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人をつまずかせる石、人を救う岩

2026年9月6日

ローマの信徒への手紙 第9章30−33節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■伝道者パウロの書いたローマの信徒への手紙を読み続けています。7月から第9章に入り、一応足掛け3か月、この第9章を読み続けていることになりますが、この第9章以下、第10章、第11章までの心を理解する上でとても大切な言葉、何度でも立ち帰らなければならないのはその冒頭の言葉です。

私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。

伝道者パウロには、悩みがありました。悩みなんて言葉では足りない、心がずきずき痛むような悲しみがありました。それは、パウロの同胞イスラエルのことです。こんなに神に愛されているのに、神さまにこんなに特別にえこひいきまでされているのに、よりにもよってどうしてそのイスラエルが、イエス・キリストの福音を受け入れようとしないんだろう。その伝道者パウロの思いは、この日本という国に生きる私どもの思いにも深く重なるものがあるはずだ、という話から、この第9章の説教を(7月から)始めました。どうして、99パーセント以上の日本人がキリストの福音に対して心を閉ざしたままなのでしょう。こんなに愛されているのに……。「私たち自身、肉による同胞・日本人のためなら、キリストから離され、呪われてもよいと思っています」。わたしの愛する家族のためなら、わたしの愛する友人たちのためなら、神よ、代わりにわたしを呪ってください。きっと私どももそう言えるし、そう言わなければならないと思うのです。

■そこで、今日読んだ第9章30節以下であります。「では、何と言うべきでしょうか」。神に特別に愛されたはずのユダヤ人が頑としてキリストの救いを受け入れない。ところがそれに対して、全然神の愛と関係ないと思われていた異邦人が、次々と神に招かれ、神に愛され、福音を受け入れていく。そのような状況について、「わたしたちは、何と言えばよいのでしょうか」。そこで、続けてこう言うのです。

義を追い求めない異邦人が義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです。イスラエルはつまずきの石につまずいたのです。

どうでしょうか。たとえば、先ほど私が聖書を朗読するのをお聞きになって、どういう感想をお持ちになったでしょうか。「特に感想なんかない、印象の薄い言葉だ」という感想もあったかもしれません。しかし私は思うのですが、聖書の福音の急所を、こんなに鋭く言い表した言葉はなかなかないのではないか。この言葉がわかったら、新約聖書の大事なところは全部わかったと言っても差し支えない、それほどの内容がこの一節には込められていると思うのです。

「イスラエルは義の律法を追い求めていた」と書いてあります。この「追い求める」という言葉も激しい意味を持つもので、文脈によっては「迫害する」という意味にもなります。むしろ新約聖書では「迫害」の意味で使われることのほうが多いと思います。血眼になって隠れキリシタンを探すように、そのくらいの熱心さで、「イスラエルは義の律法を追い求めていた」。なぜそんなことを頑張ったかというと、「信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです」。言葉の細かい意味はわからなくても、それでもよくわかる言葉だと思います。「信仰によってではなく、行いによって」というのは、敢えて不正確の誹りを恐れず、もう少し現代的な言い方で言い換えるなら、「頑張れば認められると考えたからです」。なぜイスラエルは血眼になって「義の律法を追い求め」たのかと言えば、頑張れば認められると考えたからです。頑張らなければ認められないと考えたからです。「信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです」。

ところがそこには根本的な勘違いがあって、何をどう勘違いしていたかというと、「神は愛だ」。そのことを根本的に忘れていたのです。「信仰によってではなく、行いによって達せられると考えた」。ただ信じればいいのに、ただ神の愛を信じればいいのに、「行いによって達せられると考えた」。そうしたら、どんなに頑張っても「達せられる」ことはないのです。いつまで頑張ってもゴールに着くことはないのです。100メートル競走、よーい、ドン。ところがゴールとは逆の方向に全速力で走り始めて、どんなに血眼になって、歯を食いしばってどんなに走り続けても、いつまでたってもゴールに着くことはないのです。ところがその一方で、「義を追い求めない異邦人が義、しかも信仰による義を得ました」。走ってすらいない。何も頑張っていない異邦人が、ただ神に愛されて、ただ神の愛を信じて、救われて、悠々とゴール地点で笑い合っている。どうしてこういうことになるんだろうかと、パウロは私どもにも問いかけていると思います。

■かなり昔に説教の中で紹介したことがあると思うのですが、晴佐久昌英というカトリック教会の神父の書いた『生きるためのひとこと』という本があります。いろんな意味でよく売れている神父ですが、特にこの本は宗教色が強くないというか、そういう意味でもよく売れているようです。『生きるためのひとこと』というのは、たとえば、「おはよう」とか、「行ってきます」とか、「あった!」とか。そういう何気ない〈ひとこと〉が、人を生かす。

この書物の中に、「いいよ」という題の文章があります。少し引用します。

そのお母さんは、深刻な顔で口を開いた。
「娘が摂食障害で苦しんでいます。すっかりやせてしまいました。どうしていいか、わからないんです」
聞けば、何も食べようとしないし、食べてももどしてしまうそうで、学校にも行けないとのこと。本人もつらいだろうが、家族の心痛も相当なものだろう。専門の病院にも行ったが、しばらく休ませてくださいと言われ、とりあえず薬を処方されたということだった。……

聞けば都内の有名な進学校で、晴佐久神父も思わず、「ああ、あの学校ですか。受験、たいへんだったでしょう」。「はい、せっかくあんなにいい学校に受かったのに、行かなくなるなんて……」。「食事ができなくなったって、いつからですか?」「入学式の次の日からです」。そこで晴佐久先生は言うのです。いや、原因なんてわかりきっているじゃないか。このお嬢さん、入学式の日に悟ったのでしょう。「頑張れ、頑張れ、もっと頑張れ。休んだら、そこで試合終了ですよ?」「わたしの人生、死ぬまで地獄だ。来年も、再来年も、きっと5年後も10年後も、この地獄はいつまでも続くんだ」。それで、この晴佐久神父は、お母さんにこう言ったそうです。

「お天気のいい日に、おいしいお弁当をつくって、娘さんとピクニックに出かけてください。眺めのいい木陰にシートを広げて並んで座り、真心込めてこう話してください。『学校に行かなくてもいいよ。勉強しなくてもいいよ。お母さんは、ただあなたがいてくれればそれでいいの。……何があろうとも、だれがなんと言おうとも、あなたを守るから安心してね。お母さんは、あなたを愛してる』と。娘さんは、涙をこぼして、お弁当をひとくち食べますよ」
すると、お母さんは、こう答えた。
「そうおっしゃるけど神父様、せっかくあんなにいい学校に受かったのに!」

それでこの文章は終わりです。続きはありません。正直なところ、この文章を最初に読んだとき、少し血の気が引きました。ものすごくいい話だなあ、と思ったのに、どうしてこんな終わり方なんだろう。続きは、書けなかったのかもしれません。さらに悲しい結末が続いたのかもしれません。

■「頑張れば認められる」と考えて、何かの律法を血眼になって追い求めているのは、きっと日本人も同じなのでしょう。今紹介した文章の題は「いいよ」というのです。「学校に行かなくてもいいよ。勉強しなくてもいいよ。ただあなたがいてくれれば。お母さんは、あなたを愛してる」。もしもこのお母さんが、口が裂けてもそんなことは言ってくれない毒親であったとしても、イエスさまは「いいよ」と言ってくださるに違いない。「それでも、わたしはあなたを愛しているよ」。けれども問題は、私どもは容易にその神の愛を受け入れようとしないのです。「そんな甘ったれたことで、生きていけるか」。そういう事態を捉えて、パウロは33節で「つまずきの石、妨げの岩」と言うのです。もう一度32節から続けて読んでみます。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです。イスラエルはつまずきの石につまずいたのです。
「見よ、私はシオンにつまずきの石
妨げの岩を置く。
これを信じる者は、恥を受けることがない」
と書いてあるとおりです。

このつまずきの石とは何か。イエス・キリストご自身であります。あるいは、キリストの福音と言い換えてもいいかもしれない。晴佐久神父のあの文章で言えば、「いいよ」という、このひとことを体現されたお方、それがイエス・キリストであり、イエス・キリストの福音です。「学校に行かなくたって、勉強ができなくたって、いいよ。ただ、あなたがいてくれれば」。

「いやいや、そうおっしゃるけど神父様」。「そうおっしゃるけどイエスさま」。だって、せっかく、あんなに頑張ったのに……。「生きるためのひとこと」があれば、「殺すためのひとこと」もあるのだと思わされます。しかもどういうわけか私どもは、「殺すためのひとこと」のほうが大事だと考えている節があるのです。なぜでしょうか。「信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです」。なぜそう考えたのでしょうか。頑張った自分を認めてほしいからです。まさにそこで、私どもはつまずきの石につまずくのです。イエス・キリストご自身につまずくのです。

■この主イエス・キリストというお方が、ルカによる福音書第18章の9節以下で、こういう譬え話をなさいました。ファリサイ派の人と、徴税人と、ふたりの人が神殿に祈りをしに行ったというのです。

「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。

おそらくですが、このファリサイ派の人は、本当にそうしていたのだと思います。何ひとつ悪いことはしたことがありませんでした。その人生の中で、立派なこと、良いことしか、したことがありませんでした。「実は隠れて悪いこともしていたんだろう」などと余計な勘繰りをする必要はありません。このファリサイ派の人は、完璧な生活をしていた。そのファリサイ派の人に対して、もうひとりの徴税人はこのように祈ったというのです。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。

「義とされて家に帰ったのは」と主イエスは言われました。こういう言い方を許していただきたいと思いますが、私はこの言葉が大好きです。「義とされて、家に帰った」。「義」という言葉が難しいかもしれませんが、この言葉については特にローマの信徒への手紙を説教するようになって何度もしつこく説明していると思います。義というのは、その人が正しいか正しくないかという次元の話ではなくて、「正しい関係」のことです。私ども人間同士の間でも、関係がひん曲がってしまうことはいくらでもあるでしょう。「なんか、関係が曲がっちゃったな。困ったな」。ところがこの徴税人は、義とされて家に帰った。神さまにまっすぐに愛されて、神さまと一緒に家に帰ったのです。私どもがこのように礼拝をしているのも、義とされて家に帰る、神とのすばらしい関係に包まれて家路に着くためでなかったら、何のための礼拝だろうかと思います。

けれども、一方のファリサイ派の人は、そうではなかった。神は、このファリサイ派と一緒に家に帰ってくださらなかったと言うのです。

このファリサイ派について、主イエスはたいへん興味深い表現を用いておられます。先ほども読みましたように、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」と書いてあるのですが、「心の中で祈る」というのは「黙祷した」という意味ではありません。原文を直訳すると、「自分自身に向かって祈った」と書いてあります。ひとりで神殿に来て、ひとりで祈って、「神さま、感謝します。私は何も悪いことをしていません」。そう言いながら、実はずっとひとりぼっちです。「信仰によってではなく、行いによって達せられると考えた」人間の孤独は、このようなものでありました。

神さまだって、本当は、このファリサイ派の人と一緒に家に帰ってあげたかったと思います。別に神がこのファリサイ派の人を見捨てたわけじゃない。このファリサイ派の人が、最初から神なんか相手にしていなかっただけです。「自分自身に向かって祈った」というのは、その孤独を悲しいほどに表現しています。

そこで起こった事態を、ローマの信徒への手紙はこのように表現しているのです。

では、何と言うべきでしょうか。義を追い求めない異邦人が義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです。イスラエルはつまずきの石につまずいたのです。
「見よ、私はシオンにつまずきの石
妨げの岩を置く。
これを信じる者は、恥を受けることがない」
と書いてあるとおりです。

■神の愛は、無条件です。それが、イエス・キリストの福音です。イエス・キリスト、このお方の存在そのものが、神の無条件の愛、そのものなのです。けれどもそれは、ファリサイ派にとっては、自分の頑張りを全否定されるような話でしかありませんでした。それで、「でも神父様、そうおっしゃるけど」。「わたしはこんなに一所懸命やっているのに」。「神さま、わたしはほかの人のように、奪い取ったこともないし、不正をしたこともないし、姦淫をしたこともないし、また、この徴税人のような者でもありませんよ? なぜそのわたしの頑張りが否定されるんですか?」そう言って、つまずきの石につまずく私たちが、実はどれほど悲惨な孤独の中にいるか、という話です。

イエス・キリストが十字架につけられたのは、そのような私どものつまずきの結果でしかありませんでした。神の愛につまずき、神の愛を殺したのです。この手紙を書いたパウロ自身もまた、キリストの教会を迫害し、そのことによって、神の愛を殺し続けるようなことをしたのです。けれども、そのつまずきの石、妨げの岩が立つ。先ほどご一緒に読んだ詩編にもあるように、「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。/これは主の業/私たちの目には驚くべきこと」(第118篇22、23節)。それでローマの信徒への手紙第9章33節にも、「見よ、私はシオンにつまずきの石/妨げの岩を置く。/これを信じる者は、恥を受けることがない」と言われるのです。

「これを信じる者は、恥を受けることがない」。信じよう。ただ、信じよう。パウロの呼びかけは、驚くほど単純で、素朴です。

「振起日」であります。しかし、前回の説教でも同じことを申しましたが、私どもは自分で立つのではありません。むしろ聖書が繰り返し教えてくれることは、自分で立とうなどと考えるな、ということでしかありません。「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです」。けれども私どもは、もうそんなことを考えるのはよそう。神は愛だから、ただそのことを信じればいい。信じれば、立てるのです。神が、立たせてくださるのです。今、神に愛され、神に義とされて、安んじて家に帰る幸いを共に分かち合いたいと思います。お祈りをいたします。

 

神に愛された罪人の幸いを思います。そしてまた、ひとりで家に帰って行った、ファリサイ派の孤独を思います。あなたの愛につまずく、私どもの小賢しさを憐れんでください。今から聖餐を祝います。私どものために十字架につけられ、お甦りになった主イエス・キリストは、私どもにはつまずきの石、妨げの岩でしかありませんでしたが、「これを信じる者は、恥を受けることがない」。どうか、あなたの愛を信じさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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