人は偽るとも、神は真実な方
ローマの信徒への手紙 第3章1-4節
川崎 公平

主日礼拝
■既に教会のメーリングリストにもお知らせしたことですが、一昨日、私の母が召されました。この数週間、たくさんの方が母のために、また私ども家族のためにお祈りくださいました。この場を借りて感謝を申し上げたいと思います。最後の死因は、6回目の脳出血でした。むしろよくここまで生かされたと思います。1か月前までは、東京国分寺の自宅でひとり暮らしをしていたほど、元気だったのです。しかしこのたび、本人の遺言に従って、一切の延命処置を断り、栄養も水分も摂らず、ただしひとつだけずいぶん無理をしたのは、どうにかして自宅に帰りたい、帰してやりたいということでした。最後の5日間、自宅でたくさんの家族に見守られて、最後の息を引き取ることができました。私もそのせいで、とりわけ先週は落ち着かない生活でしたが、そういう特別な生活の中で今朝の礼拝に備えることができたことは、本当に幸いなことであったと感謝しています。
死というのは、本当に生々しい出来事です。コリントの信徒への手紙Ⅰ第15章が教えるように、私どもには復活の望みが与えられているのですが、復活を信じるとは、また同時に、この肉体が朽ちるものであるということを正しく知ることです。創世記第3章19節には、「あなたは塵だから、塵に帰る」と書いてありますし、だからこそまたヨブ記第1章21節にあるように、「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう」と言わなければならないのです。この母の身体も、朽ちるものであり、塵に帰るべきものであり、まさにそこでこそ、先ほど使徒信条を唱えたとおり、「私は体の甦りを信じます。永遠の命を信じます」と言うことができるのです。この肉体は、必ず朽ちる。その朽ちるべき体が、朽ちないものに甦るのです。
母が残していた遺言の内容は、どちらかと言えば極端なほうかもしれません。「自分の口で食べる力がなくなったら、胃瘻、経管栄養、点滴などすべて拒否します」と書いてあります。母はかつて看護師として働いていましたから、このような延命処置が、むしろしばしば残酷な結果を生むことを、よく知っていたのでしょう。それにしても、最後の決断は厳しいものでした。私と弟で病院側の説明を聞いて、「栄養の管を外したら、3日から5日くらいで死にますよ。いいですか」。「はい、母の願いですから、そうしてください」。念のために申しますが、私は決して、それが唯一絶対の正しい死に方だと主張するつもりはありません。しかしまたこのような母の決断の背後に、復活の信仰があったことは明らかであります。地上の肉体の命に、何が何でもしがみつく必要はないのです。しかし、その復活の信仰というのは、どうせ死んだって必ず生き返るんだから安心だ、という話でもないのです。
■延々と身内の話をするようで恐縮ですが、このひと月の間、母の看取りと葬りの準備をしながら、実は初めて母の愛唱讃美歌を知りました。『讃美歌21』の112番であります。
イエスよ、みくににおいでになるときに、
イエスよ、わたしを思い出してください。
ルカによる福音書第23章39節以下に、このような記事があります。主イエスが十字架につけられたとき、ふたりの犯罪人が一緒に十字架につけられた。ひとりはイエスの左に、もうひとりは右に。十字架というのは、極めて残酷な処刑の道具であります。その悶絶するような苦しみの中で、ひとりの犯罪人がイエスを罵り続けたというのです。「お前、自分はキリストだって言ったらしいな。それなら自分を救い、ついでにわれわれを救ってみろ。そんなこともできないキリストなんか、偽物に違いない」。そうしたら、もうひとりの犯罪人がそれをたしなめて言いました。「お前は神を恐れないのか。われわれは、自分のやったことの当然の報いを受けているだけだ。しかし、このお方は何も悪いことをしてはいない」。そして主イエスのほうに向き直って申しました。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」。すると主イエスは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
この〈もうひとりの犯罪人〉の祈りは、すべての人の祈りになりました。それが母の祈りになっていたとは、実は今まで知りませんでした。息子に得意げに話すようなことではなかったのでしょう。自分の側には、何の望みもないのです。何の権利もないのです。「神さま、わたしはこんなに真面目に生きてきたのですから、きっと天国に行けますよね」という話ではないのです。もともと自分の側には、絶望しかないのです。しかし、イエスよ、もしあなたが、わたしを思い出してくださるなら……。もしそのことに望みを置くことができるなら、安んじて自分の死を受け入れることもできるのです。だからこそ使徒信条も、「罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず」と、ひと息に言うのでしょう。この三つは、互いに切り離すことができないのです。
従って、今朝はどうも非常識なほどに延々と、自分の身内の話をさせていただいているのですが、別に私は母を神格化するつもりはありません。罪人の頭であります。そんなことは、本人がいちばんよくわかっていたでしょう。だからこそ、あの犯罪人の祈りは、自分の祈りだということがよくわかったのです。母の呼吸が、日に日に浅くなっていくのを感じながら、ふと気づくと、心の内に先ほどの讃美歌が響いておりました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときに、わたしを思い出してください」。
■伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙を読み続けてまいりまして、今日から第3章に入ります。その4節に、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と書いてあります。この言葉に基づきながら、今日の説教の題を「人は偽るとも、神は真実な方」としてみたのですが、実はこの題を決めた時から既に、「いや、本当は違うんだよな」という思いが付きまとっておりました。本当は、もっと激しい言葉です。正直に申しますと、この聖書の言葉の激しさに私が耐えられず、少し中途半端な説教題にしてしまいました。原文を素直に直訳すると、「神は真実であるとせよ、対して人間はすべて偽り者であるとせよ」。皆さんもかつて英語の授業で、「譲歩構文」というのを習ったことがあるだろうと思います。譲歩というのはつまり、「もし……だとしても」。「百歩譲って、人間が全員嘘つきだとしても」。ところがここには、そういう譲歩の意味はないのです。「人間は事実として、全員例外なく嘘つきであるとせよ。けれども神は、どんなことがあっても真実な方であるとしなければならない」。
これはしかし、ずいぶん激しい言葉です。「人はすべて偽り者であるとせよ」。この言葉の背後には、詩編第116篇11節があると言われます。引用というほどの引用ではありませんが、おそらくパウロがこの言葉を書いたとき、詩編の言葉を思い出していただろうと多くの人が考えます。詩編にはこう書いてあります。
私は信じる
「とても苦しい」とあえぐときも。
「人は皆嘘つきだ」と口走るときも。(10、11節)
譲歩ではなく、つまり百歩譲ってではなく、事実として「人は皆嘘つき」なのです。少なくとも神の真実の前では。そんな主旨の説教の題を……たとえば教会堂の前の看板に、「人は皆嘘つきだ」などという説教題を貼り出す勇気がなかった気持ちも、きっとご理解いただけると思います。いくら何でも厳しすぎます。しかし、事実はそうなのです。「人はすべて偽り者である」。その事実の中で、私どもは皆苦しみ、あえぐのです。「私は信じる/『とても苦しい』とあえぐときも。/『人は皆嘘つきだ』と口走るときも」。他人の噓に苦しむことがあるでしょう。しかしまた自分自身が嘘つきであるという事実の前で苦しむことが、きっとあるでしょう。だからこそ、私どもはますます力を込めて言い表さなければならない。「とても苦しい」とあえぐときも、わたしは神を信じる。「人は皆嘘つきだ」と口走るときも、わたしは神の真実だけを信じる。たとえわたしが嘘つきだとしても、と譲歩するのではありません。わたしを含む、すべての人間が偽り者だから、だからこそ、神よ、あなただけは真実な方でいてください。それこそが、あの〈もうひとりの犯罪人〉の祈りであったと思います。それがまた、私ども教会の祈りになるのです。「イエスよ、わたしの真実などどこにもありません。しかし、あなたは真実な方ですから、どうかその真実の中で、わたしを思い出してください」。これが、私ども教会の祈りです。私の母の祈りでもありました。それがもちろん、皆さんひとりひとりの祈りになるのです。
改革者マルティン・ルターは、教会のことを「義とされた罪人の群れ」と表現しました。ここに、教会の教会たる特質があります。私どもの教会がキリストの教会であるために、断固としてあの〈もうひとりの犯罪人〉の位置に、共に立たなければなりません。「人間はすべて偽り者とせよ」。だからこそ、私どもは神の真実だけを信じるのです。それ以外に、私どもは信じるものを持たない。すがるべき場所を知らない。そこから落ちたら、教会は教会でなくなってしまいます。
■ところが、このローマの信徒への手紙において伝道者パウロが真剣に問題にしていることは、まさにその恵みから落ちた人間がいるということです。ここで具体的に問題になっているのは、ユダヤ人という特定の民族です。今日読んだところの最初に、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」と書いてあります。これは明らかに、パウロがユダヤ人と議論をしている文章です。ここだけではありません。特にこの第3章、そして第4章には繰り返し、「では、どうなのか」「それは、どういうことか」という問いかけの文章が続いていきます。パウロはいつも、ユダヤ人からこういう議論を吹っ掛けられる経験をしたのでしょう。その第一の問いがこれです。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」。
なぜこういう議論になるかというと、ユダヤ人が、自分たちには特権が与えられていると勘違いをしたからです。われわれは、神に特別に選ばれた、神の民である。そのしるしが割礼である。ほかのやつらとは違うのだ。そういう間違った意味での選民思想を造り上げてしまいました。そういうユダヤ人にとって、パウロの教えるところは、耐えがたいものがありました。自分たちが大事にしているものが、ことごとく否定されているように聞こえたのです。そこで思わず、「では割礼の意味は何か。そもそも、なぜユダヤ人という人種が存在しているのか」と、問い返さずにはおれなかったのです。
しかしこういうことは、ユダヤ人でない私どもにも、決して理解できないことではないだろうと思います。「わたしにも、優れた点があるのではないか」。それをことごとく取り去っていくような作業を、既にパウロは、この手紙の第1章、第2章でしてきたのです。私どももこの礼拝の中で、既に4か月間、この手紙の第1章、第2章を読んできました。なかなか厳しい内容であったと思います。人間の人間としての誇りが、ことごとく取り去られていくような印象を持った人がいたとしても不思議ではありません。しばらく前に、説教を聴いたあとにこういう感想を漏らした人がいました。「川﨑牧師の説教を聴いていると、なんだか、ことごとく逃げ道が塞がれていくような気がする。徹底的に追い詰められているような気がする」。それはきっと、ある意味で正しく聖書を読み取られたのだろうと思います。
そこで当然生まれる問いが、これなのです。「では、ユダヤ人の優れた点は何か」。これを自分自身の問いとして置き換えてみてもよいのです。そして実際、多くの教会の説教者たちが、これを自然に自分たちのこととして読み替えて、「では、キリスト者の優れた点は何か。洗礼の利益は何か」と問い直しています。私の母も洗礼を受けたキリスト者であります。こんなことを無暗に強調するのもどうかと思いますが、最初に申しました通り、聖女でも何でもありません。罪人の頭であります。特に年を取れば取るほど、母の罪深い面も目にすることがあり、悲しい思いをしなかったわけでもありません。それでも母は、洗礼を受けたキリスト者でした。「では、キリスト者の優れた点は何か。洗礼の利益は何か」。パウロはそこで、優れたところなんかひとつもない、とは言わないのです。むしろ2節でこう言うのです。「それは、あらゆる点でたくさんあります。第一に、神の言葉が委ねられたことです」。あなたの優れたところは、「あらゆる点でたくさんある」。その第一点は、「神の言葉が委ねられたこと」。それでは、第二、第三は何でしょうか。ところがその先を読んでも、第二、第三のことはどこにも見つかりません。パウロという人は、時々こういうものの言い方をするのです。あなたに優れたところがあるとしたら、それは一にも二にも、神の言葉が委ねられたこと。三と四がなくて、五にはやっぱり、神の言葉が委ねられたこと。それで十分じゃないか。
罪人の頭に、神の言葉が委ねられるのです。結局、それだけなのです。あのもうひとりの犯罪人は、その恵みの中に立つことができました。「イエスよ、どうかわたしを思い出してください」。自分の罪がどんなに深くても、私どもにも等しく、神の言葉が委ねられております。「あなたは今日、わたしと一緒にいる」。それ以外の支えはひとつもありません。それは特権でも何でもないのです。だからこそ、それは恵みなのです。
「あなたは塵だから、塵に帰る」。「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう」。そんなわたしの優れた点は何か。ただ神の言葉を聴かせていただいて、それで私どもも今、罪の赦しを信じます。体の甦りを信じます。永遠の命を信じます。それで、十分なのです。それしかないのです。
■ヴァルター・リュティというスイスの説教者が、ローマの信徒への手紙の講解説教を残しています。ちなみにこのリュティという人は、私にとっても母にとっても親しみのある説教者で、母の属している国立教会の先代の牧師も現在の牧師も、このリュティという説教者を熱心に日本に紹介したことで知られます。このリュティが、ローマの信徒への手紙第3章を説教しながら、ある重罪犯の回顧録を紹介しています。この人が捕らえられ、服役したとき、いちばんこたえたのは、刑務所に入れられて、自分の持ち物をすべて取り上げられた時だったと言うのです。くし、鏡、鉛筆、万年筆、手帳、ナイフ、財布、腕時計、そして着ている衣服も全部脱がされて、丸裸にされたあと、今度は見たことのない冷たい囚人服を着せられた。その時間が、いちばんつらかったと言うのです。
そこでこの説教者は言うのです。私どもがローマの信徒への手紙の最初の部分で経験させられることは、まさにこのことだ。それこそ、ことごとく逃げ道が塞がれるのです。徹底的に追い詰められるのです。鉛筆一本といえども残らず取り上げられます。私どもがこれまでしがみついていたすべての宝石が、一度にはぎ取られてしまうのが、この手紙の第3章である。だがしかし、まさにそこで、私どもは天国の門の前に立つのです。それこそあの〈もうひとりの犯罪人〉のように、人間の誇りも尊厳もすべてはぎ取られながら、「ではこの犯罪人に、何か優れた点がありますか」。「あらゆる点で、たくさんあります。第一に、この人に、神の言葉が委ねられたことです」。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。それをまたパウロは、第3章23節以下にこう書きました。
人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
リュティはこの言葉を引用しながら、神は私どものために、最も大切で、最も美しい宝石を残してくださったと言います。私どもは、囚人服を着せられるのではありません。これもリュティが説教の中で言っていることですが、むしろこれまで私どもが身に着けていたものが、囚人服だったのです。けれども、今や神の恵みによって、値なしに義とされて、キリストという救いの着物を着せていただくのです。
母もまた、そのような者として死ぬことができました。どんな人間も、最後は裸で死ぬのです。鉛筆一本といえども持って行くことはできません。「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう」。しかもその丸裸の自分というのは、何の汚れもない赤ちゃんのようになって、という話でもないのです。丸裸になったとき、罪人の自分だけが残ります。けれども、その罪人のわたしを、イエスよ、あなたが思い出してくださるなら。神は真実な方ですから、ここに望みがあります。ここにしか、望みはないのです。
今、主の真実によって定められた恵みの食卓を囲みます。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方」。その恵みの中に、今共に立たせていただきます。お祈りをいたします。
イエスよ、人はすべて偽り者ですが、だからこそあなたは十字架の苦しみをお受けにならなければなりませんでした。この食卓を見つめながら、自分の不真実と、あなたの真実を学び直す者とさせてください。罪の赦しと、体の甦りと、永遠の命の望みの中に、共に立たせてください。主のみ名によって感謝し、祈り願います。アーメン