しかし、勇気を出しなさい
ヨハネによる福音書 第16章25-33節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
「しかし、勇気を出しなさい」。
主イエスが言ってくださった言葉です。でも、しかし、といわれるのですね。
何が「しかし」なんでしょう。それは、
あなたがたには世で苦難がある。
しかし。
勇気を出しなさい。
勇気を出しなさい。
こんなことを言われたらだれでもうれしいものです。自分のことをわかってくれているから、言われるのです。
弱っているときに、だれかから、勇気を出して。と言われる。お母さんから、友達から、仲間から、勇気を出して。妻から、夫から、勇気を出して。……そう言われたら、どんなに励まされることでしょう。
でも、それを他ならぬ主イエスが私どもに言ってくださいました。それもこの時は、お別れの最後の言葉でした。主イエスが十字架におかかりなる直前に、もう最後の晩餐の席を立とうとしておられる、その前に主イエスが父なる神様に、深い祈りをされますけれども、弟子たちへの言葉としては、これが最後で。その別れの言葉の最後で、主イエスが、言われたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」。
私どもは、何に勇気を出すんでしょう?
生きること、でしょうか。
生きること。
そうかもしれません。
生きるには勇気が必要です。
何か人生で決めるときにも、勇気が必要ですし、そうじゃなくて、ほんとうにほんの小さな日常でも、勇気が要ります。一日一日、今の苦しみとの闘いがあります。一日一日、薬を飲むのにも、そろりそろりと気をつけて歩くのにも、勇気が要ります。だれかとうまくいかなかったり、争ったり、日常のそんな、些細な時にも、自分のだめさとか弱さを知る時にも、勇気が要ります。それらをひっくるめて、生きることには、ほんとうに勇気が要ります。もう生きてはいかれないっていう、もう生きたくないっていう、そういう苦しみにだって、その中でだって、それでも、生きていくっていう勇気が要ります。
でも、そういうのを、主イエスだけはよくおわかりで、「あなたがたには世で苦難がある」。あなたが生きるときには、世で苦しみがある。けれども、と。「しかし」。そこで「勇気を出せ」と、言われたんですね。
でもそう言われましても、と心の中で思います。自分だって、勇気を出したいけれども、そんなことはわかっているけれども、でも無理なんだというのが、私どもではないでしょうか。今も、勇気がなくて、って、それだけ弱っていて、と、どれだけ思っていることでしょうか。
それは弟子たちもおんなじだったと思うのです。主イエスの弟子たちは、これからずいぶん苦しみます。
主イエスが十字架におかかりになったあと、教会ができますけれども、そのときからもう周りからひどい目に遭わされてゆきますし、やがて迫害の嵐の中に放り込まれます。ほんとうに世で、これ以上ない苦しみが彼らを待っているわけです。でも、ちょっと思いますに、どうしてそこで、彼らが弱さの中でも強く生きてゆくことができたのかなというと、この主イエスのお言葉が何度も何度も、よみがえって聴こえてきたからではないでしょうか。
しかもそれはただ、この言葉を弟子たちが思い出したのではなくて、生きておられる主イエスが、何度も何度もその場その場で、彼らの死の間際まで、その生の声で、聴こえたのではないでしょうか。だからでしょうか。私はこのあとの弟子たちの生涯に、暗さをちっとも感じないです。それはなぜかっていったら、
ちょうどヨハネによる福音書といいましたら、最後にですね。第21章というのがありまして、復活された主イエスが弟子たちに会いに来てくださった、という出来事が描かれています。そのときには、夜明けの湖でしたけれども、主イエスが湖の岸辺に立っておられた(21:4)、というのです。でもそのときには、みんな勇気なんて、これっぽっちもないわけです。意気消沈していまして。というのは、主イエスがもうおられないという暗さが、そのときの湖も自分も覆っていたわけです。でもそれだけではなくて、彼らをその時苦しめていたのは、その主イエスを自分が見捨てた、ということだったと私は思うのです。こわくて、主イエスを捨てて逃げたっていうことだったと思うのです。死ぬのがこわくてですね。
それはそうで。だれでもみんな、本当に死を目の前にしたら怖いです。でもだれでもみんな、主イエスについてゆきたかったので、自分は勇気があると思っていたので、でもその時になったら、勇気なんてちっともなかった。そんな自分がまだ生きていたんです。人間っていうのは、絶望したら立ち上がれないんですよね。それでもう、逆に死にたいくらいに苦しくなったと思うのです。彼らの生涯の一番の苦しみといったら、それだったと思うのです。でも、そういうところで、主が、明け方、湖の岸辺に立っておられるんですね。
今日のところで主イエスが、こうおっしゃいました。今までは、たとえを用いて話してきたが、もうたとえを用いては話さない。なぜなら、はっきりと父について知らせる時が来るからだ。もうたとえを用いなくてもあなたがたは神を知る。それは十字架のあと、ということでしょう。それでこう言われました。
「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである」(16:27)。
そう言ってくださったんですけれども、「あなたがたが私を愛し」と、そして「信じた」と、そう言ってくださったんですけれども、でもそれで、弟子たちがいえ、ほんとうにそうです、と。もう弟子たちがなんにも尋ねなくても、主イエスのほうで何もかもご存じだ、ということを弟子たちが知って、ああほんとうにこの方は、神の御子、とわかった。それで「今、わかりました」っていうことを言うのです。あなたが神の御子だと私たちは信じます。ところが、そうしたら主イエスが、「今、信じるというのか」って。
今、信じるというのか。
そんな容易く言えるかって。いわれるのです。それで、これから起こることはこうだって。
「見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ」(16:32)。
あなたがたが私を独りきりにする時が来る、と。あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする。いや、すでにその時が来ている、と。
主イエスを独りきりにする。
私は思いました。
愛しているのに、捨てちゃうんだな。
自分のこととして思いました。
主を愛しているのに、主を独りにするんだな。
いつだってそうです。日常でそうです。
そういうのは、自分でもわかります。
どういう時に自分が、主を捨てているか。
世にあって、何に負けてしまうんだろうか、自分は。
弱虫は罪を犯す。そう思いました。
けれども、主イエスはどういうお気持ちでこのことを言われたんでしょうか。あなたがたは、私を独りにする、と。どうしてこれを言われなくてはならなかったのでしょうか。弟子たちを責めたかったのでしょうか。でもそうではない。
主イエスの苦しみは、この孤独から始まるのです。それは彼らが「散らされて」、ということで明らかです。彼らが「散らされて」というのは、神がなさるのです。
神様が、主の十字架の前に誰一人、寄せ付けることをなさらなかった。それは父なる神が御子、主イエスを審かれるためであって、その父の御前に、主がたったお独りで、いてくださるからこそ、私どもの罪を、お独りで受けてくださるからこそ、贖いがなされるのです。そしてその審きのただ中で、しかし、主が、私は独りだが、独りではないと言われた。その審きのただ中で、たった独りの御子、主イエスに、父が共にいてくださるのだと。贖いのわざを成させてくださるのだと、だからこそ贖いになるのです。
ですから、主イエスがここでこう言われているのは、弟子たちを責める言葉ではなく、むしろ彼らが、これから負う苦しみ、「主を独りにした」ということが、彼らの苦しみの根柢になることをわかっておられたから、だから、もう今、その時が来ているという、覚悟の話だと思うのです。だから、みんなこれらのことを話したのは、そのあなたがたの苦しみ。その苦しみに。
私は与えたい。
あなたがたのその苦しみに。勇気を。
この「勇気」という言葉ですけれども、
「元気」とも訳される言葉なんですけれども、それが命令形で「勇気を出せ」というのは、もうなんにも恐れるな。ということで、それで、「安心しろ」というふうにも訳される言葉なんですね。安心しろ。
これは一番そのことを表しているのは、マルコによる福音書の第6章50節で、やっぱり同じ夜明けの湖の真ん中で、弟子たちの舟が逆風で漕ぎあぐねているときに、主イエスが向こうから来てくださって、そして言われる。
「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」
安心しなさい。勇気を出しなさい。
どうしてそれが同じ言葉でそうなるのかというと、これは辞書によりますと、接続する文と共に。というので。続く言葉によって、意味合いが決まり、訳が決まる。
舟で漕ぎあぐねている弟子たちに、苦難の中の弟子たちに「安心しなさい」。なぜなら、「私だ」。
「私だ」。だから「安心しなさい」。
それは、ここでいいますなら、
「勇気を出しなさい」。
なぜなら「私はすでに世に勝っている」(16:33)。
これから起こる十字架と復活で、しかし、
「私はすでに世に勝っている」。
だから「勇気を出しなさい」。
そういえば、あの第21章で、主イエスが湖の岸辺に立っておられたのも、「私はすでに世に勝っている」、という、登場シーンであったと思うのです。
私はすでに、世にも
あなたの罪と死に勝っている。
そうやってあのとき、主は、弟子たちの前に、立っていてくださいました。
それは私どもにとっても、
私どもが勇気を出すっていうのも、その主イエスの「安心しろ」っていうお言葉に、頼ればいいんだと思うのです。
こないだの日曜日に、私は教会に朝、車で来るのですけれども、あそこのユニオンの前のところでいったん信号で止まった時に、ちょうど朝の礼拝に来られた方々が、教会のほうに向かっていかれるところに出会ったのです。何人かで、おだやかに笑われながら、ゆっくりと教会のほうへ、歩いて行かれるのを見ながら、私は今日の主イエスの「しかし、勇気を出しなさい」という御言葉が、聴こえてくるようでした。
お一人おひとり、いろいろあおりになる。
人生の歩みで、いろいろあおりになるけれども、世の戦いも、いろいろあるけれども、でもそのみなさんが歩きながら、隣の仲間と寄り添いながら、ふらつかないように、仲間の腕によりかかりながら、ゆっくりゆっくり歩いてゆかれる。その姿に主イエスが、安心しろ。
安心しろ。
あなたがたには世で苦難があるが、
しかし、勇気を出せ。
私はすでに世に勝っている。
そのお言葉があれば、私どもは
勇気も、元気も、出るというものです。







