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神は諦めない

2026年6月7日

ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙、その第8章の26節から30節までを、先々週から3週続けて読みました。改めて、どうでしょう。すばらしい言葉、心を動かされる言葉、この言葉があれば生きていけると思うような言葉があり……しかしまた他方で、どうもよくわからない、ぴんと来ない言葉もたくさんあったのではないかと思います。むしろよくわからない言葉のほうが多いかもしれません。いちばんわかりにくかったのは、29節以下であったかもしれません。

神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。

なんだか大事そうなことが書いてあります。大事そうなことなのですけれども、あまりに大事すぎて、つまりあまりにもおおごとすぎて、ちょっとその壮大なスケールについていけない。そういう感想があるのではないかと思います。

そのことを、もう少し別の面から言うと、こういうことにもなるかもしれません。先週は特に28節に集中して礼拝をしました。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」。それこそ多くの人の心を動かしてきた、すばらしい聖書の言葉です。ただ先週の礼拝のあと、ある人から説教についてのコメントがありました。すばらしい説教だった。とても勇気づけられた。でも、結局「万事が益となる」というのは、具体的にはどういうことなんですか。具体的にいつ、何が、どうなって、万事が益となるのか、それがよくわからなかった、というのです。

なるほど、そうかもしれないと反省しました。興味のある方は、先週の礼拝の説教の原稿を読み返していただいてもよいと思いますが……つまり、先週の礼拝では、なぜ万事が益となるのか、それはわかった。神は愛だから。わたしたちは神に愛された神の子だから、万事が益とならないわけがない。でも、それって結局、具体的には、いつ、何が、どうなって、万事が益となるんですか。

■そのことを明らかにするのが29節以下です。もう一度読みます。

神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。

これは、やっぱり、何度読んでも、あまりにもスケールが大きすぎて、にわかには受け止めかねるものがあると思います。少なくともここで「万事が益となる」と言われているのは、何もかも自分の思い通りになる、というような次元の話ではなさそうだということは、すぐにわかります。けれども私どもは、やっぱりそのあたりのことにこだわるのです。うまくいかないことばかりなのです。「神よ、どうしてですか」。そういうときに、「万事が共に働いて益となる」と言われると、すぐに飛びつきたくなります。いや、聖書なんか読まなくたって、私どもはいくらでもその類の言葉を知っているのです。「禍転じて福となす」。「人間万事塞翁が馬」。けれども、なお問いが残ります。神さま、万事が共に働いて益となるって、具体的には何をしてくださるのですか。それはいつのことですか。わたしが生きている間に、何とかしてくれるのですか。わたしが死んでからじゃあ、ちょっと遅すぎるんですけど……。

そこでどうしてもあわせて読まなければならないのは、18節以下です。「思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」。「今この時の苦しみ」というのは、私どもが生きている、今この時の苦しみのことです。私どもが生きている今という時代は、根本的に苦しみの時なのです。そのために、22節では「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」とさえ言います。すべての人間が、というだけではありません。天も地も、海も陸も草木も、皆呻いている。そんな世界の中で、わたしも呻いている。わたしたちも呻いている。ところが26節では、神の霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。「言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と言うのです。その聖霊の執り成しの中で、「万事が益となる」という将来の希望を信じるのです。けれどもそこで、私どもは一度でも、29節以下のようなことを考えたことがあるでしょうか。「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました」。苦しみの中で、呻きの中で、「神よ、どうかわたしたちを、御子のかたちに似たものにしてください」。

ここに語られている将来の希望は、正直に申しまして、私どもの願いとはかけ離れています。私どものけちくさい願いなんか吹き飛ばしてしまうほどの大きな希望、あるいは、神の大きな志が語られていると言うべきです。神は愛ですから、必ず万事を益としてくださる。その神の大きな志の大きさを、少しでも大きく受け止めさせていただきたいと思うのです。

■そこで改めて、29節以下を丁寧に読んでいきます。何と言ってもここで際立つのは「御子のかたち」という表現です。「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました」。わざわざひらがなで「かたち」と書いてあります。聖書協会共同訳という新しい翻訳(もうそれほど新しくないかもしれませんが……)において大きく改善された点のひとつが、この「かたち」という翻訳です。奇をてらって新しい翻訳を試みたわけではありません。むしろ、以前用いていた新共同訳よりもさらに古い口語訳、あるいは文語訳といった伝統的な翻訳に戻ったと言うべきです。

この「かたち」という言葉について考える際に、もうひとつ大切な意味を持つのは、旧約聖書の創世記第1章27節です。「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された」と書いてあります。人間は、もともと「神のかたち」として造られたのだ。しかし、その「かたち」っていったい何だ。

ここで「かたち」と訳されている元のギリシア語をそのまま発音すると、エイコーンという言葉です。なぜギリシア語なんか紹介したかというと、このエイコーンという発音が少しばかり変化して、イコンという言葉になりました。ギリシア正教会とかロシア正教会とか、東方正教会の人たちが大切にするキリストの像、あるいはいろんな聖人の像のことをイコンと呼びます。このエイコーンというギリシア語の基本的な意味は「像」ということですが、元の意味にさかのぼって理解するならば、「見えるもの」という意味を含みます。そうすると、聖書の驚くべき人間理解が明らかになってきます。「神は人を自分のかたちに創造された」。神は人を、ご自分の見える像として造られた、ということです。つまり、本来神は目で見ることのできない存在です。ところがその一方で、創世記が教えてくれることは、「人間は、神のイコンである」、「人間は、神の見えるかたちである」。そうすると、たとえばギリシア正教会の人たちがイコンを大切にするのは、今は目に見えないキリストを見えるかたちで礼拝するためなのでしょうが、実はそんなことをする必要もないので、わたしの存在そのものが神のイコンなのです。人間という、私どもの存在が既に、見えない神の見えるかたちなのです。

しかし、このような人間理解はあまりにも強烈すぎて、ちょっと私どもの理解が追いつかないほどのものがあります。「神さまってどんな方?」「目で見ることはできないけど、わたしを見れば、神さまを見たことになりますよ。わたしは、見えない神の見えるかたちだから」。……いやいや、いくら何でも、そんなばかな。それももっともなことです。人間が罪を犯したということは、神のかたちという祝福された立場から滑り落ちたということでしかありません。その結果、人間は神とは似ても似つかない存在になってしまいました。その意味では、先ほどの発言を慎重に訂正しないといけない。「神さまってどんな方?」「わたしとは正反対の方ですよ」。

そんな私ども罪人のために、〈神のかたち〉そのものであられる御子イエス・キリストがおいでになったのです。主イエスはあるところではっきりと、「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネによる福音書第14章9節)と言われました。そして今、私どもが呻くように求めることは、「神さま、どうか人間を、御子のかたちに似たものにしてください」ということでしかないのです。そうでなければ、人間は救われないからです。

■もしかすると、このあたりでだんだん話が難しくなってきた、と感じておられるかもしれません。どうも今日の説教は、私の実生活とはあまり関係がなさそうだ、という感想が生まれてしまうかもしれません。決してそんなことはないと思います。それこそ皆さんの生活には、いろんな苦しみがある。思わず呻くようなことが起こります。その背後には、すべての被造物の呻きがあるのだとさえ言われます。なぜ呻くのだろうか。なぜ今この時は、苦しみの時なのだろうか。神のかたちに造られた人間が、神とは似ても似つかないものになってしまったからだとしか、言いようがないのです。

何年か前に、礼拝でヨハネの黙示録を通して読みました。ヨハネの黙示録は、「獣の支配」という強烈なイメージでこの世界の悲惨を描きました。今この世界を支配しているのは、人間ではない。獣だ。そこでヨハネの黙示録は、明らかに当時のローマ皇帝のことを名指ししているのですが、あれはいかにも人間のような面をしているけれども、実はあれは人間じゃない。獣がこの世界を支配しているんだ。人間が、人間でなくなったから、神のかたちに造られたのに、そのかたちを失ったから、今私どもは苦しんでいるのです。呻いているのです。けれどもそこで、あいつはけだものだ、あそこの総理大臣も大統領も実は獣なんだと言って、ただ他人を批判する前に、まずわが身を顧みるべきです。わたしは、本当に人間らしい生活をしているか。けだものになっていないか。

ところがそんな私どものために、神ご自身にほかならない聖霊が、言葉にならない呻きをもって執り成してくださると書いてあります。ここに、神の苦しみが見えるのです。神の悲しみであります。私どもが、くどいようですが毎日の実生活の中で、いろんなことをするのです。いろんな言葉を口にするのです。そして、いろんな思いを……私どもは、かなり罪深い思いを隠し持っているものです。そこで、神の霊の呻きを聞き取ることができるなら。——「あなたがそんなことをするために、あなたを造ったんじゃないよ。あなたは、わたしに似せて造られたはずなのに、いったいどうしちゃったんだい」。

■今日の説教の題は、「神は諦めない」。それなりの思いを込めて決めた説教題です。神は愛ですから、「神は諦めない」。必ず万事を益としてくださる。人の目には、何がどう益になるんだかさっぱりわからなくなったとしても、「神は諦めない」。このあと、讃美歌第二篇の57番を歌います。あまり馴染みのない方も多いかもしれませんが、私の大好きな讃美歌です。既に1か月以上前に、今日の説教題を決めました。讃美歌も決めました。この第二篇57番を歌おうと決めたとき、既にほろりと涙がこぼれました。

あらしのあとに なぎはきたり、
かなしみさりて なぐさめあり。
ひとの望みの つくるところ
なお主は在し おさめたもう。

人の望みは、簡単に尽きるのです。「万事が益となるとか、嘘ばっかり」。人間の目には、そうとしか見えないのですが、神は諦めない。それはしかし、人間がどんなにだめでも、神がひとりで万事を益としてくださる、という話ではないのです。神は、人間のことを決して諦めない。「どうせ、人間はだめだから」。絶対に、神はそんなことをおっしゃらない。

その神の志の中心に立つのが、29節です。「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました」。神が最初に人間を、ご自分のかたちに造られたその日から、神の決意に揺らぐところはひとつもありませんでした。人間がどんなにだめになっても、そのためにすべての被造物が苦しみ呻くようになってもなお、神は人間のことを諦めないのです。人間は、人間にならないといけないんだ。人間は、獣になっちゃいけないんだ。そのために、神のかたちそのものであられる御子キリストがおいでになり、私どもの長子となられたと書いてあります。私どもは、このキリストの弟とされ、あるいは妹とされて、そうして神のご計画が成就していくのです。もう一度29節以下を読みます。

神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。

■ここで繰り返される大切な言葉は、「前もって知っておられた」、あるいは「あらかじめ定められた」ということです。神は、私どものこと最初からご存じで、だからこそ最初から私どもについての計画をお持ちで、だからこそ人の目には望みが尽きたとしても、決して諦めない。そのことを、今改めて知るのです。

竹森満佐一という説教者が、この箇所の説教の冒頭でこういうことを言っています。神が私どもに与えてくださる福音、喜びの知らせというのは、神が自分のことを最初から知ってくださっていたという、そういう喜びだ。私はその説教を読んで、深い喜びと、また静かな悲しみを覚えました。もう少し丁寧に竹森先生の説教を紹介すると、こういうことを言うのです。

はじめて会った人が、自分を知っていることを知るのは、非常にうれしいことであります。もしも、その人が自分のためにかげながら、今まで気がつかないことをしていてくれたとしたら、それはさらに喜ばしいことであります。さらに、その人がいつも自分のために祈っていてくれることをさとったとすれば、それは最もうれしいことで、とうてい忘れることができないでありましょう。……神の御業は、それ以上でありました。

本当にそうだ。神は最初からわたしのことをご存じで、それは本当にありがたいことだ。しかしまた、本当に申し訳ないことだと思いました。「神さま、ありがとうございます。あなたはずっと前から、わたしのことをご存じだったのですね。聖霊なる神よ、あなはわたしのために、ずっと祈っていてくださったのですね」。けれども、その神に知られていたわたしというのは、神に知られたらまずいことばかりのわたしでしかなかったのであります。そして神ご自身、どんなにはらはらしながら私どものことを見ておられたかと思うのです。けれども、すべてを最初からご存じであった神は、だからこそ、決して諦めることはありませんでした。「あなたは、わたしに似せて造られたはずなのに……いったいどうしちゃったんだい」。

■そういう、決して諦めることを知らない神さまには、また大きなご計画がありました。それが30節にこう書いてあります。「神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです」。このひとつひとつの言葉について丁寧に説明する時間はもう残されていませんし、その必要もないだろうと思います。ただ、ひとつわかりにくいのは最後の言葉です。「義とした者に栄光をお与えになったのです」。私ども罪人が、赦されて、義とされて、今このように神の前に礼拝をしているのですが、そんな私どもに「栄光をお与えになった」と、そんなことが言えるだろうか。罪人が義とされたとはいえ、今も私どもは、罪の中にいるのです。弱さの中で、呻いているのです。そう考えると、栄光を受けるのは将来の話だ。キリストの再臨の時だ。そういうことになりそうです。けれどもそうすると、「義とした者に栄光をお与えになったのです」という、この動詞の過去形が説明しにくくなります。

そこで、たとえば、わりと多くの人がこういう説明をします。確かにわれわれが栄光を受けるのは、過去形ではなく、未来形で語られるべきことだ。けれどもそのことは、あまりにも確実なことで、既に手に入ったも同然だから、そのことを表わすために過去形で書いているのだ。そうかもしれません。

けれどもまた、ある人はこういうことを言います。確かにわれわれが栄光を受けるのは、将来のことでしかない。神が人間を「神のかたちに創造された」、その神のかたちを完全に回復するのは、将来のこと、終末のことでしかない。けれどもただ一点、既に私どもが神の子の栄光に輝いている、その一点を忘れてはいけない。それは15節にあるように、私どもが神の霊を受けて、神の霊に導かれて、神を「アッバ、父よ」と呼んでいるということだ。

苦しみの中で、呻きながら、何よりも私どもは毎日いろんな罪を犯しながら生きているのですが、だからこそ神の名を呼びます。「アッバ、父よ」、お父さん、お父さんと神の名を呼ぶことができること、それが私どもに与えられている慰めであり、神の子としての栄光でさえあるのです。神がわたしの父でいてくださるから。その神の愛の中に立ち続けるなら、きっとそれだけで、きっと毎日の生活も変わってくるでしょう。日々の愛のかたちも変わってくるでしょう。私どもの言葉も行いも、それどころか私どものひそかな思いも、その結果、目つきまでも変わってくるかもしれない。何もしゃちほこばった生活をするということではありません。神に愛された神の子として、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝している人間というのは、それだけでどこか神の栄光を映し出しているものだと思います。

今共に聖餐を祝います。私どもの栄光が本当の意味で輝くのはずっとあとのことですが、それだけに「将来私たちに現されるはずの栄光」のことを思いながら、神に愛された神の子たちの食卓を、今共に喜び、祝いたいと思います。お祈りをいたします。

 

神さま、あなたは最初から前もって私どものことをご存じで、私どもの弱さも罪もご存じで、だからこそ御子キリストをお遣わしになり、私どもを御子のかたちにしようとあらかじめ定められました。悩みの絶えない私どもの生活ですが、その中で繰り返し罪に誘われる私どもですが、だからこそ確信をもって「アッバ、父よ」と、あなたの名を呼ぶ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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