もう一人
ヨハネによる福音書 第14章15-17節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
主イエスの別れの説教をお聴きしています。
いい言葉ばかりです。私どもの生涯に残る言葉ばかりです。主イエスがそれらの言葉を、特に別れの説教の中で語り続けてくださいました。でもその中で、主イエスがもっともお伝えになりたかったことは愛です。
ヨハネによる福音書が「愛の福音書」と呼ばれたりするのは、主イエスが、愛した。ということと、その言葉もわざも愛に尽きた。ということと、そして特にこの別れの説教の中にそのことが凝縮していたからだと思います。何度も言われています。
愛し合う。あなたがたは愛し合う。
「あなたがた」、と言われた、ということは、
教会は、愛し合う。
説教としてはずいぶん時間がたってしまいましたが、最後の食事の席で、ついさっき、主イエスが弟子たちの足を洗ってくださいました。主イエスがその手で弟子たちの足を洗ってくださいました。その手の温もりがまだ弟子たちの足に残っています。主の愛の温もりです。
それを主イエスが、あなたがたもこうする、と言われました。お互いにこうする。そしてこれは、私が与える「新しい戒め」(13:34)であるとおっしゃったのです。これは「私の戒め」である。
そして今日はそのことを、主イエスがこう言われました。
「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」(14:15) 。
「私を愛しているなら」と主イエスがおっしゃいました。私を愛しているなら、あなたがたは私の戒めを守る。
そう言われますと、私どもはどうでしょうか。もし自分の心をのぞかれたら、どうでしょう。うまくやっているつもりでもどうでしょうか。愛について、上っ面になっていないだろうか。主イエスの目が当たったら、惨めしかないです。
でも主イエスは、どんなお気持ちでこれを言われたのでしょうか。「私を愛しているなら」。というのは脅迫でもないし、条件でもないです。そうではなくて、主イエスがそう信じていらっしゃる。
あなたは私を愛している。そうだろう。
この福音書の第21章で、よみがえりの主イエスが、弟子の一人に愛を問われました。主イエスを裏切った、その弟子に対して「私を愛しているか」(21:15、16、17)と、三度問われました。
主イエスがたずねられる。
「私を愛しているか」。
そしてその答えをじっと待っておられる。
じっと待って、ご自分への愛を問われながら、
そこに
主イエスの愛が聴こえてくる。
愛を問われるということの中に、主イエスの愛が聴こえてくる。
「私を愛しているなら」と、言われるのも、主イエスの愛の中にあって、主イエスが私どもの応答を、じっと待っておられる。じっと待っておられながら。そして確信なさっている。
守るはずだ。
でもその確信というのは、どこから来ているのかというと、それは主イエスの願いから始まっていたと思います。主が願われたのです。
父なる神が聖霊を遣わしてくださる。「もうひとりの弁護者」を遣わしてくださる。そうしたらこの方が愛を教えてくださる。その聖霊が来てくださることを、主が願われたのです。
「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14:16)
主イエスが、父なる神に願ってくださいました。もうひとりの弁護者を送ってください。
このあとの第17章のところで、この説教の終わりに、主イエスの祈りがありますけれども、そこで主が「彼らのためにお願いします」と祈られています。父なる神に「彼らのためにお願いします」(17:9)。
こんなふうにです。あなたが
「世から選んで私に与えてくださった」(17:6)彼らのためにお願いします。
「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」(17:11)。そして彼らを悪い者から守ってください(17:15)。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」
その祈りの中に、この願いも入っていたと思います。
彼らは世に残ります。その彼らに、もうひとりの弁護者を送ってください。そしてこれからも永遠に、彼らと一緒にいるようにしてください。
主イエスのその願いは祈りとなって、もうこのときから始まっていたと思います。
そしてその願いを父は必ず聴いてくださると、主は、もう信じておられます。
その方が来てくだされば、私がいないあいだも、私のすべてを、ことごとく彼らに知らせてくださる。愛を教えてくださる。愛する者にしてくださる。そのことを、主イエスがもう確信しておられる。
その方のことを主イエスが「この方は、真理の霊である」(14:17)と、言われましたけれども、「真理」というのは主イエスのことでしょう。「真理」をことごとく教えてくださる。この「真理」を救いの現実性と言っているものがありますけれども、主イエスを現実のものとしてくださる。
でも、だからでしょうか。その「真理」を嫌う「世は、この霊を見ようとも知ろうともしない」(14:17)とおっしゃいました。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない」と、厳しくおっしゃいました。でも、「しかし」、と言われて、しかし「あなたがたは、この霊を知っている」(14:17)と、言われました。あなたがたは、この霊を知っている。
あなたがたは、もうこの霊を知っている。と。
そしてその理由もちゃんと言ってくださっていて、なぜなら、こうだから。それは「この霊が、あなたがたのもとに」いて、あなたがたの「内に」いるからだ(14:17)。この方が、あなたがたのもとにいて、あなたがたの内に、いてくださるからだ。
ときどき聖霊ってなんですか?と聞かれることがありますけれども、ほんとうに不思議です。特別な霊体験というのではなくて、そうではなくてこの方を信じている。使徒信条で「われは聖霊を信ず」とありますけれども、この方は信じる方です。受け入れて信じる方です。
私どもが、「イエスさまが私と一緒にいてくださる」と信じる。この礼拝においても、主が、いま私どもと共にいてくださるということを信じる。それらを全部、聖霊が助けてくださっています。そして「私を愛しているなら」との、主の言葉も、私どもが主を見たこともないのに、愛しているのは、聖霊が私どものもとにいて、私どもの内にいてくださるからです。
だから、主がこの方を「弁護者」と、人格をもって呼ばれるのもうなずけます。「弁護者」というのは弁護してくださるからですけれども、聖書のもとの言葉からすると「呼ばれてそばに来る人」という意味です。呼んだら来てくれる。もっというと、隣にきてくれる人です。
そもそもこの「弁護者」という言葉の中に、「そばに」とか、「傍らに」という言葉が入っていて、この弁護者は、そういう気持ちをもって隣に来てくれる。呼んだらすぐに駆けつけてくれる。なぜ呼ぶかといったら、助けてほしいからです。私どもが、たすけて。と、呼んだらすぐに来て、私どもの隣に来て、そればかりでなく私どもの中にいてくれる。愛というのは傍にいることですから、傍にいてくれることですから。そうやって傍に、そして中にいてくれる。
そしてここでは、主イエスが代わりに呼んでくださっています。彼らのためにお願いします。
第17章の主イエスの祈りでは、主イエスが父にこう祈られています。父よ。
「私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです」(17:6-8)。
彼らが信じたからです。彼らが私を受け入れて信じたからです。信じたから、今、彼らは私を知っています。だからこの霊も、彼らが信じたから、彼らは知っています。
そして主イエスが聖霊を紹介される時に「もうひとりの」と言われました。「もうひとりの弁護者」。私は、改めて、この言葉に惹かれました。慰められました。もう一人。
主イエスの、「もう一人」がいらっしゃる。
「もうひとりの」と、主イエスが言われたということは、私の他に「もう一人の」と、いわれたので、主イエスご自身が「弁護者」です。
私どもが聖餐にあずかる時によく読まれます御言葉で、ヨハネの手紙Ⅰ第2章1節からの御言葉がありますけれども、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」
主イエスが地上におられたときに、すでに私どもの弁護者でいてくださった。私どもの傍に来て、十字架の上でも最後まで赦しを請うてくださり、ご自身を献げて弁護してくださいました。
そしていまも天において、たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。その主イエスの弁護を地上において、私どもに明らかにしてくださる、もう一人がいる。
私どものそばで、私どもの中で、主イエスの助けを現実にしてくださる、もう一人がいる。
私どもが礼拝において、打たれて、ガツンとやられて、ガツンとやられるほどに助けてくださって、そのうえで、神の前に立って、弁護を惜しまない、もう一人がいる。
私どもが誰かを愛せないで、裁いてばかりいて、そうやってその人の傍にいる、そのもう一人を見ようとしない。そればかりでなく自分の傍にいてくださる、そのもう一人の方を見ようとしない。
そうやって、その方を軽んじるのに、その方は真理をもってとりなしてくださる。
罪に落ち込んでいる私どもを、それを正当化するのではなく、誤ったことを正し、主イエスのもとに帰してくださる。主の愛の中に帰してくださる。愛に生きるように、励まし、勇気づけて、変えてくださる。
主のもう一人が、そうしてくださる。
加藤常昭先生が『牧会学』で有名なトゥルナイゼン先生のお話を、私にもしてくださいました。トゥルナイゼン先生が加藤先生に教えてくださったことの一つに、「その人の隣に座るんだよ」と、よく言われたな、とおっしゃっていました。
君ね、困っている、助けを必要としている
「その人の真向かいに座るんじゃないんだよ。隣に座るんだよ。」
愛ってそういうものでしょう。
その人の隣に座るんだよ。
もう一人の弁護者みたいにね。
私どもも、その方と一緒にだれかの隣に行きたいです。困っている、助けを求めているだれかの隣に行きたいです。
主イエスにとっての、たっての願いは、そのことであったと思います。
その主の願いに、ただ感謝して、主イエスの愛の戒めに生きさせていただきたいと思います。