられて、言うのです。「どうして、憐れみを示して下さらないのですか。あなたはわたしたちの慈しみ深い父ではありませんか。たとえ、肉親がわたしたちを捨てても、あなたはわたしたちを捨てないと約束して下さったではありませんか。」

「アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても」という言葉がありました。私たちにとっての血の繋がりがある者のことを指してそのように言っています。アブラハムとイスラエル。それは、誰が助けてくれなくとも、最後には頼りになる家族のことです。切っても切れない血の繋がりが、苦しむ家族を放っておくことはないのです。ところが、神が私たちの父であるということは、たとえ、その家族がこの私を捨てても、神は、私の父であることをお辞めになることはないという確かな父でいてくださるということです。

イザヤ書49章14節以下にもこんな言葉があります。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。/女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。/母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。/たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。/見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」

私は決してあなたを捨てない、神はそのように約束してくださったのです。だから嘆くのです。

17節の祈りはさらに驚くべき祈りです。このように祈ります。

「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。」

「立ち帰ってください」。これは、驚かされる言葉です。苦しみの原因は、神を捨てた人間への裁きであるとイザヤ書はここに至るまで、度々語って来たのに、彼の理解では、罪を犯したゆえに立ち帰らなければならないのは、人間であることを重々承知しているはずなのに、それにもかかわらず、神に向かって「立ち帰ってください」と願うのです。

この言葉だけではありません。17節全体が、不思議な言葉です。この祈りの言葉は、そもそも、彼らが苦しみを負うことになってしまった背きの責任を神様にかぶせようとしているかのように見えます。

「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。」

私たちの心が頑なになって、神さまを信じることができず、神さまに背いているのは、神さま、あなたが私たちの心を頑なにされたからですよ。そう言うのです。しかし、ここでは、すぐに思い起こされるかもしれませんが、私達が、神様を信じることができない時、エジプトの王の心をかたくなにされたという、その神さまの不思議な御心がこの自分たちにも働いてしまっているのだという神学をここで語られているのではないと思います。

そうではなくて、この言葉は徹底的な罪の自覚があると思います。神さまに憐れみを向けていただけなければ、神さまの元には戻れない徹底した自分たちの罪の自覚です。どんなに苦しみの原因が自分の背きのなかにあったとしても、もはや、それをどうすることも出来なくなってしまっている人の告白であります。

自分の悔い改めによって、神の興味を惹こうというのではありません。ただただ、神の憐れみに、懇願する他ないことを知っているのです。虫の良い祈りのようにも見えます。けれども、神はこのような祈りを受け入れてくださいます。神は、どんなに私たちができの悪い子どもであっても、私たちを捨てない父であられるからです。贖い主と呼ばれる神は、債務不履行の私達に代わって、被告席に着くことを受け入れてくださいます。

18節の言葉には、この祈りを最初に祈った人の具体的な状況が示唆されています。それはイザヤ書の文脈と一致しています。エルサレムの神殿が、敵に踏みにじられているという歴史的状況です。エルサレムが廃墟となっている歴史的状況です。神の神殿が崩れているから、その神殿と結びついた信仰も信仰者ももはや相手にされず、忘れられているという歴史的な状況です。かつては、そのような信仰もあったかもしれない。でも、その神の神殿は破壊されたのだから、戦争に敗れて徹底的に神殿が破壊されたのだから、敗者の神は、勝者の神に取って代わられたのだ。もはや、その信仰もなくなったのだと見做されているのです。イスラエルの人々はこのように見ます。今、イスラエルの支配者は、主なる神ではない。主なる神ではなくこの私だと主張する神々と国々に取り囲まれているという状況が見えてきます。

こういう具体的な歴史的状況が、この言葉の背後にあります。けれども、それは私たちからかけ離れた苦しみではありません。私たちもこの祈りの言葉のように、神の名によって呼ばれないという苦しみを良く知る者であります。

教会に通う者以外の誰が、私たちをキリスト者である、キリストの者であると知っていてくれるでしょうか。私たちのことを神に愛される者と、そう呼んでくれているでしょうか。キリスト者とは、その身も心も、キリストによって神に捧げきってしまった者のことです。私たちはそういう者です。神のものになりきってしまった人間です。私たちには天の父なる神という所有者があり、支配者があり、その方の名以外で呼ばれたり、その方以外の支配は絶対に受付けないのです。

けれども、この世の中の誰が、そのことを認めてくれるでしょうか。私たちに手を出してはいけないと誰が知っているでしょうか。私たちを食い物にしたり、支配したりしてはいけない、この人たちは神に献げられた神の民であると、そう認めてくれているでしょうか。

教会から一歩外に出れば、私たちを、この神の名以外の名前で呼ぶ声が溢れ返っています。私たちを支配しようとする諸々の力、国々が、山々が、待ち構えています。神に愛されている子どもであることが、私たちの本当の名前であるのに、神が私たちの永遠の父であり、贖い主であり、支配者であるということが、私たちの最終的な現実であるはずなのに、教会の外に出れば、私たちをそのような者として見做し、認め、呼ぶ声はありません。

そこにこそ、苦しみがあります。神の熱情と力強い御業、わたしたちに対する神のたぎる思いと憐れみ、私たちに注がれているはずの嫉むほどの神の御愛が、なぜ私たちを支配し自由にしようとする、そういう権利が自分にはあると、恥ずかしげもなく声高に主張する諸々の力に対して、なぜ、否と言ってくださらないのか。なぜ、それらの言葉が私たちに向けられていることをお許しになり、お見逃しになっているのか、そのことが理解できず、苦しいのです。この教会を一歩外に出れば、怒涛のように悪魔とこの世、そして、この私たち自身の肉の声すら私たちを攻めてまいります。お前は神の子なんかじゃない。置かれた状況をよく見てごらんなさい。心の内をよく覗いてごらんなさい。あなたの生活のどこが神の王子と呼ばれるのにふさわしい者だろうか。あなたの心と体、あなたの心と体、その存在のどこが神の王女としてふさわしい者だろうか。そう言ってくるのです。

なぜ、神はこのような状況をお許しになるのでしょうか。なぜ、そのようなことを言ってくる者に、はっきりと神は、この者たちは私の愛する者だ、手を触れてはならない、この者たちの主人は私だ。なぜ、そうはっきりと語ってくださらないのでしょうか。私たちが神の子であることは、私たちと神だけが知っていれば良いことなのでしょうか。私たちと神との秘密なのでしょうか。

そんなことはありません。私たちの神は、私たちの心さえ支配できれば、それで満足だということではないはずです。私たちの父であり、贖い主であることを主張されるお方は、私たちの生活のすべての面にわたって、私たちのただ一人の主人であることを求めるお方です。

この祈る人が、「どうか天を引き裂いて降ってきてください」と祈り、「あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。/昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者はありません。」と言う時、そこで再び思い起こされているのは、出エジプトの出来事です。イスラエルの人々がエジプトの奴隷であり続けることを、神は、良しとされませんでした。この人が、語りかける神は、奴隷であった自分たちの先祖たちの心の拠り所であることに満足はされなかったお方です。

しかも、ただ、モーセという有能な指導者を立てて、奴隷からの解放を勝ち取らせたのではありませんでした。この人が祈り求める、その祈り求めることは途方もなさすぎて、私たちの日常と関係のないことではないか、そんなこと期待できないのではないか。そのように私たちなら言ってしまうことを、この人は大胆に求めることができました。なぜなら、そのことが起きたからです。天を裂いて神が降って来てくださった。燃える火の柱となって、雲の柱となって、この地上に来て、苦しむ民と共に歩んでくださった。事実、彼らの先祖の歴史において行動に移された方、それが神なのです。神が、神であられるということは、信仰者だけに関わりのあることではありません。私たちの心の問題に留まることではありません。

神はこの世界の主であられます。神は来られ、国々を震わせ、山々を揺れ動かされます。神は私たちの主であられることを、最も公のところで明らかにしてくださいます。国々の前で、私たちを儚い存在であることを思い起こさせる山々の前で、私たちを脅かし、奴隷とするこの肉体の死の前で、神はやって来られ、私たちの父であり、贖い主であることを明らかにしてくださいます。

「あなたが支配しようとしているこの者どもを支配するのは、あなたがた国々でなく、山々でなく、この親でなく、この夫でなく、この雇用者でなく、この財産でなく、この病でなく、この事故でなく、この不幸でなく、そして、この人間を決定的に脅かす死ではなく、この者たちを支配し、主人となるのは、あなたではない、この私だ」と、必ずご自身を示してくださるのです。

私たちの神が主と呼ばれるのは、この意味をおいて他にありません。私たちの主である神は、私たちを支配し、私たちの所有権を主張する、そのような者たちの只中に天を裂いてやって来られます。そして、この者は私のものであると力強く語ってくださいます。

祈る者が信じ、待ち望んだこの天を裂いて来られる神の到来、それは、この祈る者にとって過去の出来事ある出エジプトの出来事においてだけではなく、この祈りの後に、事実、起こったことであることを私たちは知っています。

神は、私たちの為に、天使を送るのではなく、天を引き裂いて、ご自身が事実来てくださいました。イエス・キリストとして、私たちの嘆きの只中に来てくださいました。そして、私たちに対する所有権を主張する全ての力に向かって、ご自身の完全な所有権を主張してくださいました。私たちを告発し、債権を主張する罪と死の力に対し、ご自身の十字架の死によって、私たちを買い戻し、自分が主人であることを主張してくださいました。それ以来、どのような力も私たちを騙し切ることはできなくなりました。お前は神に愛されていない。お前の主人は、この私だと主張し続けることはできなくなりました。

キリストの十字架が、歴史の中に立てられたからです。先祖ではなく、他の誰でもなく、この私たちのための神の歴史への介入、決定的な贖いの業として、キリストの十字架が立てられたからです。

神に嘆くことができる者とは、キリストの十字架に表わされた神のたぎる思いを信じる者の言葉です。神のたぎる思いが隠されていると嘆きつつも、その目に見える、自分の感じている神の不在を貫いて、神さまの燃える愛に捉えられている者の言葉です。神の愛がたぎっているのです。ぐらぐらと煮え立っているのです。めらめらと燃えあがっているのです。あのキリストの十字架において。だから、諦らめません。嘆くことができます。私たちの元に天を裂いて下ってきてくださった主イエス・キリストの、この確かさに支えられながら、私たちは、なお、神に向かって叫びます。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」

神はこの世界の目に見える現実をも、引き裂いて現れてくださいます。その時、全ての者が、神が神であられることを知ります。その時、全ての者が膝を屈めてイエスこそ、真の主であり、王であると告白いたします。私たちはこのような時を待ち望みます。熱くたぎる神の思いが、私たちに主イエス・キリストを送り、私たちをご自身のものとしてくださったように、神が、再び天を裂き降って来られ、全ての者の王となる日を、イスラエルと共に、待ち望みます。

私たちの正しさによらず、努力によらず、神が私たちの世界の王となられるために、天を裂いて必ず降って来てくださいます。私たちは、この方のその決定的な介入によって、永遠に救われます。だから今、心を合わせ、主よ、速やかに来てくださいと祈りを合わせましょう。

主よ、来てください。速やかに来てください。あなたの者とされ、あなたの子と呼ばれる私たちが、なお戦い続けなければならないこの世の中に、主よ、速やかに来てください。あなたが主であることを見失い、自分が主であることを主張し、それによって滅びのなかへと突き進み、虚無のなかにある者たちに対して、あなたが主であられることを知らせてください。その者たちが、私たちと共に、主を待ち望むことができますように。自分の力を捨てて、自分で自分を守ろうとするその力を捨てて、主よ、速やかに来てくださいと、私たちと祈りの声を合わせることができるようにしてください。この祈りを、尊き主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン