最も大切なこととして伝えた福音
コリントの信徒への手紙一 第15章1−11節
柏木 英雄(武山教会牧師)

主日礼拝
本日は、神奈川連合長老会の講壇交換日礼拝として、鎌倉雪ノ下教会の礼拝にご奉仕を許されますことを感謝いたします。
与えられた聖書、新約聖書コリントの信徒への手紙一15章1節以下から、ご一緒に、御言葉に聞きたいと存じます。
1~2節にこのように記されております。
「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます」とあります。
最後のところで、福音を「どんな言葉で告げたかを知らせます」と言っています。
パウロがコリント教会の人々に語って来た福音について「どんな言葉で(福音を)語って来たか」その福音の語り方を、もう一度確認したいと言うのであります。
福音の「語り方」「説き明かし方」が大切である、と言うのであります。
言い換えれば、福音の「理解の仕方」、福音の「信じ方」が大切である、と言うのであります。
2節の後半で「もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかり覚えていればの話ですが」と言っています。
「無駄に信じる」とは、「パウロが語って来たように」福音を信じるのではなく、自分の理解に従って、いわば、自己流に福音を信じる、ということではないでしょうか。
そういう信じ方では、キリストによって救われることができない、とパウロは言うのであります。
自分の理解に従って、自分流に信じるということは、結局、自分中心の信じ方になるのではないでしょうか。
そういう信じ方では、キリストの命に与って生かされることにならないから、「無駄に」福音を信じることになる、と言うのであります。
そのように言って、「パウロが語ってきたように」福音を信じることの大切さを強調しているのであります。
では、パウロは、どのように福音を語って来たのでしょうか。
そのことが、3節以下に語られています。
3節で「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」と言っています。
パウロが語ってきた福音の「説き方」というものは、パウロ自身も「受け継いだもの」であって、決して、パウロ自身の勝手な理解(解釈)に基づくものではない、初代教会の中で受け継がれてきた「福音理解」をパウロもまたそのまま受け継いだのである、と言うのであります。
その福音理解に基づいて、コリント教会の人々にキリストの福音を語って来た、とパウロは言っているのであります。
そのように言って、パウロがその後に語っておりますことは、
いわゆる「ケリュグマ」と言われる、初代教会が受け継いできた福音の「基本的な理解」であります。
3節後半でこう言っています。
「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました」と言っています。
最後の部分の、復活のキリストが500人以上の人々に同時に現れたということについては、それを明確に語っている聖書の記述はありません。
これに当てはまると推測できる聖書の個所の一つがマタイ福音書28章16節以下(新約59頁)、復活の主イエスが弟子たちに福音の「大宣教命令」を語っておられる個所であります。
16~17節にこのように記されています。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあります。
この、復活の主イエスが指示された山に登った時に、推測でありますが、11人の弟子たちの他に、500人以上の人々が集まっていて、(11人の弟子を含んだ)それらの人々に対して、主イエスが福音の「大宣教命令」を発せられた、と考えるのであります。
確かに、そのように考えることも可能ではないか、と思うのであります。
いずれにしても、パウロは、今日のⅠコリント15章3節以下で、「ケリュグマ」と言われる、初代教会が受け継いできた福音の「基本的理解」を述べているのですが、その中でパウロが強調していることは主イエスの復活顕現であります。
先程の言葉に続いて、7節以下でこう言っています。
「次いで、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました」と言って、復活された主イエスの復活顕現を強調しています。
そしてその後、15章全体を用いて、パウロは、復活の問題を論じているのであります。
つまり、パウロが「最も大切なこととして伝えた」福音の「説き方」として強調していることは、主イエスが復活して、使徒たちに現れただけでなく、500人以上もの人々に現れ、最後には「月足らずで生まれたような」パウロにまで現れた、と言って、復活の主イエスの復活顕現を強調しているのであります。
そして、この主イエスの復活顕現は、今も、聖霊のお働きの中で、信じる者一人一人に対して、行われている、ということであります。
このことが、福音の「説き方」の「最も大切なこと」としてパウロが強調したかったことではないでしょうか。
このことに関連して、思い出させられる聖書の個所があります。
それは、Ⅰコリント2章1節以下(295頁)であります。
そこで、このように言っています。
「きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と言っています。
最後の所で「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」と言っています。
「イエス・キリスト」と言い、それを言い換えて「それも十字架につけられたキリスト」と言っているのであります。
つまり、単に「イエス・キリスト」を信じる、というのではなく、「十字架につけられたキリスト」を信じる、と言うことが大切であるというのであります。
それ故に「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言うのであります。
ここに、パウロの福音の「説き方」の「要点」が示されている、と思うのであります。
「十字架につけられたキリスト」とは、十字架につけられ、復活し、天に上り、父なる神の右に座し、そこから、聖霊の働きの中で、信じる一人一人の魂の内に(罪を赦しつつ)生きて働き給うキリスト、ということであります。
そういうキリスト以外「何も知るまいと心に決めた」とパウロは言っているのであります。
言い換えれば、「そういうキリスト」を信じるのでなければ、キリストの命に与って真に「救われる」ことができない、ということであります。
そのように生きて働き給うキリストを信じて、そのキリストに自分を委ねることによって、キリストの復活の命に与り、罪清められた者として生かされる、そのようにして初めて、キリストによって「救われる」のであります。
そういう信じ方でなければ、キリストの命に与って「救われる」ことができない、とパウロは言うのであります。
先程の15章3節でパウロが「最も大切なこととして」コリント教会の人々に伝えた福音理解とは、このことである、と言うことができると思うのです。
単に「イエス・キリストを信じる」というだけではダメなのであります。
それでは、イエス・キリストについて様々な信じ方が可能になってしまうからであります。
様々な信じ方があってもいいのではないか、とにかく「イエス・キリスト」を信じるのであれば、それでいいのではないか、と私たちは思うのであります。
しかし、様々な信じ方をするということは、結局、自分の理解、自分の考えに従って「イエス・キリスト」を信じることになり、自分中心の信じ方になるのではないでしょうか。
しかし、自分中心の信じ方は、自分を中心にして信じるのですから、
生けるキリストに自分を委ね、生けるキリストの命に与って、キリストによって新しく生かされる信仰とは違うものになってしまうのではないでしょうか。
そういう信じ方では、キリストによって「救われる」ことができない、とパウロは言うのであります。
当時のコリント教会には、「党派争い」がありました。
「私はパウロに付く」「私はアポロに付く」「私はケファに」「私はキリストに」と言って、党派争いをしていたことが、1章10節以下に記されています。
そのような「党派争い」が起こるのは、互いに自分中心にキリストを信じているからであります。
自分はこのように信じる、と互いに「自分の信じ方」を主張し合うからであります。
そこから「党派争い」が生まれてくるのであります。
具体的には、「私はパウロの福音の説き方がいい」「私はアポロの説き方がいい」「私はケファの説き方がいい」と言って、主張し合うからであります。
「私はキリストに」というのは、キリストを一人の信仰の指導者と考えるから、そういう言い方になるのでありましょう。
いずれにしても、ただ「イエス・キリストを信じる」というだけではいろいろな信じ方が可能になり、そこから果てしのない「党派争い」が生まれて来るのであります。
今日の教団・教区で起こっている争いも、根本にはこの問題があるのではないでしょうか。
皆「イエス・キリスト」を信じているのであります。
ただ、信じ方が違うために、意見の対立が起こるのであります。
しかし、イエス・キリストを信じる「正しい」信じ方は、唯一つであります。
それは、十字架にかかり、復活し、今も、聖霊において生きて働き給うキリストを信じることであります。
そのキリストに自分を委ね、そのキリストの命に与って清められつつ生かされることであります。
それが、イエス・キリストを信じる「唯一つ」の信じ方ではないでしょうか。
この信仰理解に生きることによって、初めて教会の真の一致が得られると思うのであります。
それ故に、パウロは「自分がどんな言葉で福音を語って来たか」その福音の「語り方」、「説き方」をしっかり心に留め、私の福音の「説き方」に従って、キリストを信じて欲しい、と言うのであります。
それによって、キリストの命に豊かに生かされるものであって欲しい、とパウロはコリント教会の人々に訴えているのであります。
今日のⅠコリント15章8節で「最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました」と言って、パウロは自分のことを「月足らずで生まれたような私」と言っています。
その理由として、9節で「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。
パウロは、「使徒」として召される前は、あろうことかキリスト教徒を迫害する者でありました。
それにもかかわらず、キリストはパウロを「使徒」として選んでくださったのであります。
それ故に「月足らずで生まれたような私」と言っているのであります。
しかし、そういう者でありながら、10節後半で「私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました」と言うのであります。
なぜ、パウロは「他の使徒たちの誰よりも多く」働くことができたのでしょうか。
それは、パウロにキリスト教徒迫害という過去があったからではないでしょうか。
パウロは、かつてはキリスト教徒を憎んでいたのであります。
いや、主イエスのことが、全く分かっていなかったのです。
「イエスは間違っている、神を冒涜している、だから、十字架に付けられて当然である」とパウロは心の底から思っていたのです。
そのパウロが、突然、岩壁に突き当たるように復活のキリストと出会った、いや、出会わせられたのであります。
そしてパウロの頭に鉄槌が下されるように、復活のキリストの正しさ、真実が示されたのであります。
そのことによって、パウロは、今までの自分の考えが全く誤っていたことを思い知らされたのであります。
キリスト教徒を迫害するくらいですから、パウロは自分の考えに絶対的な自信を持っていたのであります。
自分は正しいと信じ切っていたから、キリスト教徒を迫害し、獄に投じ、死に至らしめることに、何のためらいもなかったのです。
その自分が完全に間違っていたことを、復活の主との出会いによって思い知らされた時、パウロの自分に対する自信は完全に崩れ去ったのであります。
その時、パウロに示されたことは、キリストの十字架の限りない罪の赦しの恵みでありました。
パウロにとって決定的であったことは、罪のただ中にある自分のような者に、復活のキリストが臨んでくださったことでありました。
棄てられて当然のパウロを、復活の主は、お見捨てにならなかったのです。
その事実が示された時、パウロは、心砕かれ、心の底からキリストを信じる者となったのであります。
そして罪深い自分の全てをキリストに委ねることによって、キリストの命に与って新しく生かされる者となったのであります。
その結果として、パウロは「他の使徒たちよりも多く働く」ことができたのであります。
10節で「私に与えられた神の恵みは無駄にならず」と言っています。
パウロに与えられた神の恵みが無駄にならなかったのは、パウロが神の恵みに対して従順であったからであります。
いや、従順にならざるを得なかったのです。
神の恵みに対して従順にならず、自分の思いによって生きようとすれば、必ず罪が働き、かつての自分のように「罪の奴隷」となることを、
パウロはよく知っていたからであります。
キリスト教徒を迫害する者であったというかつての苦い経験が、神の恵みから離れないようにパウロを守ったのであります。
その結果として、パウロは神の恵みを無駄にすることなく、他の使徒たちよりも多く働くことができたのであります。
11節で「私にしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」と言っています。
パウロが宣べ伝える福音は、決してパウロ独自の福音ではありませでした。代々の教会が宣べ伝えてきた福音であります。
それは、十字架にかかり、葬られ、三日目に神の全能の御力によって復活されたキリストが、今も(罪を赦しつつ)聖霊において生きて働き給うことを信じ、そのキリストの命に与って救われる福音であります。
これが、パウロが「最も大切なこととして伝えた福音」であります。
キリストは、今も、聖霊において生きて働き給う御方であります。
この御方によって、私たちも、日々新しく生かされるものでありたいと願うものであります。