まっすぐに、神の前に
ローマの信徒への手紙 第3章5-8節
川崎 公平

主日礼拝
■本日、説教のあとに歌います讃美歌第二篇の184番は、私がこの教会に着任して以来、初めて歌うわけではありませんが、ほとんど歌ったことのない讃美歌だと思います。決して難しい歌ではありません。むしろ歌詞もメロディーも実に素直で、あまりにも素直過ぎるので逆に敬遠されるのかもしれません。この讃美歌の典拠となっている聖書の言葉もまた、実にまっすぐに福音を伝えるもので、ヨハネによる福音書第3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この聖書の言葉に基づいて、この讃美歌はこのように歌います。
1.神はひとり子を たまうほどに
世びとを愛したもう、神は愛なり。
(おりかえし)
ああ、神は愛なり、汚れはてし
われさえ愛したもう、神は愛なり。2.罪をばおかして 神にそむき、
さからうわれさえ なお愛したもう。3.罪ゆるされんため われにかわり、
み子イエス十字架に 死にたまえり。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。この世界を丸ごと愛してくださった神の愛は、そのひとり子の命をお与えになるほどの愛であったのだ。「罪をば犯して 神にそむき、さからうわれさえ なお愛したもう」。そんなわたしのために、わたしに代わって、「み子イエス十字架に 死にたまえり」。「ああ、神は愛なり、汚れはてし われさえ愛したもう、神は愛なり」。
そのように歌うのですが、実はこの讃美歌にはひとつややこしい問題があります。おそらく皆さんの90パーセント以上は、今紹介した第3節までの歌詞しか載っていない讃美歌をお持ちだと思います。それに添えて小さな字で、「第4節は適切さを欠いたことばがあり削除しました」という、ちょっと気分の悪い文章が書いてあります。それで当然、この礼拝では第3節までを歌うことにしました。しかし中には、第4節の歌詞が印刷されている古い版をお持ちの方もあるかもしれません。ちなみに私が今持っているのは古い版で、第4節までの歌詞がすべて印刷されています。元来この讃美歌は、最後にこう歌わせるのです。
4.かくまでゆかしき 神の愛に
なお感ぜぬものは ひとにあらじ。
「こんなにもすばらしい神の愛に、それでも心が動かない者は、人間ではないだろう」。この第4節の歌詞を、初めて読んだときの衝撃を私は忘れません。激しい言葉です。「人に非じ」。この言葉を漢文調に書くと「非人」となります。どうしたってその言葉は、日本の負の歴史を連想せざるを得ません。あってはならない悲しい差別の現実を思い起こさずにはおれません。そうであれば、最後の歌詞が削除されてしまったのもやむを得ないことであったかもしれません。それにしても残念なことだと思います。皆さんはどうお考えになるでしょうか。「かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは ひとにあらじ」。
スイスの改革者のカルヴァンという人が、ジュネーブ教会信仰問答という古典的な信仰の書物を書きました。人間の生きる主な目的は何か。神を知ることである。それでは人間の最高の幸せは何か。それもまた同じ、神を知ることである。そういう問答を重ねながら、たいへん強烈な印象を残しますことは、それはなぜですか、と問うて、「神を知らない人間の状態は、獣よりも不幸だからです」と言います。この古典的な信仰の言葉は、しかしよく考えてみると、あの讃美歌の歌詞よりもさらに強烈です。神を知らない人間は人間ではない、ただの動物だと言ったのではないのです。獣にも劣ると言うのです。そこで敢えて「獣」という言葉を使ったカルヴァンが、おそらく思い起こしていたのではないかと私が想像しているのは、旧約聖書のイザヤ書第1章3節の言葉です。
牛は飼い主を知っており
ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らない。
私の民は理解していない。
牛やろばでさえ、自分の主人を知っている。自分が誰から餌をもらっているか、ちゃんと理解している。けれどもイスラエルは、わたしの民は神を忘れた。動物以下だ。同じイザヤ書の第1章14節には、そのような神の民、イスラエルを神が重荷となさり、もうお前を背負うのに疲れ果てたと書いてあります。深い畏れを呼び起こされるみ言葉です。「わたしはもう疲れたよ。あなたのことで」。神が疲れるなんてことがあるのでしょうか。最近年のせいで、めっきり疲れやすくなったという方は少なくないでしょう。しかし、なぜ神ともあろうお方が疲れるのでしょうか。「かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは……」。どうしてわからないんだ。もう疲れたよ。しかしそれはまた、神がそれほどまでに、私どもを愛してくださるということでしかありません。もし愛していなければ、疲れることもないのです。さっさと見捨てればいいだけの話です。疲れ果てるほどの、神の愛の戦いについて、どれほど私どもは気付いているだろうかと思うのです。
■伝道者パウロの書きました、ローマの信徒への手紙を読み続けています。パウロという人は、この手紙に限らず、いつどこにあっても、ひたすらイエス・キリストの福音を語りました。それこそ、あの讃美歌と同じことを語り続けたのです。
神はひとり子を たまうほどに
世びとを愛したもう、神は愛なり。
罪をばおかして 神にそむき、
さからうわれさえ なお愛したもう。
罪ゆるされんため われにかわり、
み子イエス十字架に 死にたまえり。
パウロはコリントの信徒への手紙I第2章2節というところで、こうも言いました。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい、何も語るまいと心に決めました」。そのために、わたしは優れた言葉を用いない。人間の知恵を用いない。キリストの十字架以外、何も知るまい。何も語るまい。けれどもそこにはまた戦いが生まれます。あのカルヴァンの言葉も、あの讃美歌の最後の歌詞も、戦いの中で生まれた言葉であることを忘れてはならないし、したがって私どもの信仰生活というのも、いつも戦いであることを忘れてはならないのです。不信仰との戦いであります。
パウロの書いた手紙も、このローマの信徒への手紙に限らず、すべて戦いの手紙です。神の愛のための戦いです。神の愛が勝利するために、疲れ果てるまで戦い続けました。特にこのローマの信徒への手紙第3章で主題になっていることは、〈ユダヤ人〉の問題であります。神に特別に愛され、特別に選ばれた民、それがイスラエルです。それがユダヤ人です。ところが、「牛は飼い主を知っており ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは何もわかってない」と言われたイスラエル、ユダヤ人の問題は、イザヤの時代から800年たっても、少しも変わっていない。ローマの信徒への手紙をパウロが書いた目的は、などという話を始めるとたいへん複雑な話になってしまうのですが、少なくともひとつの大きな動機は、ユダヤ人の救いのためということであります。パウロ自身、ユダヤ人であります。ところがパウロがどこの町に伝道に行っても、総じて多くのユダヤ人は心を開こうとしない。なぜ言葉が通じないのだろうか。「かくまでゆかしき神の愛に、なお感ぜぬユダヤ人はひとにあらじ」とまでパウロが語ったかどうか。しかしそれは、決してユダヤ人を呪う言葉でありません。むしろパウロは、第9章以下で改めてユダヤ人の救いという主題に正面から取り組みながら、最初にこう言っています。
私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています(第9章1~3節)。
わたしには悲しみがあり、痛みがある。それは、わたしの同胞イスラエルがキリストの愛に対して頑なな姿勢を崩さないことだ。もし彼らが救われるためなら、わたしが呪われてもよいとまで言い切っています。そのような愛のゆえに、パウロもまた、疲れ果てるほどの戦いをしなければなりませんでした。
■今日読みました第3章の最初の部分は、特にそのようなパウロの戦いの経験が反映していると言われます。いろんな場所で、いろんな場面で、パウロが特にユダヤ人と論争しなければならなかった。そのやりとりがたいへん生々しく、この手紙の文章の中に反映していると読むことができるのです。たとえば5節にはこう書いてあります。
しかし、私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、何と言うべきでしょう。人間としての言い方をすれば、怒りを下す神は正しくないのですか。
きっとパウロは、何度もこういう論争をしなければならなかったのでしょう。8節の「善を来らせるために、悪を行おうではないか」というのも同様です。パウロの教えに対して、こういう悪口を言った人たちがいたらしいのです。「神はひとり子を たまうほどに 世びとを愛したもう、神は愛なり」。へー、そうなんだ。「罪ゆるされんため われにかわり、み子イエス十字架に 死にたまえり」。へー、そりゃすごい。じゃあ、それは要するに、「私たちの不義が神の義を明らかにする」ってことだよね。「かくまでゆかしき 神の愛に」って言うけれど、その神の愛とやらは、われわれの罪があったから初めて現れたってことだよね? それなら、「善を来らせるために、悪を行おうではないか」。要するに、パウロくんの言いたいことは、そういうことだね? でもそれなら、そんな人間の不義に対して「怒りを下す神は正しくないのですか」。人間の罪があったから神の義が現れたというのに、その人間の罪に対して神がお怒りになるとは、まったく不当ではないか、という、パウロがもしかしたら何十回も聞かされてきた屁理屈が、この手紙にこのように反映しているのです。
こういう屁理屈を読まされると、きっと皆さんは、まさか、くだらない、とお感じになると思います。少なくとも自分はこんなレベルの低い屁理屈は言わない。そうかもしれません。しかしまた、別の理屈をつけて、何とかして神を信じまいとすることがあるかもしれません。これとはまた別の屁理屈をこねて、何とかして教会の信仰を否定してやろうとする誰かの言葉を聞いたことがあるかもしれません。
■竹森満佐一という説教者が、この箇所について説教しながら、この説教者にしてはたいへん珍しく、自分自身の経験を生々しく紹介しています。少し長く引用します。
イスカリオテのユダに同情する人があります。そして、キリストの十字架がそんなに大切であると言うのなら、ユダの裏切りは、絶対に必要なことではなかったか、ユダが居なかったら、十字架はなく、われわれの救いもなかったはずである、という議論をしたがる人もあります。このことを考えたら、分らなくなって、信仰を捨てたという人と、ある埋葬式の時に出会って、お墓の前で、話をし合ったことがありました。このような人は、信仰の第一歩目から見当ちがいをしているのであります。その人の同情にもかかわらず、ユダ自身は、申しわけなさに首をくくって死んだことを忘れているのであります。こういう人よりは、ユダの方がまだよほど「信仰的」であった、と言ってよいでしょう。
これはたいへん激烈な言葉です。あまりにも激しすぎて、竹森先生とお墓の前で論争したという当人がこれを読んだら、いったいどんな気持ちになるだろうかと少し心配になるほどです。しかし、話の趣旨はわかりすぎるくらいよくわかると思います。イスカリオテのユダの裏切りがあって、初めて十字架が実現したのではないか。それが神のご計画であったというのであれば、そのユダが極悪人の代表のように扱われるのは、ちょっとひどいんじゃないか。それがどうしても理解できなくて、私は信仰を捨てました、と言った人がいたらしい。ところが竹森先生は、「このような人は、信仰の第一歩目から見当ちがいをしているのであります」と、少しも容赦しようとしません。「その人の同情にもかかわらず、ユダ自身は、申しわけなさに首をくくって死んだことを忘れているのであります」。つまり、何度でもあの讃美歌を思い出してみたいと思いますが、「かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは」と言うのですが、ユダはユダなりに、感じるところがあったのです。それはもう、自分で自分の命を絶つほどに、強烈に神の愛に感じるところがあったのです。その神の愛を、自分は銀貨30枚で裏切ったんだ。絶対に赦されないことをしてしまったのだ。それは竹森先生の言い方を借りれば、よくわからなくなったから教会に行くのをやめた、という人に比べれば、まだユダの方が「信仰的」であったと言えるだろう。しかしもちろん、ユダの感じ方は、神の愛に対する正しい感じ方ではなかったのです。
ユダにしても、あるいはユダのことがわからなくて教会に行くのをやめた人にしても、それぞれにその人なりの理屈があるのです。けれどもそこに共通していることは、神の愛を無視した判断でしかないということです。だからこそ竹森先生は、「信仰の第一歩目から見当ちがいをしている」と言い切るのでしょう。信仰の第一歩目から、実は最初から神の愛を無視している。それでは、間違うのは当たり前だ。
5節に、「人間としての言い方をすれば」という表現が出てきます。この文章は、何と申しますか、もう少し独立した感じの文です。「しかし、私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、何と言うべきでしょう。怒りを下す神は正しくないのですか」と言ったあとで、慌てて注を付けるように、「これはあくまで、人間としての言い方をしているだけだ」と、そう言うのです。いろんなところで、いろんな論争に巻き込まれたパウロです。ありとあらゆる理由をつけて、何としてもキリストの愛を受け入れようとしない人に対して一応の答えをしながら、「これはあくまで、人間としての言い方をしているだけだ」。敢えてあなたがたの土俵に降りて、人間のレベルでものを言ってみただけだ。けれどもそれは、人間の理屈でしかない。神の前に通用する理屈ではない。信仰の第一歩目から神の愛を無視しているから、「人間としての言い方をすれば」、こんなおかしな屁理屈が生まれてくるのではないですか。
■さてパウロは、このような屁理屈に対して、どう答えるのでしょうか。6節に「決してそうではない」と書いてあります。4節にも同じ言葉が出てきます。単なる否定の言葉というよりも、「断じてそんなことがあってはなるものか」という、強い気持ちを表す表現です。「絶対に、違う。そんなことが、あってなるものか」。人間の屁理屈に対しては、結局のところこれがいちばん適切な答えであると、パウロは考えていたようです。「断じてそうではない」。この表現が新約聖書に出てくる、そのほとんどの用例はパウロの手紙です。特にこのローマの信徒への手紙には、頻繁にこの表現が出てきます。伝道者パウロの最後の手紙であると言われます。伝道者パウロが、いったい生涯の内に何度この言葉を使わなければならなかったことでしょうか。「断じてそうではない。そんなことが、あってなるものか」。
思えば、あの讃美歌を書いた人もまた、そのパウロの思いを受け継ぐようにしてこのように歌ったのだと思います。「罪ゆるされんため われにかわり、み子イエス十字架に 死にたまえり。かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは」、そんなことは、断じてあってはならない。これは、人間の理屈ではないのであります。神は愛ですから、その神の愛を軽んじることは、あり得ないのです。そんなことは、絶対にあってはならない。だからこそまた最初に申しましたように、パウロは別のところでは、「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい、何も語るまい」と言ったのです。この神の愛を語るために、わたしは優れた言葉を用いない。人間の理屈を用いない。キリストの十字架以外、何も知るまい。何も語るまい。「罪ゆるされんため われにかわり、み子イエス十字架に 死にたまえり」。私がここで語り得ることも、ただそのことだけであります。
■本日配付した教会の祈りのプリントにもそっと書いたことですが、5月から6月にかけて、最近の私どもの教会としてはわりとたくさんの方が続けて洗礼をお受けになることになりました。6月8日の聖霊降臨記念の礼拝においても何人かの方が洗礼の準備をしておられますし、実はそれ以外の日にも、病床での洗礼をお受けになる方が数名おられます。翻って、今共に礼拝をしている皆さんの中にも、まだ洗礼を受けておられない方はたくさんいます。私どもの教会は、決して洗礼を強要することはありません。ぜひ洗礼を受けてくださいと、心から願ってはおりますが、無理強いすることはありません。
いったい、洗礼を受けるためにはどんな条件が必要なのだろうか。何の条件もありません、と言うと、それはうそだ、イエス・キリストを信じなさいという条件があるじゃないかと言われるかもしれませんが、信仰は条件ではありません。主イエスはあるところで、「幼子のように信じなさい」と言われました。幼子のようにならなければ、決して神の国に入ることはできないと言われたのです。「神の国に入ることはできない」などと言われますと、それこそずいぶん厳しい条件だと思われるかもしれませんが、信仰は条件ではありません。小さな赤ちゃんが、お母さんに抱っこされているのと同じです。「お母さんのことを信じますか。ちゃんとお母さんのことを信じることができたら、抱っこしてあげますよ」などというやりとりは一切ありません。ただ抱かれているだけ、ただおっぱいを飲んでいるだけ。ただ寝ているだけ。それが信仰です。それは条件ではないのです。
そんな神の愛の前に立ちながら、「信じますか」と問われたら、「信じます」と答えるほかないではないですか。だがしかし、その「信じます」というひと言が言えないから困っているのだと、悩んでいる方もきっといるだろうと思うのです。しかし、それこそ人間としての言い方をやめさせていただくならば、信仰を言い表して洗礼を受ける人が現れるたびに、私が思わされることは、これは神の奇跡だ、ということです。当然の成り行きで洗礼を受けた人を、私はひとりも知りません。信仰が生まれるとき、それは必ず神の奇跡です。
来月、先ほど申しましたように聖霊降臨の記念の礼拝をします。そこで洗礼入会式を行います。神の霊が私どもの心に注がれるとき、そこで私どもは神の愛を知ります。幼子の心を与えられます。あのキリストの十字架は、私のためだと、そのことが本当によくわかるようになるのです。そのことに気づいたら、もう二度と、その聖霊に言い逆らうような罪を犯してはならない。今ここでも新しく神の霊を与えられて、神の愛の中で、その神の愛をたたえる歌を共に歌いたいと思います。ここに、カルヴァンの言う通り、人間が人間として生きる最高の目的があり、最高の幸せもここにあるのです。お祈りをいたします。
父なる御神、こんなにもすばらしい神の愛の中で、なお屁理屈をこねて不信仰の中にとどまることがありませんように。あなたの聖霊を、今新しく注いでください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン