愛する者のためなら
ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
川崎 公平

主日礼拝
■3週間ぶりにここに立つことになりました。伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙第3章の21節以下を読むのは、今日で3回目になります。来週はこの先の27節以下を読む予定ですが、既に何度か申しました通り、この第3章21節以下の段落は、ローマの信徒への手紙の中心とも言える箇所であって、もっと言えば聖書の中心であると言っても言い過ぎではないかもしれません。それほど豊かな内容を持つこの聖書の言葉を、果たして3回の礼拝で説き切れるかどうか、心もとない思いがなかったわけではないのですが、それだけに私はこの一週間、自分でつけた説教の題に励まされてまいりました。今朝の説教の題を「愛する者のためなら」といたしました。毎朝毎晩教会堂の前を通るたびに、「愛する者のためなら」という立派な文字が飛び込んでくる。この説教の題を決めたのは5月の上旬で、もう2か月近く昔のことですが、その言葉に励まされながら、「そうだ、次の日曜日には、この話をするんだ。この話だけをすればいい」。「愛する者のためなら」。第3章21節以下、この箇所から離れがたい思いを抱きつつも、もう一度許される限りの時間を用いて、神の愛について語らせていただこう。そのような思いで、ここに立たせていただいております。
■神は、愛です。その神の愛は、イエス・キリストという出来事として具体的に現されました。ただし、そこで少しわかりにくいことは、その神の愛の出来事が、ここでは「神の愛」ではなくて「神の義」と表現されていることです。たとえば21節以下にこう書いてあります。
しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
もしもここで、「神の愛が現されました」とか「神の愛には、何の差別もありません」とか書いてあれば、ずっとわかりやすかったかもしれませんが、ここではどういうわけかそうではなくて、「神の義が現れた」と、そう書いてあります。24節には、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」とあります。「神の義が現れた」、それを言い換えて、「あなたは義とされたのだ」と言うのですが、これだって「あなたは愛されたのです」とか、「あなたは救われたのです」とか、もう少し、ものの言い方を考えていただきたい。われわれはそう思うのですが、だからこそなぜ聖書がこういう言い方をしているのか、よく考えなければならないだろうと思います。いちばんわかりにくいのは、さらにそのあとの25節以下であるかもしれません。
神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。
これでもか、と言わんばかりに「義」という言葉が連発します。中でもわかりにくいのは、「ご自身が義となり」というところかもしれません。神ご自身が義とならなければならない。神ご自身が、正しくなければならない。いったいそれと私どもの救いと、何の関係があるかと思います。
最初に申しましたことを裏切るつもりはありません。「愛する者のためなら」。そのために神がしてくださったことが、神ご自身の義を現すということであったのです。「神ご自身が義となる」ということであったのです。それが、私どもにはわかりにくいのです。来月は伝道月間です。神の愛を、キリストの恵みのすばらしさを、ひとりでも多くの人にお伝えしたいと思うのですけれども、そういうときに、「鎌倉の人たちよ、どうか聞いてください、神の義が現されたのです、神ご自身が義となられたのです」と、そういうメッセージを大々的に叫んでいく用意があるか、どうか。いやいや、そんな言い方で通じるわけがない。教会はもっと、何と言えばいいんでしょう、「神の義」とか「神が義となられる」とか、そんなつまらないことじゃなくて、もっとためになること、もっと役に立つこと、もっと別のことを語らないといけないんじゃないか。と、そう考えることによって、私どもは神の大きな恵みを取りこぼしてしまうのではないかと思うのです。
なぜ「神の義」なのでしょうか。ここでパウロは、何を私どもに伝えようとしているのでしょうか。
■ちょっとした宣伝のようなことになりますが、毎週日曜日の朝9時から、『雪ノ下カテキズム』を学ぶ会という集会をしています。もう何十年続いているでしょう。いつの間にかずいぶん長い歴史を持つ集会になりました。『雪ノ下カテキズム』というわりと分厚い書物を、毎週少しずつ、しかも何周も何周もしていきます。今朝の週報で、改めてこの集会について宣伝しました。最近ちょうどこのカテキズムを最後まで読み終えて、また最初から読み始めようとしているところですから、「新しく参加するには絶好の機会です。多くの方の出席をお待ちしています」(週報より)。『雪ノ下カテキズム』は、そのほとんど最初のところで、神の義について丁寧に語ります。神の義、それがいちばん大事なことだからでしょう。たとえば問5でこういうことを言います(来週からでもこの会に出れば、ほどなくこの部分を学ぶことができるはずです)。人間が本当に人間として生きるためにも、私どもは神によって義とされなければならないのだと、そう申します。神によって義とされて初めて、私は本当の私になれる。その「神の義」という言葉について、カテキズムはこういう説明をしています。
聖書が語る神の義とは、まさしくこのような父なる神との正しい関係を新しく造ってくださる神の正しさに他なりません。
これをもう少し別の言葉で言い換えると、聖書が語る「神の義」「神の正しさ」とは、孤高の正義ではないということです。ほかの人のことなんかどうでもいいから、自分だけは正しさを貫く、というファリサイ派の正しさではないのです。「聖書が語る神の義とは、……神との正しい関係を新しく造ってくださる神の正しさ」。
ここに「関係」という言葉が出てきます。もともと「義」という言葉そのものが、関係を表す言葉でしかないのです。またなんか難しい話が始まった、と思われるかもしれませんが、聖書を理解する上で非常に大切なところですから、どうか辛抱して聞いていただきたいと思います。聖書が語る「義」とは、関係を表す言葉です。そのニュアンスをどう日本語に翻訳すればいいのか、実は正直に申しまして、まだ私は納得のいく翻訳を知りません。たとえば、日本語の「正しい」という形容詞は関係を表す言葉ではありません。「彼は正しい人だ」と言えば、それだけで意味が通じるのです。彼ひとりが正しければよいのです。けれども、たとえば「彼は仲良しです」と言われても、「は?」ということにしかならないでしょう。「彼は仲良しです」。「え? 誰と?」「関係を表す言葉」というのは、簡単に言えばそういうことです。
もう一度『雪ノ下カテキズム』を読みます。「聖書が語る神の義とは、まさしくこのような父なる神との正しい関係を新しく造ってくださる神の正しさに他なりません」。彼ひとりが正しければ成り立つ正しさではありません。まして罪人を蹴散らすファリサイ派の正しさではありません。「わたしは、あなたと一緒に生きていきたいんだ」と、「神との正しい関係を新しく造ってくださる神の正しさ」、それが聖書の語る神の義です。パウロはこの手紙において、そういう神の義が現されたのだ。「神は、あなたと、正しい関係に立ちたいのだ」、それを現わしてくださったのは、イエス・キリストの真実であると語るのです。
■延々と『雪ノ下カテキズム』の話を続けるようですが、私がこの部分で感銘を受けることは、神の義について先ほどのような説明をしたあとで、カテキズムはいくつか関連する聖書の言葉を挙げるのですが、最後に引用されるのはマルコによる福音書第5章34節の主イエスの言葉です。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。
これだけ引用されても、何の話だかさっぱりわからないかもしれませんが、12年間出血が止まらないという病気の女が、人ごみにまぎれて主イエスの衣の裾に触れて、癒されたという記事の結びの言葉です。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。ありがたい言葉です。ただわかりにくいのは、なぜこれが「神の義」の説明として引用されているかということです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。それが神の義と、いったい何の関係があるか。私も最初、さっぱりわかりませんでした。しかし今は、私にとってかけがえのない聖書の言葉になりました。
12年間出血が止まらないというのは、つまり女性特有の病気ということです。それが特に当時は、社会的にも厳しく差別される病気とされました。きつい言い方で申し訳ありませんが、要するに、その女は穢れているということです。あらゆる社会的な営みからも排除されました。家族と触れ合うことも許されませんでした。そんな12年間。絶望的な時間であったと思います。そんな女性が、人ごみにまぎれて主イエスの衣にこっそり触れたというのですが、本当は人ごみにまぎれることさえ許されない病気です。もしもばれたら、いったいどんなことになるか。けれどもこの女性は、それまでの12年間の祈りのすべてをかけるかのように、主イエスの背後からそっと、その衣の裾に触れました。そうしたら、彼女がいちばん恐れていたことが起こってしまいました。病はたちまち癒された。ところがすぐに、それが主イエスにばれてしまいました。主イエスはすぐさま振り返り、「わたしに触れたのは誰か」。
