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神に対する義理

2026年4月19日

ローマの信徒への手紙 第8章12-17節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙第8章の12節から17節までを読みました。何と言ってもその中心に立つのは、15節の言葉だと思います。「この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。私たちは、神の子である。神の子として、神を父と呼ぶのだ。この15節は、この段落の中心というだけでなく、ローマの信徒への手紙第8章の中心というのにもとどまらず、この手紙の中心がこの「アッバ、父よ」というひとつの言葉に集中しており、何なら聖書全体の中心、福音の中心がこのひとつの言葉に集中すると、そう言っても差し支えないほどの言葉だと思うのです。

「アッバ」という外国語については、前回の説教でも簡単に説明しました。アラム語という言語で、「わたしの父よ」という意味ですが、しかしおそらくはアラム語とか何語とか言うのもおかしいので、まだ言葉もしゃべらないような赤ちゃんが、大好きなお父さんの目を見つめて、アバアバ言っているだけだ。私どもは、大好きな神さまの顔を仰いで、「お父さん」と呼ぶ心をいただいている。「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」(14節)。

■前回の説教で、そういう話をしながら、迷った上でお話しするのをやめたエピソードをひとつ、今朝皆さんにお配りした雪ノ下通信の牧師室だよりに書きました。もうさっそくお読みくださった方もあるかもしれませんが、やはりその話を今日ここでしたくなりました。約10年前の話です。最近中学生になった息子は、早ければ今年度中に父親の背丈を追い抜いてしまうのではないかと心配しているのですが、赤ちゃんの頃は歩くのもしゃべるのも、いちばん遅いほうでした。おそらくですが、ゆーっくり大きくなって、初めての子育てをする親たちを楽しませてくれたのかな、と思うのですが、特に今でもよく覚えているのは、なかなか「お父さん」と言ってくれなかったことです。お母さんのことは「おあーさん、おあーさん」と呼んでくれるのに、お父さんのことはどういうわけか「ぎっさん」。それはそれで可愛いからいいや、と思っていたのですが、テレビに出てきた芸能人のタモリを指差して「ぎっさん」。うーん、そんなにお父さんに似てるかなあ。木村拓哉を指差してまた「ぎっさん」。いやー、そんなに似てないかな。加藤常昭先生の写真を指差して「ぎっさん」。もしかして、「ぎっさん」は「お父さん」ではなくて「おじさん」という意味なんじゃないか。それで、何としても「お父さん」と呼ばせようと発音のトレーニングを試みたのですが、うまくいくはずもありません。

ところが、ある日、言えたんです。息子と同じ布団で寝ていたとき、夜中にふと目を覚ましてしまった息子が、眠そうな顔で布団をかけ直しながら、「ねえ、お父さん、一緒に寝よ」。平静を装いながら添い寝をして、息子の背中をトントンしてあげましたが、内心鼻血が出るかと思いました。

もしかしたらその頃から、私の祈りの生活が少し変わったかもしれません。「アッバ、父よ」と、もちろん私も祈るわけですが、「お父さん、お父さん」と神の名を呼ぶときに、ようやく言葉をしゃべり始めた息子のことをふと思い出すことが多くなりました。「ねえ、お父さん、一緒に寝よ」という祈りをしたことはないかもしれませんが、「お父さん、お父さん」と神の名を呼ぶときに、そんな私の祈りを神がどんなに喜んでくださるか。その父なる神の喜びが、以前よりも少しよくわかってきたような気がするのです。

■私どもの祈りというのは、どんなに立派な祈りをしても、どんなにかっこつけて整った祈りをしたとしても、神からご覧になったら、赤ん坊がアバアバ言っているのとひとつも変わらないだろうと思います。けれども大切なことは、そんな私どもを神がどんなに愛してくださっているか。どんなに愛おしく思っていてくださるか。その神の愛を知るとき、私どもの生活は新しくなります。根本的に新しくなります。

かつて、祈りについての小さな書物を書かせていただいたことがあります。その中で、こんなことを書きました。祈りは、決して難しいものではない。どんなに小さな子どもでもできる。ひと言「神さま」と呼べばいい。道を歩いていても、台所に立っていても、いつでも祈ることができる。主が厳しく戒められたような、言葉数の多い祈りをくどくどする必要なんかないので、ひと言「神さま」と呼べばいい。「神さま、神さま」。しかし、そのひと言が言えるか言えないかで、その人の人生の色合いが大きく違ってくるかもしれません。

その祈りの書物では、「神さま」と言えるか言えないか、と書いたのですが、もしかしたら「神さま」ではなくて「お父さん」としたほうが、主のみ心にかなう文章になったかもしれません。「お父さん、お父さん」。祈りは、結局、それだけでいい。けれども、そのように祈る人の生活は、ただそれだけで、根本的に新しくなります。

わたしは、何のために生きているんだろう。誰のために生きているんだろう。道を歩いていても、台所に立っていても、仕事を頑張っているときにも、善いことをしているときにも、悪いことをしているときにも、私どもの祈りはいつも同じ、「お父さん、お父さん」。そこで改めて知るのです。わたしは、何のために生きているんだろう。何のために、誰のために、今こういう生活をしているんだろう。そのときに、ただひと言、「お父さん」と言えるなら、私どもの生活は根本的に救われるのです。「天のお父さん、わたしは、あなたのために生きています。あなたと共に、わたしは生きているのです」。神の霊に導かれて、私どもにはそのような生活が与えられていることを、このローマの信徒への手紙は証ししているのです。

■今朝の説教の題を、「神に対する義理」と予告しました。私どもは、どんなときにも、神のために生きるのであります。ただ、この説教の題については、もう少しきちんとした説明が必要かもしれません。この説教題の背後にあるのは12節です。「それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません」。ここに「義務」という言葉が出てくるのですが、もともとは「借金、負債」という意味の言葉です。単に義務というよりは、「負い目」と言ったほうがよい。「あの人には、あそこまでしてもらったんだから」。そこに義理が生まれます。義理というのはいかにも日本的な表現のようですが、私の見るところ、この文脈にいちばんよく合うのは「義務」でもなく「借金」でもなく「義理」だと思います。「われわれは、肉に対して義理立てをする必要なんかない」と、そう言っているのです。この「肉」という言葉がわかりにくいのですが、それはまたあとで触れます。

その上で、しかしここは昔から解釈が分かれるところなのです。どう解釈が分かれるかというと、いちばん手っ取り早いのがかつて用いていた新共同訳で、12節をこのように訳しました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。つまり、聖書協会共同訳のように、「私たちには、肉に対する義務なんかない」と読むのか、あるいは新共同訳のように、「わたしたちには一つの義務がありますが、その義務は肉に対する義務ではありません」と読むのか。なぜこういう翻訳の違いが出てくるかというと、ややこしい話になって恐縮ですが、新約聖書がもともと書かれた古代のギリシア語の特徴によることで、語順がきわめて自由なのです。「~ではない」という否定の言葉があるのですが、その否定辞が動詞にかかれば「われわれには肉に対する義理はない」ということになりますし、けれどもまた「肉に」という名詞にかかれば、「われわれが義理を果たさなければならないのは、肉に対してではありません」ということになります。

「私たちは、肉に対して恩義を感じる必要なんかない」と読むのか。「私たちが恩義を感じなければならないのは、肉に対してではない」と読むのか。私はここで、どちらの翻訳が正しいか、これ以上議論するつもりはありません。いずれにしても主旨は明らかだと思います。「あなたは、何のために生きているのですか。肉に対する義理を果たすためですか。違うでしょう」。寝ても覚めても、私どもが息をするように祈ることは、「お父さん、お父さん」。どんなに立派なことをしているときにも、逆にどんなに罪深いところに落ち込んだときにも、私どもは神の霊に導かれて、父の名を呼びます。その父なる神との絆が、私どもを生かします。「お父さん、お父さん」とその名を呼ぶだけで、そこに絶対的な安心感が生まれます。そしてまた同時に、自分自身の人生に対する責任感が生まれるでしょう。「わたしには、こんなすばらしいお父さんがいるんだ。わたしは、お父さんに愛された子どもなんだ」と、そのことを思うとき、その自分の人生をいい加減に扱うことができなくなるのは当然だ、ということになるわけですが、だからこそこの手紙を書いたパウロは、このように念を押さなければなりませんでした。「私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません」。

■「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(13節)。言い換えるなら、どうもパウロの見るところ、肉に対して義理を立てるような生活をしている人がいる。そのために、せっかく神に救われたのに、それを台無しにしている人がいるということです。どうしてそういうことになるのかと言えば、「霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」と書いてあります。つまり、逆に言えば、体の行いを殺しそこなっている人がいる。まるで肉に対して義理立てをしているかのように、自分の肉が「あれが欲しい、これが欲しい」と要求することを、全部満たしてあげる、そういう生活をしている人がいる。そういうわれわれに対して、「あなたがたはそんな、肉に対して義理立てをする必要なんかありませんよ」と言っているのです。

しかしそれにしても、この13節は、ずいぶん厳しい印象を与える言葉だと思います。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」。ここでパウロははっきりと、「体の行いを殺せ」と言っています。一方では、わからないでもないのです。体が欲しがるからって、食べたいものを欲望の赴くまま食べたらどうなるか。性欲の赴くまま、自分のしたいことを全部しようとしたらどうなるか。寝たいから寝る。起きたいときに起きる。それでよいか。

けれども、ここでパウロが言っていることは、いわゆる肉体的な欲求というのにとどまらないと思います。パウロが「肉」という言葉を使うとき、それはもっと広い。もっと深い。単に禁欲的な生活をしようと言うのではありません。何回か前の説教で、ある聖書学者の説明を紹介して、「〈肉〉とは要するに、自己中心的な生き方のことだ」と申しました。私は、本当にそれに尽きると思うのです。何をするときにも、何をされるときにも、それこそ息を吐くように私ども罪人が考えていることは、「自分が、自分が」。「自分がしたいことをして何が悪い」。「自分が正しいと思うことをやって、何が悪い」。「どう考えたって、あいつが悪い。そいつをやっつけて、何が悪い」。「わたしは傷ついたんだ。あいつが悪いんだ」。けれども人間というのは、そういうときにこそ、いちばんわがままになります。そこでパウロが言うことは、自分で自分を制しなさい、ということではありません。そんなことはできません。神の霊の力によって、あなたの体を殺せ。そして、その神の霊によって、ということはどういうことかと説明して、「アッバ、父よ」と呼べばいい、と言うのです。

喜んでいるときにも、悲しんでいるときにも、「お父さん、お父さん」と神の名を呼ぶのです。私どもがどんな善いことをしているときにも、どんな深刻な罪を犯しているときにも、「お父さん、お父さん」。喜びと誇りに満ちて、父の名を呼ぶこともあるでしょう。悩みの日に、必死の思いで父を呼ぶこともあるでしょう。しかしまた、神を父と呼ぶことは、へりくだりを知るということです。人間が人間らしく生きるとはどういうことか、そして何が非人間的なことなのか、いったい自分が、どういうときに人間らしさを失うのか、神の愛の中でこそ、そのことを正しく知ることができるでしょう。

そこでパウロは言うのです。肉の思いと戦いなさい。「あなたが義理立てをしなければならないのは、肉に対してではありませんよ」。あなたは神に愛された、父なる神の子どもなんだから、そこに立ち続ければよい。そのために、あなたにも神の霊が注がれているんだ。

■そのような信仰の戦いについて、17節の後半では、「キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです」とさえ言います。驚くべき発言です。この手紙を書いたパウロは、キリストの苦しみの意味がよくわかったのだと思います。なぜキリストは苦しみをお受けにならなければならなかったか。人間の罪のためです。私どもの罪のためです。そのために、さらに次の段落まで読み進めると、被造物全体が、つまりこの世界にあるすべてのものが、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっているとさえ言います。パウロがそのように、被造物の呻きに目を開くことができたのは、キリストの苦しみの意味を知ったからです。なぜこの方が苦しまなければならなかったか。人間の罪のためだ。われわれのわがままのためだ。

主イエス・キリストは、十字架につけられる前の晩、ゲツセマネと呼ばれる場所で徹夜の祈りをなさいました。「アッバ、父よ」という祈りが記録されているのは、その場面であります。「お父さん、お父さん、なぜわたしがこんなに苦しまなければなりませんか。勘弁してください」。「だって、わたしは何も悪くないじゃないですか。わたし以外のすべての人間が罪を犯したのに、わたしは何も悪くないのに、なぜわたしが彼らの罪を担って殺されなければなりませんか。そんなの、耐えられません」。「お父さん、お父さん、それがあなたのみ心なのですね」。パウロも当然、このゲツセマネでの祈りを知っていたと思います。その祈りの意味について、その苦しみの意味について、教えられていたと思います。「アッバ、父よ」と、なぜ主イエスがこのように祈らなければならなかったか、その意味がわかったら、私もまた、その苦しみの一端を担わせていただくほかありません。私どもは、このお方の愛に対する義理があるのです。これに答える責任があるのです。

ですからパウロは、また別の手紙の中で、自分は自分の体で、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイの信徒への手紙第1章24節)とまで言いました。実は、私は若いころ、この言葉を受け入れることができませんでした。まずもって「キリストの苦しみの欠けたところ」という表現につまずいた。ずいぶん思い上がった話だ。キリストの苦しみは完全で十分なはずだ、欠けたところなんかあるはずがない。まして、それをわれわれ人間の苦しみによって補うだなんて……。パウロが言おうとしたことは、そんなことではありません。パウロは、主イエスのご苦労がよくわかるようになったのです。わたしのために、このお方は苦しまれたんだ。わたしのせいで、このお方は苦しまれたんだ。そのことに対する義理というか、ここはやはり「負い目」と言ったほうがよいかもしれません、あるいは「責任」を深く感じながら、今はキリストと共に「アッバ、父よ」と祈りつつ、罪のための戦いを引き受けていくのです。すべての被造物の呻きを聴き取りながら、わたしも共に呻く。キリストも共に呻いていてくださる。絶望的な呻きではありません。「お父さん、お父さん」と、望みをもって神を呼ぶのです。

■望みが見えにくいこの世界であると思うのです。すべての被造物が呻いていると聖書は証言するのですが、ますますそのことがよくわかる世界になってしまっているような気がしてなりません。けれども、この手紙が語るのは絶望ではありません。前回の説教でも、朗読した箇所を飛び越えて読みましたが、19節にはこう書いてあります。「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」。そこにもかしこにも呻きが聞こえるような世界なのですが――結局は、世界は遂に破滅に至るのだろうと思われてならないこの世界なのですが、パウロがここで主張してやまないことは、「そうではない。被造物は既に望みを見出しているのだ」ということです。「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」。神の子たちが出現すること、それが世界の望みだ。「お父さん、お父さん」と、神を呼ぶ声が聞こえる。それが世界の望みです。どんなに怖いことがあっても、お父さんがいてくださるなら。人間の罪がどんなに深くなっても、「アッバ、父よ」、あなたがいてくださるなら。

私どもは、神の霊に導かれて、幼子のように神を呼びます。キリストの苦しみを分けていただくように、「お父さん、お父さん」と呼ぶのです。もしも、この父を呼ぶ声が消えたなら、そこには絶望しか残らないのは当然であります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」。今新しく神の霊をいただいて、心からの望みをもって、ただひと言、「アッバ、父よ」と神の名を呼びたいと思います。ここに、世界の望みがあるのです。お祈りをいたします。

 

天の父よ、こんなにも愛されているのに、性懲りもなく肉に義理立てをしてしまう私どもの愚かさを憐れんでください。私どものわがままが、被造物の呻きを呼び起こしています。み子キリストもまた、私どもの罪のために苦しまれました。そしてまたあなたの聖霊も同じように、言葉にならない呻きをもって執り成してくださいます。お父さん、あなたがいてくださるのですから、霊に導かれて、望みをもって、あなたの名を呼び続ける者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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