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誰が天に昇るのか、誰が地獄に落ちるのか

2026年9月27日

ローマの信徒への手紙 第10章5-13節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙第10章の、5節から13節までを読みました。既に聖書朗読をお聞きになりながら、いろんな言葉に心が留まったのではないかと思いますし、しかしもしかしたら、ただひとつの言葉に心を捕えられたという方もあるかもしれません。私が何と言っても、心を吸い寄せられるような思いで読みましたのは、8節のこの言葉です。

では、何と言っているでしょうか。
「言葉はあなたのすぐ近くにあり
あなたの口に、あなたの心にある」。
これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。

「言葉はあなたのすぐ近くにあり」と言うのですが、ここは私どもの信仰の感覚からしたら、「み言葉は」と言ってほしいところですね。ただ種々雑多な言葉の洪水がわれわれを呑み込んでいるという話ではなくて、「み言葉が」、神の言葉が、「あなたのすぐ近くにある」。どのくらい近くにあるかというと、「あなたの口に、あなたの心にある」。なぜ「口」と「心」なのかと言えば、その次の9節にもすぐに「口」と「心」が出て来て、「(そのあなたの)口でイエスは主であると告白し、(そのあなたの)心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。しかしこのあたりのことは、来週の礼拝で改めて丁寧に読みたいと思います。

私の口に、私の心に、神のみ言葉が、すぐ近くにある。もちろんそれは、神ご自身がすぐ近くにいてくださるということにほかなりません。「わたしはここにいるよ。あなたのすぐ近くにいるよ」と、神の言葉がいつもすぐ近くに聞こえてくる。どうでしょうか。こういう聖書の言葉が、今日の礼拝を経て、皆さんの愛誦聖句にでもなったら、すばらしいことだと思います。愛誦聖句というのはつまり、もちろん聖書全体が大事なんだけれども、実際にはいつの間にかいくつかの特定のみ言葉が自分の人生に密着してきて、どんなときにもそのみ言葉がわたしの口から離れない。わたしの心から離れない。そういう愛誦聖句というものが、きっと皆さんの心にも残っていることだろうと思います。

■今私は、皆さんのご理解を得た上で、毎月第2日曜日にはここを留守にして、大磯教会というところで説教をし、また午後には長老会の議長をしています。この4月から大磯教会に牧師がいないからです。毎月一度の礼拝で、伝道者パウロの書いたテサロニケの信徒への手紙一を読み進めています。『信徒の友』という日本基督教団の雑誌にも同じ手紙の連載を書き続けていますが、正直に言ってしまえば、その『信徒の友』に書いた文章を語り直すような形で、毎月大磯教会で説教をしています。この手紙を説教していると、いつの間にか、ふた月に1回くらいの頻度で、第5章16節以下の有名な言葉を、つい引用してしまっています。「いつも喜んでいなさい」。「絶えず祈りなさい」。「どんなことにも感謝しなさい」。何かというと、この言葉に帰って行く。別にこの聖句が自分の愛誦聖句だと思ったことは一度もないのですが、やっぱりいつの間にか、私の生活に、どんどんこのみ言葉が密着してきます。いつの間にか、これが私の愛誦聖句になったということでしょうか。

こんなことをわざわざ言うのもどうかと思いますが、今私は皆さんの前で偉そうな顔して説教なんかしていますが、実際の生活はとても皆さんにはお見せできないものがあります。本当につまらないことで腹を立てたり、そうしたら祈りも絶えるし、感謝なんてどこに行ったんだろう。けれども、だからこそ、神の言葉がいつも近くに迫ってきます。「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」。わたしがここにいるよ。だから、「いつも喜んでいなさい」。「絶えず祈りなさい」。「どんなことにも感謝しなさい」。それですぐに悔い改めて、喜びと祈りと感謝に立ち帰るかと言えば、そんなことはありません。人間の心は、というよりも、わたし自身の心は、そんなにうまくできておりません。だからこそ、神の言葉がわたしの近くに迫ってくるのです。「いつも喜んでいなさい」。「絶えず祈りなさい」。「どんなことにも感謝しなさい」。み言葉はいつも、わたしのすぐ近くにある。わたしの口に、わたしの心にある。

■この関連で大切な意味を持つのが、6節です。「しかし、信仰による義については、こう述べられています」。ここは、もう少し原文を大切に直訳してほしかったなと思うところです。私なりに直訳すると、「しかし、信仰による義はこう言っています」。まるで「信仰による義」というものが擬人化されて、それこそ口を持った、心を持った存在としてわれわれに語りかけてくれるようです。何を語りかけてくれるのでしょうか。

この「義」という言葉が出てくるたびに、いちいち説明しなければならないことは、聖書で言う「義」というのは単なる「正しさ」というよりも、「正しい関係」ということです。もちろんここでは、神との正しい関わりのことです。そのことについて、既にその前の5節ではこう言っています。「モーセは、律法による義について、『律法の掟を行う者は、その掟によって生きる』と書いています」。ここにはまず「律法による義」と言います。自分が律法を行うことによって神との正しい関わりを構築していこう、という話です。けれども、そういう試みは既に破綻しているんだ、という話は、私の前回の説教でも前々回の説教でもしました。たとえば先週の礼拝で読んだ3節には、「なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」と書いてあります。自分の義、自分の正しさを立てることによって神との関係を構築していこうとか、もうそんなことは考えるな。

その上で、6節でこう言うのです。「しかし、信仰による義は」。律法による義じゃない。信仰による義だ。あなたの行いじゃない。ただ、神を信じるんだ。そこに造られる、神との正しい関わりであります。

「み言葉が近くにある」とか、「信仰による義が語りかけてくれる」とか、いろんな言い方をしているようですが、その内実は非常にシンプルな話で、神が語りかけてくださる。わたしがここにいるよ。あなたの近くにいるよ。だから、ただわたしを信じなさい。

「しかし、信仰による義は」と言うのですが、カール・バルトという神学者はむしろここをこう訳しました。日本語に訳されているものをそのまま引用する形で恐縮ですが、「しかし、神の真実から生じる義はこう言っている」。「信仰」と訳されている言葉を、「わたしの信仰、わたしが神を信じる信仰」とは読まないで、「神の真実」だとバルトは理解したのです。その理解は、特にこの箇所を読むときにとても大切な意味を持っていると思います。つまり、わたしが神を信じて、その意味で、わたしの側から神との関わりを作ることなんかできないのです。私どもの信心深さなんて、何のあてにもなりません。だからこそ、神が語りかけてくださる。神の真実が、わたしとの関わりを造ります。本当につまらないことで腹を立てて喜びを失い、そうしたら祈りも絶える、感謝なんてどこに行ったんだろう。そんな私どもの生活の中に、「神の真実から生じる義」が語りかけてきます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。私どもとの間に正しい関わりを造ってくださる、神の正しさであります。

■この「神の真実による義」が何を言っているのかというのが、6節以下の少し不思議な文章です。

「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」。それは、キリストを引き降ろすことです。また、「『誰が、底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない」。それは、キリストを死者の中から引き上げることです。

これはどうしても説明が必要な文章ですが、あまり細かすぎる説明をしないほうがよい言葉でもあると思います。要するに結論は、「み言葉はあなたのすぐ近くにある」ということでしかありません。神ご自身が、あなたのすぐ近くにいてくださる。その耳もとで語りかけてくださる。

その上で、「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」と言います。救われるためには、天にまで昇って行って救いを取ってこなければならないのではないか。そのために、一所懸命律法を守り、自分の行いで、自分の義を立てる生活をしないといけないのではないか。そんなことをする必要はない。「それは、キリストを引き降ろすことです」。既にキリストが天から降りて来て、あなたのそばに来てくださったではないか。あなたがキリストを天から引き降ろすんじゃない、キリストが、あなたのところに来てくださったのだ。かくして今や、「み言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」。そのことを大切にしよう。

7節では重ねてこう言います。「『誰が、底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない」。これもそのあとに、「それは、キリストを死者の中から引き上げることです」と書いてあるように、なぜキリストの救いを無視するのか、なぜキリストがしてくださった救いのみわざを否定するのか、という話です。「誰が、底なしの淵に下るだろうか」などと言われると、ぎょっとしてしまいますが、わりと日常的な話だと思います。悲しみの中で、苦しみの中で、あるいはどうしようもない憎しみの心に捕らえられて、少ししつこくて恐縮ですが、喜びも祈りも感謝もどこかに吹き飛んでしまうような生活の中で、「誰が、底なしの淵に下るだろうか」。いや、既にわたしは地獄の中に生きているのではないか。――しかし、私どもの生活というのは実はもっと罪深いので、「誰が、底なしの淵に下るだろうか」。「きっとあいつは地獄に落ちるに違いない。そうであってほしい」。そんなことを言ってはならないとパウロは言います。なぜかと言えば、忘れてはいませんか。キリストが底なしの淵に落とされたことを。あなたの罪のためにキリストは十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦られたことを、きちんと覚えていれば、わかるはずだろう。もう誰も、底なしの淵に下ることはない。かくして今や、「み言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」。その恵みを忘れないようにしよう。

ある説教者がこういう考察をしていて、心から納得したことがあります。われわれはすぐに天に昇ろうとする。自分の力で、自分の頑張りで、自分の義を立てようとする。かと思うと、いろいろな苦しみや悲しみの中で望みを失って、「もうだめだ」。そこでこの説教者はこう言うのです。「このようなわれわれの傲慢とわれわれの絶望は、コインの裏表のようなもので、結局はひとつのものだ。自分で立とうとするから、挫折が絶望になるのだ」。

そのような私どものところに、しかし、主イエス・キリストが来てくださいました。そして今も主は、聖霊によって、何よりもみ言葉において、私どものすぐ近くにいてくださるのです。私どもが傲慢な心に誘われるときにも、絶望の淵に追い込まれるときにも、「神の真実による義はこう言っています」。神の愛が、私どもに語りかけてくださいます。「わたしがいるよ。あなたのすぐ近くにいるんだよ」。わたしの口に、わたしの心に、神の言葉がわたしのすぐ近くにある。そうであれば、9節にあるように、そのわたしの口とわたしの心とをもって、「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。そのように告白しないわけにはいかない。信じないわけにはいかないのです。

■かなり昔のことになりますが、かつてこの教会で信仰生活をなさり、この場所で葬儀をした教会の仲間がいます。この方の入信の経緯が少し面白くて、小さい頃から教会学校に通い、何の疑いもなく神を信じ、主イエス・キリストを信じて成長なさったのですが、16歳の時にお母さまが病を得て、と思ったらたった2週間で亡くなるという経験をなさいます。それはまた、信仰の危機でもありました。小さい時から教会学校で、祈りは必ず聞かれると教えられていたのに、だからこそ母親が亡くなるまでの2週間、昼夜を問わず祈り続けたのに、母は死んでしまった。神に対しても教会に対しても、憎しみの心が湧いて来てどうしようもなかったと言います。「まんまと騙された。神なんかいないんだ」。それっきり、教会に行くのをやめてしまいました。

ところがある時、転機が訪れる。残念ながら今はもう閉店してしまいましたが、福本書院というドイツ語の本屋さんが東大のすぐ近くにありました。そこのお嬢さまです。その福本書院で自分自身も働くことになり、洋書を輸入する仕事をするわけですから、英語を勉強しないといけない。いちばん近くで英語の勉強ができるところは、教会の英語学校だ。最初のうちは英語を勉強するだけで、礼拝に出ることは断っていたそうですが、あるときふと思い立って、「ここはひとつ、礼拝に出てやろう」。神を信じたいと思ったのではありません。「敵の嘘をあばいてやろう」。皆が目を閉じて祈りをしているときにも、自分ひとりだけ目を開けて、教会の人たちを馬鹿にしていたといいます。この人たちは、本当に馬鹿だ。神なんかいやしないのに、いもしない神に祈りなんかして。ところがそのように礼拝に出続けているうちに、いつの間にか信仰開眼の経験を与えられた明確なきっかけになったのが、今朝の礼拝の最初に読んだ詩編第139篇でした。

主よ、あなたは私を調べ
私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り
遠くから私の思いを理解される。
旅するのも休むのもあなたは見通し
私の道を知り尽くしておられる。
私の舌に言葉が上る前に
主よ、あなたは何もかも知っておられる。(1~4節)

このあたり、理屈で信仰開眼の経緯を説明することは不可能だと思いますが、とにかくこの方が教えられたことは、「わたしが神を知るんじゃない。神が、わたしを知っておられる。わたしのすべてを知り尽くしておられる」。

こういう話を聞きますと、先ほど紹介したカール・バルトの聖書解釈の意味がよくわかりますね。「信仰による義」というよりも、やっぱり「神の真実から生じる義」なのだと思わされます。神の真実が、わたしとの正しい関わりを造ってくださる。特にこの女性の場合、「わたしが神を信じました」なんてことは到底言えないのです。神を信じようと思って礼拝に出たわけではない。むしろ「敵の嘘をあばいてやろう」と、神を否定するために礼拝に出てやろうと思っていたのに、神はわたしのすべてを知っていてくださる。最初から! この神の真実が、わたしを救います。

この詩編第139篇の5節に、「前からも後ろからも私を囲み/御手を私の上に置かれる」と書いてあります。私がご本人からこのお話を伺ったとき、特に私が勝手に印象深く読んだのは、この5節の言葉です。礼拝でも祈祷会でも、お祈りのときにひとりだけ目を開けて、神なんかいやしないのに、あいつもこいつもみんな馬鹿だ、と毒づいている20歳かそこらの娘を、「前からも後ろからも囲み」、神さまはどんな思いでその方を見守っておられたかな、と思います。「きみ、どこを見ているんだい。わたしはここにいるよ。あなたの前にも後ろにも、わたしはあなたのすぐ近くにいるんだよ」。

どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。
どこに逃れれば、御顔を避けられよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにおられ
陰府に身を横たえようとも
あなたはそこにおられます。 (7~8節)

もしかすると皆さんの中に、「あれ、今日の聖書の箇所と逆のことが書いてある」と気になった方があるかもしれません。「天に登ろうとも、あなたはそこにおられ/陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられます」と書いてあります。もちろんその通りです。天に昇っても、地獄の底に落ちても、神はそこにもおられます。しかしまた、あの姉妹の思いからすれば、天に昇ったって、地獄のすみずみまで探し回ったって、神さまなんかいやしない、と考えていたのかもしれない。ところが本当は、天に昇る必要なんかなかったのです。「み言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」。「前からも後ろからも私を囲み/御手を私の上に置かれる」。

天に昇る必要なんかありません。底なしの淵に下ることもありません。今も主は、聖霊によって、何よりもみ言葉において、私どものすぐ近くにいてくださるのです。「み言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」のです。お祈りをいたします。

 

父なる御神、ありがとうございます。今もあなたはわたしと共にいてくださいます。あなたのみ言葉が、あなたの真実が、前からも後ろからも私どもを取り囲んでいます。ただただ、感謝です。すぐに喜びを失い、祈りは絶え、感謝なんかどこに行ったんだろうという私どもの生活ですが、そんな私どもを捕らえてくださるあなたの真実を、ただ信じさせてください。どこに行こうとも、あなたから離れることはできません。どこに逃げても、御顔を避けることはできません。ありがとうございます。主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。アーメン

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