神の慈愛と、忍耐と、寛容と
ローマの信徒への手紙 第2章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
■主の日の礼拝においてローマの信徒への手紙を読み続けてまいりまして、今日から第2章に入ります。ずいぶん長く第1章を読んできたわけですが、それにしても第1章の後半部分は、読む者の心を重くするものがあると思います。ここに、手加減なしに伝えられているのは、人間の罪の現実であります。第1章29節以下に、こう書いてあります。
あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。
事実、このような世界に私どもは生きております。それを正直に伝える聖書の言葉を読んで、われわれの心は重くなるだろうと申しましたが、案外、それだけではないかもしれません。私どもの心は、こういう言葉を読んで、ただ心が重くなるほど、素直ではないかもしれません。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い」、そういう言葉を読みながら、私どもはいろんなことを考えるだろうと思います。「どうして人間の心はこんなに悪いんだろう。どうしてこの世界はこんなに悪いんだろう。どうしていつまでたっても戦争が終わらないんだろう。どうして正直者が馬鹿を見て、悪いやつらが甘い汁を吸うような、そんな社会になってしまったんだろう」。それで、人によってはこういうことを思うかもしれません。「昔はここまで悪くはなかったのに」。「キリスト教国だったら、きっと、もっとましだろうに」。そこで私どもが何を考えるかというと、第1章32節。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行うばかりか、それを行う者を是認さえしています」。「そうだ、そうだ、けしからん。困ったことだ。本当に嘆かわしいことだ」と、言いながら、なかなかこのような聖書の言葉を、自分のこととしては聞こうとしないかもしれません。むしろ、わざと困ったような顔をしながら、社会を裁き、あるいは遠い他国の政治家を裁きながら、「どうしてあんなに悪い人が、大統領なんかになっちゃったんだろう」。同じ調子で、隣人を裁き、あるいは家族を裁き、しかしなかなか自分のこととして聖書を読もうとはしないかもしれません。
■そういう私どものために、第2章が始まるや否や、こう言われるのです。
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。
ここで興味深いことは、突然主語が「あなた」に変わることです。第1章の後半では一貫して主語は「彼ら」であったのに、突然ここで、「あなたのことですよ」。「あなたは、他人を裁いている。まさにその点において、自分自身を罪に定めているのだ」。
先ほどサムエル記下第12章の最初の部分を読みました。王であったダビデは、自分の部下の妻が非常に美しいのを見て、これを自分の寝室に連れ込むことに成功し、けれどもこれが世間の知るところになりそうだということを恐れて、この女の本来の夫を戦場で罠にかけて殺してしまいます。姦淫と殺人の罪を犯した上で、ダビデは晴れてこの女を正式に自分の妻にしてしまうのですが、そのダビデのところに預言者ナタンが来て、ひとつの譬え話を語って見せました。ある金持ちの男が、自分の客をもてなすのに、自分の家畜を惜しんで、同じ町に住んでいた貧乏人の持っていたたった一匹の小羊を奪って、それを客のためのご馳走とした。その貧乏人から奪い取った小羊というのは、さながら彼の娘のようであって、息子たちと一緒に成長し、同じ食器で一緒に食事をし、夜になると彼と同じ布団で眠ったというのですが、ダビデはこの話を最後まで聞くことさえ我慢ならず、顔を真っ赤にして腹を立てました。「主は生きておられる。そんな男は絶対に死刑だ」。すると預言者ナタンは言いました。「あなたの話ですよ」。ダビデは、ここまで言われて、どうして自分の話だと察することができなかったのでしょうか。不思議なことですが、しかしきっと私どもも、ダビデと同じくらい物分かりが悪いと思います。
私どものところには、幸か不幸かナタンのような預言者はめったに現れないのですが、その代わりに聖書が与えられています。聖書が私どものために何を語るかというと、要するに、「あなたがその人です」と、そう言うのです。
私どもは、人を裁くのが大好きです。特に最近は、テレビをつければ、また今度は誰が裁かれているんだろう、という調子です。私は思うのですが、その意味では、人間という生き物は「善悪をわきまえているのです。自分が、何をすれば正しいのかを知っているのです」。だから、「他人の行為まで裁きます。裁きながら知る快感に酔います。ひとの悪徳を見つけ、暴き、糾弾し、自分が正義に生きているかのような錯覚を楽しみます。テレビで得意げに評論する人びと、それを楽しんで見ているわれわれ日本人は、次々と犠牲者を見つけます。自分でなければ誰でもよいのです。……自分も誰かの噂話の種になっているでしょう」。
今私は、途中から断りなく、他人の文章をまるまる引用しました。かつてこの教会の牧師であった加藤常昭先生の『祈り』という書物です。6月11日の祈りとして、ローマの信徒への手紙第2章1節に基づきながら、こういう祈りを書いています。その一部をもう一度読みます。
私どもの罪は、悪を知らずして犯しているというようなものではありません。善悪をわきまえているのです。自分が、何をすれば正しいのかを知っているのです。他人の行為まで裁きます。裁きながら知る快感に酔います。ひとの悪徳を見つけ、暴き、糾弾し、自分が正義に生きているかのような錯覚を楽しみます。テレビで得意げに評論する人びと、それを楽しんで見ているわれわれ日本人は、次々と犠牲者を見つけます。自分でなければ誰でもよいのです。
■もしも神が、私どもが人を裁いているのと同じ勢いで、同じ素早さで私どもを裁かれたら、どうなるでしょうか。3節にはこう書いてあります。「このようなことを行う者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」。しかし、別に皆さんを信用しないわけではありませんが、きっと私どもは、そこまで言われても、まだそう簡単には心を動かさないだろうと思います。「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」と言われても、「うーん、まあ、確かにね」とか言いながら、まだどこか心に余裕があるのです。神の裁きとか、神の怒りとか言われても、今日明日の生活に困るわけではないからです。だから、なんか今日の牧師の説教は厳しいなあ、とか思いながらも、自分の生活を変えようとまでは思わない。依然として私どもは人を裁くことをやめられないし、何よりも、神から裁かれることよりも、人から裁かれることのほうがずっと怖いのです。
しばらく前に、あるテレビ局が起こした不祥事のために、午後4時から始まった記者会見が、食事の時間も挟まずに、日付が変わって午前2時まで、10時間以上に及んだと聞いています。私はあまりにも情けなくて見てもいないのですが、かつてこの教会の担任教師であった矢澤俊彦先生という方が、現在は山形県で伝道しておられますが、このテレビ局の記者会見について地元の新聞にたいへん優れた論評を寄稿しておられます。1階のロビーにその記事が掲示されていますので、関心のある方はお読みいただきたいと思います。かなりはっきりと、あの記者会見それ自体を批判しておられます。「小中学生や外国人には、とても見せられない光景です」。「弱った人々を繰り返し攻撃し、責め続ける……」。「諸君、もう帰ろう」と、どうして誰も言い出さなかったか。ただの自己顕示欲でしかない。ただの自己満足でしかない。日ごろ感じている社会的不満のはけ口でしかない。こういう文章が、たとえ地方紙といえども、広く人びとに読まれたということは、本当に尊いことだと思いました。
人間誰しもひとつやふたつ、絶対に人には知られるわけにはいかない秘密を持っているものだと思います。もっとも神からご覧になれば、本当はひとつやふたつでは済まないかもしれませんが。もし明日にでも、自分の隠れた悪行について、日付が変わるほどの謝罪会見をしなければならなくなったとしたら、生きた心地がしないだろうと思いますが、しかし、神の怒りとか神の裁きとか言われても、私どもはまだ何となく心の余裕を持つことができてしまうのです。
■ところがここでパウロが言うことは、「神は必ずあなたを裁かれるのだから、覚悟しておけ」ということでは、ないのです。
それとも、神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか(4節)。
なぜ、私どもはまだ裁かれていないのでしょうか。なぜ、私どもはまだ、日付が変わってしまうほどの謝罪会見をせずに済んでいるのでしょうか。「あなたを悔い改めに導く神の慈しみ」があるからです。なぜそれを知ろうとしないのか。「その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを」、なぜ軽んじるのか。
「慈愛」とは、「親切」とも訳すことのできる言葉です。「恵み深い」と訳されることもあります。しかし「親切」とか「恵み深い」とか言い換えて見せても、きっと皆さんの右の耳から左の耳へと流れていくだけかもしれません。しかしよく考えていただきたいのですが、私どもは、良い人のために親切にするのは得意ですが、意地悪な人のために親切にすることは苦手です。何度言ってもわからない人に対して親切にすることは、非常に疲れます。どうしてこんなに罪深いんだろうと見える人に対して親切にすることは、ほとんど不可能にさえ思えます。ところが神は、われわれ罪人に対しても親切である。偉そうに人を裁いてばかりいる私どもに対しても、神はそれでも親切である。したがって、「慈愛」と言われるのです。「恵み深い」のです。
その次の「忍耐」というのは、聖書には「忍耐」と訳される言葉が、実は何種類もあるのですが、この言葉は新約聖書の中でローマの信徒への手紙にだけ、しかも2回だけ使われる言葉で、「差し控える」という意味の言葉です。特に、敵意をあらわにしたり、罰を与えることを差し控える、ぐっと思いとどまるということです。神が、今も私どものために、ぐっと思いとどまっておられるとしたら、どうでしょうか。
最後に「寛容」であります。お気づきの方もあるかもしれませんが、かつて用いていた新共同訳では「慈愛と寛容と忍耐」と訳されました。つまり「寛容」と「忍耐」がそっくり入れ替わってしまったわけで、事実この「寛容」という言葉は「忍耐」という意味を含みます。単に心が広いというよりも、もともとの意味は「長く苦しむ、多く苦しむ」という言葉です。「あの人、あんなに長く苦しんで、あんなにたくさん苦しんで、よくキレずにいられるなあ」。しかしここでの問題は、神の苦しみであります。神は、私どものために、今に至るまで長く苦しんでおられると言うのです。
■その神の「慈愛と忍耐と寛容」について、原文ではこれを「富」と呼んでいます。私どもの翻訳では「豊かな慈愛と忍耐と寛容」と言うのですが、直訳すれば「慈愛と忍耐と寛容の富」であります。宝であります。神の裁きとか神の怒りとか言われても、なんか今日の説教は厳しいなあ、くらいにしか思わないのが私どもの性根であるのかもしれません。けれども、「神の慈愛と忍耐と寛容」のことを思いながら、そのような神の思いによって扱われている自分の立場に気づくならば、神の慈愛と、忍耐と、長く苦しむみ心とが、実は自分にとって、どんなことをしてでもすがりつきたい富であるということに気づかないわけにはいかないと思うのです。
もしもです、もしも明日にはテレビで謝罪会見をしなければならないということになったら、きっと私どもは生きた心地もしないだろうと思います。もしそれを一ヶ月でも二ヶ月でも日延べすることができれば、それだけでもどんなにありがたいかと思うに違いありません。そこで得られた時間を用いて、精一杯の言い訳を考えるでしょう。そして、少なくとも人の目に見える範囲では、行いを改めて見せるでしょう。しかし神が私どものために長く苦しみながら、その怒りを差し控えておられるのは、単なる先延ばしではありません。「あなたを悔い改めに導くための、神の慈しみ」であります。それは、富としか言いようのないものなのです。
ところが問題は、「その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか」。この「軽んじる」という言葉も興味深いもので、「下に・思う」という意味の言葉です。見下すのです。安く見積もるのです。神の慈愛と忍耐と寛容とを見下して、安く見積もって、その結果何が起こったでしょうか。それは、今日読んだ聖書の箇所には書いていないことですが、私どもが何度でも教えられていることです。「神の慈愛と忍耐と寛容との富」とは、主イエス・キリストご自身にほかなりません。そして私ども人間は、事実、このお方を限りなく安く見積もりました。これを十字架につけて殺してしまいました。人間が、神を裁いたのです。「生きる価値なし」と。そして今も同じように、私どもは人を裁きながら生きております。もしそうであるならば、「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています」(5節)。そういうことにならざるを得ないではないか、と言うのです。
■最後の11節に、「神は人を分け隔てなさいません」と書いてあります。神はどんな人も分け隔てなく愛しておられますよ、という意味ではありません。もちろん事実としてはそうなのですが、ここでのニュアンスは違います。6節に「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」とあるように、どんな人も、神の裁きの前では有利になったり不利になったりしない。人によってその裁きが免除されたり、大目に見てもらえるなんてことは絶対にない。神はすべての人を分け隔てなく、正しくお裁きになる。
しかし考えてみれば、これは非常に望ましいことではないでしょうか。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」。ぜひともそうあってほしいと、私どもは常日頃、そう願っているのではないでしょうか。悪い人が裁かれてほしい。正直者が馬鹿を見るような世界であってほしくない。けれども現実問題、この世界はそうなっておりません。悪い人が大手を振って歩いています。正直者が馬鹿を見るのです。涙を流すのです。血を流すのです。場合によっては、命を落とすのです。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」。「神さま、どうか、どうか、そうなさってください。ただし、わたしだけは大目に見てください」。そうはいきません。神は、人を分け隔てなさらないからです。
ある神学者が、「神は人を分け隔てなさいません」というこの言葉を言い換えて、「神は仮面をご覧にならない」と言いました。私どもは、事実、いろんな仮面をかぶって生活をしているのです。そして、その仮面の下の本当の顔は、容易に人には見せません。結構疲れる生活です。しかし神は、仮面をご覧にならない。ありのままのわたしだけをご覧になります。ありがたいことです。しかしまた、私はこの神学者の言葉を読んだとき、大げさでも何でもなく、背筋が寒くなるほどの恐れを抱きました。「神は人を分け隔てなさらない」というのは、どんな仮面をかぶっていても、神の前では通用しない、ということです。
特にこのローマの信徒への手紙第2章の文脈で問題になっていることは、9節と10節に繰り返し出てくる「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも」ということです。つまり、「わたしはユダヤ人である」ということが、神の前にも通用すると思い込んでいた人たちに対して、「神は人を分け隔てなさいません」。「そんな仮面は、神の前では通用しません」と言っているのです。しかし私どもも、いろんな仮面をかぶっているでしょう。人間同士のお付き合いにおいては、その数々の仮面が非常に役に立つのです。「わたしはユダヤ人です」。「わたしは日本人です」。ところが神が仰せになることは、「そんなことはどうでもいい。お前は、何者なんだ」。もっとたくさん、いろんな仮面があるでしょう。「○○大学の出身です」。「△△商事の部長です」。私自身のことで言えば、「私は鎌倉雪ノ下教会の牧師です」。ところがそこで神が仰せになることは、「そんなことはどうでもいい。お前は、何者なんだ」。神は、仮面をご覧にならない。その意味で、神は人間を分け隔てなさらない。本当の〈わたし〉だけを、神はご覧になります。何の仮面も役に立ちません。ただ、ひとりの罪人として神の前に立つほかありません。まさにそこで、神の慈愛と忍耐と寛容の富が、自分にとってどれほどかけがえのないものであるか、そのことを知ります。それがわかれば、きっと私どもの、人を裁く病んだ心も癒されるでしょう。
そのための主の日の礼拝です。そのための聖餐の食卓です。この罪人のために、このわたしの身代わりとなって、十字架につけられたお方の前に、今共に立ちます。このお方の十字架の前で、どんな仮面も役に立たないのは当たり前です。神の慈愛と忍耐と寛容の富に応えて、今恐れと感謝の心をみ前にお献げしたいと心より願います。お祈りをいたします。
あなたのみ子は、私どもの罪のために十字架につけられました。私どもが義とされるために、お甦りになりました。このお方の真実の前で、私どもの偽りの仮面が打ち砕かれることを、喜びとさせてください。ありのままのわたしが、今あなたに裁かれています。あなたに愛されています。その恐れと喜びの中で、人を裁く心が砕かれ、癒されますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン