私たちの罪をお赦しください
マタイによる福音書 第6章12-15節
川嶋 章弘(横浜指路教会牧師)

主日礼拝
■ 与えられた聖書箇所
本日、私たちに与えられている聖書箇所は、マタイによる福音書第6章12~15節です。この聖書箇所に少し驚いておられる方もいらっしゃると思います。というのも12~15節を一回の説教の聖書箇所とすることはあまりないからです。この聖書箇所が与えられているのは、本日が神奈川連合長老会の講壇交換であり、その聖書箇所としてこの箇所が定められているからです。もっとも12~15節をどの範囲で読むかは説教者に委ねられていますし、もう少し範囲を広げて語る方もあるかもしれません。私自身は、説教題からも分かるように12節を中心にしながらも、一回の説教の聖書箇所とはなりにくい12~15節が与えられていることを積極的に受けとめました。6章9節から13節までは、主イエスが弟子たちに、そして私たちに教えてくださった「主の祈り」が記されています。14、15節はその「主の祈り」に続けて、主イエスがお語りになった言葉です。ほかならぬ主イエスご自身が12~15節を続けて語られました。ですから私たちも12節から15節を切り離すことなく読んでいきたい。そのことを通して12節の祈りの言葉を新たに受けとめていきたいのです。
■ 私たちの罪をお赦しください
主イエスは、「主の祈り」の第五の祈りとして、このように教えられました。12節です。「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」。私たちが毎週の礼拝で祈っている「主の祈り」の言葉では、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。このことから分かるように、「私たちの負い目」とは、「私たちの罪」のことです。ですから第五の祈りは、まず「私たちの罪をお赦しください」と祈っているのです。主イエスが「負い目」という言葉で、「罪」を指し示しているのは何故でしょうか。「負い目を感じる」という表現があるように、私たちは「負い目」と言われると、心の中で感じることのように思います。しかしこの「負い目」という言葉は、もともとは借金(負債)を意味する言葉です。ですから罪を「負い目」「借金」と言い表すことで、借金が返済されないと決してなくならないように、私たちの罪も償われないと決してなくならないことを見つめているのです。「負い目」が単に心の中で感じることであるならば、状況が変われば、時間が経てば、その負い目を感じなくなる、ということがあるかもしれません。しかし罪は、そうではない。償われない限り、私たちの罪は状況が変わろうと時間が経とうと、決してなくなることはないのです。
だから私たちは自分の罪を償わなければなりません。ところが私たちは自分の罪を償うことができないでいるのです。それどころかむしろ罪を犯し続けています。借金を増やし続けているのです。この一週間を振り返っても、言葉と行いとによって、隣人に対して、家族や友人や同僚、教会の仲間に対して罪を犯してきました。それだけでなく、何も言わないことによって、何もしないことによって、つまり見て見ぬ振りをすることによっても罪を犯してきました。しかも自分が気づけている罪よりも、気づけていない罪のほうが遥かに多いに違いありません。私たちはこの一週間も、罪を償うどころか、罪を増し加え、借金を増やし続けてきたのです。
自分で借金を返済できないとき、その借金から解放されるためには、借金を帳消しにしてもらうしかありません。同じように自分では罪を償うことのできない私たちも、それどころか罪を増し加え続けている私たちも、その罪から解放されるためには、その罪を帳消しにしていただく、つまり赦していただくしかありません。だから私たちは、「私たちの負い目をお赦しください」、「私たちの罪をお赦しください」と祈ります。私たちはこの祈りが自分に必要なことを分かっているつもりです。ですから「私たちの罪をお赦しください」と祈ることには躓きを覚えないのです。
■ 祈れるような祈りの言葉ではない
ところが12節の祈りは、「私たちの負い目をお赦しください」で終わるのではありません。「私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」と続きます。そして私たちは、この祈りの言葉を祈ることに躓きを覚えないわけにはいかないのです。「私たちの罪をお赦しください」とは祈れる。しかし続けて、「私たちも自分に対して罪を犯した人を赦しましたように」とは祈れない。なぜなら私たちは、自分が自分に対して罪を犯した人を赦せていないことを知っているからです。あの人もこの人も赦せていない、と知っているからです。「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」と祈ろうとするとき、あるいは「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ろうとするとき、自分が自分に対して罪を犯した人を赦せていないことを突きつけられて、私たちは愕然とするのです。それだけではありません。12節の祈りの全体は、私たちが自分に対して罪を犯した人を赦すことが、私たちの罪を赦していただくことの前提になっているように思えます。そうであるならこの祈りを祈ることは到底できない、と思わずにはいられません。私たちは、礼拝や祈祷会で、日々の生活の中で「主の祈り」を祈るとき、すらすらと祈っています。しかし12節をしっかり受けとめるとき、第五の祈りは淀みなく祈れるような祈りの言葉ではないことに気づかされるのです。
■ 赦しましたように
その衝撃を和らげるために、と言っても良いと思いますが、この12節は別の読み方もなされてきました。「聖書協会共同訳」には「引照・注付き」のものがありますが、それを見ますと、12節の「赦しましたように」に注が付され、直訳は「赦しましたから」であること、しかし別の写本では「赦します」となっていることが記されています。つまり、「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦します」となっているのです。そうであれば私たちはこの祈りを、随分と祈りやすくなるのではないでしょうか。「私たちの罪をお赦しください」と祈り、その罪の赦しをいただく中で、「私たちも自分に対して罪を犯した人を赦します」と祈ることになるからです。直訳の「赦しましたから」であれば、私たちが自分に対して罪を犯した人を赦すことが、私たちの罪を赦していただくことの前提と言わざるを得ません。しかし「赦します」であれば、私たちの罪を赦していただくことが、私たちが自分に対して罪を犯した人を赦すことの前提となります。私たちは第五の祈りを後者で受けとめようとします。私たちだけでなく、教会の歴史においても、かなり早い段階から後者で受けとめることがなされてきました。しかし受け入れやすい読み方は、しばしば私たちにとって都合の良い読み方になります。やはりここで主イエスは、「赦しましたから」とおしゃっているのではないでしょうか。「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に対して罪を犯した人を赦しましたから」と祈るよう、主イエスは教えておられるのです。
■ 人の罪を赦すことが前提
このことをはっきりと示されるのが、12節を、14、15節と切り離さずに読むことによってです。14、15節で、主イエスはこのように言われています。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。12節では「負い目」と言われていて、14、15節では「過ち」と言われていて、言葉が違いますけれども、どちらも罪を指していることに変わりはありません。ですから14、15節では、「もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにならない」と言われていて、明らかに私たちが人の罪を赦すことが、天の父なる神が私たちの罪を赦してくださることの前提になっているのです。主イエスは、12節の第五の祈りを含む「主の祈り」を教えてくださった直後に、14、15節をお語りになりました。そうであれば、12節と14、15節が矛盾しているはずがありません。私たちは12節を、14、15節と切り離さずに読むことによって、主イエスが第五の祈りで教えてくださった祈りの言葉は、「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に対して罪を犯した人を赦しましたから」であることをはっきりと示されるのです。そして私たちは再び途方に暮れます。人の罪を赦すことが神から罪を赦していただくことの前提であるなら、私たちにはこの祈りを祈ることなどできないと思わざるを得ないからです。
■ 人の罪を赦せないことに苦しんでいる
このように私たちは12節の祈りの言葉に、また14、15節の主イエスの言葉に躓きます。そしてこの躓きは、私たちの現実を明らかにしています。それは、私たちが人の罪を赦せないことに深く苦しみ、傷ついているという現実です。私たちは確かにこの祈りを祈ることなどできないと思わざるを得ません。しかしそれは、人の罪を赦さなくてよい、と思っているからではないでしょう。私たちは人の罪を赦したい、と思っています。赦す必要がある、赦さなくてはいけないとすら思っています。でも、私たちは赦せないんです。私たちが思いつく、どんな概念を持ち出しても、たとえば「平等」とか「人権」とかを持ち出しても、私たちは人の罪を赦せません。むしろ私たちは、自分がこんなに嫌な目に遭っているのだから、こんなにつらい目に遭っているのだから、相手も同じ目に遭えばよいと思ってしまうのです。そしてそのよう思ってしまう自分自身に、赦したいと思っているのに、赦せない自分自身に深く苦しみ、傷ついているのです。私たちの人生には多くの苦しみや痛みがあります。もしかするとその最大の苦しみ痛みは、人の罪を赦せないことかもしれません。人の罪を赦せないことが私たちの人生をとても苦しく、惨めなものにしているのです。私たちのことだけではありません。この世界も、罪を赦せないことによって深く苦しみ、傷ついています。国同士が相手を赦せないことによって多くの命が奪われ、多くの人々の生活が脅かされています。今、この世界に戦争や紛争があり、分断があるのは、色々な理由や背景があるとしても、その根本に、相手の罪を赦せないことがある。相手の罪を赦せないことによって、この世界にまことに悲惨な現実が生み出されているのです。
■ あなたがたの父
このように私たちは人の罪を赦せない泥沼の中で苦しんでいます。一体、どうしたら私たちはこの泥沼から抜け出すことができるのでしょうか。12節を、14、15節と切り離さずに読むことによって、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが神に罪を赦していただく前提であることが示されました。そうであるならこの箇所は、私たちがこの泥沼から抜け出せないことを突きつけているのでしょうか。そうではありません。むしろ14、15節と切り離さずに読むことによって、この泥沼から抜け出す一筋の光を示されるのです。その一筋の光とは、ここで主イエスが弟子たちを、そして私たちを「あなたがた」と呼び、神を「あなたがたの天の父」、「あなたがたの父」と呼んでいることです。私たちは主の祈りに限らず、祈る度に、「天の父」、「天の父なる神」と呼びかけて神に祈っています。だからここで主イエスが、神のことを、「あなたがたの父」と言われていることを読み飛ばしてしまいがちです。当然のことだと思っているからです。しかし神が私たちの父であるのは当然のことではありません。私たちが神に「父よ」と呼びかけることができるのは、決して当たり前のことではないのです。私たちが神に「父よ」と呼びかけることができるのは、神の独り子イエス・キリストが十字架で死なれ復活されたからです。私たちは本来、神の子ではあり得ません。むしろ神に背いていた者であり、神によって滅ぼされるべき者でした。しかしその私たちのために、独り子イエス・キリストが十字架で死なれ復活されたことによって、私たちの救いが実現しました。私たちは洗礼を受け、その救いにあずかり、キリストと一つとされることによって神の子とされ、神に向かって、「天の父」、「天の父なる神」と呼びかけることができるようになったのです。
ですから主イエスがここで、神のことを「あなたがたの父」と呼んでいることは、私たちが主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、神の子とされていることを前提にしているということです。もちろん主イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えられ、14、15節を語られたのは十字架と復活より前です。しかし主イエスは、ご自分の十字架と復活による救いが実現した後の弟子たちに、つまり教会に向けて語っておられます。主イエスは、ご自分の十字架と復活による救いにあずかり、神の子とされた者たちに、その群れである教会に、つまり私たちと私たちの教会に語りかけておられるのです。
■ 救いの恵みの中で祈る
12節を、14、15節と切り離さずに読むとき、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが赦していただくことの前提であることを示されます。しかし同時に、その大前提として、私たちがすでにキリストの十字架と復活によって罪を赦され、神の子とされ、神に「父よ」と呼びかける者とされていることを示されるのです。それは、私たちに手柄があったからでも、私たちが何か条件を満たしたからでもありません。私たちは滅ぼされるしかなかった。それほど途方もない罪を、莫大な借金を抱えていたのです。しかし神は、御子キリストの命によって、私たちのその途方もない罪を赦してくださったのです。私たちが第五の祈りを祈ることができるのは、このキリストの十字架と復活による救いの恵みの中に入れられているからです。この祈りを祈ることができる大前提にキリストによる救いがあるのです。
■ 十字架のキリストを見つめて祈る
それでも私たちはこう思うのではないでしょうか。救いの恵みの中で、神に「父よ」と呼びかけ、「私たちの罪をお赦しください」と祈ることはできるけれど、「私たちも自分に対して罪を犯した人を 赦しましたから」と祈ることはできない。そう思うのです。これまで「前提」や「大前提」という言葉を用いてきました。Aの前提にはBがあり、Bの前提にはCがあるから、Cが大前提なのだと語ることには分かりやすさがあります。しかし分かりやすい一方で、私たちはこのことを頭の中だけで考えがちです。キリストの十字架と復活による救いが大前提にある、と頭の中だけで考えて、なるほどその通りだと納得して終わってしまうのです。しかしそうであってはなりません。キリストの十字架と復活による救いを大前提としてこの祈りを祈るとは、私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、肉を裂き、血を流してくださった主イエス・キリストを見つめて祈る、ということです。十字架のキリストを見つめて祈るとき、私たちは、「私たちの罪をお赦しください。でも私たちは自分に対して罪を犯した人を赦しませんでした」と祈れるのでしょうか。祈れないのではないか。十字架につけられたキリストのもとで、そのキリストを見上げて祈るならば、その救いの恵みを本当に受けとめて祈るならば、「私たちの罪をお赦しください 私たちも自分に対して罪を犯した人を赦しましたから」、と祈るほかありません。独り子を十字架につけてまで私たちを救ってくださった神と向き合うとき、自分の罪は赦していただきたいけれど、自分は人の罪を赦さない、とはならないはずなのです。この祈りにおいて、私たちが人の罪を赦すことが、私たちが罪を赦していただくことの前提であるとは、私たちが人の罪を十分に赦せたら、私たちは罪を赦していただける、ということでは決してありません。私たちは罪を赦そうと思っても、赦せずに苦しみ、傷ついている者です。しかしその私たちが、御子キリストの十字架と復活による救いの恵みの中で、十字架につけられたキリストを見つめるならば、このように祈ることができる、このように祈る者へと変えられていく、ということなのです。私たちが罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すことは決して別々のことではありません。切り離すことのできない一つのことです。だから私たちは「私たちの罪をお赦しください 私たちも自分に罪を犯した人を赦しましたから」と祈るのです。
■ 最大の試み
このように読み進めていくとき、13節の第六の祈りの言葉にも新しい光が照らされます。主イエスは、「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」と祈るよう教えられました。私たちは信仰生活の中で、私たちを神から引き離そうとする様々な試みに直面します。順風のときも逆風のときも、神から引き離そうとする試みに溢れています。しかしこの13節を、12節と切り離すことなく読むとき、私たちにとっての最大の試みは、人の罪を赦すか赦さないかにある、と言えます。聖書は神から私たちを引き離そうとする力を「悪魔」と呼んでいますが、悪魔は、私たちにこう語りかけます。「あの人の罪なんて赦さなくていいよ」、「こんなに嫌な思いをしたのだから、つらい思いをしたのだから、あの人を赦せなくって当然だよ」と語りかけてくるのです。これが私たちにとって、最大の試み、と言ってよい。この悪魔の語りかけに耳を傾けるならば、私たちは罪を赦せないという泥沼から、その苦しみと痛みから決して抜け出すことはできないのです。だから主イエスは私たちに、「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」と祈るよう教えてくださいました。「罪を赦せない泥沼に引き込まないでください。神から引き離そうとする悪の力から救ってください」、と祈るよう教えてくださったのです。だから私たちはこの第六の祈りに支えられて、第五の祈りを祈っていきます。神が私たちを、罪を赦せない泥沼に引き込まれないようにしてくださることに信頼して、「私たちの罪をお赦しください 私たちも自分に罪を犯した人を赦しましたから」と祈っていくのです。
■ 共に主の祈りを祈るときに
何よりもこの祈りは、主イエス・キリストが私たちに教えてくださった祈りです。主イエスが、私たちに祈れない祈りを教えてくださったはずがありません。いえ、本来、私たちはこの祈りを祈ることができません。しかし私たちがこの祈りを祈ることができるようになるために、主イエス・キリストは十字架で死なれ復活されたのです。だから私たちはすでにこの祈りを祈る者とされています。どこでそのことが分かるのでしょうか。それは、主の日毎の礼拝で、私たちが共に「主の祈り」を祈ることにおいてです。教会の仲間の間で、自分が仲間に対して罪を犯すことがあり、仲間が自分に対して罪を犯すことがあります。そこには苦しみや痛みがあり、わだかまりや葛藤があるのです。しかしそれでも共に礼拝を守り、共に「主の祈り」を祈るとき、私たちは自分たちが、「私たちの罪をお赦しください、私たちも自分に罪を犯した人を赦しましたから」と祈る者とされていることに気づかされます。この「私」のためだけではなく、あの人のためにもこの人のためにも十字架で死んでくださった主イエス・キリストによって、私たちはこの祈りを祈る者とされているのです。
私たちは、私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死なれた主イエス・キリストを見つめて、共にこの祈りを祈るのです。
「私たちの罪をお赦しください。赦されているにもかかわらず、人の罪を赦せない私たちの罪をお赦しください。私たちも人の罪を赦しましたから。」









