一人で神様と向き合うとき
マタイによる福音書 第1章18-25節
柳沼 大輝

クリスマス夕礼拝
あるキリスト教学校の生徒が書いた「クリスマスってどんなとき」という題名のエッセイがあります。そのエッセイはこのように始まります。
「クリスマスってどんなとき。クリスマスは友達と並んで一緒に綺麗なイルミネーションを見るとき。クリスマスってどんなとき。久しぶりに家族みんなでいつもより少しだけ豪華な夕ご飯を食べるとき。クリスマスってどんなとき。みんなで一緒に喜びを分かち合うとき。クリスマスというのはきっとそういうときだろう。けれど私にとってのクリスマスは少し違う。私にとってクリスマスは一人になるとき。一人になって自分自身の心のなかを見つめるとき、そこにイエス様の光がぱっと輝く」。
聖書のなかには、クリスマスの出来事に招かれた人たちが何人も登場します。その最も代表的な人物と言えば、イエス様の母となったマリア、そして父となった、マリアの夫であるヨセフの名前をあげることができるでしょう。彼らは天使の告げる言葉によって、聖霊によりマリアに男の子が身ごもることを知らされ、二人は神の子であるイエス・キリストを自分たちの子どもとして迎えることを通して、神の大きな恵みを与えられました。
しかし聖書はマリアとヨセフ、二人が一緒に、そう同時にその喜びの知らせを天使から告げられたことを伝えていません。彼らは一人ずつ天使が告げる神の言葉を受け取り、その言葉と真剣に向き合いました。
マリアは天使ガブリエルから「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われ、未婚である自分が男の子を身ごもる、その言葉に戸惑いながらも、恐れながらも、それでも「お言葉どおり、この身になりますように」と信じることのできない自分を神様に委ねました。
このときはまだマリアと婚約関係にあったヨセフも同じです。彼も夢のなかで一人、主の天使から「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい」と言われました。ヨセフもマリアと同様にたった一人で天使が告げるこの神の言葉と向き合いました。
毎年クリスマスにこの物語を読むたびに不思議に思うことがあります。それはどうして夢で天使の言葉を聞いたあと、ヨセフはマリアと一緒になって天使が自分に告げたこの神の言葉についていろいろと話し合うようなことをしなかったのでしょうか。いきなりまだ結婚していないマリアのお腹に男の子が宿ってから、彼らはずっと同じように悩んできたはずです。相手のことを信じたいと思いながらもずっと戸惑い続けてきたはずです。
ヨセフにいたってはときにマリアについて不信感を抱いたことだってあったかもしれません。それにこの当時、結婚する前に子どもを妊娠することは石で打ち殺されてしまうほどの大罪です。これから自分たちはどうしたらいいのかと思いあぐねていたにちがいありません。だからこそ「ねえねえ、マリア、昨日、夢のなかに天使が現れて私にこんなことを言ったのだよ」。「マリア、あなたが言っていた自分のお腹の子は聖霊によって宿ったって本当だったのだね」。「すぐに信じてあげられなくてごめんね」。そのように夢のなかで天使に告げられた神の言葉について、マリアと一緒にいろいろと思いを分かち合いたくなったって、それはおかしくないだろうと思います。
けれども聖書を見る限り、そんな描写は一切、記されていないのです。むしろヨセフはマリアと同じです。たった一人で、天使から告げられた神の言葉を受け止めて、一人で決断し、マリアを妻に迎え入れました。
このことは何もヨセフは信仰が強い人だったから、正しい人だから、こんなことができたなんて、そんなつまらないことを言っているわけではありません。その証拠に主の天使はヨセフに言っています。「恐れずマリアを妻に迎えなさい」。ヨセフだって恐れたのです。ヨセフだって怖かったのです。本当はすぐにでも逃げ出したかったと思います。マリアのお腹に赤ちゃんがいると知ったとき、自分は裏切られたのではないか、マリアは聖霊によって赤ちゃんを身ごもったなんて言うけれど、本当は他の男の子どもではないか、自分は騙されているだけなのではないか、そのような不安に襲われたと思います。マリアを守るために密かに彼女と縁を切ろうとしていたけれど、内心はどこかで彼女のことを憎んでいたかもしれない。誰の子か知らない得体の知れない子どもの父になることを本当は心のどこかでものすごく恐れていたかもしれない。
ヨセフはそんなふうにずっと孤独に一人悩んできたはずです。苦しんできたはずです。けれどもヨセフは逃げずに一人で神の言葉と向き合いました。それは主の天使が言われたように主はインマヌエル。彼と共にいてくださるお方であったからです。インマヌエルである主が孤独に悩むヨセフのことを支えて、一人で神の言葉と向き合う勇気を与えてくださいました。
私たちもときにマリアやヨセフのようにたった一人で自分自身と、いや、自分に語られている神の言葉と向き合わなければならないときがあります。たった一人で神の言葉と格闘し、たった一人で祈らなければならないときがあります。
将来のこと、家族のこと、自分の汚いところ、愛せないところ、本当に恐れていること、そういう自分の心にある深い部分はそう簡単に誰かと分かち合うことはできません。誰かと笑い合っても、一緒のときを過ごしても、消えない心の暗闇のような場所が私たちにはあります。そういう自分自身の心と向き合うこと、そこで語られる神の言葉と向き合うこと、それは怖いことです。それはとても苦しいことです。
しかしそのときも私たちはけっして一人ではないのです。天使が預言者の言葉を通して告げたように、主はインマヌエル。あなたと共にいてくださる。
ある人がこのように言いました。「私たちはどこで神と出会うのか。それは親にも先生にも言えないような、誰にも見せられないような心の深く暗いところ、心の掃きだめのような場所で私たちは神と出会う」。
いま、私たちの心のなかにも誰にも言えない悩みがあるでしょう。これを知られたら私はもう誰からも愛してもらえないだろうと思うような、心の汚いところがあるでしょう。そこで私たちは神様と出会います。
主の天使は言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。生まれてくるこの子は、イエスと名付けられた神の子は、私たちをそのような暗闇の中から、孤独の深い穴の中から引き上げ、救い出してくださる神であります。
イエス・キリストがこの世に生まれたのは、この地に来られたのは、あなたを暗闇から、罪から救うためです。あなたの救いのために、あなたを生かすために人の子としてこの世に来られた主イエスが、あなたの罪を赦すために十字架で苦しみ、死に渡された主イエスが、いまこのときも私たちと共にいてくださる。そしていま私たちに語りかけてくださる。「あなたは一人ではない。私があなたの罪を赦した。大丈夫。私がここにいる。私があなたと共にいる」。だから私たちはもう何も一人で不安に怯え、涙し、恐れることはないのです。ただ安心して、あなたに語られる神の言葉を信じたらいい。この神に私のすべてを委ねたらいい。そこで私たちは救い主なる神と出会います。
そして更に聖書が伝えるクリスマスの喜びはそこで終わりません。マリアとヨセフがそれぞれに神様と向き合い、悩んだように、あなたが一人で悩み、神様と格闘しているとき、また別のところで一人、真剣に神の言葉と向き合っている人がいます。自分の罪に悩みながら、孤独に苦しみながら必死に生きようとしている人がいます。前に進もうとしている人がいます。
物理的に見たら、私たちは皆一人かもしれません。それぞれ場所は違うかもしれない。孤独かもしれない。けれどもそれぞれ同じ主に、インマヌエルの主に繋がっています。だから私たちはけっして一人ではないのです。主が共にいてくださる。そして私たちは同じ主に繋がっている。その仲間たちが共に同じ神の言葉を聴き、同じ主の名によって祈っている。これがまことの主にある喜びです。クリスマスに与えられた大きな恵みです。この偉大なる恵みにいま私たちはこの礼拝を通して招かれています。
クリスマスってどんなとき。それは「一人で神様と向き合うとき」。一人で自分自身の心を見つめることは恐ろしいことです。その闇の深さに不安に押しつぶされそうになります。しかし、そこにイエス様が共にいてくださる。大丈夫だ、と言ってくださる。そしていま私たちはその同じ主に繋がっています。同じ主に心を合わせて祈ります。ほら、そこに暗闇を照らす主イエスの希望の光がぱっと輝きます。
クリスマスの主イエス・キリストの父なる御神、いま私たちの心には深い闇があります。罪に塗れた誰にも言えない心の闇があります。しかしあなたはそこに来てくださいました。そこで私と出会ってくださいました。神様、ありがとうございます。いま一人、暗闇の中を歩む者、いま一人、孤独に涙する者もあなたに出会うことができますように。あなたが語りかけてください。希望の言葉を。喜びの言葉を。私たちのために主は来ませリ。主は来ませリ。このクリスマスの大きな恵みをいま共々に感謝し、賛美を捧げます。この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン









