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救われない者の祈り

2026年2月15日

マルコによる福音書 第7章24-30節
柳沼 大輝

夕礼拝

 

私たちは主に祈るとき、どのような思いをもって祈っているでありましょうか。苦しみのなかにあるとき、深い痛みのなかにあるとき、それこそ、その苦しみがいかにも不当、理不尽であると感じるとき、神様は私の祈りを聞いてくれて当たり前、神様は私のことを救ってくれて当然だ。そんなふうに思って祈った経験はないでしょうか。私は、高校3年生で教会に通い始めた頃、それこそいつも自分は神様に救われて当たり前。そんなふうに感じながらお祈りをしていました。苦しんでいるとき、痛みのなかにあるとき、主はすぐにでも私の祈りに答えてくれて当然だと思っていました。

けれども、あるとき牧師にこのようなことを言われました。「救われるはずのない者が救われたから恵みなのだよ。赦されるはずのない者が赦されたから喜びなのだよ。イエス様の愛は本当に大きいね!」当時の私は、まだこの言葉の意味がよくわかりませんでした。イエス様は神の子なのだから苦しんでいる人間のことを救ってくれて当然ではないか。私が祈っている神は、全能の神であるのだから人間の罪を赦してくれて当たり前ではないか。そんなふうに感じていました。しかしいま十字架を見上げるとき、このように神様を礼拝するとき、神様に祈るとき、「救われるはずのない者が救われたから恵みなのだ。赦されるはずのない者が赦されたから喜びなのだ」。私はいつもこの言葉を大切にしています。

今日の聖書箇所に一人の女の人が登場しました。彼女は外国人、つまり神様を知らない異邦人でした。本来であれば、主イエスに何かを願い求めて、お願いするような立場ではありません。しかし彼女は主イエスがティルスという異邦人が住む地方に来られたということを聞いて、主イエスのもとを訪ねて、主イエスの足元にひれ伏しました。そして、必死になって主に願いました。「娘から悪霊を追い出してください」。彼女の幼い娘は汚れた霊に取りつかれて苦しんでいました。そんな苦しんでいる娘の姿を見て、母親である彼女は娘のことをなんとかして助けてやりたい、救ってやりたいとそう願いました。きっと主イエスがいままでにたくさんの悪霊を追い出し、病に苦しんでいる者を癒してきたという噂をどこからか聞き集めていたのでありましょう。だからこそ、この機会を逃してはいけないと、藁にもすがる思いで主イエスのもとにやってきたのです。

けれども主イエスから返ってきた答えは驚くべきものでありました。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」(27節)。ここで言われている子どもたちとはユダヤ人のこと、パンとは救いのこと、小犬とは異邦人のことです。ちなみに「小犬」とは今日、私たちがイメージするような可愛い動物ではなくて、この当時、小犬は基本的に誰かに飼われているのではなく、ときに道端に捨てられている動物の死骸などを食べて腹を満たしていたことから罪に汚れた動物であると言われていました。つまりこのとき主イエスは、自分の救いはまず神様の民であるユダヤ人に与えなければならない。神を知らない異邦人である、いわば、罪に汚れたあなたのことをいまここで助けてやるわけにはいかないとそのように言われたのです。

もし私たちがこの女の人の立場であったならば、主イエスのこの言葉を聞いたとき、どのように感じるでありましょうか。どうしていますぐに自分の娘のことを救ってくれないのか、どうして自分のことを小犬呼ばわりするのか、どうしてこんなに苦しんでいるのに、悩んでいるのに、心を痛めているのに、その祈りにすぐにでも答えてくれないのかと、そうやって主イエスに対して怒りの感情をぶつけてしまうでありましょう。けれどもこの女はそのような態度を取りませんでした。彼女は、主イエスにこう返します。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」(28節)。たしかに自分はあなたの言う通り、本来、神様に救われるべき存在ではないのかもしれない。罪に汚れた小犬なのかもしれない。神様の愛を受けるべき存在ではないのかもしれない。主よ、しかしパン屑でもいいから、ほんの欠片でもいいから、私にあなたの救いをください。ほんの欠片でもいい、主イエスの救いがあればきっと私の娘は助かる。この女はそう信じて、主イエスに思い切って言ったのです。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」。

この女の神へのまっすぐな信仰の言葉を聞いた主イエスはこう答えました。「その言葉で十分である」(29節)。この主の言葉をある聖書の翻訳はこのように訳しました。「その言葉が聞きたかったのだ」。主イエスはこの女の信仰の言葉を、いわば「救われない者の祈り」を求めておられたのです。続けて、主はこの女に救いを宣言します。「悪霊はあなたの娘から出て行った」。主イエスはこの言葉によって家にいた娘から悪霊を追い出しました。このとき、主イエスの言葉が二人の親子を救いました。

私たちも本来は、この女のように主に救っていただくに値する存在ではありません。主イエスから愛を受けるべき存在ではありません。神様を知らない異邦人のように神様に背を向けて、神様から離れて生きているような存在ではないか。神様に祈っているようでいて、本当はどこかでもうだめだと諦めてしまってはいないか。主に信頼せず、自分の人生は自分のもの、そのように自分だけの力に頼って自分の人生を生きようとしていないか。それでうまくいかなくなると、すぐに自信をなくし、ときに相手のことを裁いて、自分のことも相手のこともたくさん傷つけてしまっていないだろうか。私たちはまさに神様から離れて生きている罪人であります。私たちも主イエスの救いになど値しない罪に汚れた小犬のような存在でしかありません。

しかし主イエスはそんな罪人の私たちのために十字架にかかり、私たちに代わって罪の裁きを受け、死んでくださいました。そのことによって主イエスは私たちに大きな愛を示されたのです。その十字架から溢れる愛によって私たちは罪に汚れた者でありながら神の子どもとされました。救われない者から救われた者へと大きく変えられました。このように本来なら救いをいただくに値しないこの私が救われたから恵みなのです。神様に背いて、こんなにも空しく自分勝手に生きてきたこの私が主イエスの十字架によって罪赦されたから喜びなのです。

主イエスは「今日」も神様の御前に立つことなどゆるされていなかった私たちをこの礼拝の場へと招いてくださいました。だからこそいま、十字架を見上げて、私の罪を悔い改めたい。そうやって本当は小犬でしかない自分の存在に気づかされていくとき、自分の罪というものに目が開かれていくとき、私たちの口から出る言葉は、「私は罪に汚れた小犬です。パン屑でいいから、ほんの欠片でもいいからあなたの言葉を、あなたの救いをください。それだけで私は「今日」生きていけます。あなたの大きな愛にただ感謝します」。そのような主への感謝でありましょう。そんな私たちの感謝の応答を主は喜んで受け取ってくださる。「その言葉で十分である。その言葉が聞きたかったのだ」と言ってくださる。そして主は「今日」も私たちに救いの御言葉を宣言してくださっています。「行きなさい。悪霊はあなたから出て行った」。

私たちのなかにも悪霊がいます。生きていくことに不安を覚えたり、悲しみに心を支配されたり、自分のことをゆるせない、愛せない、私たちのことを苦しめている心の闇というものがあります。けれども、主イエスの救いの御言葉はそこに届くのです。そこに光を当てて娘から悪霊を追い出したように私たちの心の中からその不安や恐れを締め出してくださいます。だからどんなに大きな不安に襲われても恐れることはない。どんな苦しみや痛みのなかにあっても、主はあなたのそのまっすぐな祈りを、救われるはずのない者の祈りを聞いて受け止めてくださる。そして御言葉をもって答えてくださる。それがどれだけ恵み深いことであるか。感謝なことであるか。主はいまこのとき私たちに言ってくださいます。「安心して行きなさい」。これからもその神の救いの御言葉を受けて、救われるはずのない者が救われた、赦されるはずのない者が赦された、その救いの喜びのなかを、感謝をもって主イエスと共に歩んでいきたい。そうです。イエス様の愛は本当に大きいのですから!

 

恵みと慈しみに満ちたもう主イエス・キリストの父なる御神、私たちは罪に汚れた小犬です。だからこそ、あなたの恵みが、あなたの救いが必要です。主よ、今日も私たちに救いの御手を差し伸べてください。その御手でこの身を守り導いてください。あなたの溢れる大きな愛に感謝して、この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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