友よ
マタイによる福音書 第20章1-16節
柳沼 大輝

主日礼拝
主イエスがお語りになった「ぶどう園の労働者」のたとえは、実に難解な聖書の箇所であります。すぐに分かった、理解できたといったような箇所ではありません。ある説教者はこの箇所を取り上げて「このたとえ話はときに聖書を読む者の躓きになる」と言いました。事実、そうかもしれません。この箇所を読んで、納得できない、腑に落ちないといった感想を持ったことがあるという方はけっして少なくないと思います。
それではどうして私たちはこの箇所に「納得」できないのでしょうか。どうして神の言葉として、素直に受け止めることができないのでしょうか。それは自分自身、心のどこかで神が自分のことを「正当」に扱ってくれていないと感じているからでないでしょうか。
私はテレビドラマが好きで、最近も毎週、欠かさずに見ているものがいくつかあります。その中に「学校の先生」を主人公にしたものがあります。そこにはお決まりのように「悪役」の教師も出て来るのですが、その教師が何故、皆から嫌われているのか。それは何も性格が悪い、教えが厳しいといっただけではなくて、そこには生徒によって対応を変える、つまり「差別」するという側面があります。そういった教師の偏った態度を見ると私たちも主人公たちに感情移入し、怒りが湧いてきます。それは人を「平等に」「正当に」扱わない者への怒りであります。そんな怒りを不満を、私たちは本日の箇所に登場するこのぶどう園の主人にも同じようにぶつけてはいないでしょうか。
このたとえの設定はこうであります。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行ったと言います。冒頭にあるように「天の国」のたとえですから、この家の主人は言うまでもなく「神」をたとえています。そして「ぶどう園」は「天の国」と言えるかもしれない。それでは、この主人に雇われてぶどう園にやって来た「労働者」とはいったい誰でありましょうか。それがこのたとえを理解する鍵であります。
神である主人は、夜明けに広場へと出かけて行きました。それは何故かと言うと、広場にいる労働者を雇うためであります。広場に集まっている者たちはいわば日雇い労働者であります。奴隷でもない限り、これがこの当時の人を雇う、労働のやり方でありました。ですから、ここに出て来る労働者は、皆「共通」の労働者です。何が共通かというと、皆「日雇い労働者」という点で共通であります。そのような労働者を雇うために主人は、夜明けとともに広場へと出て行ったのです。
ここで何故「夜明けとともに」かというと当時の労働時間が反映しています。当時の労働時間は日の出から日の入りまでありました。勿論、時間はずれますけれども、現代の感覚で言うと、朝六時から夕方六時までの十二時間労働であります。一見、過重労働に思えますが、これが当時の一般的な労働時間でありました。
そして主人は最初に「夜明けとともに」つまり朝六時から雇う者たちと「一日につき一デナリオン」の約束を結び、ぶどう園へと送り出しました。当時、一家が一日過ごすのに必要なお金は「一デナリオン」でありました。つまり「一デナリオン」というのは、当時の一家庭がパンを食べていく、生活していくお金として見合っている金額なのです。ですからこの六時に雇われた労働者たちは妥当な金額で、正当な契約を交わしたうえで働き始めたのです。日雇い労働者である彼らに「不満」などありません。「正当な」報酬が約束されているわけですから、今日は働くことができてよかった、今日は食事にありつける、そんな喜びを持って、納得して労働に勤しんでいたわけであります。後で見るように「暑い」だの「辛抱した」だのといった「不平」「不満」は最初はなかったのです。もし最初からあったとしたら初めにもっと賃金を上げてくれと交渉していたに違いありません。
それでこの物語が終わればよいのですが、何を思ったのかこの主人、また九時にも広場に出かけて行って、そこで何もしないで立っている者たちに「それなりの賃金を払うから」と声をかけて、またぶどう園へと送り出しました。ここで何故、主人は九時にも広場に出て行ったのか。このことについて様々に議論する者たちがいます。ちょうどぶどうの収穫時期で繁忙期であったのだとかいう者もいます。たしかにそうなのかもしれません。しかしこの解釈では、午後三時などというのには疑問符が付きます。それならもっと早い時間にもっと多くの労働者を雇えばよいではないか。もしてや午後五時など意味が分かりません。
