ただひとつ、疑い得ない真実
ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
川崎 公平

主日礼拝
■今朝は、聖霊降臨の記念の礼拝をしています。二千年前、教会に神の霊が注がれたことを記念する礼拝であります。ペンテコステと外国語で呼ばれることもありますが、ペンテコステという言葉自体には大した意味はありません。ギリシア語で「50番目」という意味の言葉です。なぜ50番目かというと、主イエス・キリストがお甦りになって50日目のことです。既に主イエスは天に昇られて地上にはおられない。その日主イエスの弟子たちが集まっていたところに聖霊が注がれて、そのとき教会は、初めてすべてを理解しました。神の霊によって心を開かれ、目を開かれて、主イエス・キリストのしてくださったすべてのことが、一挙にわかるようになりました。「あれはすべて、わたしのため、わたしたちのための出来事だったんだ」。そこから、教会の歴史は始まりました。
今朝はその聖霊降臨の記念の日に、いちばんふさわしいことをすることができました。3名の方が洗礼をお受けになりました。二千年前、最初のペンテコステに注がれた神の霊が、この3人にも注がれて、すべてがよくわかるようになりました。「あのイエス・キリストの出来事は、わたしのための出来事だったのだ」。そのことを信じて、「イエスは主である」と共に言い表すことができました。
この記念の礼拝のために、今日も先週に引き続き、ローマの信徒への手紙の第3章21節以下を読みました。ここにはペンテコステのペの字も、聖霊のせの字も出てこないようですが、これこそ神の霊の注ぎがなかったら決してわからない神の恵みが書いてあります。21節の最初に「しかし今や」とあります。まるで突然光が射したようです。今日洗礼を受けた3人の方たちのためにも、「しかし今や」神の光が射しました。今共に礼拝をしている私どものためにも、神の霊が注がれました。そのとき、神がわたしのために何をしてくださったか、それが鮮やかに現されました。それをここでは、「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」と言うのです。
神の義、神の正しさであります。それを明らかにしてくれたのが、「キリストの真実」であると言います。この第3章22節の言葉は、ローマの信徒への手紙の中心に立つべき言葉です。パウロがこの手紙で明らかにしようとしていること、そして今神の霊が私どもに教えてくださることもまた、この「キリストの真実」にほかなりません。あのお方が、わたしのために何をしてくださったか。それをパウロは「キリストの真実」という、このひとつの言葉で言い表そうとするのです。
■この「キリストの真実」という言葉については、先週の礼拝でも少し丁寧に説明しました。かつて用いられた新共同訳、あるいはさらに昔の口語訳聖書では、「イエス・キリストを信じる〔信仰〕」と訳されました。われわれがキリストを信じるのか、それともキリストご自身が真実な方なのか、ずいぶん話が変わってしまいました。基本的な意味は「信頼」ということです。その信頼の心を態度で示して、「あの人は信頼できる人だ。わたしはあの人を信頼している」ということになると、それは「信仰」「信頼」という意味になりますし、逆に信頼される側の信頼性ということで、「真実」という意味を持つこともあります。
ただ、あまり皆さんが大切に読んでいる聖書の翻訳をむやみに批判するのもどうかと思うのですが、私は聖書協会共同訳にも新共同訳にも、実はあまり満足しておりません。なぜかと言うと、やはりこの言葉のいちばん基本的な意味は「信仰」だからです。たとえば、この手紙の第1章8節にも「信仰」という言葉が出てきます。「初めに、私は、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです」と言うのですが、これを「あなたがたの真実が世界中に語り伝えられている」と訳すわけにはいきにくい。あなたがた、ローマの教会の人たちが、キリストを信じているのです。その〈信仰〉が、世界中に語り伝えられているのであって、ローマの教会の人たちがどんなに信頼できるか、という話ではないはずです。同じように第1章の12節でも、「あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです」と言います。私が持っている信仰です。皆さんが持っている、もちろんキリストに対する信仰です。その信仰でもって、互いに励まし合いたい。お互いの真心をもって励まし合いたい、という話ではないのです。
それで問題は、第3章22節です。ギリシア語をそのまま紹介すると、「キリストのピスティス」という表現です。このピスティスというのが、「信仰」と訳されたり「真実」と訳されたりするわけですが、いちばん素朴な翻訳は、やはり「キリストの信仰」だろうと思います。キリストが、信じるのです。何をイエス・キリストは信じておられるのでしょうか。その〈キリストの信仰〉によって、われわれは義とされる、つまり救われるというのですが、そのキリストの信仰とは何でしょうか。
■今朝、3名の方が洗礼をお受けになりました。そして、今日になってようやく公にされたことですが、5月中にふたりの方が病床で洗礼を受けられました。人間的に見れば、この合計5名の方たちについて、どうしてもっと早く洗礼を受けなかったんだろう、という感想だってあり得るだろうと思います。もちろんそれは、人間の感想でしかありません。神さまが、その人にとっていちばんよい時を用意してくださったのです。そして今、改めてこの5人の方たちの名前を見つめながら、私のような者は思うのです。イエス・キリストには信仰がおありだった。確信がおありだった。必ずわたしが、この人を救う。どんなことがあっても。できないはずがない。
主イエスのお語りになった譬え話のひとつに、こういうものがあります。百匹の羊を持っている人がいて、もしもそのうちの一匹がいなくなったらどうするだろうか。その人は、どんなことがあっても、そのいなくなった一匹を探しに行くだろう。もちろん主イエスはそこで、一般的な羊飼いの話をなさったわけではないので、「わたしは、必ず見つける」と断言しておられるのです。聖霊に心を開かれてあの譬え話を読む人は、どうしたってそうとしか読めないのです。「百匹の羊のうち、一匹がいなくなった。さあ、どうしよう。見つかるかどうかわからないけど、ひとつ探してみるか。一日探して見つからなかったら、しょうがない、あきらめよう」……と、少なくともここにおられる皆さんは、そんな読み方はなさらないと思います。自分はそんな頼りない救い主を信じているんじゃないと、ある意味で皆さんも確信を持っておられるのではないでしょうか。その確信というのはしかし、私どもの確信というよりは、キリストの確信であります。キリストの固い信仰であります。そのキリストの信仰とは、もう一度申します。「いなくなった一匹を、わたしは必ず見つける。必ず、見つかる。わたしの羊なんだから、見つからないわけがない」。そのキリストの確信を、私どもは神の霊によって教えていただくのです。
■特に今朝、心を留めたいのは、23節です。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」。神のまなざしからご覧になると、人間の状態はこうだと言うのです。「神の栄光を受けられなくなっている」。原文を直訳すると、「神の栄光に欠ける」という文章です。もともと人間というのは、神の栄光を帯びた存在であるはずなのに、それを失った。そのような人間の実態を、またくどいようですが、私どもは聖霊によって教えていただかなければならないのです。
フランスのパスカルの有名な言葉に、「人間の悲惨とは、王位を奪われた王のみじめさである」というのがあります。人間の悲惨とは、ただ悲しいとか苦しいとかいうことではなくて、一度王であった人間が、そこから落ちたということである。私どもは、それを知りませんでした。けれども主イエスはこのような人間の悲惨を見抜いておられました。それだけに、主イエスにはそれこそ確信がありました。「あの人が、あんな場所にいるべきでない。あの人が、あんなぼろを着ていていいわけがない」。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが」、あなたのような人が、そんな場所にいちゃいけないんだ。
この礼拝のあと、洗礼を受けた3名の方に教会から聖書を贈ります。それぞれに、私が聖書の言葉を選んで書きました。その中のおひとりのために、ルカによる福音書第15章22節を書きました。
「しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい』」。
先ほど主イエスの〈いなくなった羊の譬え話〉を紹介しましたが、それに続けて語られた〈いなくなった息子の譬え話〉の一部であります。〈放蕩息子の譬え〉と呼ばれることも多い物語です。父親のもとにいた息子のうちのひとりが、いわば生前相続を受けて、そのお金を持って父親の家からいなくなってしまったというのです。ところがたちまち生活が立ち行かなくなり、ぼろぼろになって父親のもとに帰って行く放蕩息子の描写の中には、人間の栄光と、それを失った人間の悲惨に対する、主イエスの深い愛がにじみ出ていると思います。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが」、その息子を父親は抱きしめて、こう言うのです。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい」。皆さん、ひとりひとりに語りかけられている、神の言葉であります。「あなたのような人が、こんな格好をしていちゃいけない」。それで、この父親は、自分の息子に最高の服を着せてくれました。あなたにいちばんふさわしい格好は、これだ。あなたはわたしの息子なのに、どうしてそんな汚い格好をしているんだ。おかしいじゃないか。
