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夜の訪問者

2024年6月9日

ヨハネによる福音書 第3章1-15節
柳沼 大輝

夕礼拝

 

昨年、東京の教会にお仕えしていたとき、夜に一人の訪問者がありました。その方は、中高とキリスト教学校に通っていたらしく、歳を重ね、改めて、自分の人生を振り返ったとき、青年期に触れた聖書の御言葉を思い出し、もう一度、神様について学んでみたいと考えて、教会を訪れたそうです。

私は喜んでその方をお迎えし、一緒に聖書を開いて、その方からの質問に一生懸命、答えようと努めました。「聖書には、信じられないようなイエス様の奇跡がたくさん記録されているけれども、イエス様の奇跡は、本当に起こったのですか?」「イエス様は十字架で死んだ後、三日目に復活したというけれども、イエス様はどうやって死者のなかから甦られたのですか?」

私は聖書の言葉を引きながら、これらの質問に必死にお答えしました。しかし、その方は「いや、やはり自分には、どうしても理解できない、信じられない。」そう言って、残念そうに教会を後にされました。残された私は一人寂しく、自分の無力さを痛感させられながら、ただ祈ることしかできませんでした。

本日の個所にも、ニコデモという一人の訪問者がありました。彼もやはり日が沈んだ夜の時間に主イエスのもとを訪れたようです。

このニコデモという人、実は、当時、ユダヤの国の最高法院であるサンヘドリンと呼ばれた議会の70人しかいない議員の一人でありました。言うならば、彼は、社会の中枢にいて富や権力を享受し、格別に高い身分を持った知識人でありました。

一方、そんな高い地位を持ったニコデモが訪れた主イエスという人は、北部のガリラヤ地方というところの名前も聞いたことのないナザレという小さな村の出身でありました。

また、この当時、聖書の教えを説く者は大抵、ラビと言われる有名な先生のもとについていたのですが、この主イエスという人は、誰のもとにもついていない。平易な言葉で言ってしまえば、どこの馬の骨かもわからないような人物でありました。

しかし、このどこの誰かも知れない主イエスという人物、どうも病人を癒す力を持ち、聖書への知識もあなどれない。さらに主イエスは人々に悔い改めを説き、祭司長や律法学者たちを批判している。その動きは、大きな波となって、民衆を巻き込んでいました。

社会の中枢にいた権力者たちにとって、このような主イエスという人物の台頭は、自分たちの地位を維持していくうえで、見逃せない一大事でありました。

そんな危険人物の一人である主イエスのもとをニコデモは訪れたのです。当然、主イエスを成敗するために近づいたのであれば、仲間から理解されるであろうし、称賛されるかもしれません。けれども、そうでないならば、仲間から批判を受けます。もしかしたら、いまの自分の地位さえ失ってしまうかもしれません。

だからこそ、ニコデモは人目を避け、夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪れたのです。しかし、だからといって、絶対に安全であるとは限りません。どこかで誰かが見ているかもしれない。噂が広がる可能性だってある。それほど高いリスクを負いながらも、ニコデモは、主イエスのもとを訪れたのであります。それはいったい何のためであったのでしょうか。

ニコデモは、主イエスと出会い、冒頭、このように言います。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」

まずここで、ニコデモは自分が主イエスに対して、最高の敬意を持っていることを示します。いわば、この言葉はニコデモなりの賛辞。主イエスを褒め称える言葉でありました。

ニコデモは、主イエスのことを「先生」と呼び、その権威の由来、出処が誰か偉い先生についているとか、何々先生の一番弟子といったような人間的な学閥にあるのではなく、天の父なる神にあるのだということを自分は知っていると、はっきりと証言します。

この言葉は、主イエスからすれば、最高の褒め言葉のように思えます。しかしここで主イエスは、ニコデモのことをけっして称賛したりなどなさいませんでした。返ってニコデモに対して、厳しい言葉をぶつけています。「よくよく言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

「よくよく言っておく」これは、原語では「アーメン、アーメン、レゴー、ヒューミン」という言葉です。「アーメン、アーメン」。「アーメン」、この語は私たちが祈りの最後に唱和する言葉であります。その意味は「間違いありません」「本当です」「真実です」といったものです。その言葉がはじめに二回も繰り返されています。敢えて、直訳すれば、「まことに、まことに、あなたに言う」となります。

それほどまでに強調して、力を込めて、主イエスは、ニコデモに伝えたいことがあったのであります。それは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということでありました。

しかし、ニコデモはここで一度も「どうしたら神の国を見ることができますか」などと主イエスに尋ねてはいません。先ほど見たように、ニコデモが主イエスに言ったこと、それは、主イエスを褒め称える惨事でありました。ニコデモは「神の国を見たい」など一言も言っていないのであります。しかし主イエスはすでに、ニコデモが心の内で求めていたもの、必要としているものをすべてご存じでありました。

ニコデモが求めていたもの、それは、神の国に入ること、別の言葉で言うならば、永遠の命に与ること、つまり「救われる」ことでありました。ニコデモは、自分がどうやったら神の国に入ることができるのか。自分はどうしたら救われるのか。その教えを乞うために、夜の闇のなか、人目を避けて、主イエスのもとにやってきたのです。

ところが、ニコデモはこの主イエスの言葉の意味を理解することができませんでした。彼は、主イエスの言葉に対し、次のように反応しました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」

ニコデモは主イエスがお語りになった言葉を自分の持っている知識や経験を生かして、その枠組みの中でなんとか理解しようとしました。しかしいくら頭のなかで考えてみても、主イエスがお語りになった言葉の意味を、彼はつかみ取ることができませんでした。

そんな物わかりの悪いニコデモに対して、再び、主イエスは言います。「よくよく言っておく」(アーメン、アーメン、レゴ―、ヒューミン)(まことに、まことにあなたに言う)「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない。」

これまた人間の頭では、容易に理解することのできない言葉であります。ニコデモも「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ってまたもや主イエスの言葉の真意をつかみ取ることができませんでした。

ここまで鈍感なニコデモに対して、私たちは苛立ちを覚えます。しかし、私たちもニコデモと同じではないでしょうか。この後に語られる主イエスの十字架の出来事を知らなければ、私たちだってこの主イエスの言葉を理解することはできないでしょう。

キリスト教学校に入学し、チャペルの礼拝で初めてキリスト教に触れる生徒や学生がいきなり「水と霊とから生まれなければダメ。あなたは天国に行けない。」と言われても、きっと何もわからないでしょう。また救いを求めて、初めて教会に来られた方が、この言葉を聞いたならば、自分はもしかしたら救われないかもしれないと不安を抱いてしまうかもしれません。

それでも主イエスは言うのです。しかも、はっきりと宣言するのであります。「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない。」

ここで水と霊が何かを象徴していることは、容易に想像できます。それでは、ここで言われている水とは、霊とはいったい何を意味しているのでしょうか。

水は、実は、洗礼の水につながります。人間の罪や汚れを洗い流す水なのです。水は、清めのための宗教的儀式のなかでよく用いられてきました。神社で参拝をするときには、その前にやはり水で奇麗に手を洗います。エジプトなどでモスクを観光する際にも、そこにもやはり水が流れていて手を洗う場所があります。

このように現代でも様々な宗教のなかで水は清めのために用いられています。聖書の時代にも「沐浴」といって、いわば水浴びをして全身を洗い清めてから、お祈りする、礼拝するといったグループもありました。

まさに、水とは人間の罪を洗い清めるために必要なものでありました。しかし、それはただ単に私たちが石鹸で手の汚れを綺麗に洗うように、あるいは、服の汚れを洗剤でごしごしと洗うように、水によって、見た目だけ綺麗になって終わりというだけでは意味がありません。

手や衣類なら、それで十分かもしれませんが、罪は違う。罪を汚れとして見るならば、いくらごしごしと水で洗って表面的に綺麗に取り繕ってみたところで、それでも罪の汚れは残るのであります。本当の意味で罪はなくなりません。

例えば、罪はただ気持ちのうえで赦したと言われても、その人の事情や立場が変われば、すぐにひっくり返されます。また誰かが罪を犯したとして、たとえ、それがばれずに、誤魔化すことができたとしても、罪悪感、罪の意識はずっとその人のなかに残り続けます。このように、情緒、感情の面で罪の赦しを語ってみたところでそれは何の意味もないのであります。

それでは、罪はどうしたらなくなるのか。それは、正しく罪が裁かれることです。罪を犯した人が、法で裁かれるように、正しく罰が執行されて、その罪が処理されるとき、初めて罪はなくなるのです。そうしなければ、罪は一生、残り続ける。

しかし、私たちはその裁きに耐えることができない。その罰をすべて背負うことができない。私たちには、その罪の裁きは重すぎるので、そのために神の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの代わりに罪の罰を受けて、死んでくださったのであります。そこで初めて十字架の血潮によって、罪人の罪が洗い清められ我らの罪が赦される。罪がなくなった。つまり、水は主イエスの十字架の贖罪、赦しを意味します。

続いて、霊とは何か。ここで今日の個所の最後の15節の言葉につながります。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

霊から、新たに生まれるとは、永遠の命を得させる、信仰を与えるものが霊であるということです。神の国に入るという言葉を、永遠の命という言葉に言い換えてはいますが、神の国に入る鍵は、信じること、まさに信仰であると、ここで主イエスは言っています。

「信仰」、私たちはよくこの言葉を口にします。しかし、教会の外の人から「信仰」とは、何かと尋ねられたら、私たちは自分の言葉で「信仰」とはこうであると説明することができるでしょうか。きっと難しいのではないかと思います。なかなか自分のなかで言語化できていない方が多いのではないかと思うのです。

私たちは「信仰」と言ってもどこかぼんやりとしていて、はっきりとした答えを持っていない。そこで私たちは改めて「信仰」とは何であるかを考えなければなりません。

ニコデモを例に考えてみましょう。ニコデモは主イエスを「神から来られた方」だと言います。それは、主イエスがなされた奇跡や癒しの業を見てわかると言う。そこでニコデモはその主イエスからどうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。その教えを乞おうとしてやってきたのであります。

いわば、地上の人間では知り得ない、天からの特別な知識を持って,神の国を見ることができると、彼は考えていたのです。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることでありました。

これに対して、主イエスはそれではいけないとニコデモの考えをはねのけています。「霊から生まれなければダメだ」。霊から生まれるとは、知識を得ることではない。むしろ知識や経験という枠組みでは、到底、理解できないことがある。霊から生まれるとは、主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んだ、三日目に死に勝利して復活した、この救いの出来事を信じるということであります。

信じるというとき、私たちはそのことを頭のなかでしっかりと理解しようとしますが、残念ながらこの出来事を完全に頭で理解することは、私たちには到底、できないのであります。これは知識ではありません。

主イエスの十字架と復活を信じるとは、主イエスの十字架と復活による永遠の命に私のすべてをお委ねするということであります。自らの一切を主イエスにお任せするということであります。

これは、自分の知識や経験で決断することではありません。自分の経験や鍛錬、努力でなし得ることができるといったものではないので、自分の力では私たちは救われないのです。

このことは、もしかしたら、いま、求道し、必死に救いを求めておられる方に失礼に聞こえるかもしれません。けれども、これがキリスト者の喜びなのです。

私たちは、何もいまの自分のことだけを神様にお委ねするのではありません。どうしてもゆるせない過去の自分や目の背けたくなるような失敗、挫折、悲しみ、恥、さらには先が見えない不安な未来さえ、すべてを神様にお任せする。その信仰に生きるとき、人間は、初めて新しく生まれることができるのだと、主イエスは宣言します。

本日の個所の真ん中らへんで、主イエスは霊を風に譬えて、風は思いのままに吹くと言います。風は自由に吹く。神様の働きは自由なのです。

神の自由によって私たちは救われていく。だから、まさか理屈屋で宗教嫌いなあの人が救われるなんてことが起きたりする。絶対に自分は神様なんて信じないと言っていたあの人が信仰を告白するなんてことが起きたりする。風のように目には見えない、手で掴むこともできない、それでも聖霊の呻きを持って、神様は、私たちの内なる叫びに答えてくださる。「大丈夫」だと言ってくださる。

自分では愛することができない自分も、ゆるせない自分も神様がすべて受け止めて愛してくださる。主の御手に委ねるとき、私たちは主の十字架の御もとへと導かれ、我らの罪が洗い清められた、贖罪、赦しとしての十字架を仰ぎ見て、その歩みはやがて霊によって洗礼へと招かれていく。

ニコデモは、最後まで主イエスの言葉を理解することはできませんでした。しかし彼は、後にヨハネによる福音書第19章において、再び登場し、主イエスが十字架で死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒に主イエスの遺体を引き取り、血で汚れた主イエスのお体を綺麗にして埋葬するという役割を担っていきます。

あのときはまだわからなかった。理解できなかった。しかし主イエスの十字架に直面し、復活の主イエスと出会い、霊を与えられて、彼は確かに新しくされた。変えられていった。あのときの主イエスとの出会いが、語られた主イエスの言葉が、彼の人生に大きな意味を与えていったのであります。

皆さんにとって、主イエスとの出会いはどのようなものであったでしょうか。ニコデモのように初めから救われたいと願い、必死に神様に教えを求めて、教会に来たけれど、説教の意味をよく理解することができずに苦しんだ。あるいは、偶然にも、キリスト教学校に入学して、礼拝や聖書の授業で語られた神様の言葉、聖書の言葉にどこか引っ掛かりを覚えて、自分の知識や経験でなんとか理解しようとして、もがき、格闘したという方もいるかもしれない。

しかし、そのすべてはけっして無駄ではない。その小さな神様との出会いが、語られた御言葉が、たしかに今日という日につながっているのであります。

最初、お話したあの方もきっとまだどこかでイエス様と出会う。聖霊によって新しくされていく。皆さんが心のなかで祈っている大切なあの人も、いま、神様を知ろうと本日の礼拝に来られたあなたもまさにそうなのであります。霊によって、日々、新しくされていく。信仰が与えられる。

信仰とは、神様の自由な霊の働きによって与えられるものであり、それと共に日々、更新されていくものでもあります。水と霊とから新しく生まれた私たちは、そこで終わりではありません。日々、御言葉によって、そして聖霊によって、新しくされていきます。ニコデモのようにたしかに変えられていきます。

だから、今日もこの礼拝において、生きて働いておられる主に「信仰」を祈り求めましょう。主の御手にすべてを委ねましょう。共に十字架を見上げつつ、霊によって導かれ、神の国へと新たな一歩を踏み出していくことができますように。私たちの弱き一足一足を、主よ、あなたがまことの光として支え導き給え。

 

憐れみの主イエス・キリストの父なる御神、
今日も私たちに信仰をお与えください。
自分の知恵や経験ではなく、あなたの愛と慈しみによってのみこの身を委ねることができますように。
あなたに信頼して生きる、あなたを信じて生きる、その幸いに心を開かせてください。
日々、御言葉に養われ、霊によって、新しくされていく喜びをお与えください。
いま、救いを求めている者たちのうえにも、あなたからの導きがありますように。
この願いと感謝、救い主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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