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白馬に乗る勝利者イエス

2021年10月24日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第19章11-21節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録、すなわち、ヨハネの見た幻の記録であります。もっとも「幻」という日本語は、どうも否定的な響きを持つかもしれません。「黙示」という言葉は、原文の意味に沿って理解するならば、「隠れているものをあらわにする」ということです。肉眼には見えないもの、隠されているものを、神がヨハネのために特別に啓き、示してくださって、われわれが肉眼で普通に見ているよりももっと確かな、もっと大切な現実を見せてくださいました。

先週の礼拝でも少し触れましたが、ヨハネがこのような不思議な幻を見せていただいたのは、ある主の日のこと、場所はパトモスという島であったと言われます。第1章9節に、こう書いてあります。

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。

現在のパトモス島には、何千人という単位の人が住んでいるようで、しかもそこに「聖ヨハネ修道院」なんてものがあったり、そのために世界遺産にまでなっているようですが、歴史的に見れば、無人島である期間の方が長かったようです。そういう島に、どういう経緯でヨハネが流れ着いたのか、それはよく分かりません。唯一黙示録が書いている理由は、「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」。ヨハネは教会の伝道者でした。イエスこそ神の子であると、「イエスの証し」を「神の言葉」として語り続けた。それが理由で、ヨハネはパトモスという島にいたというのです。いわゆる政治犯として島流しに遭っていたのか、あるいは自ら亡命していたのか、よく分かりません。さびしい離れ小島で、ひとりで礼拝を続けていたのか。ごく少数であったとしても、同じような境遇の仲間たちと一緒に礼拝をすることができていたか。

■このようなヨハネの姿を想像するにつけ、私が思い起こすのは、福音書に出てくる洗礼者ヨハネのことです。洗礼のヨハネもまた、黙示録のヨハネと同じように、「神の言葉とイエスの証しのゆえに」、ガリラヤの領主ヘロデに捕らえられ、最後はヘロデの誕生日の祝いの席で、ちょっとした思い付きによって行われた余興の中で、首をはねられて死んだと伝えられます。洗礼者ヨハネは、既にどこかでそのような自分の運命を予感するところがあったのでしょう。あるとき、自分の弟子を使いにやって、主イエスに尋ねさせたと言います。「来るべき方は、あなたなのですか。それとも、なおほかの人を待たなければなりませんか」(マタイ福音書第11章3節)。

「イエスよ、本当にあなたを信じていいのですか。それとも、あなた以外の誰かを、なお待たなければならないのですか」。私は率直にこう思うのですが、ヘロデの屋敷の地下牢か何かに捕らえられていた洗礼者ヨハネには、何の不安もなかった、何ら動揺することははなかった、などと考えるのは、かえって不自然だと思います。たいへんな激しさで、主イエスのことを証しし続けた洗礼者ヨハネが、けれどもここに来て、遂に望みを失い始めた。それは、私ども自身のことを考えればよく分かるので、私どももしばしば、信仰の試練に遭います。本当に、神を信じてよいのだろうか。本当に、イエス・キリストだけを信じていてよいのだろうか。神を信じる者は、信じているからこそ、試練に遭うのです。最初から神なんか信じていなければ、どうだっていいのです。

「イエスよ、本当にあなたを信じてよいのですか。私が待つべき方は、本当にあなただけだと、そう信じてよいのですか」。自分の信じたことが、まったくの無駄であったのか、無駄でなかったのか。主の胸を打ち叩くような思いで、洗礼者ヨハネは問うたのです。他の誰に問うのでもありません。主イエスに問うたのです。このお方を信じたいと、心から願うからです。パトモスにいた黙示録のヨハネもまた、その思いをよく理解しただろうと思います。

■けれども、「ある主の日のこと」と第1章10節に書いてありましたが、黙示録のヨハネがパトモスにおいて、主の日の礼拝をしていたときに、神はヨハネのために、確かな答えを見せてくださいました。隠れているものをあらわにしてくださいました。今日読みました第19章11節にこう書いてあります。

そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。

「天が開かれた」と言います。天というのは、宇宙のどこかにそういう場所があるらしい、という話ではありません。人間の目には隠されている、神の自由な世界のことです。しかもそれでいて、神は必要と思われたときにはいつでも自由に、私どものために天を開いてくださいます。

「すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる」。白い馬というのは、明らかに勝利者のしるしです。かつて日本においても、現人神として君臨した天皇は、白い馬に乗って日本軍を率いました。しかしここに現れる白い馬は、地上に属するものではありません。天を開いて、白い馬に乗った主イエス・キリストが勝利者としておいでになり、「正義をもって裁き、また戦われる」と言います。

その戦いの結末はしかし、それにしても、たいへん痛ましいものです。ことに17節以下の段落では、「神の大宴会」と称して、神に逆らう者どもの死体に猛禽たちが集まり、「すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた」と書いてあります。こういうグロテスクな描写に、顔をしかめる人も多いだろうと思います。なぜこんな書き方をするんだろうか。このような描写の背後には、殉教の死を遂げた教会の仲間が、実際にこういう痛ましい死に方をしなければならなかった、その情景が反映しているとも言われます。それにしても私どもの多くが、こういう聖書の記事を飲み込みにくいと思うのは、ただ描写がグロいとかそういう次元ではなくて、なぜ愛の神がこういうことをなさるのだろうか、といぶかる思いが私どもの中にあるからだと思います。

ここに語られている神の戦いというのは、私どもは黙示録を読みながら再三学んでまいりましたから、その内容に詳しく立ち入ることもしませんけれども、黙示録が「獣の支配」と呼んでいるものとの戦いであります。人間を人間として生かすことをせず、非人間化してしまうような獣の支配に対して、それを神が根っこから断ち滅ぼしてくださる。そのために登場なさるのが、天を開いて来てくださる、白馬に乗る勝利者イエスであると言うのです。ここで語られることも、獣の支配に対する神の怒りが、どれほど確かかということでしかありません。この神の怒りがなかったら、私どもの住む世界は、永遠に獣の支配のもとに置かれるほかない。それをお許しにならない神のみ旨を、ここでヨハネは見せていただくことができました。

■私が黙示録の説教をするときに、おそらくいちばん熱心に読む参考文献は、25年前にこの場所で語られた、当時この教会の牧師であった加藤常昭先生の黙示録の説教集です。この第19章11節以下を説く説教の中で、あるドイツの牧師の文章を紹介しておられます。それを私が紹介すると孫引きということになってしまうのですが、それでも、どうしてもこれを皆さんに紹介しないわけにはいかない思いにさせられました。

もし黙示録の語る通りでないとしたら、暴力、残虐、神をないがしろにする心を、キリストが滅ぼしてくださるということが起こらないことになる。この黙示録の言葉の通りでないとしたら私どもが自分でこれらの悪を根絶しなければならないことになる。人間の意志と知恵で地上に楽園を造れると言い張ることになる。そうとすれば、イエスをキリストと呼ぶことも間違いだということになる。イエスは、せいぜいそのような私どもに、どのように生きなければならないかを示してくれたお手本としての人間に過ぎない。それ以上の何者でもないことになる。

われわれ説教者はこのことを今現代に生きる信仰の仲間に明らかにしなければならない。イエス・キリストは生きて戦ってくださる。必ず勝利をもたらしてくださる。

この文章について、いちいち細かい説明をしなくても、なぜ私がここでこの文章を紹介したくなったか、理解していただけたと思います。正直なことを言うと、私自身がこの第19章11節以下を読みながら、これはどうもまいったなあ、説教しにくいなあ、などと内心つぶやいていたものですから、この文章を読んだとき、いきなり頭を殴られたような思いさえいたしました。本当にこの牧師の言う通りだと思ったのです。

今私どもも、このような、たいへん激しい幻を神から突き付けられて、改めて、「信じるのか、信じないのか」、そのことだけを問われているように思うのです。天が開かれ、そこからおいでになるイエス・キリストを、信じるのか、信じないのか。もしこのお方を信じることができないとしたら、いったい世界はどこに行くのでしょうか。もしこのお方を信じなければ、現実に見えている獣の支配を、どうしたらよいのでしょうか。もしも「この黙示録の言葉の通りでないとしたら私どもが自分でこれらの悪を根絶しなければならないことになる。人間の意志と知恵で地上に楽園を造れると言い張ることになる。そうとすれば、イエスをキリストと呼ぶことも間違いだということになる。イエスは、せいぜいそのような私どもに、どのように生きなければならないかを示してくれたお手本としての人間に過ぎない」。だがしかし、もしもイエスさまが単なる生き方のお手本を示しただけの人物でしかなかったならば、そのイエスの証しのゆえにパトモスに流されていたというヨハネという人は、世界でいちばん馬鹿な人間だということになりますし、今このように礼拝をしている私どもだって同じように、すべての人の中で最も惨めな人間だということにしか、ならないだろうと思うのです。

けれども、事実はそうではないのであって、天が開かれ、白馬に乗って来られるこのお方こそ、真実の勝利者である。この方を、信じるのか、信じないのか。黙示録を書いたヨハネは、パトモスの島にあって、明確に答えることができました。「イエスよ、ありがとうございます。本当に、あなたを信じてよろしいのですね」。そのために、見るべき現実を、神が見せてくださったのです。それをまたヨハネは、私どものためにもこのように、書き残してくれているのです。

■私どもが待つべきイエス・キリスト、このお方がどのようなお方であるか、それを黙示録はここで三つの名と、さらにもうひとつ、「自分のほかはだれも知らない名」という不思議な名によって紹介しています。ひとつは11節で、既に読みました。さらに13節、16節であります。

そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる(11節)。

また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた(13節)。

この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた(16節)。

不思議なのは、今申しましたように、12節の後半に、「この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた」と書いてあります。この方の名を誰も知らないと言いながら、三つも名前が書いてあるじゃないか、というのは屁理屈です。誰にも名を知られていない、ということの意味は、この白馬に乗る勝利者は、誰の言いなりにもならない、ということです。ここには古代の人たちのひとつの考え方が反映しているわけですが、神の名を覚えたら、その名を呼び続けて、何とかその神に願い事を聞いてもらう。しかしそれは、このお方には通用しない、ということです。現代的に言えば、その人の電話番号を知らない。知っていても、こちらから電話をかけてその人を呼び出すなんて、そんな恐れ多いことは絶対にできない、という感じでしょう。主人は奴隷に、夜中にだって電話をかけて、たたき起こすことができる。逆はできないのです。そういう意味で、このお方は他の人から、特に獣に名を呼ばれることを断っておられる。そういう自由を持っておられる方が、ご自分の自由な意志によって、ご自分の名を立てておられるのです。

その名の第一は、「誠実」および「真実」というのです。特に最初の「誠実」と訳されている言葉は、私どもが神を信じるというときの「信仰」とも関わりのある言葉です。「信頼できる」という意味です。「イエスよ、本当にあなたを信じてよいのですか」と私どもが問うたときに、「そうだ。あなたは、ただ私だけを信じればいいのだ」と答えてくださるし、その言葉を裏切ることは決してないということです。そのようなお方が、「正義をもって裁き、また戦」ってくださる。私どもを、獣から守るための戦いであります。

その神の真実がよく表れているのが、13節の「血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた」という文章だと思います。「血に染まった衣」って、誰の血だ。何のための血だ。戦いの際に浴びた、いわゆる返り血であると理解することもできますが、このお方は十字架につけられた時の傷もそのままに戦いに出てこられたのだと読むことができると思います。獣と戦うために、獣から私どもを守るために、まさに「誠実」また「真実」という名にふさわしく、このお方は血を流すほどの戦いをなさったし、そこにこそ、私どもの聞くべき「神の言葉」がはっきりと聞こえてくるのです。

そして最後に、「王の王、主の主」という名が、この方の衣と腿のあたりに書いてあったと言います。この名について、もういちいち説明する必要もないでしょうが、どうしてその名前が書いてあるのが、腿のところなんだろうか。馬にまたがった騎士の姿を想像していただければよいので、太くて力強い腿のところに「王の王、主の主」と書いてあれば、それはたいへん頼もしいことでしょう。

■そのお方が、15節によれば、「この方の口からは、鋭い剣が出ている」、さらに「また、自ら鉄の杖で彼らを治める」とも言います。特にこの「鉄の杖で彼らを治める」という表現は興味深いもので、「治める」という訳も間違いではありませんが、もともとは「羊の群れを養う」という具体的な意味を持つ言葉です。ですからこの鉄の杖というのも、羊飼いの杖です。たいへん多くの人が愛する旧約聖書の詩編第23篇にも、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。……あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(1節、4節)と書いてあります。私どもの羊飼いイエスは、鉄の杖をもって羊を守る。もし、そのような羊飼いがいなかったなら、もしもイエスというあのお方が、羊のために戦うことを放棄なさるような方だとするならば、私どもは、羊なのに狼と戦わなければならないことになります。

この羊飼いであり、なおかつ白馬に乗る騎士である方の剣は、よく考えてみると不思議なことですが、「この方の口からは、鋭い剣が出ている」(15節)と書いてあります。21節にも、「馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され」とあります。この口の剣というのは、明らかに神の言葉のことです。今私どもが聞き続けているみ言葉のことです。その神の言葉は、両刃の剣のように鋭いと、ヘブライ人への手紙は書きました。その神の言葉の勝利を、ヨハネは見せていただくことができました。

パトモスの小島にあって、ヨハネは、その神の言葉を聞きました。しかもヨハネ自身、神の言葉を担う伝道者であります。こういうものの譬えはふさわしくないかもしれませんが、夢の中で白馬に乗るイエスさまの姿を見た。獣から羊を守る、羊飼いの姿を見た。夢から覚めて、なんだ、夢かと思ったら、その羊飼いの剣だけは、ずっしりと自分の手の中に残っていたというような話であります。このみ言葉の剣が、獣と戦うための剣であるからこそ、ヨハネもまたパトモスに流されたのです。そしてヨハネ自身、この神の言葉によって生かされてきたし、またそのみ言葉によって、教会の仲間を守ってきた、養ってきたのであります。

そのヨハネが、改めて問われたと思います。「わたしを信じるのか。わたしの言葉を、その剣の力を信じるのか、信じないのか」。私どもの教会は、来週の日曜日には、伝道開始104年の刻みの時を迎えます。改めて思わされることは、私どもの教会には、み言葉の剣以外の、何の武器も与えられていないということです。その確信に立ちながら、主の再び来られる日を待ち望みたいと思います。祈ります。

 

主イエスよ、待つべき方は、あなたなのですか。私どもがそう問うとき、あなたは誠実に答えてくださいます。その証しにほかならないみ言葉の剣を、今新しい思いで握りしめながら、あなたの勝利を信じて立つことができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン

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