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光からの光

2021年3月28日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第8章12-20節

主日礼拝

「わたしは世の光である」(8:12)と主イエスは言われました。
「わたしは世の光である」。
このお言葉に、どれほど多くの人が救われてきたことでしょうか。暗い中に、押し黙っているときに、光が来て、光が、自分の光になってくださった。

主は何度もわたしは〇〇であるということを言われましたが、その中でもこれはよほど重要なことだったのです。それでヨハネ福音書の第一章は初めから、この方を光と申しました。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(1:4)そして
「光は暗闇の中で輝いている。」(1:5)しかし「暗闇は光を理解しなかった。」(1:5)

暗闇というのは、この世にあるもので、神に逆らおうとするものであります。神など知らないと言い張るものなのです。私どもはそれに押し込まれることもありますし、好んで居つくこともあるのです。でもそこに光がやって来て、いつも神のもとに連れ帰してくださいます。

もうずいぶん前になります。教会学校の夏期学校という子どもたちのキャンプで、この「わたしは世の光である」という御言葉がテーマになったことがありました。そこでは最終日の夜、キャンプファイヤーをするのですが、木々に囲まれて、懐中電灯がなければ、足元もおぼつかないような暗いところで、薪で組まれた火を真ん中にして、子どもたちは歌ったり、踊ったり、また静かになって聖書の話を聞いたりするのです。
子どもたちにとっては、キャンプも終盤で、昼は楽しく遊びますが、それが夜になって、急に寂しくなって、ホームシックになったりして、その夜の怖さといいますか、不安がざわっとこみあげるときでもあります。そんな中で、そのときは、静かな時間の担当を私がさせていただきました。そこでこういう話をしたのです。その一年前に、東北で大きな地震があって、その夏にこの鎌倉では計画停電というものがありました。節電のために、この時間になったら、数時間電気が止まりますということが、言われるようになり、我が家もその対象となったのです。あるときは夜、停電になり、すると自分でも驚きました。

電気が消えると、ほんとうに真っ暗になり、家の中でも手探りで歩いて、それでも柱にぶつかったりしました。その時は月も見えず、家の外の自動販売機や、信号なども消えたので、電気がなければ、夜はこんなに暗かったんだと、思ったのを思い出します。
そのときはたまたま家で一人だったので、電気がないと何もできず、することがなくなってしまいました。それで一人でぽつんとテーブルの前に座っていました。することがないというのは、周りの家もそうだったようで、夜の七時なのに、周りも静まり返りました。すると、とてもこわくなりました。余震がまたいつ起こるか、それから、将来、「これから、日本はどうなってしまうんだろう」と、たぶんそういうことを考えて、心臓が震えました。それで、私は居たたまれなくなって、ろうそくを持ってきて火をつけることにしました。
ろうそくに火が灯りました。するとろうそくの火は暗闇の中で、まっすぐに立って、周りを照らしました。その光を見つめるとすぐに思いました。イエスさまみたいだ。それでやっと自分の手が見えて、気が付くと両手をぎゅっと結んでいました。
「神様」。
そう呼んでいました。そのあとは、あまり言葉になりませんでした。でも祈りをしたのを覚えています。

「命は人間を照らす光であった。」(1:4)光が、神様のことを知らせてくれたのです。そんな話をキャンプファイヤーでいたしました。

古代教会の信条であるニカイア信条は、その光のことをこう告白しています。
この方は「神の神、光よりの光、真の神よりの真の神」。
この方は父なる神の独り子であり、光から生まれた光。
この方は光から生まれた光、光の中の光。

その光をとおしてしか、私どもは神様のことを知ることはだれにもできませんし、光から生まれた光だからこそ、この世を、ほんとうにお救いになれるのです。

そしてそのために、光が、この世の一部になられたのであります。そしてむしろ、この世が、光をもつようになったのであります。
でも、この世は光を受け入れませんでした。

この光は、明らかに異質で、この世にとっては、嘘だろという存在だったのです。ですから今日のところでも、主イエスのこのお言葉を聞いたユダヤ人たちは言いました。あなたが言っていることはほんとうか。「あなたが言っていることは真実ではない。」そうやってこの世は、光を信じませんでした。受け入れないし、理解しない。苛立つ存在で、消したい存在であったのです。だから光が闇の中に鋭く入られると、この世は光の言葉がまったくわからず、その結果、世が光を殺そうとするということでこの対話は終わります。
でも主イエスはそこでおっしゃいました。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)

それでそのキャンプのときには、自分の子どもの頃の話もいたしました。まだ私が幼い頃のことです。自分をいじめる子がいて、私はその子のことが好きだったのですが、いま思うとその子も私のことを好きだったと思うのですが、でもその毎日が悲しくて、その子がほんとうに自分のことを憎んでいるんじゃないかと思いつめて、やはり自分一人で家にいたときに、こんなことを考えたのです。いま自分が死んだらどうなるだろう。きれいごとではなくて、その子のためにも自分はいなくなったほうがいいんじゃないかと本気で思って、それで自分のお葬式を想像したのです。そうしたら、そのお葬式にその子がいて、その子が泣いていた。
それで私はハッとして、考えるのを止めました。そして同時に、すぐそばに、主イエスがおられると思いました。主イエスが私のそばに、黙って、おいでになって、座っていらして、私も黙りました。幼いながらに、罪というものを初めて知った瞬間でした。自分がだれかにされたことに、仕返ししようとしたこと。しかも、自分の命を使ってそういうことを考えた自分が、みじめでした。でもそんな思いに、主イエスが黙ってそばにいてくださいました。
オカルト的なことを言っているのではなくて、ただ現に、それが幼い子が罪から脱出した瞬間だったのです。罪から引き返せた瞬間でした。子どもでさえ、そういう闇というものはあって、その闇に吸い込まれそうになるときに、主は救いに来てくださるんだと。そうやって主が、自分の闇の中に入ってきてくださったと、そのような話をキャンプでいたしました。

ずいぶん暗い話をしたので、心配になりましたが、子どもたちはキャンプファイヤーの火を見つめてよく聴いていてくれて、そうしましたら、少々、それは子どもたちにも伝わったらしく、翌朝ある一人の女の子が、作文に、あのキャンプファイヤーの話が心に残ったといってくれました。何が残ったのかというと、そこは端折ってあり、でもすぐこう書いてありました。「光の子になりたいと思った。」

「光の子」というのは、そのキャンプの副題で、テーマの「わたしは世の光である」に付随して、教会学校の先生方がエフェソ書から取ったものでした。そこには「光の子として歩む」(エフェソ5:8)という御言葉があり、それは主イエスが「わたしは世の光である」と言われたすぐあとに、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)と、言われたので、それに従ったのです。その子は、その主イエスのあなたは「わたしという命の光を持つ」という言葉を、そのように受け取ったのだと思いました。
光の子になりたい。光の子で歩いていきたい。

それはヨハネ福音書の第一章でいうなら、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1:12)というのと同じで、主は、「わたしに従う者は」と言われましたので、従うとは信じることなので、主はその人々には神の子となる資格をお与えになると、そう理解してよいのです。この光からの光を信じた人は、光の子で、神の子なのです。

ある人が、この光のみわざについてこのように言いました。光のみわざは、
啓示、和解、救済である。
啓示は、神様を教えてくれる。
和解は贖い。罪のゆるし。罪から脱出させてくれる。
そして救済は、将来。夜が明けて、終わりの日に救いを完成してくれる。

そのキャンプファイヤーのあとで、子どもたちは、それぞれ、自分で作った透明のランタンに灯を入れて、そして真っ暗な道を、その光を携えて自分たちの部屋に帰りました。
「光の子になりたい」。そう思って、帰ったのです。

「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
今この世は終わりの日に向けて、まだ夜ですが、それはやがて明けます。その道を、私どもは、この命の光を持って、歩いてゆくのです。

受難週に入ります。歴史上、世界が、もっとも暗くなった一週間であります。
先ほどヨハネ福音書の第一章五節を引用しました。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
この「理解しなかった」というのは、昔の口語訳聖書では「勝たなかった」と訳されていました。「闇は光に勝たなかった」。そして新しく出ました聖書協会共同訳も同じくこれを、「闇は光に勝たなかった」としています。暗闇は、光を憎みましたが、暗闇は光に勝つことはできなかったのであります。

あの、十字架のとき、ゴルゴタの丘は昼なのに真っ暗になりました。
それは神がなさったのです。
この世の闇をも、覆う審きが、あのとき下ったのです。
そして光は十字架にかかり、消えて

しかし、爆発的によみがえらされ、
まっしろに、光を放ち、世界は変わったのです。

闇は光に勝たなかった。

だからどんな闇も、恐れも不安も、罪も、そして死も、どんな闇にも
私ども、この光を持つ者は、口をそろえてこう言うことができるのです。

闇よ、おまえの負けだ。

 

父なる神様
命の光に生かしてください。どのようなときにも、その光を持つ者としてください。そして光に従って、あなたの御国に向かって力強く歩ませてくださいますように。
主の御名により祈り願います。

アーメン

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