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神に返すべきもの

2024年4月7日

マルコによる福音書 第12章13-17節
川崎 公平

主日礼拝

■聖書の最初のところに、このような言葉があります。

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。……」。
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。(創世記第1章26、27節)

ここに、「神のかたち」という言葉が出てきます。かつて用いていた新共同訳では「神にかたどって」と訳されました。「神の像」と訳すこともできる言葉です。考えれば考えるほど、強烈な発言だと思います。皆さんが、自分自身の体を鏡に映してご覧になって、「ああ、神さまの像だ。ほんとうにそっくりだ」。いやいや、それはいくら何でも。けれどもこの創世記の記述に従うならば、神は天地万物をお造りになって、言ってみればその世界を完成させる、最後のピースを置くような形で、ご自身の像として人間を置かれたのです。「神は人を自分のかたちに創造された」。

今朝の礼拝で、マルコ福音書の記事に添えて、この創世記第1章を読むことはひと月前から決めていたのですが、先週、ちょっとおもしろいことがありました。月曜日は私も仕事を休んで家族で外出しておりましたときに、ちょっとした待ち時間のようなときに、小学5年生になる息子が私のスマホを借りて、どういうわけか〈人間〉について調べ出したんですね。なぜ〈人間〉について調べたくなったか、そのあたりは記憶にないのですが、ウィキペディアというインターネット上の百科事典のようなサイトに行きついて、息子はその「人間」の項目を熱心に読みながら、ふと、「ねえ、お父さん、これ絶対間違ってるよね。こんなこと書いてあるよ。『旧約聖書以前の時代、古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった』だって。ね、お父さん、これ絶対間違ってるよね」。……なんか、うちの子もずいぶん大きくなっちゃったなあ、と感慨にふける一方で、もう来週の説教は半分くらいできてしまったかもしれないな、と思いました。

「旧約聖書以前の時代」、というよりも「旧約聖書の時代の周辺世界では」と言うべきかと思いますが、「古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった」。もちろん、と言ってよいと思いますが、そこにこういう文章が続きます。「それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、とされた。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられている」(「神性を宿している」とまでは私どもの教会では申しませんが……)。創世記がこのような信仰を言い表すために、どんなに大きな信仰の戦いがあったことかと思うのです。われわれはふだん、ついいい加減な気持ちで聖書を読みまして、聖書の最初のところに「神は人を自分のかたちに造られた」と書いてあっても、まあそんなものかな、と読み流してしまうのですが、本当はその発言の背後に、どんなに激しい信仰の戦いがあったか、そのことをよく考えなければならないと思うのです。言ってみれば世界中の支配者たち、権力者たちに向かい合って自分たちの信仰をぶっつけるように、「違う、そうじゃない!」「人間はすべて、神のかたちに造られたのだ。男も、女も、神のかたちに造られたのだ」。このような信仰の戦いは、今も終わることなく続いているし、主イエス・キリストがこの世においでにならなければならなかったのも、まさしくこの神のかたちに造られた人間を、人間らしく、本物の人間らしく生かすための戦いであったと言わなければならないと思うのです。

■人間は、神のかたちに造られた存在です。それは、たとえば創世記の戦いの文脈で言えば、王だけでなく、すべての人間が神のかたちとして生かされ、重んじられてこそ、この世界は神に造られたとおりの祝福された存在として生きることができる、ということでしょう。古代では、王だけが神の像と信じられていた、などと聞きますと、大昔の人はずいぶん愚かなことを考えたものだと見下すような向きもあるかもしれませんが、それを言ったら私どもの国だって80年前まで、天皇のことを現人神と呼んだものです。現人神、まさしく〈神のかたち〉であります。先週木曜日の教会祈祷会で、この春に現任を退かれた長老が奨励をしてくださいました。自分にとっての最初のキリストとの出会いは80年前、12歳の時、明治学院という学校に入学したことによるものだった。学校の礼拝の中で、現人神たる天皇を敬っているか、皇居の方向、明治学院の礼拝堂から見たら北の方向にまず敬礼することから礼拝を始めているか、常に国家権力によって監視されていた中での明治学院での礼拝が、キリストとの最初の出会いであったと語る92歳の長老の言葉は、聴く者の心を激しく動かすものがありました。

主イエスが地上で生活しておられたときにも、やはり現人神がおりました。それがここに出てくる「皇帝」であります。新約聖書を読みますときに、実は常に念頭に置いておかなければならないことは、当時の人たちにも現人神がいたという、この事実であります。この現人神ローマ皇帝の存在をいやでも意識せざるを得なくなるのが、納税の場面でした。福音書に出てくる徴税人というのは要するに、ローマ皇帝の手足となって働く人たちで、絶対に誰も逆らえない。

ここでも皇帝に納める税金が問題になっています。「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と言うのですが、実際には納税拒否なんて不可能であったと思います。問答無用です。この場合の税金というのは人頭税と呼ばれるもので、金持ちも貧乏人も皆等しく、ここに出てくるデナリオン銀貨というのをひとり一枚ずつ差し出さなければなりませんでした。それがどの程度の経済的な負担であったのか、実のところはっきりしません。むしろ経済的なことよりも、信仰に関わることとして、ユダヤの人びとにとってこれが非常な屈辱であったのです。まことの神を信じているはずのわれわれが、なぜ偽りの現人神に屈しなければならないか。

ルカによる福音書第2章のクリスマスの物語の中に、皇帝アウグストゥスから住民登録をせよとの勅令が出て、主イエスの両親のヨセフとマリアも遠くまで旅をしなければならなかったという記事があります。それもまた、人頭税を正確に集めるための住民登録です。大きなお腹を抱えたマリアと、それを支えるようにヨセフが一緒に旅をするというのは、いかにも非人間的な場面だと思うのですが、「皇帝に税金を納める」というのは、たとえばそういうことを意味したのです。

■けれども、ユダヤの人びとには希望がありました。神がいつか必ず、メシア、救い主を送ってくださる。そうしたら、きっと税金を納める必要もなくなる。その日にはもう、徴税人の脅しに怯えることもない。そういう具体的な期待があったのです。その苦しいほどの彼らの祈りが、また同時に、イエスを陥れるための罠になるということに、彼らは気付いたのです。

今日読みました福音書の記事の最初に、「さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした」(13節)とあります。ファリサイ派というのは、信仰の節操を守るためならできる限りのことをしようとした人たちですから、当然できることなら皇帝に税金なんか納めたくなかったし、皇帝の手先でしかない徴税人のごときは神の民の面汚しでしかなかったし、ところがイエスという評判の教師が現れて、この人がいちばん仲良くしていたのが徴税人であったということは、ファリサイ派にとって絶対に受け入れることができないことであったのです。それに対してヘロデ党というのは、いわば現実主義です。何だかんだ言っても納税するのが常識ではないかという立場で、当然ファリサイ派とは仲が悪いのです。けれどもここでは、「イエスを罠にかけたい。できることなら死んでほしい」という願いにおいて、仲が悪かったふたつのグループがひとつになりました。それほどまでに、人間は神を憎んだ、神の子イエスを憎んだということは、本当に恐ろしいことだと言わなければなりません。

そこで彼らがかけた罠というのは、先ほど申しましたように、「皇帝に税金を納めてよいか、悪いか」ということでした。なぜこれが罠になったか。もしもイエスが「納税は国民の義務です」などとつまらないことを言ったら、イエスに対する人びとの期待は一気に冷めるに違いない。けれども逆に、「皇帝なんかに税金を納めてやる必要はない」などと、ひと言でも口にしたら、自分たちが手を下さなくても、きっとローマ当局の方でこの男を処分してくれるに違いない。これが罠です。

■けれども、その罠はすぐに主イエスに見抜かれてしまいます。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。家に取りに帰る必要もありませんでした。最初から彼らの財布に入っていたのです。そのお金がなかったら、あなたの生活だって成り立たないだろう。そのことを明らかにされたのだと思います。そして言われました。あなたの財布に入っていた銀貨には、誰の顔が描いてありますか。誰の名前が刻まれていますか。

そこにははっきりと、ローマ皇帝の姿が刻まれておりました。「神の子・皇帝ティベリウス」などというように、皇帝を神とたたえる文字が刻まれていたと言われます。まさしく現人神であります。十戒において、「汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。汝、己のために、何の偶像をも刻むべからず」と教えられている人たちからしたら、こんなにきつい信仰の試練はなかったかもしれません。何が何でも退けるべき汚れた偶像を、けれども、それを捨てたら生活できないのです。「これは、誰の肖像と銘か」。「皇帝のです」。歯ぎしりしたくなるような、思わず涙がこぼれそうな悲しみの中で、彼らはそう答えたと思うのです。

ところが、そうしたら、主イエスはまるで事もなげに、「皇帝のものなら、皇帝に返してやればいいじゃないか」と言われるのです。「彼らは、イエスの答えに驚嘆した」と最後に書いてありますが、いったい彼らは、どんな驚き方をしたでしょうか。自分たちが一所懸命考えた罠が簡単に論破された、という驚きは、おそらく誰も感じなかったのではないかと思います。むしろ、「皇帝のものなら皇帝に返せ」という主イエスの理屈は、実は理屈にも何にもなっていない。まるで子どものようなあっけらかんとした主イエスの態度に驚き呆れた、という驚きもあっただろうと思います。「われわれの真剣な悩みが、そんな屁理屈で解決するか」という怒りをも含む驚きも多分にあっただろうと、私は思うのです。だって、考えてみてください。皇帝の像が刻まれているからという理由で、いくらでも税金を取り立てていいという世界がどこにあるでしょうか。皆さんの持っているお金に「日本国」と書いてあるからと言って、「お国のものはお国に返しなさい」と全部持って行かれたら、そんなことをする政府はたちまち次の選挙で負けるに決まっています。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という主イエスの言葉は、何となくうまいことを言っているようで、実はさっぱり意味がわからないという面があると思います。だからこそさらに大切なことは、「神のものは神に返しなさい」という、この言葉であります。

■教会員の皆さんには毎月お配りしている、「鎌倉雪ノ下教会の祈りというプリントの最後の頁に、いつも私が短い説教を書いています。先週の金曜日にも、ある地区集会でこの短い説教を読みました。ペトロの手紙Ⅰの第3章についての説教です。詳しくはぜひ改めてそのプリントをお読みいただければと思いますが、ペトロの手紙Ⅰというのはなかなか強烈なことを書いています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」(ペトロの手紙Ⅰ第3章9節)。言うは易く、けれどもこんなに難しいことはないかもしれません。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず」。誰かに悪いことをされたり、侮辱されたりしたら、どうしたって私どもは傷つきます。そのとき、どうしたらよいのでしょか。この手紙は、「侮辱されても我慢しなさい」とは言いません。悪をそのままのさばらせておきなさい、ということではないのです。「侮辱されたら、祝福を返せ」。悪に対して、善を返せ、と言うのです。

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」。皆さんも、神に召されました。神に呼ばれたのです。そして神が、今このように私どもを呼び集めてくださったのは、決して私どもを不幸にするためではないのであって、「祝福を受け継ぐために」、はっきり言えば、幸せになるために、私どもは神に呼ばれたのです。それにしても、神からいただくこの幸せとは、何と強靭な幸せなのでしょうか。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい」。この世のどんな悪も、どんな侮辱も、あなたの祝福を1ミリたりとも揺るがすことはできないのだから、だから、あなたは侮辱されたら祝福を返しなさい。

このペトロの手紙Ⅰは別の箇所で、「王を敬いなさい」(第2章17節)とはっきりと言います。その王とは、具体的には結局ローマ皇帝のことです。その皇帝が税金を求めるなら、快く納税しなさい。「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに従いなさい」(第2章13節)とも言うのです。こういう言葉を取り上げて、きっとペトロの手紙Ⅰが書かれた時代は、皇帝による迫害がそれほど厳しくなかったのだろうと推測する学者もいるのですが、それはあまりにも読み方が浅すぎると思います。聖書は決して、そんな中途半端なことは言いません。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい」。どんなに悪い皇帝が、どんなにひどい税金を取り立てたとしても、何も恐れることはない。あなたがたは既に、絶対的な祝福の中にある。その私どもに与えられた根源的な祝福の中心に立つのが、「神は人間を、ご自分のかたちに造られた」という、この事実であります。どんなことがあっても、この祝福の事実の中に立ち続けなさい。「神のものは神に返す」とは、そういうことでしょう。事実神のものである自分自身を、神のみ手の中に返し続ける。このわたしを傷つけ得る悪は世界のどこにも存在しないのです。

■私がマルコによる福音書の説教の準備をする際に、もちろんたくさんの書物を参考にしているわけですが、特にいつも深い感銘を受けるのは、この教会で加藤常昭牧師が30年以上前に語られた、マルコによる福音書の連続講解説教です。加藤先生の説教全集は全30巻に及ぶものですが、その中でもひときわすぐれているのがマルコ福音書の説教だと、私は感じています。今日の箇所についての説教が語られたのは1989年10月、その年の初めには天皇の代替わりがあり、その同じ年に東ヨーロッパの共産主義体制が次々に倒れるということが起こりました。その揺れ動く時代を、預言者のごとくはっきりと見据えて語られた説教であると思います。

この箇所の加藤先生の説教の中で言及されるのは、東ドイツという、今は存在しない国家に生きた教会のことです。東ドイツという国家もまた、教会にとっては悪い皇帝であったに違いありません。「教会の信仰も結構だが、それはあくまで心の内面のことだね。キリストもおっしゃったそうじゃないか。『皇帝のものは皇帝に、国家のものは国家にしっかり返しなさい』とね」。そういう理屈で、東ドイツの教会は、たいへん苦しいところに立たされた。加藤先生の説教の中に、こういう話が紹介されています。加藤先生があるとき、東ドイツの若い人たちの集会に出たときに、そこでも厳しい迫害が語られた。たとえば、教会の活動に熱心になると大学にも入れてもらえない。就職しても出世できない。にもかかわらず、こんなにたくさん若い人たちが集まって、盛んな集会をしているのはどういう理由によるのかと、加藤先生はその集会に出ていた若者たちに尋ねたそうです。そうしたら一瞬答えがなかったけれども、ひとりの少年が小さな声で発言した。「ここへ来ると、自分は初めて人間として扱われる。この社会では、つまり教会以外では、人間として生きられなくなってしまった。しかし、ここに来れば、僕はひとりの人間として尊ばれる体験をする」。そうしたら他の若い人たちも、そうだ、それがわれわれの思いだと言った。そこにも、神のかたちに造られた、神のものにされた人間たちの光栄が、見事に輝いていると思いました。

「神のものは神に返せ」と言われます。その東ドイツの教会の人たちもまた、神のものにほかならない自分自身を神にお返ししながら、もちろん国家に税金を納めました。自分たちを大学にも入れてくれない国家のために、なぜ税金など納めなければならないか。けれども、どんな皇帝にどんな税金を取られても、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず」、根源的な祝福のもとに立ち続けた教会の姿は、今ここに生きる私どもの姿でもあると言わなければなりません。そのとき、私どもの税金の納め方だって変わってくるかもしれません。何よりも、この国のために、世界のために祈る、その祈り方が変わってくるだろうと思うのです。「神よ、この国をあなたにお返しします。この世界をあなたにお返しします。どうか、あなたのものとしてください」。

■14節の前半に、こういう言葉がありました。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」。偽善に満ちたただのお世辞だと片づけることもできるかもしれませんが、それでいて図らずも真実を語っています。「人に分け隔てをせず」とあるのは、直訳すると「人の顔を見ない」という言葉です。人の顔色を窺って、相手によって態度を変えるようなことをしない。その直前にある「誰をもはばからない」というのも同じ趣旨でしょう。主イエスは、人の顔を恐れて自分の自由を捨てるような方ではなかった。ご自分を殺そうとする人びとからも、自由であられました。はばかることなく、真理を語ることがおできになりました。ご自身が、まさしく神のかたちであられたからです。

そのお方が、数日後には十字架につけられる。それはひとつの言い方をすれば、結局ローマ皇帝の名において殺されたということにもなるでしょう。ローマの裁判によって死刑の判決を受けられたのです。けれども主イエスは、皇帝の顔色を窺うようなお方ではありませんでした。その主イエスの自由は、死に勝つ命、甦りの命に根差すものです。そして、この主イエス・キリストに救われた教会もまた、同じ自由を与えられて、その歴史を始めました。ローマ皇帝の名による迫害を受けて、300年間その迫害に耐えたのです。神のものを神に返したからです。皇帝を礼拝することを断ったからです。皇帝が税金を求めるなら自由にこれに応じ、場合によっては命さえ奪われながらも、しかもいちばん深いところでは、皇帝の支配からまったく自由であり続けることができました。このような喜びと誇りに生きる人間を造るために、神のみわざがあり、キリストのみわざがあったことを、今私ども自身の喜びと誇りとして学び直したいと願います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、今ここにあなたのかたち、そのものとして生かされている人間の光栄と堕落を思います。あなたのものでありながら、あなたのものでなくなってしまっているこの国を、この世界を、どうかあなたが顧みてください。「神の国は近づいた」と、あなたの御子はおおせになりました。その証しのために、この教会も生かされています。どうか私どもの全存在を、あなたの祝福の証しそのものとして用いてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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