■人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです(23、24節)。
イエス・キリストには、信仰がありました。確信がありました。この人の罪がどんなに深くても、この人の悲惨がどんなに大きくても、わたしは必ず、あなたを救う。そのキリストの信仰、キリストの確信について、ここでは「神の恵みにより価なしに義とされるのです」と言います。この「義とされる」という言葉がまた難しいと、特に私のような者はよく文句を言われます。たとえば、いなくなっていた息子が家に帰って来たときのことを考えればよいのです。その悲惨がどんなに深くても、「神の恵みにより値なしに義とされ」ました。正しい者とされました。「あなたはわたしの息子だ」と呼んでいただいて、本来着るべき最高の衣服を着せていただきました。まさしくそのことによって、〈神の義〉が、〈神の正しさ〉が現されたのです。
「値なしに」と書いてあります。あの放蕩息子が家に入れてもらうために、1円も払う必要はありませんでした。本当はこの息子は、「あなたの息子と呼ばれる資格はありません。召し使いのひとりにしてください」と言おうと思っていたのですが、そうやって召し使いになって、5円でも10円でもお返ししていこうと思ったのですが、神はこの息子から何もお受け取りになりませんでした。私どもが、今ここに立つ、その立場もまったく同じことであります。「値なしに」、ただ「神の恵みにより」、義とされるのです。だがしかし、その「値なしに」の背後に、キリストの十字架という無限の代価が支払われたことを忘れることはできません。それを24節では、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して」と言うのです。
■このあと、聖餐と呼ばれる食卓を共に祝います。今日洗礼をお受けになった3名の方も、これまでは自分の前を通り過ぎて行くだけだったパンと杯を、今日は、しっかりと受け取ってください。「どうか、受け取ってほしい。値なしに、神の恵みを」。そのキリストの真実のみ声を聴くための食卓です。
この聖餐の食卓の前で、私どもは自分の罪を知ります。私どもの罪の代価として支払われた、キリストの十字架の死であります。キリストの十字架の重みは、私の罪の重さに匹敵する重さです。けれどもそこで、私どもは絶望するのではありません。
聖書は、一方では、人間はすべて例外なく罪人であると教えます。それは、聖書の教えの中でもいちばんわかりにくいものであるかもしれない、などと先週の礼拝で申しましたが、いやちょっと待てよ、それだけでは言葉が足りなかったかなと、あとで反省しました。「私どもは罪人である」ということは、わかる人には、死にたくなるくらいよくわかることだと思うのです。自分で自分を信じられなくなることがあります。自分で自分を受け入れられなくなることがあります。けれども、聖書が「あなたは罪人だ」と教えるのは、どうせ自分なんかダメ人間なんだと、自棄になるためではありません。自分を棄てると書いて「やけになる」と言いますが、たとえわたしが自分を棄てても、キリストはわたしをお見捨てにならない。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが」、そのあなたを、わたしは必ず救う。いなくなった羊を、いなくなった息子も娘も、わたしが必ず見つける。
それが、キリストの真実であります。キリストの信仰であります。私どもには何の確信もなければ、何の真実もないのですが、あの放蕩息子を抱きしめ、いちばん良い衣を着せてくださる、それが〈神の義〉であって、この神の正しさを信じ抜いたのがキリストの信仰です。私どもは、自分で自分の信仰に確信を持つことはできません。けれども、このキリストの真実だけは疑うことができないのです。主が教えてくださった幼子のような信頼をもって、神の正しさの中にしっかりと立たせていただきたいと、心から願います。お祈りをいたします。
あなたの正しさが貫かれて、今私どもはここに立ちます。私どもがあなたを信じたから、今私どもはここに立つのではありません。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが」、そんな私どもをなおあなたの息子、あなたの娘として信じ抜いてくださったキリストの真実だけを信じて、今あなたのもてなしにあずかることができますように。特に今朝洗礼を受けた仲間たちが、終生変わることなく、このあなたの愛の中に立ち続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン