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自己義認の終焉

2026年9月20日

ローマの信徒への手紙 第10章1-4節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙を読み続けてまいりまして、今朝から第10章に入ります。何度もお話ししている通り、第9章から第11章までがひとつの大きな区分となります。この大きな区分において大切なこと、私どもが心を打たれることは、この区分のいちばん深いところには祈りがある。切実な祈りに根ざす、痛みがあるということです。既に第9章2節以下に、こう書いてありました。

私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。

この箇所を説教したときにもお話ししたことですが、3節の最後に「とさえ思っています」と訳されているのは、むしろ「と、わたしは祈りました」、「何度も祈りました」と訳すべき言葉です。何を祈っているのでしょうか。パウロの同胞であるイスラエルの救いです。そのために、パウロは祈っている。「神よ、彼らが救われるためなら、どうかわたしを呪ってください」。「わたしはそのように祈りました。何度も祈りました」。その祈りを、今日読んだ第10章1節でも繰り返しています。「きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。

この1節の言葉は、実は語学的に興味深いところで、ギリシア語の文法から言えば、規則通りの整った文章ではないのです。ある学者の説明を読んで、「なるほど」と思ったことなのですが、この1節の文章の最後に「が」という接続詞を入れたほうがいい、というのです。もう少し原文を直訳すると、こんな感じです。「私の心からの願いは、神に対する祈りは、彼らの救いなのですが」。ところが、そこでひとつの文が終わってしまっているのです。「が」のあとが続かない。「わたしの願いは、彼らが救われることなのですが」。「わたしはそのために、何度も祈ったのですが」。その祈りは、まだ聞かれていない。わたしは今なお、神の答えを待ち続けているのだ、というニュアンスです。

これも何度もお話ししていることですが、ここで主題になっているイスラエル・ユダヤ人というのは、神に特別に愛され、特別に選ばれた、特別な神の民です。ところがそのイスラエルが、パウロの証しするキリストの福音に対して、いちばん頑なになってしまっている。どうしてそういうことになるのだろうか、ということについて丁寧に論じているのが、この第9章から第11章なのです。しかし今私は「論じている」と言いましたが、パウロはここでただ議論をしているだけではありません。祈っているのです。「わたしの祈りは、彼らが救われることなのですが」。そのあとが続かない。そういう、半ば絶望的な祈りの心を、私どもは知っているでしょうか。

■2節にはこう書いています。「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません」。この文章は、一方から言えばユダヤ人を弁護しているとも読めます。決して彼らは不真面目なのではない。「神に対して熱心である」。ユダヤ人ほど神に対して熱心な人間はいない。そのことを、わたしは証言したい。ところが問題は、「その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません」。ただ熱心なら何でもいいというわけにはいきません。無知な人間が熱心になるほど、たちの悪いものはないのです。

イスラエルの熱心とは、いったいいかなる熱心であったのでしょうか。いったい、彼らに欠けていた正しい知識とは、いかなる知識だったのでしょうか。その問いを前提としつつさらに3節を読んでみると、胸を突かれる思いがいたします。「なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。彼らの熱心は、実のところは、「自分の義を求めようと」する熱心でしかなかったというのです。

「自分の義を求めようとして」。もしかするとここは、厳密に言えば翻訳が間違っているかもしれません。原文には、「自分の義を立てることを追い求めて」と書いてあります。「自分の義を求める」というよりも、「自分の義を立てることを求めた」。その「求める」というのも、2節に出てきた「熱心」とは少し言葉が違うのですが、やはりここも「熱心に追い求めて」と言葉を補ってよいところです。彼らは、熱心に追い求めた。何を追い求めたのか。自分の義を立てることだ。

取り立てて性格の悪い人のことを思い浮かべる必要はありません。自分の義を立てる。そのことを、熱心に追い求める。私どもの誰もが、毎日していることです。自分の義をびしっと立てて、「どうだ! 俺が正しいんだ!」と、自分の義、自分の正しさを立てる。自分の正しさを主張するために、私どもはいちばん熱心になるのです。「わたしは悪くない」、「わたしのせいじゃない」、「あの人が悪いんだ」。年がら年中そういうオーラを放っている人に辟易する経験は、誰しも思い当たるものであります。しかも気づくと、いつの間にか自分自身がそういう病的な心を持っていることに気づかされるのです。

一所懸命いいことをしよう、愛のわざをしようとしているときに、それがほかの人に理解されないことがあります。ふとした拍子に自分に対する悪口が聞こえてきたりします。「またあの人、あんなに出しゃばって」。そうしたら、もう我慢がなりません。夜も眠れなくなります。なぜでしょうか。私どもが、自分の義を立てようと、そのことしか熱心に追い求めていないからです。そして実は私どもは、聖書なんか読まなくたって、そういう人間の根本的な問題に気づいているとも言えるのです。

けれども本当の問題は、そこにとどまりません。問題は、もっと深いのです。もう一度3節を読みます。「なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。本当の問題は、ただわれわれが自分の義を立てることに熱心になっていることではなくて、なぜそうなってしまうかというと、「神の義を知らないから」、「神の義に従わなかったからです」。既に2節で、彼らの熱心には正しい知識が伴っていないと言われていたわけですが、実はその無知というのは、神の義を知らない無知であると言うのです。

神の義とは何でしょうか。神の正しさとは、いったいいかなる正しさを意味するのでしょうか。

■先月の雪ノ下通信にも報告が載りましたが、7月に教会学校の幼稚科の夏期学校が行われて、ルカによる福音書第15章の伝える〈放蕩息子の譬え話〉と呼ばれる物語を、子どもたちの前で寸劇にして演じるということをいたしました。ある人にふたりの息子がいた。兄と弟。ところがその弟のほうが父親から貰った大切な財産を全部自分の欲望を満たすために使い果たしてしまい、仕方なく家に帰って、どんなにお父さんに怒られるかと思ったら、お父さんは喜んでこの弟息子を迎えてくれた。盛大な宴会まで用意してくれた。ところがそれを見た兄息子が、かんかんに腹を立てて家の中に入ろうとしなかった、という話です。この〈放蕩息子の譬え話〉については、先月の礼拝でも一度お話ししました。またその話か、と思っている方のために今のうちに申しますが、ローマの信徒への手紙第9章から第11章まで――これが大きなひとつの区分だと申しましたが――第11章を読み終えるまでに、あと1、2回はこの放蕩息子の話に触れるつもりです。しつこいな、と思われるかもしれませんが、この第9章、第10章、第11章の心を理解するために、とても大切な話だと思っているのです。

その幼稚科の夏期学校ですが、先ほど申しましたように、子どもたちの前で寸劇をしました。柳沼先生が放蕩の限りを尽くした弟息子を演じてくれました。最後にぷんぷん腹を立てた兄は、教会学校教師の皆さんの総意で、私が演じることになりました。「うん、兄っぽい」と思われたんでしょうかね。ただ問題は、この寸劇には台本も何もない。いったいどうしようかなと、わりと真剣に悩みました。それでようやく当日になって、教会学校の関係者に尋ねました。「話の最後のところは、どうしたらいいですか」。そうしたら、あまり芳しい答えは返って来ず、「え? いや、聖書の通りでいいですけど」。念のために申しますが、私は今ここで、誰のことも責めるつもりはありません。しかし聖書の通りだと、劇にはなりにくいのです。聖書の通りにやると、兄は怒る。父親はなだめる。「お前も家に入りなさい」。ところが主イエスの譬え話は、そこで終わっているのです。兄の返事は、ないのです。なぜ兄の返事がないのか。兄息子の答えを、今なお待ち続けているからです。この手紙を書いたパウロも、今なお兄の答えを待ち続けている。いや、ただ待っているだけじゃない、祈り続けているのです。「兄弟たち、わたしの心からの願いは、神に対する祈りは、彼らが救われることなのですが」。けれども、その祈りはまだ聞かれていないのです。兄息子たるイスラエルは、まだ父親の招きの声にきちんと答えていないのです。「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を立てることを追い求めて、神の義に従わなかったからです」。兄は、言い換えればイスラエルは、今なおつまずきっぱなしなのです。

けれどもそれでは、少なくとも小さな子どもたちの前でする劇にはならないので……たとえば、こういうシナリオはどうでしょう。最後までお兄さんはかんかんに腹を立てたままで、ドアをバタンと締めて出て行ってしまう。そのまま二度と帰って来ない。でも、そんな話は子どもたちの前ではやりにくい。それで私も百歩譲って、お兄さんもお父さんになだめられて家の中に入って行って、それで弟もお兄さんも仲良く、お父さんと一緒においしいお菓子を食べました、という話になりました。パウロが祈り続けていることは、まさしくそのことなのですが。パウロの祈りは、心からの願いは、彼らが救われることなのですが。けれども、ルカによる福音書が明確に伝えることは、兄は結局父の家に入ろうとしなかった。そして怒り狂ったまま、イエス・キリストを十字架につけたのです。

■主イエスがこのような譬え話をお語りになったとき、もちろん兄の頑なさををご存じの上で、こういう話をされたに違いない。そしてこの手紙を書いたパウロもまた、こういう兄息子の頑なさをよく知っているのです。なぜ兄は、こんなに頑ななんだろう。こんなに神に愛されているのに。なぜいちばん愛されているはずのイスラエルが、こんなに頑ななんだろう。そのことを嘆きながら、パウロはここで、こう言うのです。

私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

彼らは、神の義を知りませんでした。神の義、神の正しさとは何か。罪人を赦す正しさです。罪人を赦し、義としてくださる神の正しさです。なぜその「神の義に従わなかった」のかと言えば、この神の義を認めたら、自分の義が立たなくなるからです。自分を支えていた自分の正しさが、全部台無しになるからです。放蕩息子の兄の怒りは、そのことをよく表しています。なぜ私の義が認められないんですか。なぜあの弟が赦されるんですか。なぜあいつのほうがあなたに喜ばれるんですか。だって、全部あいつが悪いんですよ?

3節の終わりには、「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」と書いてあります。この「従わなかった」というのは、もう少し強く、「屈服しなかった」と訳したほうがよかったかもしれません。あの兄息子にとって、弟を赦す父の正しさを認めることは、屈服することでしかありませんでした。自分が一所懸命立ててきた、誰よりも熱心に立ててきた自分の義を、全部捨てることを意味するからです。

自分の義を立てようと、ただそのことを追い求めて病んでいるのは、別に昔のイスラエルだけの話ではありません。神の義を知らず、自分の義を立てようと熱心に追い求めて、神の義に屈服しようとはしないのは、すべての人間の病です。インターネットの匿名の世界に行くと、ますますはっきりするかもしれません。「あいつが悪い」、「こいつが悪い」と言いたいだけ悪口を言いながら、「自分は悪くない」「自分がいちばん正しいんだ」ということを確かめ合っている、その熱心さは、病的なものがあります。しかも、ふと気づくといつの間にか自分自身がそういう自己義認の病にとりつかれていることに気づかされるのです。そういう世界の中で、放蕩の限りを尽くした弟息子をただで赦してこれを迎えた神の正しさは、いったいどこに場所を得るのでしょうか。

もっと謙虚になろう、などという道徳の話をしているのではありません。神の義を知ろう。私ども自身が、ただ神に赦されて、ただ神に愛されて、そうして神の正しさによって今ここにあるを得ているのです。

■そこで最後に4節です。「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」。ここで、聖書の解釈上非常に豊かな議論をもたらしてきたのが、「キリストは律法の終わり」というこの言葉です。ひとつの読み方はこうです。「イエス・キリストがおいでになったことで、律法の生活は終わりを告げた。律法の行いによって自分の義を立てる生活は、もう終わったのだ」。その決定的なしるしがキリストの十字架です。キリストが十字架に付けられたのは、特別に悪い人たちが、特別に悪いことをした結果なのではありません。そうではなくて、考えられる限り最も正しい人たちが、自分たちの義を立てよう、自分たちの正しさを完璧に確立しようとして、キリストを十字架につけたのです。その結果、人間の、人間による、人間のための律法の生活は終わりを告げたのです。

ただし、このような読み方をする場合は、「律法の終わり」というよりも、「律法主義の終わり」と言ったほうが正確かもしれません。今日の説教の題を、「自己義認の終焉」としました。われながら気取った題だと思いますが、意図は汲み取っていただけると思います。「自己義認」、何も難しい話ではありません。自分は悪くない、正しいのは自分だと言い続けることです。キリストの十字架は、その私どもの自己義認が見事に殺された場所でもあったのです。

けれどももうひとつ、こういう読み方があります。「キリストは律法の終わり」と書いてありますが、少し前まで使っていた新共同訳は、この部分を「キリストは律法の目標であります」と訳しました。語学的にはどちらにも訳せる言葉で、「律法の目標」、「律法のゴール、最終目的地」、「律法の完成」、それをまた聖書協会共同訳のように「律法の終わり」と訳すこともできるのです。しかし、そうするとずいぶんニュアンスが変わってしまいます。「キリストは律法の目標」と訳すと、キリストによって律法の生活が終わってしまった、破棄されてしまったとは読めません。むしろ律法は、キリストによって完成されたのである。

先ほど、出エジプト記第20章の最初のところを読みました。私どもが毎週礼拝のはじめに十戒を唱えるときにも必ず読む聖書の言葉です。

それから神は、これらすべての言葉を告げられた。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」。

律法の根本にある心は、このようなものでありました。「私は主、あなたの神」。わたしがあなたの神なんだ。だから、わたしはあなたを救った。わたし以外に、あなたの神はいないんだよ。その律法の心が破棄されるわけがありません。むしろ、主イエス・キリストがおいでになったとき、たとえば放蕩息子の譬え話が語られたとき、「わたしがあなたの神なんだ」という神のみ心が、見事に完成するのです。その意味では、やはり「キリストは律法の目標、そして完成である」と言わなければなりません。

■この神の愛を無視して、神の正しさを知らないで、ただ自分の義を立てることに熱心な人間の生活が、どんなにみじめなものになっているかと思うのです。何度でもルカによる福音書の放蕩息子の譬え話に戻りますが、兄が腹を立てて家に入ろうとしなかったとき、「父親が出て来てなだめた」と書いてあります。この「なだめた」と訳されている言葉はたいへん広い意味を持つもので、たとえば「慰めた」とも訳すことができます。鎌倉雪ノ下教会においてほとんど聞き飽きるほどに繰り返されてきた「慰めの共同体・教会」と言うときの「慰め」です。そのいちばん基本的な意味は「そばに呼ぶ」ということです。「父親が出て来て、兄息子をそばに呼んだ」。お前もこっちにおいで。わたしの愛の中においで。お前の正しさではなくて、わたしの正しさの中に入っておいで。今私どもが生かされている教会とは、そのように、神の正しさに呼ばれて、神の正しさに慰めれた共同体であります。

いまだに、兄息子的な自分の義にこだわっている私どもであることを、悲しく思います。そんな兄をもなだめて、慰めて、そばに呼んでくださる神の正しさを知った今は……呼ばれたなら、答えないと。

パウロは、この神の願いを、また自分自身の願いとして、この手紙を書きました。「兄弟たち、わたしの心からの願いは、わたしの神に対する祈りは、彼らが救われることです」。どうか、わたしの愛するあの人が、神の正しさを知ることができるように。罪人を赦す、神の正しさによって救われますように。私どももまた、その祈りに召されていると思います。お祈りをいたします。

 

神よ、どうか私どもを憐れんでください。私どもの住むこの国を、この世界を、どうか憐れんでください。神の義を知らず、自分の義を立てることにだけ熱心で、人の義を立てることにはそれほど熱心にはなれません。まして、あなたの正しさを追い求めることについてまったく怠慢な私どもが、互いに自分の義を立て合い、互いに裁き合い、傷つけ合い、命までも縮め合っています。そんな私どもの義を打ち砕くために、そして神の義を打ち立てるために、あなたの御子キリストは十字架につけられました。主の十字架の愛に支えられて、私どももまた隣人の救いのために熱心になることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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