しかし最初に雇われた者たちと後から雇われた者たちとでは大きな違いがあります。それは、最初は「一日につき一デナリオン」という正規の約束を交わしたのに対して、後の者たちには明確な約束が示されていないということであります。午後五時の者たちに至ってはただ「行け」とだけ言われているのであります。そこで働いていくらもらえるのか、それは払う主人側の「善意」に掛かっています。ここにあるのは「正当な」約束というよりもただの「口約束」であります。
それでは何故、この主人は何度も何度も、最後、午後五時にまでわざわざ広場に出て行ったのでしょうか。それは少し不遜な言い方をしますが、この主人の「気まぐれ」であります。気まぐれでなかったとしたらこんなことする必要などないのです。そしてこれは言い方を変えれば、神が主権者、主人が主権者であるということであります。要するに、神は何にも捕らわれない方なのです。神は自由なのです。何にも捕らわれないところに自由があります。この主人はただ広場に行きたかったから行ったのです。そこにいた者たちをただ雇いたかったから雇ったのです。そこに私たちが考えるような損得勘定はありません。一時間だけ雇うなどそんなの効率が悪いとつまらないことを考えるような主人ではないのであります。ここにお金に捕らわれ、誰かからの評価に捕らわれ「不自由」になっている私たちとはまるで正反対な主人の姿があります。神の自由があります。
だからこそ神である主人は日が沈みかけた午後五時にも広場に出かけて行ったのです。そこで立っている者たちにも声をかけたのです。しかしここで彼らにかけた言葉は、主権者である主人だからこそ、気まぐれで、自由である神だからこそ語りかけることのできた言葉であったと思います。少なくとも私はこのような言葉をこの者たちにかけることはできないと思います。どうしても憚ってしまうと思うのです。
「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。答えはそんなの一目瞭然なのです。日雇い労働者であります。見たからに元気がある、賢そうだと思われれば、誰かしらからすでに雇われているはずであります。雇われずにずっと夕方まで立っている。つまり、それは見た目で、いまこの人を雇うのは止めておこうという弱さを抱えていたということであります。怪我かもしれない。病気であったのかもしれない。働くには高齢であったのかもしれない。そのように働きたくても働けない者たちであった。そのようなもう立ちすくむしかない者たちに主人は、神は語りかける。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。一見、心無い言葉に聞こえます。しかし何にも捕らわれない方だから、自由な方だからこのような言葉が言えるのであります。
そして彼らは答える。「誰も雇ってくれないのです」。心打たれる言葉であります。「誰も自分を必要としてくれないのです」「誰も働くに足る者だとは見てくれないのです」「誰も声をかけてくれなかった」「誰も相手にしてくれなかった」。そのような思いがこの言葉に込められています。
それでも彼らは帰れないのです。帰りたくても帰れない。それは何故か。家には、お腹を空かせて自分の帰りを待っている子どもがいるのかもしれない。一日のパンをそこで望んでいる家族がいるのかもしれない。だから彼らは帰れない…。
そんな憂いを抱え、寂しさを抱え、立っている者たちに主人は声をかける。そこでなおプライドがあったら怒っていたでしょう。「そんなの見たら分かるだろう!」と怒鳴っていたかもしれない。しかし彼らは怒らない。何故なら、もうプライドどころではないからであります。誰も声をかけてくれなかったのです。でもこの主人は声をかけてくれた。この気まぐれな主人、捕らわれない主人が声をかけてくれたのです。心無い言葉であったかもしれない。私たちの感覚ではそのように感じてしまうかもしれない。しかし誰からも役に立つと言われず、必要とされずに、ただ立ちすくむしかなかった者たちにとって、この主人が声をかけてくれたことは、この主人と会話を交わしたことはどれだけ大きな幸いであったことでしょうか。
そして主人は彼らに言います。「あなたがたもぶどう園に行きなさい」。もうここでは賃金の話などありません。しようがありません。しかし、彼らは喜んで行ったと思います。人間にとって一番、苦しいことは働けないことであります。働きたくても働けない。誰の役にも立てない。そう思うと、自分はまるで価値がない存在だと思って空しくなるのです。まさに広場に立っていた者たちはそのような空しさのなかにありました。だからたった一時間かもしれない、何の報酬もないかもしれない、それでも一時間働けるということは、そこに生きている恵みを見出すことができるという意味で、まさに喜びでありました。そこに報酬への期待などありません。もうすでに、声をかけられて、その存在の価値を見出してもらったという大きな喜びが事実、そこにあるのであります。
そしてここからがこの主人のなかなか私たちには理解しがたい部分であります。もし主イエスがいかほど神が憐れみ深い方であるのかだけを伝えるためにこのたとえを話されたのであれば、主人の賃金の渡す順番を反対にされたことでしょう。最初の者から払ったはずです。もし最初の者から払っていたとしたら、彼らは約束されていた通り一デナリオンを受け取って、一日働いた「正当」な対価をもらったと喜んで帰って行ったでありましょう。続く者たちも少し多くもらえた、あるいは、半日なのに一日分の賃金をもらえた、午後三時の者にしたら存外の喜びを抱いて、ああなんてこの人は憐れみ深い方だろうと主人のことを称賛したでありましょう。そうやって、神の憐れみ深さを伝えることができたでしょう。もしそうであれば、私たちも躓かずに済むでしょう。
ところがこの主人はそうではないのです。逆に最後の者から支払えと管理人に言うのです。そうであれば、最後に賃金を受け取ることになる最初に雇われた者たちはもっと多くもらえるだろうと期待するに決まっています。ここに人間の神の憐れみに対する罪が明らかにされます。「嫉妬」という罪です。主イエスはこのたとえによってそのような私たち人間の罪を明らかにするのです。最初に雇われた者たちは自分たちより先に賃金を受け取った者たちを見て、これしか働いていない者たちですらこんなにもらえるのだから自分たちはもっともらえるに違いないと勝手に期待しました。しかし他の者たちと同じように自分たちにも「一デナリオン」支払われたとき、彼らは「不平」を言い出しました。何故、不平を言ったのか。それは自分と他者を比べたからであります。比べるところに人間の罪があります。初めに言ったように働き出したときは「辛い」なんて思っていなかったのです。むしろこれで一日生きていけると喜んで働いていたのであります。しかし彼らは比べてしまった途端に喜べなくなりました。
そこで彼らは主人にこのように不平を言いました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは」。さて、彼らのこの不平は妥当であると言えるでしょうか。
まず、第一に前提があります。皆、同じ日雇い労働者であります。簡単に言うと、日雇い「仲間」なのです。別の存在ではありません。彼らは同じ経験をし、同じ悲哀を味わってきた者たちなのです。その者たちが、同じ日雇い仲間を、同じ痛み、苦しみ、悲しみ、空しさを知っているはずの仲間のことを「仲間」とは言わず「連中」と呼んでいる。まさに蔑むように「役に立たないこの連中とどうして自分たちを同じく扱うのだ」と不満を言っている。これはとても激しい言葉です。
私は本当はこの最初に雇われた者たちはこう言ってよかったのだと思うのです。「あなたはなんと憐れみ深い。彼らに代わって感謝します。私たちの仲間を顧みてくださってありがとうございます。病気で雇われずにそこに立っていたことが私にもあります。怪我をして相手にされなかったことが私にもあります。だから雇われずに夕方まで立っていたこの者たちは私たちの仲間です。彼らは昨日の私の姿であり、怪我をするかもしれない、病気になるかもしれない、年老いて相手にされなくなるということも起こる、そういう明日の私の姿でもあります。そんな私の仲間を憐れんでくださって感謝します。ありがとうございます。」彼らはそう言うべきはずの者たちでありました。いや、そう言えるはずなのです。しかしそう言えない。自分たちと彼らを比べて、不平を言い出し、「仲間」と言わずに「この連中」と呼ぶ。
しかしそんな者たちに向かって主人は言うのです。「友よ」。「友」を「友」とすることができなかった連中、それこそ「この連中」に神はなんと「友よ」と言う。「なんて心無い奴らなんだ」「この一日立っていた者たちの悲しみが分からないのか、それはお前たちの悲しみだ」とは言われないのです。そうは言わずに「友よ」と言われる。それは何故でしょうか。答えはその後にあります。「あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか」。この主人は、約束を執行したのです。そのまま約束を行ったのです。だから「友」なのです。最初に申し上げたように主人は彼らと「正当な」労働契約、約束を結んだのです。それは「対等な」労働契約ということであります。「対等な」者として、最後まで扱う。ここでもし彼らだけに「二デナリオン」支払ったとしたら、それはもはや「友」ではありません。それこそ人によって対応を変える、「差別」する教師と何も変わらない。それでは「対等な」関係とは言えないのです。最後まで、約束を守り、最後まで「対等な」存在として重んじてくださる。大切にその存在を扱ってくださる。それがこの「友よ」という言葉に込められています。それが彼らにとっての「一デナリオン」であります。この「一デナリオン」は、憐れみではありません。彼らにとっての「一デナリオン」は、まさに彼らの「正当な」報酬なのです。そして彼らのその権利、その在り方をこの主人は認めてくれた。良しとしてくれた。彼らに与えられている憐れみは何か。そうです。「対等な」者としてどこまでも扱う、「友」をも「友」としない者を、それでも「友」として扱ってくださるということが彼らに与えられている恵みなのであります。
しかしそれに留まりません。もっと大切なことがあります。最初に雇われた者たち、彼らは「正当な」約束のもとにあります。約束があるということはどういうことか。現代の契約概念で考えてもいいかもしれません。約束があるということは、そこに「保証」があるということなのです。彼らは「一デナリオン」もらえるという「保証」を受けたうえで一日、働いたのです。保証されていたから守られ、安心して一日を過ごすことができたのです。後から雇われた者たちには与えられていなかった「保証」が彼らには与えられていました。「口約束」ではありません。たしかな「約束」がありました。だからこそ彼らは、最初、不平などなかった。喜んで働くことができた。まさに保証があるから、そこに「平安」があるのであります。
実はここに「キリスト者」であることの恵みが語られています。キリスト者であるということはどういうことか。それは「保証」を与えられているということなのです。主イエス・キリストの十字架、それによる贖い、信じる者に与えられる、永遠の命、このまさに神の「約束」、「あなたの罪は赦された」「あなたは私のもの」「あなたは永遠の命に生きる」という約束を与えられている。それはつまり神から「保証」を与えられているということなのです。「救い」の保証です。信じる者は死んで後、永遠の命に生きるのです。お金の保証ではありません。命の保証です。それが「洗礼」を受けて、主に結ばれた者、つまりキリスト者に与えられている恵みなのであります。自分がこれからどのように死ぬかは分からない。野垂れ死ぬかもしれない。明日、不慮の事故で死ぬかもしれない。苦しみながら死んでいくのかもしれない。それでもたしかな保証がある。永遠の命に生きるのだという保証があるのです。だからどんなにいま、惨めに思えても、空しく感じても、それでも主に救われた者は「喜んで」生きていくことができる。何故ならそこに「保証」があるからです。「友よ」と呼び、「あなたは私のものだ」と言ってくださる神の「約束」があるからです。
先週、ここで洗礼を受けた「仲間」も、病床で洗礼を受けた「仲間」も、まさにこの神の「約束」のもとにあり、たしかな「保証」を与えられた者たちであります。もはや何かに捕らわれ、苦しむ必要はない。死をも恐れる必要はない。主は真実な方ですから、その約束は必ず実現する。新しく洗礼を受けられた者たちだけではない。ここにいる私たちもそうであります。不確かな人生かもしれない。また立ちすくむしかいない日があるかもしれない。それでも私には主がいる。約束がある。たしかな保証がある。だから安心して「喜んで」自分の人生をこの主と共に歩んでいきたいのであります。主に声をかけられ、救われた者として、主に「友よ」と呼ばれた者として、私の主であるあなたについて行くことができますように。
後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。先にあるものは私たちの思いではなく、神よ、あなたの憐れみであります。あなたの自由な憐れみにより私たちは罪赦され、救われました。また先週、先月とここで病床で、洗礼入会式の時を持つことができました。主よ、私たちの仲間を顧みてくださってありがとうございます。しかし私たちは実に弱い者であります。すぐに邪な思いに捕らわれ、「友」を「友」とできなくなるのです。主よ、憐れんでください。主よ、お支えください。私たちは揺らぐとも、主よ、あなたは真実な方であります。いま、私たちに与えられているたしかな恵みを受け取って、またここから立ち上がらせてください。この願いと感謝、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン