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いま、罪のゆるしの宣言を

2026年7月12日

マルコによる福音書 第2章1-12節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

 

本日の場面に描かれていますのは、主イエスのおられた家に全く隙間もないほどに大勢の人々が集まり、そして外まで人があふれていたという光景であります。大勢の人々が主の言葉を聴こうとして集まっていたのです。もちろん、そのなかにはまるで野次馬根性のようにどこかで主の噂を聞きつけ、病人が癒される奇跡を見たいと期待して主のもとにやってきたという者もあったでしょう。しかし実際にそのような者も主イエスに近づき、主の言葉を聴いた時、皆、その言葉そのものに思わず聴き入って、心の奥底に届くような言葉に驚き、そしてもっとこの方の話を聴きたいと願い出したのであります。

主の言葉は、権威ある言葉といいますが、少し言い換えるのであれば、それは重みをもった言葉とあると言えるかと思います。いのちの重みをもった言葉です。ずーんと心の奥に、腹の奥底にまで伸し掛かってくる重い言葉、それが主の言葉であります。重い言葉というのは不思議と聴く者に緊張感を抱かせます。軽い言葉というのはさらっと聞き逃していけますが、重い言葉というのは緊張感が走る。向き合った時に、その目線を外すことをゆるさないような緊張感を生み出す。自分をどこか安全地帯に置いて、聴くことのできない、関わることのできないようにさせる。それが主の言葉、重い言葉であります。

主イエスの言葉はたとえをたくさんもちいて教えられて、けっして小難しい話や教えでなくて、きわめてシンプルで分かりやすいものでありました。しかし人の生き死にに関わるような、人生を意味あるものとするか空しいものとするか、その瀬戸際に立たされる人間をがっしりと捉えて、支えるような言葉であり、悪霊どもを一言で追い出すような重みをもった言葉でありました。

その言葉に聴こうとして集まっていた人たち、それがこの家に隙間なくあふれている大勢の人々でありました。

きっとすでにこの言葉に触れていて、主イエスに出会った人たちであったのでしょう。体が麻痺している、以前の訳では「中風」と訳された、体の動かなくなった人、現代で言うと脳の血管が切れたり、詰まったりして脳梗塞とか脳溢血とかで脳に障害が生じ、半身が不随になってしまうようなことがありますが、そのような脳の病気であったかは分かりませんが、体が麻痺して動けない人をどうにかして主イエスのもとに連れて行きたいと願った人たちがありました。家族でしょうか。友人でしょうか。それは分かりません。四人の男は床を担いで体の麻痺した人を運んで来ました。けれども全く隙間のないような状態で家の中の主イエスの前にたどり着くことができません。しかしこの者たちはなんとかしてこの人を主のもとに連れて行きたいと考えました。

この「なんとかして」が尋常なやり方ではありませんでした。「尋常な」というのはふつうではないということですが、つまりここにいた周りの人たちがこの人たちの行動を見て、この人たちはふつうではない、頭がおかしい、ここまでやるかと思うような、そんな仕方でありました。

聖書の時代の家というのは、粘土を天日干しにして、それでできたような煉瓦を積み上げたような家でありました。天日干しした煉瓦で四方の壁を作り、天井に木の梁を渡して、そこにヤシの葉などを載せて、ふいて、さらにその上に粘土の土を塗り固めていく。そのようなかたちで天井を兼ねた屋根が作られていたようです。しかもかなりしっかりと作られていたようで外壁、その脇には屋上へと上がる階段がしつらえてあって、その階段を上っていくと、屋上の床は、足がぼこぼこと抜けないようになっており、そこに庵を作って、そこでくつろいだり、夕涼みなどができるようにしてあったようです。そのようないまでいうバルコニーのような場所が屋上にしつらえてあるということが多かったようなのです。

この体の麻痺した人を連れて来た人たちは、そこを目指しました。外階段といっても、そんなに広いものではありません。そこを上がるだけでも一苦労であったでしょう。そして屋上に上がり、彼らはその足元に穴を開け始めます。下にいる者たちにとっては天井が壊されることになるわけで、いったい何事かと思ったことでしょう。覆っていた粘土を打ち壊して剥がし取り、その下の枝やふいていたものを取り除き、梁と梁との間の隙間からその病人を吊り下ろしていきます。実際には下の部屋にいた人たちには、土壁を覆っていた土の塊や埃などがバラバラと落ちてきたわけで、部屋中にぱーと埃が舞っているわけですから、彼らは、お前たちはいったい何をやっているのだと非難され、なじられたことでありましょう。

しかし彼らはついにこの病人を主イエスの前に吊り下ろしたわけであります。今日の聖書の箇所にはこの四人の男たちの言葉も体が麻痺して動かない人の言葉も何も出てきません。何か信仰告白になるような言葉もありません。しかしそこで主は「彼らの信仰を見た」とあるのです。ただこの方にしか、主イエスにしか頼むことのできるところはないのだと、そういうまっすぐに生きる姿勢、そのものが「信仰」でありました。

私たちは信仰といいますと、ともすれば理屈や言葉で心の持ちようであると考えてしまいます。しかしそうではないのです。何度も言いますが、この情景と主の言葉から信仰というのは、あれもあるし、これもあるけれど、自分がこれがいいと思うからこれを選んだというものではなくて、あれもだめこれもだめ、もうこの方しか、主イエスしか頼むところがないという、まっすぐに一筋に主に頼る生き方、そこに信仰が示されるのです。

どうしてそのようになれるのでしょう、と思われるかもしれません。どうしてそこまでまっすぐに主に頼ることができるのだろう。そんなこと、そう簡単にできることではありません。たしかにそうであります。ふつうでないかもしれません。しかし主に出会い、その重い言葉に触れていく時、それまでの苦しみや悲しみが変わるのです。

体の麻痺した人自身も、そしてその人に関わってずっとその苦しみに触れ、見つめ、寄り添ってきた人自身にとっても「なぜこんな目に遭わなければならないのか」「なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか」と堂々巡りをしているような、そのような暗闇の中に一筋の光が差し込んでくるようなものであります。まっすぐに、ただ一途に主に頼って、そこに身を委ねていく。身を投じていく。そのような信仰は人生が上手くいっているような時ではなく、むしろ世の中の不条理に苦しみ、人間関係に悩み、傷つき、傷つけられ、痛みを負い、その大きさは人それぞれでありますが、その苦しみや痛みを通っていくなかで主から与えられるものではないでしょうか。

この体の麻痺した人にしても動かない体を抱えて、その身に負っているものはけっして容易いものではなかったはずです。どんなに苦しんだことでしょう。どんなに神に向かって嘆き、呟き、叫んだことでしょう。「主よ、なぜですか。なぜこんなに苦しまなければならないのですか。主よ、助けてください」と。また周りの人に言われてきたことでしょう。「あれは天罰だ」「なんかよくないことをしたその報いだ。親か本人かわからないが…」。そのように陰口を叩かれ、白い目で見られていった人生の歩みがそこにあったでありましょう。あるいは、この一所懸命に担いで来てくれた者たちのように、親切に必死になって尽くしてくれた家族や友人たち、仲間たちがあったかもしれない。その助けを受けながら、感謝しながら、しかし自分は何もすることができないでいる。そのもどかしさと悔しさを抱える。そのような重荷を抱えて、周りで関わってきた者たちもそれぞれにきっとその重荷を負って生きている。

信仰とは、その重荷のなかで嘆き、喘ぎ、何が真実なのか、何が本当なのか、いったいどんな意味があるのかを知りたくて、もがくようにしながら、キリストとの出会いを与えられていくことであります。そこで重たい言葉、すぐに翻ったり、移ろいゆくことのない真実に触れる。しかもそれは何か上に立って上目遣いで教えを垂れるようにではなくて、あなたの負っているものを、私は知っている。その痛みも悲しみも悔しさも怒りもみんな知っている。そのうえであなたはどうなのかと問われるのです。自分の在り方を問われる。そこに真実を告げられる。それは罪あるあなたを赦す愛がここにあるのだということであります。

水野源三という詩人がいます。終戦の翌年、信州の坂城町というところで9歳の時に赤痢にかかり、高熱を出して、脳性麻痺を負い、しゃべることも手足を動かすことも全くできずただまばたきをするしかなくなってしまったという方でありました。母親とのやり取りもまばたきをするというだけで、母親は五十音表を作って、一字、一字、指で指しながらやっとのことで意思の疎通を図ることができるようになりました。彼はやがて詩を書くようになります。そして不思議な出会いから聖書を読むようになり、信仰へと導かれていきました。水野源三さんが歌った詩の中に「悲しみよ」という詩があります。

悲しみよ悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったら
私は今どうなったか。
悲しみよ悲しみよ
お前が私を
この世にはない
大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとに
つれて来てくれたのだ

体のほとんど動かせない不自由さのなか、どれほどの悲しみを負ってきたのでしょうか。正直、想像もつきません。9歳で体が動かなくなり、多感な少年時代、やりたいこともたくさんあったでしょう。しかししゃべることもできない。ただ転がされているように、そこに生かされているだけ。そのなかで負ってきた悲しみがある。しかしキリストと出会い、その言葉に触れていく時に、彼は自分が負ってきたその悲しみが自分を主イエス様のみもとに連れて来てくれたのだと言うのです。信仰に導かれる時に人生の悲しみがまたキリストの言葉の重さを知らせていきます。主の真実を知らせていくものとなりました。

信仰は、それぞれの人生のなかでキリストとの出会いを与えられ、その言葉に触れていくものであります。しかしそれは一人で自分の心の中だけでなしていくものではありません。一緒に重荷を担ぐ仲間があって、その仲間と共に信仰の恵みを与えられるものであります。仲間は全部を共感して分かるわけではありません。けれどもその重荷に一緒に触れて担いでくれている。その仲間はみんなで主のもとに飛び込んでいく仲間であります。もうそこしか自分たちには頼むところがないのだと主に身を投げ出し、主の懐に飛び込む。それがあの天井を剥ぎ取り、上から主のもとに吊り下ろすということになったわけです。主はそのような者に言われました。「子よ、あなたの罪は赦された」。主は全幅の信頼をもってご自分のもとに飛び込んでくる者を迎え入れ、ご自分の家族としてくださった。「子」としてくださった。そこで主をただ一筋に信頼していく仲間は兄弟姉妹とされていくのです。

そして私たちはここで同時に問われることになります。「あなたの罪は赦された」とはいったいどういうことか。その言葉にいったいどのような重みが含まれているのか。主の傍らで律法学者たちは「人の罪を赦すことは神おひとりしかできないはずではないか。この人は神を冒瀆している」と心の中で考え、呟きました。主はその者たちに向かって問いかけます。

「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」

ある程度、聖書の知識を持っている者であれば、「罪の赦し」というものは、神にしか与えることのできないものであって、病気を癒すことよりも権威があって難しいことだと分かる。しかし心のどこかで感じていないでしょうか。罪の赦しよりもいまここで病気を癒してほしい。具体的な仕方で助けてほしい。この固まった足が自由に動いたら、この震える手が思うように動いたら、この目が見えたら、この耳が聞こえたら、どんなによいだろうか。そんなことを考える。

しかしそのように願う時、かなり厳しいことを言うようでありますが、私たちは、己の「罪」というものが本当の意味でよく分かっていないのかもしれません。どれだけ自分の罪が重いか、厳しいものであるか。本来ならば、罪のゆえにここに生きることすらゆるされていない私たちなのです。自分本位な思いでどれだけ神の御名を汚しているか。神を悲しませているか。家族や友人、仲間を傷つけているか。その重たい罪のゆえに主の御前に滅ぼされてもおかしくない私たちなのです。けれどもそんな私たちがいまここに生かされている。それぞれにいろいろな重荷を抱えているかもしれない。罪に縛られて、がんじがらめになった、冷たく固まった心を抱えてここに置かれているかもしれない。しかしそのような私たちがここに生かされている。いのちを与えられている。それは主の恵みであり、憐れみであって、ここにあなたの罪を赦す主の愛が現れるのです。

当時、病気は罪を犯したことに対する天罰だとする因果応報の考え方がありました。それにまるで乗っかるかのように主は「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたのか。いやけっしてそうではありません。体が麻痺して動かないという病気、それは病によって体の自由が奪われているという状況であります。病に縛られて体が動かせないのです。主はまさにその縛りを解き、自由を与えようとされています。「あなたの罪は赦される」、それはあなたはこの病気を癒されることを通して、罪の縄目から自由になることを知るのだということです。まだ何も起こっていません。しかしここで病気が癒されるということはただ病気が治るということではなくて、罪の縄目からの自由を与えられることを表している、指し示しているしるしなのだと言っているのです。彼らの信頼に対して、主はそうお応えになりました。罪の赦しこそが癒しなのだと。癒しの根本的な意味はただ病気が治ることではなくて、罪の赦しをそこに見出し、その恵みを、その愛を受け止めることにあるのだとそう教えられています。

そして主はこの病人に対して言われます。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」するとそのようになりました。病の縛りから解き放たれて立ち上がったように、主の罪のゆるしの宣言によって罪から解き放たれ、自由に生きるようにされる。それが神の前に自らの足で立つこととなるのです。神のみができるはずのことを主はなさりました。それはそのゆるしの宣言をするための十字架という事実がそこに伴うからです。これは空約束ではありません。そこに確かな約束があります。律法学者たちが心の中で考え、呟いたことはその通りでした。人の罪を赦す権威は神にしかありません。主はまさに神の子として十字架におかかりになりました。マルコによる福音書は、その最後であの十字架の場面で、十字架の御もとにいた百人隊長がこのように言ったと伝えます。

「まことに、この人は神の子だった」(15:39)

罪のゆるしの宣言をなしうるのは神のみです。ここで「あなたの罪は赦される」と言われるお方がまことに神の子だった言われて十字架に死んでいき、三日目に復活なされました。「あなたの罪は赦される」、その宣言がまことに重い言葉として私たちの心の奥底に染み入っていくのはその宣言を真実ならしめる十字架の事実がそこに裏打ちされているからであります。「私はあなたに言う。立ち上がりなさい」。神の前にしっかりと一人の人間として立ちなさい。今日、私たちは生きる主から同じ言葉を与えられております。それは上から教え込まれるような冷たい言葉ではなくて、十字架で釘打たれ、血を流し、痛みを味わわれた主が、あなたの抱えている痛みも、人生の苦しみも葛藤も全部知ったうえで「立て、起き上がれ」と言ってくださる言葉です。その重い言葉を、いのちの重みを持った言葉を、私たちはいま一人の人間として主からいただくのです。その罪のゆるしの宣言を受けて、私たちは起き上がり、立ち上がらされていく。ここにあなたの罪を赦す主のまことの愛があります。いま私たちもここから立ち上がることができる。新たに歩き出すことがゆるされている。この驚くべき恵みを私たちも、共々に崇め、感謝し、賛美してまいりましょう。

 

 主イエス・キリストの父であり、私たちの父であられる神よ、私たちに恵みを与えてくださり、罪の赦しを与えてくださり、本当にありがとうございます。主の十字架をただ一筋に見つめてまっすぐに歩むことができますように。いま私に与えられているこの悲しみもあなたの愛を知るためのものであるとその御手から感謝をもって受け取ることができますように。主よ、私に、いや私たちに力と勇気をください。この心からの願い、主の御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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