私は確信しています。神は愛です。
ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第8章の最後の部分を読むのは、今日で3回目になります。今朝は特に最後の38節、39節に集中して礼拝をしたいと思います。
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
たいへん力強い、また印象深い言葉ですが、特に私にとっては、この言葉はひとつの具体的な思い出と結びついています。私がまだ中学1年生だったとき、当時は東京郊外の国立教会というところに通っていたのですが(昨日この場所で感銘深い講演をしてくださった村山斉さんも、やはり当時同じ国立教会におられました)、たいへん悲しい、重苦しいと言ってもよいほどの死の出来事がありました。
死というのは、誰にでも必ず平等に訪れるもので、しかもそうでありながらそのひとつひとつが特別で、その重みを比べるというのはおかしなことかもしれませんけれども、それでもやっぱり、40年前に自分の教会で起こったあの死の出来事は、近しい者たちの心を押し潰すものがありました。極めて主観的な言い方を許していただきたいと思いますが、これまで50年以上生きてきて、特に牧師になってからは人一倍たくさんの死に接してきたほうだと思いますが、まだあれ以上に重苦しい死の出来事に接したことはありません。事が事だけに、具体的なことをここでお話しするわけにはいかないのですが、事の顛末を母から教えられたときに、母が何度も念を押したことは、「誰も悪くないんだからね。本当に、誰も悪くないんだよ」。それなのに、こんな苛酷なことが起こり得るんだ。当時中学生だった私も、言葉を失うほどの思いに捕らえられました。
■その葬儀からずいぶん時間がたってから、ひょんなことからそのときの葬儀説教の原稿を手に入れることができました。特に私が牧師になってから、折に触れてその原稿を読み返します。もちろんご家族がいちばん苦しかっただろうけれども、牧師もつらかっただろうなと思います。その牧師も、そんな自分の気持ちを正直に吐露するところから、説教を始めています。少しだけ、その葬儀説教の最初の部分を紹介させていただきたいと思います。
できることなら、今、私はこのところで何も語らずに、じっとしていたいのであります。しかし、それでも何かを語らなくてはなりません。三日前に起こったできごとについて、何かを語らなくてはならないのであります。多くの方々は、きょう、“どうして”、“なぜ”、という問いを抱きつつ、それでいて、それにたいする答えをみいだせないままにこのところにお集まりになられたことと存じます。私とても同じであります。どうしてこんなことになったのか、私にも説明がつきません。誰に悪意があったわけではないのであります。今、お悲しみのうちにあるご家庭は、いつもは明るいご家庭なのであります。……皆が信仰に生きて、皆ができるだけ正しく生きようと心がけてこられたご家庭なのであります。それなのに、このたびの悲しいできごとが起こりました。私達には、説明のしようがありません。
そう言って、この牧師はもちろん、結局、最後まで「説明」を求めることはやめよう。説教の中ではっきりと、「なぜ」、「どうして」ということを問うことはやめようと言います。「なぜ」、「どうして」。そんなことを問うてみても、ますます苦しみを大きくするだけだ。一挙にたくさんの困難を背負うことになったご家族を、さらに追い詰めるだけだ。だから、「なぜ」と問うことはやめよう。
そして、その代わりに、というのもおかしいのですが、この牧師はローマの信徒への手紙第8章の38節、39節だけをぶっつけるように語りました。「私は確信しています」。「神は、愛です」。だから、「死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」。
神は、死よりも強い。神の愛は、死よりも強い。そのことについて、説明なんかしないと言いながら、この牧師は、ただキリストの十字架のことだけを語りました。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」。神の愛は、「私たちの主キリスト・イエス」の中に示されたんだ。その「主キリスト・イエス」というのは、いったい何者であろうか。このお方は、十字架の上で死に追い詰められ、自分はすっかり神から見放されたのだと絶望されて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばなければならなかった。けれども、神はこのお方を三日目に死人の中から甦らせてくださった。神が死の力に勝るお方であることを、明らかにしてくださったのだ。
■……そこまでは、きっと皆さんも、「そのことなら何度も聞いたことがある」と思われるでしょう。「神は、死よりも強い」。ところがこの葬儀説教の興味深いところは、そこからおもむろに教会の話を始めるのです。またその牧師の葬儀説教の原稿をそのまま紹介します。
しかし、神はそのお方を死ののち、三日めによみがえらせてくださったのであります。……そのことを通して、神はご自身が死の力にまさる、命の力をもちたもう方であることをお示しになられたのであります。その時以来、この神のみ力に信頼し、それを頼りとして生きるキリスト者の群れが、教会がこの世に誕生しているのであります。
今改めて、この葬儀説教を読み返して感銘を受けることは、この牧師が「教会を信じよう」と呼びかけていることです。わたしたちは教会なんだ。キリストの復活に生かされる教会が、今ここに生きているんだ。
残されたご家族は、どんな言葉を聞かされたって、つらかったと思います。つらいなんてものではなかっただろうと思います。けれども、よく耐えました。終生変わることなく、礼拝に踏みとどまりました。それが、それだけで、ひとつの証しとなりました。教会の人たちは、誰も余計なことは言いませんでした。ただ、皆がこの家族のために祈り続けました。10年、20年、さらにもっと長きにわたって、教会がこの一家のために祈り続けました。そのような教会の存在そのものが、「死も命も、どんなものも、どんな力も、神の愛から私たちを引き離すことはできない」ということの証しになったと思います。
■主題は、教会であります。今日の礼拝をもって、ローマの信徒への手紙第8章を読み終えることになるのですが、昨日改めてふりかえってみて少し驚いたことは、もう5か月近く、第8章を読み続けているんですね。ローマの信徒への手紙第8章の大切な主題のひとつは〈教会〉です。「え? そうなの?」といぶかる方もあるかもしれません。「教会」なんて言葉はひとつも見つからないからです。けれども、そうであっても、第8章の主題が教会であることは間違いありません。
そのひとつのしるしは、「私たち」という言葉です。あまり目立たない言葉なので気づきにくいかもしれませんが、お時間のある方は、日本語の聖書でも構いません、ローマの信徒への手紙に出てくる「私たち」という言葉をカウントしてみるとよいと思います。第8章で突如際立ってくるひとつの主題が「私たち」であるということに納得されると思います。その「私たち」というのは、何となく漠然と「人類みんな、私たち」というような話ではないのです。伝道者パウロの書いた「ローマの信徒への手紙」、ローマの教会に宛てて書いた手紙です。したがって、その手紙の中に出てくる「私たち」というのも、基本的には「教会に生きる私たちは」という意味です。その「私たち」って、何者なんだろう。それが第8章の主題です。
まだ洗礼を受けておられない人、したがってまだ教会に連なっていない人を、ことさらに排除しようという意図はありません。むしろこのような機会に、改めて申し上げなければなりません。どうかすべての人が、ひとりでも多くの人が、一日も早く、洗礼を受けて「私たち」の群れに入って来てほしい。「私たちは、神に愛されているのです」。「神の愛から、私たちを引き離す力はありません」。どうかあなたも、この神の愛の中に入って来てほしい。「私たち」のひとりとして加わってほしい。
■その「私たち」とは何者か。それを畳みかけるように語るのが、今日お読みした箇所です。改めて、「私たち」という言葉に注目しながら31節以下を読んでみたいと思います。
では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
私たちとは、どういう「私たち」なのでしょうか。神が味方になってくださった私たちです。そのために神が御子の命さえ惜しまなかった、私たちです。神がお選びになった私たちです。キリストが執り成してくださる、私たちです。だからこそ、誰も私たちを訴えることはできない。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」(35節)。そういう私たち教会です。
そういう「私たち」の話をしながら、この手紙を書いたパウロは、決して夢を見ていたわけではありません。寄る辺ない私どもです。弱い私どもです。「私は洗礼を受けたクリスチャンです」とか偉そうなことを言ってみたって、本当にちょっとしたことで、いつもぐらぐら動揺しているのが、私どもキリスト者なのです。これまた、特にまだ洗礼を受けておられない方たちに申し上げたいことなのですが……礼拝に出続けながら、それでもまだ何となく洗礼には踏み出せない。「私には、まだ信仰がないから。確信をもって神を信じているとは、自分で思えないから」。もしかしたら、そんな思いがあるかもしれません。けれども、すべてのキリスト者を代表して申しますが、私どもキリスト者の信仰なんて、あるかなきかの信仰でしかありません。いろんな試みの中で、心が弱る。体が弱る。それでも信仰だけはしっかり保って……と言いたいのはやまやまなのですが、むしろ心よりも体よりも真っ先に弱るのが信仰であるかもしれません。
けれどもパウロは、そんなことすら問題にしていないと思います。「どんなものも、どんな力も、神の愛から私たちを引き離すことはできない」。私どもの弱さが、私を神の愛から引きはがすことはできない。私どもの不信仰も、私どものどんな罪深さも、それをもって自分を自分で神の愛から引き離すことなんか、絶対にできない。むしろ、聖書はこう言うのです。「神が、私の味方なら」。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」。神は愛だから、誰もそんなことはできない。自分自身の不信仰も、自分自身の良心さえも、私を訴えることはできない。私を罪に定めることもできない。私を神の愛から引きはがす力は、宇宙のどこにもない。
そんな教会が、神に愛された教会が、今ここにも生きています。「私たち」の存在そのものが、神の愛の証しとなるのです。どうかなおひとりでも多くの人が、この「私たち」の群れに加わることができますように。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今私どもも、確信しています。神は、愛です。どんな力も、あなたの愛から私たちを引き離すことはできません。弱い私どもです。けれども、主がわたしの羊飼いでいてくださるなら、わたしには乏しいことはひとつもありません。どうか今、あなたに愛されたあなたの教会を、み前にお返しすることができますように。さらにひとりでも多くの人が、この群れに加えられますように。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン







