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最後に残る歌

2021年10月17日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第18章21節−第19章10節

主日礼拝

■少し妙な話題から話を始めさせていただきますけれども、先日、北鎌倉女子学園の中学2年生という人から教会に電話があって、「今度教会を訪問させていただいて、教会の代表者(つまり私)にインタビューをさせてほしい」というのです。どうも学校の授業の一環としてそういうことを生徒にさせているらしい。最初の予定では一昨日の金曜日にそのインタビューを受ける予定だったのですが、先方の都合で来週に延期になりました。そういうわけで、まだ何度か電話でやりとりをしただけなのですが、最近の中学生というのは(もちろん学校の指導もあるのでしょうが)ずいぶん立派な受け答えができるんだなと、妙に感心してしまいました。

そのインタビューの内容というのが、「宗教はコロナ禍とどう向き合っているか」。ちなみに、この北鎌倉女子学園というのはミッションスクールではないのですが、面白いところに目をつけると思いました。そして私自身、そのようなことをまだあまり深く考えていないことに気づかされました。

「宗教は」というよりも、この場所では「われわれ教会は」と言った方がよいでしょう。たとえば、この鎌倉雪ノ下教会は、コロナ禍とどう向き合ってきたでしょうか。たくさんのことを数えることができます。礼拝堂内にいわゆる〈密〉が生じないよう、いろんな工夫をしました。もちろん入口では手指を消毒していただいています。あと、礼拝のライブ配信を始めました。それも見ることのできない信者さんのために、説教の原稿を郵送しています。……なんてことを紹介したって、中学生たちからしたら、「そんなんじゃ、宿題が書けません」ということになるだろうと思います。しかし考えてみると、「教会はコロナ禍とどう向き合ってきたか」、そう問われてもあまり芳しい答えを用意できていない一方で、私どもがこの一年半以上、たいへんな力を注いできたことと言えば、教会堂での感染対策とか、それでも教会堂に来られない仲間のための配慮とか、そういうことでしかないのです。

いったい、中学生たちに何を話せばいいんだろうか。「宗教は」という、実は私がほとんど使ったことのない言葉を中学生の口から聞いたとき、私がまず考えたことは、他宗教の皆さんはどうしているのかなあ、ということです。しかしそこでふと気づかされたことは、礼拝のライブ配信がどうとか、地区によって礼拝出席を制限するとか、それは結局、私どもの教会が「毎週、集まる」ということをしているから問題になるのであって、もし私どもが「礼拝に、集まる」ということを大切にしていなかったら、コロナがあろうがなかろうが、私どもの教会は、一ミリも影響を受けなかったかもしれないのです。

けれども私どもは、今日もここに集まって、礼拝をしています。今日ここに来ることができない方たちも多いわけですが、それは、本当はこの礼拝堂に集まりたいのに、それができないことを悲しみながら、そうしているだけのことです。なぜ、私どもは、そこまでして礼拝を続けるのでしょうか。「鎌倉雪ノ下教会は、コロナ禍とどう向き合っているのですか」。そう問われたら、実は私どもはひとつの答えしか持っていないので、「特別なことは何もしておりません。けれども私たちは、それでも、神を礼拝し続けています」。まあね、中学生を相手にするときには、もう少し違った話し方をしなければならないでしょうけれども……。

■今日もいつものように、ヨハネの黙示録を読みました。黙示録を読むときに、いつも私どもが記憶していなければならないことは、ここでヨハネが見せていただいた幻は、主の日の礼拝の中で与えられたものだということです。第1章の10節までさかのぼると、そこに「ある主の日のこと」と書いてあります。主の日、日曜日であります。ヨハネは、事情があってパトモスという島におりました。黙示録を読んでおりますと、当時の教会は既に殉教者を生んでいたことが分かりますから、ヨハネもまた、政治犯としてパトモスの島に流されていたのかもしれませんし、あるいは自ら亡命していたのかもしれません。そのパトモスという小島にあって、ヨハネはひとりで礼拝を続けていたのか、それとも少数といえども礼拝の仲間が与えられていたのか、それも本当のところはよく分かりません。

そのような主の日の礼拝の中で、ヨハネは不思議な幻を見ました。たいへん豊かな、また激しい内容を持つ幻であって、それを私どもは既に1年近く学び続けているのです。とりわけ今日読みました第18章、そして第19章は、ヨハネにたいへんな衝撃を与えたことだろうと思います。第18章の2節に、「倒れた、大バビロンが倒れた」と書いてあります。当時、とてつもない権勢を誇っていたローマ帝国、その豊かさが一点に集中しているような都ローマの繁栄の姿が、大バビロン、また大淫婦と呼ばれる一人の女の姿でヨハネの前に現れ、けれどもその麗しさが、一瞬のうちに火の海の中に消えていくというのです。そこで主題となっていることは明確であって、富であります。豊かさであります。その豊かさが第18章7節の最後のところでは、「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない」という傲慢な発言をも生んでいます。そのような神に逆らう豊かさが、神に裁かれていく姿を、ここでヨハネは幻の内に見せられました。

今日読みました第18章の21節以下も、たいへん印象深いものがあります。「すると、ある力強い天使が、大きいひき臼のような石を取り上げ、それを海に投げ込んで……」。それはきっと、ものすごい音がしただろうと思います。その石臼が海に落ちる音を最後に、すべての音が消えてしまうと言うのです。

竪琴を弾く者の奏でる音、歌をうたう者の声、
笛を吹く者やラッパを鳴らす者の楽の音は、
もはや決してお前のうちには聞かれない。
あらゆる技術を身に着けた者たちもだれ一人、
もはや決してお前のうちには見られない。
ひき臼の音もまた、
もはや決してお前のうちには聞かれない。(22節)

豊かなローマの生活の中では、美しい音楽芸術が育っていたのでしょう。また盛んな産業や、それを支える高度な技術が都市生活を豊かにしていたのでしょう。それが全部静まり返る。虚無に服する。

ともし火の明かりも、
もはや決してお前のうちには輝かない。
花婿や花嫁の声も、
もはや決してお前のうちには聞かれない。(23節)

「ともし火の明かり」とありますが、古代のことですから、夜になっても明かりがついている都の姿というのは、まさしく豊かさの極みであって、「不夜城」なんて言葉がぴったりあてはまりますが、そのような都が闇に包まれるといいます。それどころか、「花婿や花嫁の声」、結婚に象徴されるような人間同士の愛の言葉さえ、海に投げ込まれた石臼のごとく、藻屑と消えていくというのです。

ここで改めて私どもは、はたと考えさせられます。いったい、私どもの人生の中心は何なのでしょうか。私どもが、そこに人生を賭けるべき最後の目標というのは、いったい何なのでしょうか。この第18章22節、23節に述べられている事柄は、「これがあるから、人生には価値があるのだ。これがあるから、私は自分の人生を愛することができるのだ」と私どもが考える、代表的なものでしょう。文化や芸術、学問、経済、産業、それどころか人間同士の愛の世界さえ、けれどもそれが結局海の藻屑と消えていくのだとするならば、いったいそのあとに、何が残るというのでしょうか。

■けれども、第19章に至って黙示録が語ることは、すべての音が消えた、私どものすべての生活が消え去ったそのあとに聞こえてきたのは、天地を覆い尽くすような礼拝の音、神をたたえる歌であったと言うのです。

コロナがあろうがなかろうが、私どもは、今もこのように、礼拝をしております。神を礼拝するということは、私どもにとって、生きることそのものであると、私どもはそのことを、もっと素直に認識してもよいのではないでしょうか。私どもの信仰の先輩である、改革者カルヴァンは、神を神としてあがめることこそ、人間の最高の幸福であると言いました。神を神としない人間は、既に野の獣よりもみじめであると言いました。人間にとっていちばん人間らしい行為は、神を礼拝することなのです。

ですから、黙示録を説く多くの人が、こういう言い方をします。いつか黙示録が預言した通り、主イエス・キリストがもう一度私どものところに来てくださって、天も地も新しくされたとき、そこでわれわれがすることは、礼拝以外の何ものでもない。今私どもは、週に一度、日曜日の朝に礼拝をする生活をしておりますが、天国に行ったら、一年中毎日24時間、ずっと神を礼拝し続けることになるだろう、ということです。しかし私は、実は既に高校生のときにそういう教会の教えに触れたときに、「なんか、やだな」と思いました。天国に行けないのも困るけど、天国に行ってもずーっと、礼拝以外のことは何もできないなんて、ちょっと厳しいなあ。かえって地獄の方がいろいろ刺激があって楽しそうだ、なんてことを考え始める方もあるかもしれません。

しかしそれは、礼拝というものをあまりに形式的に考えすぎるから、そういうおかしなことになるのです。こう考えてもよい。実は人間というのは、どうしたって、何かを拝まずにはおれない生き物なのだと思います。いみじくもヨハネはここで、思わず天使の足もとにひざまずきそうになって、「やめなさい」「神を礼拝せよ」と注意されてしまいましたが、私どもも実は、既に一年中毎日24時間、いろんなものを拝み続けていると思います。

主イエスは、「祈るときには、こう言いなさい」と言って、主の祈りを教えてくださいました。「父よ、あなたのみ名があがめられますように、あなたのみ国が来ますように、あなたのご意志が行われますように」。しかし私どもが実が一年中、大げさでなく毎日24時間、寝ても覚めても願っていることは、「わたしの名があがめられますように、皆がわたしの言うことを聞きますように、わたしの願いが実現しますように」。イエスさまに出会わなければ、私どもは永遠に自分自身を礼拝し続けていたかもしれない。はたから見れば、まさしく獣よりも悲惨であります。

そして、そういう私どもだからこそ、この黙示録第18章がたいへん厳しく書いているように、私どもはお金を拝むんです。豊かさを拝むんです。芸術を神とする。あるいは科学技術を神とする。あるいは結婚の喜びを神とする。けれども、その豊かさの内容が何であれ、それが神に成り代わるようなことになるならば、それは神に裁かれるほかないし、あのカルヴァンが言うように、そこに人間の本当の幸福は存在しないのであります。

■第18章23節の最後に、「また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ」という言葉がありました。この「魔術」というのは興味深い言葉で、原文のギリシア語をそのまま発音すると、ファルマケイアpharmakeiaといいます。英語にもファーマシーpharmacy(薬局)という言葉がありますが、そこから推測されるように、「魔術」という意味だけでなく、「薬」とか「毒」とか、あるいは「麻薬」という意味にもなります。

いったい、ここで言う麻薬とは何でしょうか。豊かさというのは、それ自体悪いものではありません。「毒にも薬にもならない」という慣用句がありますが、ちょうどその逆で、たとえば、ここにお金がある。100万円がある。それが「毒にも薬にもならない」なんてことはあり得ないので、まさしく薬にもなることもあるし、だからこそ毒にもなり得る。魔術的な力を持ち、麻薬のようにわれわれを狂わせることもあるのです。というよりも、黙示録が言う通り、「すべての国の民が」この麻薬に惑わされた。狂わされた。しかしヨハネの黙示録が伝えることは、その魔術に狂ったさまざまな音が神に裁かれ、沈黙させられた姿であります。なぜそういうことになったかというと、第18章の最後の24節によれば、「預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。豊かさの麻薬に狂ったこの都は、神の言葉を押し殺した。その報いとして、この都は沈黙の闇の内に落とされ、最後に残ったのは、永遠に神をたたえる礼拝の声であったと言うのです。

■ヨハネもまた、この天地を覆い包むような礼拝の声を聴かせていただいて、どんなに慰められたことだろうかと思います。パトモスの小島にあって、人間的に見ればたいへん寂しい礼拝の生活を続けていたに違いありません。いや、もしかしたら、たったひとりで讃美歌をつぶやきながら、いったい自分は何をやっているんだろうと、むなしい思いに誘われることも稀ではなかったかもしれません。けれども、そのような、実に小さな自分たちの礼拝を覆い包むように、天の大群衆が「ハレルヤ、ハレルヤ」と、神をたたえる歌を歌っている。

その礼拝の中で知る究極の喜びは、第19章7節以下に書いてあることで、小羊キリストが花嫁を迎える用意を整えたと言います。ここではもう一切の説明を省略しますが、この小羊キリストの花嫁とは、私どもキリスト教会のことにほかなりません。私どもが永遠に歌い続ける礼拝の歌というのも、花婿に愛された花嫁の喜びの声でしかないのです。このお方に愛されているなら、この花婿に守られているなら、もう麻薬なんかで自分をだます必要もないのです。

その花嫁の装いについて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(8節)と書いてあります。ここで突然、私どもの行い、しかも「正しい行い」が問題とされます。教会は、花婿キリストを愛する花嫁として立ちます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛する。礼拝というのは、結局そういうことでしょう。だがしかし私どもは、目に見えない神を愛すると言いながら、目に見える兄弟姉妹を愛さないということは考えられません。ここでキリストの花嫁が装いとすべき「輝く清い麻の衣」、すなわち「聖なる者たちの正しい行い」というのも、私どもが共に生きるべき隣人に示すべき愛のわざを指しているのでしょう。しかもここには、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた」とあります。自分でその衣装を用意するのではありません。それは「着せられる」、原文に即して言えば、「与えられる」ものです。小羊が与えてくださる。

そのような愛のわざを妨げるものがあるとするならば、それは結局、私どもが富の魔術に騙されているからではないでしょうか。富の麻薬に酔うことの何が問題かというと、結局のところ、神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛することもできなくなるということなのです。

今私どもも主の日の礼拝の場所に立ちながら、幻を見せていただくことができます。花婿キリストに愛された自分自身の姿を受け入れることができるならば、もう一度申します、もう富の麻薬に騙されることもないし、パトモスの小島にいたヨハネにもまさって、神を愛し、自分自身を愛し、また自分を愛するように隣人を愛することもできるようになるのです。主の日の礼拝が与えてくれる望みと喜びは、ここに極まるのです。お祈りをいたします。

 

私どもを、ただひとりの花嫁として重んじ、愛してくださる主イエス・キリストの父なる御神、今私どももさまざまな音を聞いております。あなたを悲しませるような、あなたを失望させるような出来事が、あまりにも多いのです。そこでなお、全世界に満ちている礼拝の幻を、今私どもにも見せてください。あなたに愛された者として、今私どもも、愛に生き、望みに生きることができますように。新しい礼拝の声を、あなたの教会に与えてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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