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正しい者はいない。一人もいない。

2025年5月25日

ローマの信徒への手紙 第3章9-20節
川崎 公平

主日礼拝

 

■旧約聖書のほとんど最初のところに〈ノアの洪水〉と俗に呼ばれる、たいへん有名な物語があります。40日間にわたる大洪水の結果、地球上の陸地という陸地がすべて水に飲まれてしまいます。ノアという男とその家族、またあらゆる種類の動物ひとつがいずつだけが箱舟に乗って滅びを免れたけれども、箱舟の外にいたすべての人、すべての生き物は完全に滅ぼされたという話です。こういう古代のおとぎ話を文字通り信じるか、信じないか、それは人それぞれであるかもしれませんが、それにしても非常に厳しい印象を残しますことは、なぜ神がこのような洪水を起こさなければならなかったか、その理由であります。この洪水物語の最初に、こう書いてあります。

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた(創世記第6章5、6節)。

この世界を造られたのは、神です。ところが世界を造られた神ご自身が、「地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て」、そこで神が何をお考えになったかというと、「どうしてこんな世界を造ってしまったんだろう。こんな悪い人間、造るんじゃなかった」と、後悔されたというのです。

神がご自分のしたことについて、悔やんだ。後悔された。この創世記の記述は、「へーえ、神さまでも失敗したり、後悔したりすることがあるんだ」というような、のんきな感想を許さない厳しさがあると思います。いったい何千年前の話でしょうか、この洪水物語を最初に文字に刻んだ人は、筆ががたがた震えるほどの恐れを抱きながら、この言葉を書き記したのではないでしょうか。「主は、地上に人を造ったことを悔やんだ」。今なお、私どもはこの物語を読むときに、深い恐れを覚えないわけにはいかないと思います。単なる古代人の幼稚なおとぎ話と片づけるわけにはいかないと思うのです。今も神は、「地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め」ておられるに違いないと思うからです。そして事実、神は一度、ご自分の造られた世界を完全に滅ぼされたのです。ではなぜ今、この世界は滅ぼされずにすんでいるのだろうか。そのことについて、私どもはもっと不思議に思わなければならないし、またそれだけ神を恐れなければならないと思うのです。

なぜ神は、この世界を滅ぼさずに放置しておられるのでしょうか。そのことについて、創世記の洪水物語は非常に明確な神のご意志を伝えています(第9章)。この大洪水のあと、神は雲の中に鮮やかな虹を置かれて、「この虹は、あなたがたとわたしとの間に立てる永遠の契約である」と言われました。「わたしは二度と、洪水によって世界を滅ぼすことはしない。わたしは二度と、人間を滅ぼさない。雲の中に虹が現れるたびに、わたしはその約束を思い起こす」。けれどもその上で、神は不思議なことを言われました。

「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない」(第8章21節)。

これは、たいへん不思議な恵みを伝える言葉ではないでしょうか。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない」。もう二度とこんな洪水は起こさない。もう二度とわたしは人間を呪わない。なぜかと言うと、その理由は、「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ」。この論理展開は、人間の理屈から言えば不思議で仕方がありません。「人間が悪いのは神さまの失敗なんだから、仕方がない」という話ではありません。「人が心に計ることは、幼い時から悪い」。それは神の責任ではありません。神は人間を、自分で責任を負うことができる、それだけ尊い存在として、人間をお造りになったのです。人間は獣ではないのであります。ところが現実には、その人間が心に計ることは、幼い時から悪い。そのことについて、私どもは自分の問題として、自分の責任として考えなければなりませんし、何よりも神が今も、この世界のことについて、どんなに苦しんでおられるか。どんなに、悔やんでおられるか。それはたいへん恐ろしいことですが、私どもは今一度、この神の痛みと後悔について、よく考えなければならないと思うのです。

■ローマの信徒への手紙第3章9節以下を読みました。「正しい者はいない。一人もいない」。非常に厳しい言葉です。いくら何でも、厳しすぎるかもしれません。その厳しすぎる言葉の前で、いろんな感想があり得るかもしれません。「へーえ、そうなんだ」という感想もあり得るでしょうし、「いや、まさか。『一人もいない』というのは、いくら何でも」という感想もあるでしょう。屁理屈をこねる人だって、いるかもしれません。「確かに神は人間の悪さに辟易して、洪水を起こされたんだろう。でもノアとその家族だけは救われたんでしょう? 滅びを免れた〈正しい者〉が、少なくともあの時はひとり以上いたんでしょう?」しかしそんな屁理屈にあまり意味はないだろうと思います。

「正しい者はいない。一人もいない」。むしろ、こんなに現代的な意味を持つ言葉もなかなかないだろうと思います。「彼らの喉は開いた墓であり/彼らは舌で人を欺き/その唇の裏には蛇の毒がある。口は呪いと苦味に満ち/足は血を流そうと急ぎ/その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。まさにこのことで、今私どもは苦しんでいるのですが、本当は私ども以上に、神が苦しんでおられるのです。「正しい者はいないのか。本当に、ただのひとりもいないのか。どうして、ひとりも見つからないのか」。その当然の帰結が、17節の「彼らは平和の道を知らない」。このことであります。本当にそうです。私どもは、まったくもって誰ひとりとして、平和の道を知りません。家族の間でも、隣人同士でも、また国と国との間でも、「平和の道」を願わない人はいないでしょう。おそらくはひとりの例外もなく、私どもは皆、平和の道を願っているのです。願ってはいるのですけれども、その道をどうやって作ればいいのか、平和の道を私どもは知りません。

先ほど、イザヤ書の第59章の1節から8節までをあわせて読みました。最後の8節にやはり、「平和の道を彼らは知らず」と書いてあります。そのように、今日読みましたローマの信徒への手紙第3章の10節後半から18節(すなわち、詩のように改行がなされている部分)は、旧約聖書からの引用であることを意味します。今申しました通り、17節、のみならず15節から17節まではイザヤ書第59章からの引用です。しかしそれ以外にも、10節から18節まで、詩編とか箴言とか、たくさんの旧約聖書からの引用が組み合わさっています。ここでいちいち、この言葉はどこの何章何節で、などという説明はしません。ただひとつよく言われることは、ここでたくさんの聖書の言葉を組み合わせたのは、この手紙を書いたパウロではないだろう、ということです。パウロがこのように、いろんな旧約の言葉を上手に組み合わせたのではなくて、既にその時代、このような形で旧約の言葉をいくつも組み合わせた文章が伝えられていたのではないかと言われます。そういう文献が形として残っているわけではありませんが、パウロ以外の文章にも、似た形の文章が出てくるそうです。

そういう学者の説明を読みながらも、私が思わされることは結局、最初からお話ししていることと同じことで、旧約聖書というのは要するに、神が人間の罪についてどんなに苦しまれたか、その神の痛みの歴史でしかないということです。その神の苦しみの歴史、ノアの大洪水以来ずっと続いている神の悲しみが、10節から18節までの旧約の引用の中にぎゅっと凝縮されているのです。

■そんな神の悲しみの歴史に終止符を打つように、イエス・キリストというお方が現れたのだ、という話が21節以下に続くわけですが、今日はそこまでは読みません。その前にもうひとつ、私どもがきちんと読み解かなければならない大切なキーワードがあります。それは19節以下に出てくる〈律法〉です。

今日読んだ聖書の箇所の前半部分、18節までの人間の罪の現実については、とりたてて難しいこともないと思います。「正しい者はいない。一人もいない」という、この聖書の主張に同意できるかどうか、それは別としても、このような人間のありさまに対して神がどんなに深く苦しんでおられるか、痛んでおられるか、また怒っておられるか、もちろん厳しいことですけれども、話としてわかりにくいということはないと思います。わかりにくいのは19節以下の〈律法〉の話です。なぜここで唐突に律法の話が始まるのでしょうか。もう一度19節以下を読みます。

さて、私たちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にある者たちに向けられています。それは、すべての口が塞がれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

ここで言う〈律法〉とは、旧約聖書の前半部分に伝えられるさまざまな掟のことです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と言われるのですが、これが実は非常にわかりにくい。わかりにくいのは、教会に来たばかりの人だけではないと思います。おそらく何十年と聖書に親しんでいる人であっても、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」という、この言葉の意味を正確に説明できる人はそんなに多くないのではないかと思います。

たとえば、このように解釈する向きがあるかもしれません。律法というのは、ずいぶん難しい要求をするものだ。具体的にはよく知らないけれども、たぶんきっと、いろいろ厳しい決まりごとが書いてあるんだろう。それを全部守るのは、きっと非常に難しいに違いない。したがって、「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない」。「律法によっては、罪の自覚しか生じない」。けれどもパウロがここで言おうとしていることは、そんな次元の話ではありません。むしろパウロは、フィリピの信徒への手紙という、おそらくはローマの信徒への手紙と同じくらいの時期に書かれた手紙の中で、「わたしは、律法の掟を破ったことは一度もない」と言い切っています。「律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした」(第3章6節)とまで言うのです。ところがパウロが、まさにそのフィリピの信徒への手紙第3章で語ることは、自分は律法を完璧に守った、まさにそのことによって、かえって最悪の罪人になってしまったというのです。自分は弱い罪人だから、律法を完璧に守ることなんかできない、という話ではないのです。罪人が律法を完璧に守っても、それはただ自分の罪の上塗りをするだけだ。今日読んだ20節の、「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない」というのは、そういうことです。

■このことを理解するために、そもそも律法とは何かということを正確に理解しなければならないだろうと思います。別に律法は、人を苦しめたり縛り付けたりするために与えられたものではありません。律法とは、まずはユダヤ人という特定の民族に与えられたものですが、実は私どもは日曜日の礼拝のたびに、まず最初に神の律法を唱えて、自分たちが神に愛された神の民であることを確認しています。〈十戒〉と呼ばれる言葉がそれです。

我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。

神がわたしの神でいてくださるから、神が私どもを愛し、あの奴隷状態から解き放ってくださるから、私どもは絶対に神以外のものを拝みません。神が私どもに必要なものはすべて与えてくださいますから、私どもは他人の持ち物をむさぼることはありません。神さま、ありがとうございます、というのが律法の根本的な意味です。イスラエルは、神に愛されたのです。何かイスラエルにとりえがあったわけではありません。何か立派なことをしたからご褒美をもらったのではありません。何の理由もなく、ただ愛された者の、いちばん幸せな生活を定めるのが、律法であります。そしてそれは、ユダヤ人だけでなく、すべての人がこの祝福の中に生きるべきなのです。律法とは、祝福のしるしでしかありません。

けれども問題は、そのような祝福の言葉をいただいた人間そのものが、罪人であったということなのです。ある人がこういうことを言っています。律法が教えてくれる根本的な事柄は、人はひとりでは生きられないということだ。神により頼むことなしに、人は人として生きることはできないのだ。それが、律法の教えてくれるいちばん基本的な事柄だ。その通りだと思うのです。その律法の中心にある神の愛を、私どもは毎週礼拝の最初に唱えているのです。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」。わたしを愛してくださる神さまなしに、わたしは一日たりとも生きることはできない。ところが私ども罪人は、どうしてもその神の恵みを受け入れたくないのです。ひとりで立ちたいのです。「律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした」と言い切ったパウロのごときは、その典型でしょう。律法の決まりごとを完璧に守りながら、自分は自分の力で立っていると思い込んだ。まさにそのことによって、自分の罪を完璧に仕上げてしまったというのです。もしかしたらパウロは、そういう自分自身の姿をも思い起こしながら、こう書いたのではないかと思います。

「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者はいない。
神を探し求める者はいない」。

神の深い悲しみが込められた言葉であると思います。「我は汝の神」。わたしがあなたの神なのに、なぜ誰もわたしを探し求めないのか。神なしに生きることができる人なんか、ひとりもいないのに、どうして誰ひとりわたしを探し求める人がいないのか。「正しい者はいない。一人もいない。神を探し求める者はいない」。ノアの時代の神の悲しみも、まさしくこのことであったでしょう。そして現代も、そういう時代であります。どの国の人も、自分がいちばん正しいと思い込んでいます。自分がいちばん神に近いとさえ思い込んでいます。そのような人間同士が、互いに正義を主張し合いながら、必死に探し求めているのは自分自身の幸せだけ、自分自身の正義だけ。「神を探し求める者はいない」。神を探し求めるふりをしている人はたくさんいるけれども、本当の意味で神の恵みを飢え渇くように求める人は、ひとりもいない。そういう現代人のありのままの姿が、このように描かれているのです。

「彼らの喉は開いた墓であり
彼らは舌で人を欺き
その唇の裏には蛇の毒がある。
口は呪いと苦味に満ち
足は血を流そうと急ぎ
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない」。

そういう人間の根本的な問題は、「彼らの目には神への畏れがない」ということなのです。

■さて、そのような人間に神がもう一度絶望されて、これを大洪水か何かで、跡形もなく一掃なさったとしても、誰も文句は言えないだろうと思います。創世記第6章に書いてあるように、もう一度神が「どうして、こんな人間、造ってしまったんだろう」と後悔なさり、「わたしは、わたしの造った人を地上から消し去る」。それがいちばん妥当な解決の道だと、神がもう一度そのように決断されたとしても、何ら不思議ではないのです。けれども、神は決してそうなさらない。なぜかと言うと、神ご自身がこう誓われたからです。

「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない」(創世記第8章21節)。

だがしかし、この誓いのゆえに、神はますます深い痛みを負わなければなりませんでした。そして遂に他のいかなる道も残らず、神のみ子ご自身がまことの人となって、地上においでになるほかありませんでした。このお方、イエス・キリストは、ただひとりの〈正しい人〉でした。その場合の〈正しい人〉というのは、単に正義感の強い人、ということではありません。誰よりも清く正しい正義感によって、周りの人をばっさばっさと裁いていくような正しさは、主イエス・キリストとは無縁であります。そうではなくて、このお方はただひとりの「神を探し求める」お方でした。「神の恵みにより頼むことなしに、人は人として生きることはできない」という、人間の幸せと人間の正しさを体現したようなお方でした。だからこそこのお方は、十字架の上で息を引き取られたとき、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。「神よ、見捨てないでください。あなたに見捨てられたら、絶望しか残りません」。もう一度申します。主イエスが〈正しい人〉だったから、ただひとりの〈神を探し求める人〉だったから、だから十字架の上からこのような叫びが聞こえたのです。

神は、このお方を死人の中から復活させられ、私どもの主となさいました。ノアの洪水以来、決して慰められることのなかった神の悲しみは、あの主イエス・キリストの十字架と復活によって、決定的に満たされ、決定的に慰められたのです。

このようなお方を主と仰ぎながら、私どもはなおも自分の正義感に酔いしれるような歩みを続けるわけにはいきません。むしろ私どもも主イエス・キリストと共に、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうか見捨てないでください」と、叫び続けなければならないし、事実そうすることが許されているのです。

今なお、互いに傷つけ合い、苦しめ合うような、この世界なのであります。何よりも、日々神のみ心を悲しませるような、私どもの毎日の生活です。ノアの洪水の時代から、人間は何も進歩していないというのが、現実であるのかもしれません。だからこそ、私どもも今、義とされた罪人として、主イエスと共に祈りを新しくしたいと思います。「わたしの神よ、わたしの神よ、どうか見捨てないでください」。私どもも主イエスと共に、正しい者として、神を探し求める者として立つことができるのです。お祈りをいたします。

 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。あなたは私どもの父です。あなたにできないことは、何ひとつありません。全能の父よ、あなたを信じて、今私どもは祈ります。どうか、この世界を憐れんでください。滅ぼさないでください。「正しい者はいない」のですが、本当の本当に「一人もいない」のですが、それでもどうか、見捨てないでください。あなたご自身が、「二度とこの世界を滅ぼすことはしない」とお誓いになったのですから、どうか、そのようになさってください。このような祈りをすることによって、今私どもも、み子イエスと共に、正しい者として、あなたを探し求める者として立つことができます。その望みに、しっかりと立たせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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