何度も申しますように、たいへんな人ごみが主イエスを取り囲んでおりましたから、慌てて逃げることもできたかもしれません。しかし彼女は、いや、逃げることはできないのだとすぐに悟りました。主イエスは依然として、彼女のことを探しておられます。「わたしに触れたのは誰か。出て来なさい」。……ああ、わたしは、このお方から逃げられないんだな。それでこの女は、震え上がりながらみ前にひれ伏し、すべてを白状したときに、聴かせていただいた神の言葉がこれです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。
最初は、ただ病の癒しを求めただけでした。けれども、主イエスはそれをお許しになりませんでした。ああ、なんか自分の背後で誰かの病気が癒されたらしい。よかったね、じゃあさようなら、ということを主イエスはお許しになりませんでした。主イエス・キリスト、このお方は神の義の現れ、そのものでしたから、神との正しい関係を新しく造ってくださる神の正しさ、そのものでしたから、うしろからご自分に触れる者があれば、どうしたって振り返らないわけにはいきませんでした。「わたしに触れたのは誰か」。「愛する者のためなら」、絶対にわたしはあなたを見つける。絶対に逃がさないよ。これが、神の義であります。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」(22節)。
■私どもひとりひとりが、このような主イエスとの関係、神との義なる関係の中に招かれるのです。巻き込まれるのです。そしてその義なる関わりの中で、私どもも同じ主イエス・キリストの言葉を聴かせていただくのです。「安心して行きなさい」。直訳すれば、「平和の中へと出て行きなさい」という言葉です。この癒された女がどこに行っても、主イエス・キリストの平和が彼女を包み込んでいる。義とされて生きるとは、こういうことだと思うのです。「行きなさい、平和の中へ」。その平和というのは、ただ病気が治ったという平和ではありません。死ぬまでなるべく平穏無事で、という話ではありません。「わたしに触れた人は、どこにいるのか」と、「わたしはあなたに会いたいのだ」と振り返ってくださった、主イエスとの愛の関わりにおける平和が、今も皆さんを守ります。そのために、神の義が現されなければなりませんでした。もう一度、25節以下を読みます。
神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。
第3章21節以下について3回も説教しながら、まだ触れていない言葉、説明しなければならない言葉がたくさん残っています。けれども、どうしても時間が足りないようです。できる限り取り上げていきたいと思いますが、何と言っても私が、聖書協会共同訳という新しい翻訳に触れて感銘を受けたのは最後の言葉です。「イエスの真実に基づく者」。新共同訳では、「イエスを信じる者を義となさるためです」と訳されました。新共同訳のほうがわかりやすかったかもしれません。けれども原文に密着しているのは聖書協会共同訳のほうです。「イエスの真実に基づく者」というのは、まさしくあの長血の女のことではないかと思いました。もちろん、この女も主イエスを信じたのです。信じていたから、決死の覚悟で、うしろからその衣の裾に触れたのです。だから主イエスもまた、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。けれどもその信仰というのは、彼女からしたら、ただ物乞いのごとく、必死で手を伸ばしただけです。言い方は悪いですが、用が済んだらさっさと逃げるつもりだった。だから私どもの教会の基礎を造ったとも言われるカルヴァンという神学者は、「この女の信仰とは、悪徳に満ちた迷信に過ぎない」とまで言い切っています。ところが主イエスは、人びとが押し合いへし合いしている中で、その小さな手に気づいてくださいました。「愛する者のためなら」と、振り返ってくださいました。彼女が自ら進み出るまで、探してくださいました。その「イエスの真実に基づく者」であります」。そんなイエスのことを、私どもも信じるほかないのです。
■その主イエスの真実というのは、ただ振り返ってくださるだけではありませんでした。ただ病気を癒してくださるだけではありませんでした。「愛する者のためなら」というこのお方の真実は、十字架の死に至らなければなりませんでした。それを24節では、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされる」と言います。25節でも、「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」と言います。キリストの十字架の意味を、このように言い表しているのです。
なぜ神の愛ではなく、神の義なのだろうかと、最初に申しました。しかしこれは非常に単純な話で、私どもが義でなかったからです。神との関わりが崩れていたからです。それを聖書は罪と呼びます。あの女が、主イエスの衣を追いかけながら、ただ自分の肉体の癒しだけを求めて、絶対にこの人が振り返りませんように、と願ったのも、それを罪と呼ぶのはきつすぎるかもしれません。しかしまさにここに、私どもの根本的な問題があるのではないでしょうか。自分は幸せか、不幸か、私どもが毎日、ときに病的なほどに問い続けているのはそのことです。そんな私どもが神を信じるというときにさえ、この神はわたしを幸せにしてくれるか、どうか、そういうことには非常に神経質になるくせに、その神さまと義なる関係を造っていこう、などということは、ちっとも考えようとしないのです。
けれども、そんな私どもの前に、神の義が現されました。「愛する者のためなら」、あなたのためなら、わたしはどんなことでもする。どんな犠牲をもいとわない。私どもの罪のために、すっかりこじれてしまった神との関係を、神はどんなことをしてでも、回復しなければなりませんでした。神は、愛だからです。そこにキリストの十字架が立ちました。もう一度25節以下を読みます。
神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。
「これまでに犯されてきた罪を見逃して」と書いてあります。生きてきた年数が長ければ長いほど、心を打たれる言葉ではないでしょうか。いや、逆に若ければ若いほど、よくわかる面もあるかもしれません。神は、私どもの罪を見逃してこられたというのです。少し細かい話をすると、ここで「罪」と訳されている言葉は、このローマの信徒への手紙に無数に出てくる「罪」とは違う単語です。ローマの信徒への手紙だけではありません、たくさんの手紙を書いたパウロが、「罪」という言葉を数えきれないほど使ったわけですが、ここでは例外的に、少し違うニュアンスの言葉を使いました。罪そのものというより、ひとつひとつの過ち、ひとつひとつの罪業というニュアンスです。いろんな過ちを犯してきた私どもです。私自身、少なくとも鎌倉雪ノ下教会の皆さんには知られてはまずい秘密を、いくつも持っています。若い人は若い人だからこそ誘惑される罪があるでしょうし、長く生きれば生きるほど、過ちの蓄積も大きくなると感じることだってあるだろうと思います。それを神はひとつひとつ、見逃してこられた。そして「忍耐してこられた」と書いてあります。それは決して、神がその正しさを差し控えたということではありません。ご自分の正しさを犠牲にして、私どもの罪を容認してこられたのではなくて、話はまったく逆で、まさにその忍耐によって、ご自身の義を現そうとされたというのです。
神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。
そのために立てられた、キリストの十字架であります。「愛する者のためなら」、あなたともう一度、正しい関係を造るためなら、わたしはどんなことでもする。わが子の命だって惜しまない。そこに造られた、神との義なる関係、正しい関係であります。ローマの信徒への手紙第5章1節の表現で言えば、平和の関係です。
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
今私どもも、あの12年の病を癒された女のごとく、神との確かな平和のうちに招かれます。どうか今、神に愛された皆さんが、「平和のうちに行きなさい」との主イエスのみ声に包まれて、義とされた者として立つことができますように。お祈りをいたします。
私どもがあなたを選んだのではありません。あなたが私どもを選び、見出してくださいました。私どもがあなたを愛したのではありません。あなたが私どもを愛し、その愛のゆえに、すべての過ちを赦してくださいました。私どもの無数の過ちを思います。それは私ども自身の重荷でもあり続けますが、それ以上に、あなたにとっての重荷であったことを思います。今、主イエス・キリストの十字架の前に立ちながら、私どもの過ちをあなたが見逃し、また忍耐してこられたことを深く思うことができますように。愛する者のためなら、どんな重荷をもいとわないと言われた、父なる神の義と、子なるキリストの真実とを今深く心に刻ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン