かすかにささやく声
列王記上 第19章1-18節
柳沼 大輝

教会学校・小礼拝合同礼拝
今年度、教会学校では福音主義教会連合の教案誌に従い、旧約聖書のものがたりを子どもたちと共に読み進めています。今朝の礼拝でも普段の教会学校の礼拝と同様に旧約聖書の御言葉に聴きます。
紀元前9世紀、北イスラエル王国にエリヤという預言者がいました。この当時、北イスラエルは王アハブと彼が迎えた異国出身の妃イゼベルを中心にバアルという別の国の神さまに心が傾いていました。そんな異国の神を拝み、神さまに従わない悪い王様のもとに遣わされたのが、預言者エリヤです。彼は王アハブに言います。「あなたがイスラエルの神に従わない故にイスラエルには神さまの怒りが、罰が与えられる」。実際、主が告げたようにイスラエルには何年もの間、雨が一滴も降りませんでした。そのせいで作物は実らず、国中を激しい飢饉が襲います。そのような死の危機の只中でエリヤは食べ物を増やしたり、死んだ者を生き返らせたり、何度も奇跡を行いました。そうやって神さまがいまここに生きて働いておられることを人々に証ししました。しかしアハブとイゼベルはいっこうに神さまの言葉に耳を貸そうとしません。自らの罪を悔い改めようとしません。そこでエリヤは神さまからある言葉を告げられます。それは「もう一度、王アハブの前に出ていけ」という言葉です。その言葉通りにエリヤは王アハブの前に進み出て、今度は異国の神バアルに仕える預言者たちと闘うことになりました。相手は四百五十人、こちらはエリヤたった一人です。しかしエリヤは神さまの言葉を信じて闘いました。それぞれに生贄を用意して、どちらの神さまが祈りを聞いて火をもって答えてくださるかという闘いです。バアルの預言者たちはどんなにバアルに祈っても、大声で叫んでも、剣や槍で自分たちの体を傷つけても生贄に火をつけることはできませんでした。一方、エリヤは神さまに信頼し、主を礼拝し、まっすぐに神さまにお祈りをしました。するとどうでしょうか。エリヤの捧げものに火がつき燃え上がりました。エリヤ、いやイスラエルの神の勝利です。そこでエリヤはバアルの預言者たちを捕えて剣で殺しました。その後、何年かぶりにイスラエルに雨の音が聞こえてきました。
このように今日の箇所の前にはたくましく勇敢なエリヤの姿が描かれています。しかしどうでしょうか。今日の箇所では一転して疲れ切ったエリヤの姿があります。バアルに仕える大勢の預言者たちに見事に勝利し、これですべて上手くいったように思えました。けれども話しはそれほど単純ではありませんでした。そのことによって王の妃イゼベルの復讐心に火がつき、かえって事態を悪化させる結果となりました。エリヤはこのバアルの預言者たちとの闘いをきっかけにイゼベルに命を狙われることとなります。
エリヤは恐ろしくなり、直ちに南へ逃げて、ユダのベエル・シュエバという地に行き着きました。エリヤはそこに家来を残して一人で荒れ野を歩き続きます。しかし途中で力尽き、神さまに願います。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから」(4節)。神さま、もう殺してくださいという願いです。自分はそんなに優れた人間ではない。だからこうなってしまったのだ。あんなに努力してイスラエルの民のために必死に頑張ってきたけれど、すべて無駄になり、徒労に終わった。エリヤは絶望と孤独のなかで無力感にさいなまれています。だから神に死を願ったのです。
しかし生きる力をなくしたエリヤに神は主の使いを送り、二度にわたってパン菓子と水を与えます。そして、神は心の弱ったエリヤの体力をまず回復させ、その上で神の山ホレブへと導きます。神の山ホレブ、その山はかつてモーセが神と出会い、イスラエルの民をエジプトから解放するという使命を与えられた場所です。その場所へと主はこのときエリヤを起こして、招き入れようとしておられるのです。
四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに着いたエリヤは洞穴の中に入ります。雄々しく活躍していたかつてのエリヤの姿はそこにはありません。エリヤは身を隠すように閉じこもりました。そのとき、主の声が聞こえます。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」(9節)。エリヤはこれまで自分が熱心に主に仕えてきたにも関わらず、イスラエルの民から見放された孤独を訴えました。しかしここで彼の言っていることは正しいでしょうか。彼の命を狙っているのはイゼベルであって、イスラエルの民ではありません。エリヤはまるで自分だけが悪者で他の者たちはみんな、敵であるかのように嘆いています。少なくとも今日の箇所で一緒に逃げてくれた家来がいたにも関わらず彼はその者の存在すら忘れてしまっています。そんな絶望のあまり被害妄想に囚われているエリヤに、神は外に出て主の前に出るようにと命じられます。
しかしエリヤは外に出ようとしません。そのとき、山を裂き岩を砕くほどの激しい風が起こりました。しかしそこに主はおられませんでした。その後、地震が起こり、火が起こりました。しかしそこにも主はおられませんでした。火を見たとき、彼は思い出したはずです。かつてバアルの預言者たちと闘ったとき、主が天から火を降らせてくださったことを。しかしそこにも主はおられませんでした。彼は余計に孤独になったはずです。神さまはどこにおられるのかと。けれども火の後、「かすかにささやく声」がありました。エリヤはそれを聴いて、外套で顔を隠し、ようやく洞窟の外へと出て行きました。神のかすかにささやく声がエリヤの頑なになった心を優しく解きほぐしたのです。
この「かすかにささやく声」、いったい何をエリヤに語りかけたのか。残念ながら、その内容は、聖書には記されていません。しかしこの後、エリヤに語る神の言葉を聴くとき、その内容を想像することはできるでありましょう。洞穴から出て来たエリヤに向かって、再び、神さまは語りかけます。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」(13節)。
ここでエリヤに語りかけた「かすかにささやく声」、その声はけっして優しいだけの言葉ではなかったでありましょう。「そうか、たった一人で頑張ってきたんだもんね。それは苦しかったよね。それは怒りたくもなるよね。わかる、わかる」。そんな彼の苦しみに同情するだけの言葉ではなかったはずであります。むしろ、神がエリヤに語りかけた言葉、それは「どうしてお前はいまこんなところに隠れているのだ。恐れるな。私はここにいる。私はある(新共同訳:出エジプト3:14)。だからもう一度、立ち上がれ。出て来い。お前なら大丈夫だ。私が選び、召し出したのだから」。だからこそ神は出て来たエリヤに向かって再び、語りかけるのです。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
小学校の音楽の授業や卒業式などでよく歌われる合唱曲に「スマイルアゲイン」という曲があります。その曲は2番の歌詞でこのように歌います。
やさしい言葉なんて訳に立たないことがあるよね。
自分だけで闘わなくちゃいけないときがあるよね。
つらいこと乗り越えていつか見えてくるものがあるよ。
そしたらあなたは今よりきっと素敵になってる。
優しい言葉は一時的に人の痛みを癒すことはできるかもしれませんが、その言葉だけでは、本当の意味で人は立ち上がれません。その者の存在を信じ、愛し、あなたならできる、大丈夫だと語りかける言葉が人に生きる勇気を与えます。エリヤに語りかける神の言葉もまさにそうであったでしょう。「私があなたを選んだのだから、大丈夫だ」。このかすかにささやく神の声がエリヤを再び、立ち上がらせました。
しかしエリヤはこの神さまとの対話を通して、徐々に気づかされていったはずであります。「ただ私だけが一人残った」「私はたった一人で自分だけで闘っている」と思っていた。しかしそれは違う。奇跡を行ったときも、たった一人で四百五十人のバアルの預言者たちと闘ったときも、私は一人ではなかったではないか。目には見えなかったけれど、手で触れてたしかめることはできなかったけれど、主は私と共にいてくださった。たしかに主はそこに生きて働いてくださっていた。そしてこれからもそれは変わらない。だからエリヤは立ち上がり、再び、預言者としての使命に召し出されていきました。そしてその務めは彼の後継者であるエリシャへと引き継がれていきます。
私たちも同じです。エリヤのようにときに絶望し、無力感にさいなまれることがあります。自分の努力はすべて無駄だったと感じ、ただ自分だけが苦しんでいると感じて、自分の殻に閉じこもるときがあります。しかしそこにも主は生きて働いてくださっています。目には見えないけれど、激しい風や地震や火のように体で感じることはできないけれど、そこに主イエス・キリストのまなざしがあります。主はいまこのとき、私たち一人ひとりに目を留めて、優しく、しかし熱意をもって語りかけてくださる。「私が選んだあなたなのだから、私が十字架に死んでまで愛し抜いたあなたなのだから、あなたは大丈夫。出て来い、立ち上がれ」。このかすかにささやく神の声に耳を澄ませて、私たちもいまここから立ち上がりたい。そして「あなたはここで何をしているのか」という主の問いに応えて、それぞれに与えられている神からの召しに、その使命にまっすぐに生きていきたい。大丈夫、主はいまここに生きて働いておられるのですから。あなたの声が、あなたのまなざしがたしかにここにあるのですから。私たちはいまエリヤと共にここからまた新たな一歩を踏み出します。
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの声が聴こえる。大丈夫、立ち上がれと言ってくださる。そのかすかにささやく声をこれからもこの礼拝において聴き続けていくことができますように。教会に生きる喜びを、神さまの言葉に従って生きる幸いを絶えず私たちに示してください。この祈り、主の御名によって御前にお捧げいたします。アーメン






