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悪魔の誘惑

2026年9月13日

ルカによる福音書 第4章1-13節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

 

主イエスのご生涯、この地上での歩みを記した「福音書」にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つの種類のものがあります。これは、何もどれが正しくて、どれが間違っているということではありません。それでは何故、四つの福音書が聖書になかにおさめられているのでしょうか。それはそれぞれに違う視点で主イエスのご生涯を書き記したと理解してもらえればよいかと思います。

本日の箇所に記されている「荒れ野での悪魔の誘惑」、この記事も、マタイ、マルコ、ルカと三つの福音書に記されております。しかし私たちは、どちらかというと、聖書のはじめの方に記されている、マタイによる福音書の記述の方が印象深いのではないかと思います。実は、マタイとルカがこの場面について詳しく記し、マルコは、非常に簡潔に記しております。ここでもやはりルカにはルカの伝えたいこと、ルカの視点、ルカの特徴があるのです。

第4章の冒頭にこのように記されております。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた」。何気ない記述のように見えますが、実はここが非常に大切なポイントなのです。この直前の第3章の場面で、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。つまりこの時、主イエスは、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられ、聖霊に満たされたまま、故郷であるガリラヤに帰ろうとしているのです。

「聖霊に満ちて」、いわば天の父なる神が一番、自分に近しい、共にいてくださるということを全身で感じながら、しかも、その喜びが一杯になって、今にも溢れんばかりである。そのような恵みに満ちた状態で主イエスは、故郷へと帰っていこうとしていたのです。しかしここである出来事が起こります。

主イエスは「霊」によって、荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から誘惑を受けられたとあります。聖書協会共同訳聖書で「導かれ」と訳されているこの言葉は「連れ回す」、「連れ出す」という意味をもった言葉です。つまり主イエスは「聖霊」によって荒れ野へと連れ回され、乱暴に言うならば、強引に連れ出されて、そこで四十日間、悪魔から誘惑を受け続けられたのです。

マタイによる福音書は、このようには記しておりません。マタイでは、ただ四十日間、何も食べなかった、断食したとしか書かれていないのです。ところが、ルカによる福音書では、四十日に及ぶ間、ずっと悪魔から誘惑を受け続けているという表現でこの場面が描かれています。

私たちは、マタイによる福音書だけを読むと、まるで主イエスが四十日間、断食をして、大変、ひもじい、苦しい状態にあったときに、その隙を狙って悪魔が現れて、主イエスを誘惑したかのように受け取ることができます。しかしルカによる福音書では主イエスは四十日間、聖霊によって荒れ野の中を連れ回され、悪魔から誘惑を受け続けられたように描かれており、主イエスはその間、何も食べず、その期間が終わると、はじめて空腹を覚えられたとあります。

さらに本日の箇所の最後13節を見ると「悪魔はあらゆる試みをし尽くして、時が来るまでイエスを離れた」とあります。つまり、ルカがここで何を伝えようとしているかというと主イエスが悪魔から誘惑を受けられたのは、単なる偶然ではなく、父なる神の意志であり、主の御心、神の救いの計画の中にたしかに位置づけられていたということであります。

悪魔から四十日間、あらゆる誘惑を受けること、四十日というのは一杯一杯、十分にという意味です。そのように主イエスが、悪魔から十分にあらゆる誘惑を受けることはすでに父なる神によって用意されていた。備えられていた。今日の箇所で、具体的に記されている三つの誘惑だけではないのです。荒れ野で、空腹のなか、四十日間、主イエスは悪魔からこの三つの誘惑を含めた、ありとあらゆる誘惑をお受けになられました。

それでは、何故、主イエスは地上での公の伝道を始められる前に、このような悪魔からの誘惑をお受けにならなければいけなかったのでしょうか。何故、主イエスの旅の始まりに悪魔からありとあらゆる誘惑を受けるといったこの出来事が備えられていたのか。それは、主イエスが私たち人間の弱さと繋がりを持ってくださるためです。

私は子どもの頃、この聖書の箇所を読んでいて、不思議に思ったことがあります。それは主イエスはたった一人で、聖霊によって荒れ野へと導かれたはずなのに、どうしてこのような記事が福音書の中に書き残されているのかということです。しかも一つではなく三つの福音書に記されているではありませんか。誰かが隠れてこの様子をそっと覗き見していたのでしょうか。

いやそうではないでしょう。私は思うのです。主イエスご自身がきっと旅の途中で弟子たちにこの出来事を語り伝えたのではないでしょうか。「私は、はじめに悪魔からあらゆる誘惑を受ける機会を与えられた。だから私はあなたがたがこれから受ける誘惑の恐ろしさをすでに知っている。そこにしっかりと繋がっている。だからあなたはけっして一人ではない。あなたが誘惑を受けるとき、私はあなたと共にいる」。このように、主イエスはいつも弟子たちのことを励まし、教え、伝え続けていたのではないかと思うのであります。

主イエスは、何も弱さを知らずに、伝道の旅をなされたのではありません。旅のはじめに、悪魔からあらゆる誘惑を受け、人間の弱さを知った上で、苦しみ、迷い、痛み、その人間と同じ地点に立った上で、この地上での歩みを始められたのであります。

ルカによる福音書はクリスマスの箇所で主イエスが聖霊によっておとめマリアから生まれたという物語を書き記し、主イエスが神の子であることを強調しながらも、本日の悪魔の誘惑の記事のように人間と同じ地点に立ってくださる主イエスの姿を証しします。それは人間が抱える苦しみ、迷い、痛みを主イエスが共に担ってくださるという真実を私たちに伝えます。

私たちは誘惑、試練に遭うとき、すぐに負けてしまう弱さを抱えています。苦しみ、迷い、自らの殻に閉じこもってしまう情けない自分の存在を知っています。ときにそんな自分の不信仰さにがっくりしてしまうことがあるでしょう。しかし、主イエスはそんな私たちの姿をただじっと何もせずに上から見物しているわけではありません。悪魔から、あらゆる誘惑を受けて、人間の弱さ、迷い、痛みを知った主イエスが私たちと同じ地点に立って、その苦しみを共に負い、いまも担ってくださっている。だから私たちも誘惑に遭うとき、けっして一人ではないのであります。

さて、主イエスはその悪魔から受けたあらゆる誘惑を三つに要約して紹介します。一つ目はお腹が空いているわけですから、神の子なのだから、石をパンに変えてみろ、つまり、自分の空腹を満たすために超能力を使ってみろ、と言う。二つ目は、世界の権力と栄華が一望できるようにして、自分はこれらの権限を任されているから、これが欲しければ、自分を拝め、礼拝しろ、と言う。三つ目は、神殿の高い所に主イエスを連れていき、飛び降りてみよ、あなたが神の子なら天使が来て、あなたのことをしっかり守るだろう、と言う。主イエスはそれぞれの誘惑に対して、旧約聖書の申命記の言葉を用いて、これら三つの誘惑を見事に退けました。

これら悪魔の投げかけはそれぞれに違う視点から誘惑を捉えているように見えます。しかしこれら三つの誘惑には、共通した根幹がありました。それが主イエスが三つ目、最後の悪魔からの誘惑を退ける際に用いた申命記の言葉に示されています。その言葉はこうです。「『あなたの神である主を試してはならない(申命記6章16節)』と言われている」。

誘惑とは、何も欲望をあおられて、甘党の人が我慢しなければならないのについついお菓子に手が伸びてしまうといったレベルのことを言うのではありません。誘惑とは「試みる」ということです。私たちは主の祈りのなかで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈ります。あの退けてほしいと神に祈っている「試み」こそが「誘惑」の本質なのであります。「試みる」とはその文字の通り、つまり「試す」ということです。

いきなりですが、みなさんに質問です。家族、友人、同僚、恋人、これら大切な人との信頼関係を破壊するものはいったい何だと思いますか。答えは、簡単です。その相手を試すことです。相手のことを信じることができず、その人を試してみる。「本当にその人が自分のことを大切に思ってくれているか」、かまをかけてみる。一度なら、まだしも、何度も相手のことを試し続けていれば、その人との関係はやがて崩壊していきます。

人を信じられずに人を試すとき、人間が相手に求めるものはいったい何でしょうか。それは証拠であります。私たちは人間関係においても、目に見えない神様との関係においても、ついつい目に見える、信じるに価する、自分を十分に納得させてくれるような証拠を相手に求めてしまってはいないでしょうか。

悪魔の誘惑、これらはすべて、主イエスが「神の子」であることの目に見える証拠を求める試みでありました。これができたら、お前が神の子であることを、皆が認めるであろう、承認するであろうと、悪魔は主イエスを上へ上へと持ち上げて、人々が納得するような神の子であることの条件を主イエスに提示していったのです。

私たちも試練に遭うとき、迷うとき、苦しみにあうとき、痛みを負うとき、いったい自分が何者であるかを見失うとき、この悪魔と同じように神を試してはいないでしょうか。先ほど、悪魔から、あらゆる誘惑を受けて、人間の弱さ、迷い、痛みを知った主イエスが私たちと同じ地点に立って、その苦しみを共に負い、いまも担ってくださっている。だから私たちも誘惑に遭うとき、けっして一人ではないと言いました。しかし実際に自分が試練のなかにあるとき、この真実を素直に信じることができるでしょうか。そう上手くはいかないでしょう。信じることのできない私たちがいます。

何故なら、私たちは、目に見える証拠が欲しいからです。神が共にいるなら、目に見える仕方で助けて欲しい、この苦しみから救い出して欲しい、奇跡的な御業を用いて救いの御手を差し伸べて欲しいと願います。その願い自体がすべて間違っているとは言いません。しかしその願いを続けているうちに、知らないうちに、神を信じることが神を認可することへと、神を認めてやることへとすり替わってしまってはいないでしょうか。自分が納得できる神でいてもらいたいのです。しかし自分が何者であるか分かったとき、自分が神よりも上に立っていることに目が開かれていきます。そしてはじめて、それが実に傲慢であり、可笑しなことであるかに気づかされていきます。

先日、あるテレビ番組を見ていたら、猫の特集をやっていました。その番組ではいろいろな猫の日常を切り取って、編集し、放送していたのですが、印象に残った場面がありました。それは、猫が木や建物の塀など高いところにどんどんと登っていく光景です。その番組の説明によると、どうやら猫というのは高いところに行くことを好むようです。しかし下に降りるのは苦手。高いところで他の猫たちとにらみ合い、いがみ合い、血で血を洗うような争いはしないけれど、負けるとそっとその場から退散していく。

私たちも猫とどこか似ているかもしれません。誰よりも上に立つことが大好きです。逆に、誰かに上からものを言われることは嫌いです。それがたとえ神であったとしても許せない。自分の人生は自分の思うように描きたい。自分の願うように事が進んでほしい。そのために他人より上のポジションにいて人から認められたい。愛されたい。目に見えるかたちで大切にされたい。そうやって平気で人を試し、神さえ試して、神よりも上に立って、自分に都合の良い、自分が納得できる神様をどこかででっちあげてしまいます。

しかしそんなことをいくら続けていても、私たちは本当の意味で自由になることはできません。本当の意味で救いを得ることはできません。いつまでたっても、どうしても満たされない苦しみ、迷い、空しさ、痛みが心に残ります。

けれども私たちは一度、上に登ってしまったら、下に降りていくことが苦手です。まるで猫のように互いに高い位置でいがみ合い、意地を張って、すぐに自分のつまらないプライドにしがみついて、自分のフィルターを破って下へと降りていくことがなかなかできません。しかし聖書は自分の身分さえ捨てて下へ下へと降りていった御方の神の子の姿を証しします。

本日の箇所に戻って、先ほど共に聴いた13節、「悪魔はあらゆる誘惑をし尽くして、時が来るまでイエスを離れた」とあります。この「時」とはいったいいつでしょうか。おそらく十字架の時と考えることができるでしょう。主イエスは神の子でありながら、人の子としてこの世に生まれ、私たちと同じ弱さを知って、私たちと同じ地点に立って、これから私たちの罪を背負って十字架へと向かわれていきます。そして時が来たとき、まさに時満ちて十字架につけられ、人々に見捨てられ、殺されていく。

主イエスはこの十字架上で最も激しい悪魔からの誘惑をお受けになったのではないでしょうか。それでも、最後まで、主イエスは父なる神を試みるようなことはなさいませんでした。「父よ」と祈りながら、最後まで、主の御心を信じ、ただ父なる神に信頼し続けました。そして、ついに主イエスは陰府にまで降っていきました。

私たちと共にいてくださる神は他でもないこの主イエス・キリストの父なる神であります。たしかに目に見えるような奇跡はそう簡単に起こらないかもしれしません。私たちをすぐに納得させてくれるような証拠はそこにないかもしれません。しかしここにけっして揺らがない主の御心、神の救いの計画があるのです。私たちはそれを私たちに与えられている神の言葉を通して今日もこの礼拝のなかで知らされていきます。私たちに与えられているのはこの神の言葉しかないのです。奇跡など必死に求める必要はありません。そんなのあてにならない。私たちにはこの神の言葉があるのです。私たちはこの神の言葉に信頼し、そこにしっかりと立つことができるでしょうか。

父なる神は、三日目に陰府から主イエスを引き上げ、復活させ、この御子を信じる者に永遠の命を与えようとされる。私たちの主である神を試してはならない。自分に納得のいく神様を求めるのではなく、主の御心に、私たちの心を向けたいのです。上に登るのではなく、へりくだって下へと降りていきたいのです。そこに十字架の主がいてくださいます。そしてもう一度、共に生きようと語りかけてくださる。あなたは私のもの、大切な神の子だと宣言してくださる。その十字架のキリストにこそ、あらゆる誘惑から我らを救い出し、我らを喜びへと引き上げるまことの救いがあるのです。今週も主を拝み、主に仕え、神の言葉に信頼する歩みをともになしていきたい。ここに私たちの自由が、私たちが生きるためのただ一つの慰めがあります。

 

父よ、すぐにあなたを試し、自分の思うような救いを求めては、それが手に入らないと嘆き、あなたに怒りをぶつけてきた私たちです。主よ、この私たちの愚かさを、弱さを、恥をあなたの御前に、悔い改めます。本当は、知っているのです。目に見えるような証拠などいらないのだということ、本当は、あなたの言葉が欲しいのだいうこと、その言葉を、私は信じたいのだということ。どうか、信じさせてください。そこに重荷のすべてを委ねさせてください。あなたを拝み、あなたに信頼し、この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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