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聖書と神の力を知る人は

2024年4月14日

マルコによる福音書 第12章18-27節
川崎 公平

主日礼拝

■「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」(18節)。「復活はない。身体の甦りなど、あり得ない」と言っている人たちが、主イエスの前に立ちました。こういう主張をしていたと言われるサドカイ派というのがどういう種類の集団であったか、その説明は思い切って省略したいと思います。というよりも、実際のところほとんどその内実がわからないと言った方がよいのです。むしろ福音書のこの記事が、当時のサドカイ派の何たるかを知るための貴重な手掛かりになっているくらいです。

なぜサドカイ派について、ほとんど何もわかっていないのでしょうか。いつの間にか消滅したからです。何ら歴史的影響力を残すことなく、歴史のもずくと消えていきました。「復活はない」という独自のドグマと共に、歴史の渦の中に消えて行きました。それは私どもの立場からすれば当然だということにもなるだろうと思いますが、しかもそれでいて、サドカイ派は決して過去の存在にはなっておりません。「復活はないと言っているサドカイ派の人々」というのは、手を変え品を変え、繰り返し歴史の中に登場いたします。なぜでしょうか。

■ここでサドカイ派が提起した問いというのは、先ほど聖書朗読をお聞きになりながらきっとお感じになったことだろうと思いますが、いかにも退屈で、理屈倒れの議論でしかないように思えます。けれどもそこで主題となることは、実は私ども人間がいちばん知りたいことだと思います。それは、死んだらどうなるかということです。この問題は、別に信仰のあるなしに関係ないのです。およそ人間であれば誰でもそのことを知りたいと思いますし、だからこそ古今東西、あらゆる時代のあらゆる文化において、人間は「死んだらどうなるか」、そのことを考え続けてきました。しかもその問いには、決して答えがないのです。ある牧師のこの箇所についての説教を読んで、私はいたく納得したのですが、こういうことを言っている人がいます。人類の知識がどんどん進んで、遂に宇宙の果てまで人間がすべてを知り尽くしたと思える日がもしも来たとしても、「死んだらどうなるか」、そのことは永遠の謎であり続けるに違いない。

そしてだからこそ人間は、「死んだらどうなるか」、そのことについていろんなことを思いついてきました。無数の説を立てました。死んだら天国に行くとか、そこで愛する家族に再会できるとか、悪いことをした人は地獄に落ちるとか、あの人は遂に洗礼を受けなかったから別のところに行ってしまうんだろうとか、実は何の根拠もないのに、人間はいろんなことを思いつくものです。きっとこうだろう。こうあってほしい。すべては人間の願望が生み出した思いつきにすぎません。死んでみなければ、何もわかりません。死者の中からお甦りになった方を信じない限り、どんなに頭のいい人たちが知恵を寄せ合っても、何の糸口も見つけることはできないだろうと思うのです。

私どもは、例外なく死にます。金持ちも貧乏な人も、そこに差別はありません。誰かと一緒に死ぬこともできません。死ぬときは、必ずひとりで死ぬのです。何も持って行くことはできません。そこに人間の悲惨があるので、その悲惨から少しでも目を逸らしたいと思うあまり、いろんなお祭りをやってみたり、お経を唱えてみたり、ものすごい墓をこしらえてみたり、けれどもくどいようですが、そういう人間の思いつきには、実は何の根拠もないのです。そして、私ども教会の信じる〈復活〉、〈体の甦り〉という信仰もまた、さまざまな人間の思いつきのひとつに数えられるのかもしれませんし、事実そういう面もあるかもしれません。けれども所詮は人間の思いつきですから、よく考えてみると、いろいろと矛盾というか、綻びが見つかってくるものです。

先ほど使徒信条をご一緒に唱えましたように、私どもの教会が信じているのは〈身体の甦り〉です。使徒信条の原文のラテン語を直訳すると、むしろ「肉の復活」です。霊魂不滅の教えではありません。身体が復活するのです。肉が復活するのです。それはある意味で、キリストの復活と同じことです。それなら、何歳くらいの体で復活するのでしょうか。重い病気で苦しみながら死んだ人が、復活した時に、死ぬ寸前のいちばん苦しい状態で復活するとしたら、それはいくら何でも神さまに文句を言いたい。できれば若くて元気な頃に戻りたい。と言っても、あまり若すぎても……死んで天国に行ったら、夫に会いたい。妻に会いたい。けれどもその時に、お互い言葉もしゃべれない0歳児だったら、それも困る。そうするとやはり、サドカイ派が主張するように、「復活はない」、まあせいぜい霊魂は不滅だという教えあたりが妥当ではないか、ということになりそうです。

■サドカイ派というのは、まさしく今申しましたような矛盾に目を付けて、いつも同じような議論をしていたらしいのです。それが、先ほど聖書を読んだ通りの話です。「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない』」(19節)。ひとつ知識として知っておいてもよいことは、サドカイ派というのは聖書を重んじた。それが彼らのアイデンティティになっていた。しかも彼らは、旧約聖書の最初の五書、創世記から申命記だけを正式な聖書として重んじ、それに基づいて、「復活はない」と言っていたわけですが、ここで「長男が妻を迎え、子を残さずに死んだら次男がこの妻をめとり……」と書いてあるのも、サドカイ派が重んじた申命記の第25章に定められていることです。その人の血筋が絶えてしまわないように、こういうふうにしなさいと神の掟が命じている。けれどもその神の掟は、どう考えても死後の世界を考えているようには思えないじゃないか。つまり、先ほど読んだような経緯で、遂にひとりの女性が7人兄弟全員と結婚した。すると復活の時、この女の前に7人の夫がずらりと並んで、どうしようもないことになるじゃないか。神の掟に矛盾があるはずがない。それで、聖書はそもそも復活なんかないという前提で書かれているのだ、というのがサドカイ派の主張です。

このサドカイ派の主張は、一方では筋が通っていると思います。こういう話を聞いて、急にいろいろ心配になる方もいらっしゃるだろうと思います。すべての人が、ひとりの人と結婚するわけではありません。したがって、天国に行ったら最初の夫と二番目の夫と、どういうことになるんだろう、というのは、決して机上の空論ではない、むしろいちばん深刻な心配事になるかもしれません。

ところが主イエスの答えは、こういう屁理屈を突き破るようなものがあると思います。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」(24節)。あなたがたは、まだ聖書が読めてない。聖書が読めるとは、神の力を知ることだ。もし神の力を知っていたら、そんな思い違いをするはずがない。「神の力を知る」って、どういうことでしょうか。

■塩谷直也先生という、現在青山学院大学で教えている牧師がいます。面白い文章を書く先生なのですが、ある書物の中で、こういうことを書いています。大人になってから小学校の同窓会に行ったら、自分がいじめていた友達に会ったというのです。自分はいじめっ子だった。特にその子には、ひどいことをしてしまった。それが、大人になってからもずっととげのように心に刺さっていた。それで、勇気を出して話しかけてみたそうです。「昔、けっこうひどいことをしちゃったね。本当にごめん」。その友達は、にこりともせずに、真顔でひと言だけ、「忘れてないよ」と答えたそうです。それを聞いて塩谷先生は、自分の後ろ暗い気持ちに気づいて愕然としたと言います。そうだ、それが本当だ。自分は結局、「なんだよ、そんなことまだ気にしてんのかよ」というような言葉を聞きたかっただけなんだ。最後まで、自分を喜ばせたかっただけだ。

私どもは、復活を信じます。いつか私どもが復活する時、きっといろんな人に会うでしょう。ええ、本当にいろんな人に会うでしょう。同窓会どころの話ではないのであります。しかも地上と違って、「あっ、あの人だ」と言って目を逸らすことはできません。隠れることもできません。そしてそういうときに、神の力を信じることができなかったら、私どもはどうしようもないではないですか。もしも神の力を知らないで、それを信じないで、天国でいろんな人に会うことになったとしたら、そこはきっと天国ではなく地獄にしかならないのであります。

主イエスはサドカイ派の問いに対して、簡潔にこう答えられました。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ」(25節)。「めとることも嫁ぐこともなく」、つまり復活のときには、この女は誰の妻にもならない。だから心配するな。こういう主イエスの言葉を聞いて、絶望的な気持ちになる方もいるでしょうし、これはいいこと聞いた、天国でまであんなやつと一緒にいるなんて、確かに地獄だよな、と変な意味で福音を聞き取ってしまう人だっているかもしれません。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく」、ああ、やっと俺は自由だ。と、いうような、でたらめなことしか考えられない私どもだからこそ、この地上が既に地獄になっているのではないでしょうか。そして、そういう私どもの作っているこのでたらめな世界が、そのまま死後の世界においても続くと考えているならば、それこそ主イエスは、「思い違いをするな。どうして聖書と神の力がわからないんだ」と、きっとそうお答えになるだろうと思います。

「先生、天国に行ったら、夫とは赤の他人になるんですか」。心配になってそういう質問をしたくなっている方がおられるかもしれません。「もちろん、そんなことはありません」とお答えしたいと思います。赤の他人なんてとんでもない、むしろ話はまったく逆で、どんなに仲のいい夫婦であっても、どんなに問題を抱えた夫婦であっても、その結果離婚したり再婚したりした人であっても、神の力に望みを置くからこそ、私どもはその再会を安んじて待ち望むことができるのです。私どもの望みは神の力だけです。もちろん話は婚姻関係に限らないので、復活の日、私どもが望みをもってその日を待つことができるのは、ただ神の力を知っているから、信じているからでしかないのです。

■24節に、こういう言葉がありました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。既に何度もこの主イエスの言葉を取り上げてきましたが、これこそが決定的な意味を持ちます。しかもそうでありながら、厳密に言えばこの翻訳には少し問題があると私は感じています。私どもの翻訳は、「あなたがたは聖書も神の力も知らない。だから、そんな思い違いをしている」という文章になっていますが、「だから」という接続詞のつく場所が、それこそ間違っています。私なりに翻訳すると、こんな感じです。「そんなことだから、あなたがたは間違うのだ。聖書も神の力を知らないで」。そんな調子だから間違えるんだよ。聖書も神の力も知らないんだね。激しい発言です。「それだから、あなたがたは」というニュアンスです。

しかもここに、「思い違い」という言葉があります。思い違いという日本語は、「ああ、ちょっと勘違いしてたみたい」というような、どうも軽いニュアンスがあるのではないでしょうか。けれどもここはそうではなくて、滅びを招くような間違いで、あるいは「迷う」「迷い出る」と訳した方がよかったかもしれません。これと同じ言葉がマタイによる福音書第18章12節以下にも出てきます。主イエスのお語りになった、〈迷い出た羊の譬え〉と呼ばれる譬え話です。ある人が羊を百匹持っていて、そのうちの一匹が「迷い出た」とすれば、その羊の持ち主は、どんなことがあってもその迷い出た一匹を探しに行くだろう。そう主が言われたところの「迷い出た一匹」というのは、そのまま滅びに落ち込みかねない迷い方をしたのであって、その意味合いはこの箇所でも同じだと思います。「迷い出るな」。あなたがたの迷い方は、滅びへの道でしかない。本当は、あなたがたには聖書が与えられているのに、聖書を読めば、すばらしい神の力を知ることができるはずなのに、どうしてあなたは、どこでどうしたらそんなところに迷い出てしまったんだ。結びの27節にも同じ言葉が出てきます。「あなたがたは大変な思い違いをしている」とありますが、ここも「あなたがたはたいへんな迷子になっている」という意味です。羊が迷子になったら、滅びしか待っていないのです。

けれども今、私どもはもう迷っておりません。私どもが滅びの道に迷い込むことのないように、主イエスはお甦りになりました。聖書が教える通りの神の力が、決定的に示されたのです。

■先週は、少なくとも私にとっては特別な一週間となりました。水曜日には東京の青山霊園に出かけて3名の方の納骨の祈りをしました。木曜日には前夜の祈り、そして金曜日には葬儀をこの場所でしました。そして昨日土曜日には教会墓地において墓前礼拝、130名近い方たちが集まりました。まるで死と葬りに取り囲まれたような一週間でした。しかもたまたま先週は他の用事も重なって、どうも日曜日の説教の準備をする時間がないと嘆いておりましたが、それもまた御心かなと思いました。特に昨日の墓前礼拝では……おかしな感想ですが、私は年に一度の墓前礼拝がとても好きです。ふだんめったに会えないご遺族に会えるということもありますし、そのことと結局は同じことにもなりますが、既に召された教会の仲間たちのことを鮮やかに思い起こすことができます。そんなことを思いながら、昨日の墓前礼拝ではヨハネによる福音書第14章19節だけを読み、短い説教をしました。「私が生きているので、あなたがたも生きる」という主イエス・キリストの言葉です。

そこで私は、こういう話をしました。その場所には、繰り返しのようになりますが、やはりいわゆる〈遺族〉がたくさん集まるのです。この場所に、あの人がいるから。わたしの大切な、わたしたちの大切なあの人がいるから。けれども皆さんは、死んだ人に会うためにここにお集まりになったわけではないでしょう。「あの人は、死んだのだ」という事実を確認するためにここにおいでになったわけではないでしょう。そうではなくて、既に召されたあの人も、この人も、本当は生きているのだと、どこかで信じているから、その望みを抱いているから、ここにいらっしゃるのでしょう。きっと、そうだと思うのです。

しかし、死んだ人が生きているって、どういうことでしょうか。私どもの教会の信仰は、体は滅びても霊魂は不滅だという話ではないのです。まして、死んだおじいちゃんが天から見守ってくれるなんて、そんな信仰ではないのです。そうではなくて、「私が生きているので、あなたがたも生きる」。

だからこそ、私どもは望みを持つことができます。望みを抱いて、墓の前に立つこともできるのです。「私が生きているので、あなたがたも生きる」。そうです、わたしの主イエスよ、あなたは生きておられます。あなたは私の神、そして私の夫の神です。私の妻の神です。私の父の神です。私の娘の神です。主イエスよ、あなたが生きていてくださいますから、だから、わたしの夫は生きています。わたしの息子は、死んでいないのです。必ず、復活します。主イエスよ、ありがとうございます。

その墓前礼拝の前日にも、同じような思いで、教会の仲間の葬りをすることができました。若い頃から数えきれないほどの病気をされました。ご自身の病気以外にも、たくさんの試練を乗り越えなければなりませんでした。いくら何でも、神さま、たったひとりの人に対して試練が多すぎやしませんかと言いたくなるほどです。けれども精一杯生きることができました。神を信じて、神の力を信じて、最後まで明るく生きることができました。そういう人の葬儀をするときに、私のような者が語ることはいつもひとつだけで、「神さまがいらっしゃるから」。「神が、この人の神でいてくださるから」。だから、この人は生きることができた。「私が生きているので、あなたも生きる」。

■主イエスは最後に、死者の復活について、このような説明をされました。26節以下であります。

「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている」。

ここは、ただ聖書朗読を聞いているだけでは、さっぱり意味がわからないという感想も生まれたかもしれません。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というのが、どうして復活の信仰の根拠になるのか。またそれがどうして、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という結論になるのか。しかし、本当は何も難しいことはないのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言ってわかりにくければ、アブラハム以外の自分の好きな人の名を入れてみればよいのです。あるいは、自分の嫌いな人の名を入れてみてもよいのです。しかし何よりも、自分自身の名を入れてごらんになればよいのです。「神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして、神はわたしの神だから」。「神が、わたしの神でいてくださるから、わたしは生きる。わたしの妻も、わたしの夫も、わたしの友も、神が生かしてくださる」。「神よ、あなたは死んだ者の神ではなく、わたしの神です」。その神の力を知っているなら、もう迷い出ることはありません。キリストの復活は、その神の力の確かな証しなのです。お祈りをいたします。

 

どうか今、新しい思いで、あなたの力を信じさせてください。私どもの望みは、そこにしかないのですから、滅びに至る迷いに落ちることがないように、ますます熱心に聖書の言葉を学ばせてください。神よ、あなたはイエス・キリストの父なる神、そして私どもの神、わたしの神です。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン

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