キリストの愛、私たちの勝利
ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
川崎 公平

主日礼拝
■伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙の、第8章の最後の部分を読みました。旧約・新約合わせた全聖書の中で、いちばん輝かしい部分がここだ、と言っても言い過ぎではないだろうと思います。神に愛された私どもの輝かしい立場が、これでもか、これでもか、と言わんばかりの表現を重ねに重ねて、言い表されています。
この部分を読みながら、ふと想像するのは、この手紙を書いたパウロの様子はどうだっただろうかということです。どうもパウロは、自分で筆を執ってこの手紙を書いたわけではなくて、いわゆる口述筆記という方法で、パウロが話したことを書記が一文字、一文字書いていったようです。特にローマの信徒への手紙はその点特別で、最後のところにこの手紙を筆記した書記の名前が出てきます。「主にあってこの手紙を筆記した私テルティオが、あなたがたに挨拶いたします」(第16章22節)と書いてあります。ちなみにこの書記のテルティオという名前は、ラテン語で「第三の男」という意味の言葉です。日本語で言えばさしずめ「三郎」というところかな、ということになりそうですが、どうももう少し違ったニュアンスがあるようで、奴隷によくある名前であったようです。番号で呼ばれた。けれどもそんなテルティオが主イエス・キリストに救われて、パウロと一緒に、世界の宝とも言うべき手紙を筆記する光栄に浴することになりました。
現代のように、すらすらパソコンで書いていって、うまくいかなかったら切ったり貼ったり、元に戻したり、なんてことはなかなかできません。特にこのローマの信徒への手紙についてはそうだろうと思うのですが、一言一句よく考えながら、一文字もおろそかにしないほどに心を用いて、ここまでの叙述を重ねてきたのだろうと思います。しかもそうでありながら、この第8章の最後の部分は、パウロの熱気というか興奮というか、その勢いが文字からも伝わってくるようです。
では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
私はふと想像するのですが、パウロはこの部分を口述筆記させたとき、テルティオの筆の遅さにもどかしいほどの思いを抱いたかもしれません。神の愛を称える言葉が、次から次へとどんどんあふれ出てくる。それをまたテルティオも興奮しながら書き記したでしょうけれども、どうしても文字を書くスピードが追い付かない。
誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
そして最後に書くのです。「どんなものも、どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」。そこまで書き終えて、パウロもテルティオも、しばらくは口もきけなくなるほどの高揚感に満たされたのではないかと思います。
■このようなパウロの言葉の中でも、特に際立ったひとつの表現があります。37節の最後に、「勝って余りあります」と書いてあります。以前用いていた新共同訳の、「輝かしい勝利を収めています」という翻訳も悪くないと思いますが、「勝って余りあります」と言ったほうが原文を正確に訳していると言えます。その原文のギリシア語を少しだけ紹介すると、単に勝つだけではなくて、「勝つ」という動詞の前にヒュペルhyperという、「~を越えて」という意味の前置詞がくっついています。なぜヒュペルなどと謎の外国語を紹介するかというと、このヒュペルというギリシア語が英語を経由して、今では日本語でも「ハイパー」という発音で使われています。単なる勝利ではない。ハイパーな勝利。単に勝つだけでなくて、勝利を越えてさらに勝つ。ある人は「勝ちすぎ」と訳し直してくれましたが、なるほどと思います。単に勝つだけじゃない。勝ちに勝って、勝ちすぎちゃって、もう戦う相手がいない。それほどの勝利を意味する言葉です。
ちょうど40年前、この教会で当時牧師であった加藤常昭先生がこの箇所で説教された、その内容をほとんどなぞるような話をさせていただくのですが……加藤先生は甲子園の高校野球の話を例として挙げられたのですが、それをサッカーのワールドカップに置き換えても問題なかろうかと思います。勝った、勝った、4点も取った。見事グループリーグを突破した。けれども、それだけじゃあ、「勝って余りあります」とは言えないので、一回戦で負けたら、結局負けは負けなんです。そうではなくて、一回戦も勝った。二回戦も勝った。準々決勝も準決勝も、そして決勝も勝って、「さあ、次は誰だ? どこからでもかかってこい!」でも、もうこれ以上戦う相手がいない。勝ってなお余りがあるというのは、たとえばそういうことです。
スポーツの応援くらいなら、よほどのことでもなければ、そんな深刻な話になることはないのです。けれども、私どもの人生は、やはりどこか、勝つか負けるかというところがあると思うのです。「勝ち組」とか「負け組」とか……いやな言葉ですけどね。でも、「いやな言葉です」などとしたり顔で言いながら、やっぱり自分が負け組になるのはいやなのです。子どもの頃から優等生だった人が、中学受験に勝った。あるいは高校受験に勝った。でもそこで戦いをやめるわけにはいかないので、その後すべての受験戦争に勝って、勝って、勝ちまくって、日本でいちばん賢い大学に入って、ああ、これで勝って余りあると思って、それ以上心に力が入らなくなってしまった人を、実際に知らないわけではありません。今のような話は、まあこのあたりの話がわかりやすいだろうと思っただけで、本当はもっと大事なことがある。もっと深刻な、人生の勝負事がたくさんあるだろうと思うのです。まさにそういうところで、私どもは負けたくないのです。勝ち組に入りたいのです。それはあまりにも素朴で、また正直すぎる話ですが、結局私どもは、勝つか、負けるか、そういうところでいちばん悩んでいるのです。
■そのことを、35節のところではなお具体的にこう言います。「苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」。この七つの言葉の意味について、ひとつひとつ説明し、考察し、というようなことをする時間はありませんし、その必要もないだろうと思います。ただひとつ心に留めてもよいことは、おそらくパウロはここで七つの言葉を重ねています。聖書において完全数と呼ばれる数字です。私どもが戦わなければならない事柄が七つ数えられて、私どもの人生の勝負事が完全に数え尽くされて、しかもパウロはここで、私たちはそのすべての戦いに完全に勝って、なお余りあると言っているのです。
単に勝つだけじゃなくて、それに余りがあるということが大事です。「苦難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」。「しかし、これらすべてのことにおいて勝って余りあります」と、言えるか、言えないか。おそらくこういうことは、20歳の人は20歳の人なりに、50歳の人は50歳の人なりに、また80歳の人は80歳の人なりに、それぞれ思うところがあるだろうと思います。どんなに勝ち続けても、18歳まで負けなしだった。50歳まで無敵だった。遂に80歳まで勝ちに勝ちまくった。でも、そのあとで思いがけない苦難があり、行き詰まりがあり、そこで決定的な敗北を喫したらおしまいだ、ということであれば、どうしようもないじゃないですか。
しかもここでパウロは、決してひとりで戦ってはおりません。ひとりで勝った、勝ったと有頂天になっているのではありません。「私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」。その「私たち」って、いったいどういう「私たち」なのだろうか。そのことを、パウロは既に31節から、畳みかけるように語っているのです。「神が味方なのだから」、「私たちは、神に愛されているのだから」、だから、「私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」。そう言えるか、言えないか。
■そこでもうひとつ大切な意味を持つのは、36節の詩編の引用です。しかもこの詩編の引用は、いささか私どもを当惑させるものがあると思います。先ほどあわせて朗読しました、詩編第44篇の23節です。
「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ
屠られる羊と見なされています」
と書いてあるとおりです。
勝って、勝って、勝ちまくって、輝かしいほどの言葉だけが連続しているかのようなこの箇所で、いきなり唐突なこの詩編の引用は、いったい何を意味するのでしょうか。先週の礼拝でも同じ箇所を読んだわけですが、礼拝のあと、さっそくある方が質問に来られました。「これ、何ですか。さっぱり意味がわかりません」。それはそうだろうと思います。「『私たちは』というのは、私たちのことですね。『あなたのゆえに』というのは、神さまのことですか? 神さまのせいで、『私たちは、日夜、死にさらされ』って、どういうことでしょう?」という質問を受けて、たまたま私も別の用事があったので、「ええと……来週の説教をお楽しみに」と言って逃げたのですが、おそらく皆さんの多くが、この36節について異様な印象を抱かれたのではないかと思います。「急に、何の話だろう」。これは詩編第44篇23節の引用だと申しましたが、さらにこんな言葉が続きます。
私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ
屠られる羊と見なされています。
我らの主よ、目覚めてください。
なぜ、眠っておられるのですか。
私たちを永遠に捨て置かず
起き上がってください。
なぜ、御顔を隠されるのですか。
私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。
私たちの魂は塵に伏し
腹は地に着いています。
立ち上がり、私たちを助けてください。
あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください。
私どもの人生の、それこそいろんな場面で、この詩編の言葉が自分自身の祈りになります。苦難があり、行き詰まりがあり、迫害、飢え、さまざまな攻撃があり……。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがない」(詩編第23篇1節)という有名な詩編の言葉がありますが、いつどんなときにも喜んで、そのように祈れるわけではありません。「屠られる羊」には、もはや羊飼いの手は届かないのです。「ああ、もうおしまいだ。主はわたしの羊飼いだと思っていたけれども、今は違う」。
そして、そういうときにいちばんつらいことは……詩編第44篇の24節にはこう書いてあります。「我らの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか」。主よ、あなたはわたしの羊飼いだと、そう言われたではありませんか。それなのに、どうしてあなたは眠っておられるのですか。なぜ黙っておられるのですか。主よ、目覚めてください。どうか、眠らないでください。どうして、どうして……。それが23節では、「私が日夜死にさらされているのは、あなたのせいだ」と言われるのでしょう。ほかの誰のせいでもない。神さま、あなたが眠っておられるから、わたしは今、屠られる羊のように死にさらされているのではないですか。
■しかし、そこで話は終わらないのです。すぐさま37節で「しかし」と言います。ギリシア語には強い「しかし」と弱い「しかし」があって、これは強い方の「しかし」です。パウロは、この37節の冒頭で「しかし」と言ったとき、ますます顔は紅潮していたかもしれません。「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ/屠られる羊と見なされています」。しかし! まさしくそのすべてのことにおいて、私たちは、完全なる勝利を収めています。「私たちを愛してくださる方」がおられるから。その「私たちを愛してくださる方」について、既に34節では、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです」と言うのです。
「死んだ方、否、むしろ復活させられた方」と、ここでもパウロは、一文字も揺るがせにしないように言葉を重ねています。「私たちを愛してくださる方」、すなわちイエスは、「死んだ方である。否、むしろ復活させられた方である」。そのお方が、今もわたしのために、私どものために執り成してくださるのだ。ここで、もはや多くのことを語る必要はないと思います。「屠られる羊」というのですが、今私どもは、この言葉を読んでまずパウロのことを考えることはなくなりました。「屠られる羊」、はい、それはわたしのことですね、とは、誰も考えなくなりました。そうではなく、主イエス・キリスト、このお方こそ、屠られた小羊となってくださいました。私どもがこれから祝う聖餐の食卓は、屠られた方、否、むしろ復活させられた方の祝いの食卓であります。
「屠られた羊」、主イエス・キリストであります。あの詩編第44篇の祈りが、ほかでもない御子イエスの祈りになったのです。
我らの主よ、目覚めてください。
なぜ、眠っておられるのですか。
「死んだ方、否、むしろ復活させられた方」、イエス・キリストは、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました。「神さま、なぜ黙っておられるのですか。眠っておられるのですか。起きているなら、助けてください。見捨てないでください」。私どもの罪の執り成しのために、このお方は、このような痛みを負い、苦しみを負わなければなりませんでした。そしてこのお方が、「死んだ方、否、むしろ復活されられた方」であることを知った今は、私どもの誰も見捨てられていないと、そう確信することができるのです。かくして、37節、そして38節、39節と、勝利と喜びの歌を、あふれるほどの思いで歌うことができるようになったのです。
しかし――しかし今は――これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
私どもの誰も、見捨てられてはいない。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」。いかなるものも、いかなる力も、私どもをキリストの愛から引き離すことはできません。キリストの復活は、その確かな証しです。
世の人の目には、何の変わり映えもない教会です。むしろ、「日夜、死にさらされ/屠られる羊」のような姿を見せることさえある、私どもの生活です。けれども、神は愛だから、どんなものも神の愛から私どもを引き離すことはできないから、だから、私どもはあらゆる苦難にも行き詰まりにも逆らって、「私たちは、勝って余りあります。私を愛してくださる方がおられるから」と、証しすることができるのです。キリストの勝利を、そして私どもの勝利を高らかに証しする、主の聖餐の食卓を、共に祝います。お祈りをいたします。
父なる御神、あなたの前に立ちますと、私どものみじめさがますます明らかになってまいります。苦難があり、行き詰まりがあり、何よりも私どもの罪が、私ども自身を苦しめています。けれども、私たちを愛してくださる方が確かに生きておられますから、その愛のゆえに、私たちは勝ってなお余りがあると、心から言い表すことができます。どうか今、そのような者として、この恵みの食卓にあずからせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン










