怒りの奥底にあるもの
ルカによる福音書 第15章25-32節
柳沼 大輝

主日礼拝
1月19日の主日礼拝において、主イエスがお語りになったこの「いなくなった息子」のたとえの前半部分を取り上げました。本日は、この後半部分に描かれる兄息子の姿に思いを向けながら、御言葉に聴きたいと思います。
その「時」は唐突に訪れました。兄息子が畑でいつものように仕事をし、その後、帰り支度をし、家に向かい、もうすぐ着くというところです。家の中からにぎやかな宴会の様子が、音楽や踊りの音によって彼の耳に届きました。
兄は僕の一人を呼んで「これは一体何事か」と尋ねます。僕は「あの」弟が帰ってきて、それを父親が喜んで宴会を開いているのだと答えます。
するとムラムラと怒りが沸き起こり、兄息子は一向に家の中に入ろうとしませんでした。
ある意味、この兄の思いは誰にでも分かることであります。この兄の気持ちに同情できない人は一人もいないでありましょう。
前回、見たように弟息子に対して確かに父親は愛に富んでいます。つまり、父なる神は恵み深いことを理解しますが、同時に、私たちは兄息子の怒りにも共感するのであります。
弟息子は自分で好きなことをやってきたあげく、存在を失われた、にもかかわらず、見出され、喜んで迎え入れられる。それは弟息子にとっては良いかもしれませんが、同じ兄弟である兄息子にとっては、自分は父親とずっと一緒にいて真面目に暮らしてきたわけで、父親が、自分勝手な者を喜んで迎え入れることなど承服できない。怒りが沸いてくる。その兄の言い分も最もであります。
しかし、これは単にすねているというレベルの問題では済みませんでした。わざわざ家の中から外に出て来て、兄息子の怒りをなだめようとする父親に向かって、兄は言います。
「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(29,30節)
この言葉に示されているように彼が真面目に働いて、ひたすらに父に仕えてきたという事には、嘘はひとつもないと思います。しかし、この父親への言葉から兄息子の怒りの奥底に潜んでいた本当の想いが露見してしまいます。それは、自分は父親に対して本当は「愛」などもっていないということでありました。
「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています」。この「仕えて」という言葉は、聖書に頻繁に用いられる言葉とは違う言葉です。たとえば、キリスト者が主に「仕える」というときに用いる言葉があります。ここに用いられている言葉は、それとは違います。この言葉は、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という特別な意味を持っています。兄はそれを用いているのです。驚くべきことです。これまで父親に孝行を尽くし、忠実に生きてきた、その生き方を、いま父親と相対し、振り返り、自分の功績として語っていく時に兄は父親に向かって言ってのけるのです。
「私が今まであなたに忠実に生きてきたのはけっしてあなたへの愛によるものではない。私はまったくあなたのことなんて愛していない。私はあなたの奴隷なのだ。だから仕方なく、これまであなたの言いつけに従って、あなたに対して忠実に仕えてきただけなのだ。」
今まで愛を込めて息子たちを育て上げてきた父にとってまるでその愛を裏切るような、残酷な言葉であります。もっとほかにいくらでも言い様があったかもしれません。しかしこの兄はそんな言い方しかできないのであります。この兄息子は父親に対して忠実に仕えているようでいて、実はそのような愛のない生き方をしてきたのだと、主イエスは語るのです。
この時、兄息子の父親に対する務めや働きが、愛によるのではないことがいっぺんに分かってしまいました。それまで真面目で忠実で良い息子であった。それなのに弟が特別な待遇を受けると、いっぺんにメッキがはげるように、真面目で忠実で善良な顔の下に隠れていた本当の姿が見えてきました。この働きが愛によるのではないならば、この兄息子はいったい何のために働いてきたのでありましょうか。彼がまるで奴隷のように忠実に父親に対して、仕えてきた理由、それは他でもない「打算」でありました。
打算という言葉には嫌な響きがあります。広辞苑でその意味を引くと「数えること、特に、損得を勘定すること、見積もること」とありました。
愛するが故に働くという時に損得勘定をするでしょうか。愛する時には損も得もない。ただ愛する相手に喜んでもらいたい一心で働くのではないでしょうか。たとえそれで疲れても、豊かな幸福を感じるのではないでしょうか。逆に損得勘定で動いている時には、いつも自分を誰かと比較しては、自分もそれなりだと自己満足にひたってみたり、いや自分は劣っていると劣等感に打ちひしがれてみたりするのであります。
弟の帰りと父の反応によって、まるでスイッチが入ったかのように、兄息子は、これまで黙っていた自分の努力によって積み上げてきた功績に対して、正当な対価と評価を要求し始めました。
兄息子の父親への言葉からは直接的にそれらを要求しているようには見えないかもしれません。しかし兄息子は言うのです。「見よ!」と。兄息子の言葉の冒頭「このとおり」と訳されているのは、直訳すれば「見よ」という言葉であります。ほら見てください。私は奴隷のように忠実に何年もあなたに仕えてきたではありませんか。自らの功績をぱっと広げて、それらをちゃんと見てくれと言う。私は一度だってあなたの命令に背いたことはなかったではありませんか。ずっとあなたの言うことを聞いてきたではありませんか。けれどあなたは私に友達と楽しむために子山羊の一匹も与えてくださいませんでした。それなのに娼婦らと一緒にあなたの身代を食い潰したあのあなたの息子が帰って来たら、なんとあなたは肥えた子牛を屠っておやりになった。
明らかに、自分の働きに対する正当な報酬を父は与えてこなかったし、弟が受けている待遇も、弟の何に対する評価や報酬なのか、筋が通らない。あなたが私に対してしていることも、弟に対してやっていることも、どちらも不当だ。兄息子は、そう訴え、非難し、父に不平を言っています。
兄息子は思っているのです。「弟は放蕩に身を持ち崩し一切を失ったのだ」。つまり「あの弟は自業自得だ」。だから、そんな奴のために肥えた子牛を屠ってまで喜んで宴会を開いてやる必要なんてない。あんな奴に同情の余地などないと。
世の中ではこの兄の考え方の方が当たり前で、そちらの方が筋が通るとされるでありましょう。自分のせいで失敗した者はそれ相応の評価、報い、罰を受けるべきであるし、自分でその責任を取るべきであるとされるでしょう。しかし父なる神の思いは違うのです。神の愛に打算などない。神は豊かな愛をもって、その失われた者を見出し、憐れみ、御自分のもとに喜んで招き、その愛の内にその者を迎え入れるのであります。
このことは容易に受け止めることができない事柄でありましょう。忠実に真面目に生きている者にとって、いい加減で自堕落な者も神の救いに与っているという事実は理解できない。喜べない。だからキリスト教は甘いのだという批判がどこからか飛んできそうであります。しかしこのことは、私たちだって感じることがあるのではないでしょうか。どうしてこの人が救われているのだろうか。どうしてこの人が神に愛されているのだろうか。自分にとって都合の悪い相手が神に愛されているということを私たちだって受け止められない。喜べない。むしろ怒りが沸いてくるのではないか。それは親子、きょうだいといった家族のような身近な存在であれば、尚更であります。ここに私たちと父なる神の思いとの間に大きな違いがあるのです。しかしこの違い、このズレは、実は決定的で、根本的なものであります。そこが分からないと、聖書の御言葉をそれこそ打算的に都合よく聴くことになるでありましょう。
だからこそ、この兄息子が抱えている問題に目を向けなければなりません。愛によらない兄息子の生活は四つのないものがあります。
一つ目は、その生活には喜びがありません。愛によらない、愛を根拠としない、愛を動機としていない時には、自分のことばかりを考えるものであります。自分のことばかりを考えるというのは、自己満足を追い求めることになります。自己満足できた時には、確かに喜ぶ。しかしそれはまことに儚く、瞬く間に消えてしまいます。愛なく、仕えることは、重荷であり、辛く、呟きばかりが出てくるものであります。
二つ目は、感謝のない生活であります。自分の生活のどれこれも、自分の努力で築き上げたものであると思っているので、たとえ自分を誇ることはあっても感謝することがありません。いや感謝することができません。それは弟に対しては妬みとなるのであります。表面上は真面目にしていて、周りの人たちから褒められていたとしても、内心では好き勝手にやっている弟のことが羨ましくなったり、妬ましくなったりするのです。それは感謝ということからはほど遠い生活であります。
三つ目は、ゆるしのない生活になるということであります。自分が勝手にした見積もりを間違いないものと見なし、それに基づく評価をきちんとしない者はゆるすことができないのです。また見積もりと食い違う不当な待遇を受けている者もゆるせない。ゆるせない時、相手を非難し、裁き、攻撃することになります。これまでは上手にそうしないで、良い子としてやってきたはずなのに、スイッチが入った途端、兄息子は容赦なく、弟を、父を責めました。そこにゆるしはありません。
四つ目は、すでに与えられてある恵みを恵みとして認識できないということであります。父は、私のものは全部お前のものだと言っていますが、それはきっとこの時、初めて言った言葉ではなく、日頃から、何度も息子たちに言い聞かせてきた言葉であったはずであります。しかし兄息子はすでに多くの恵みを与えられていながら、自分は何ももらっていないと平気で言ってしまうのです。兄息子は、父と一緒にいることがどんなに大きく豊かな恵みであるか分からないのです。自分が努力して積み上げてきた功績については逐一記録し、見積もりをしているのに、自分に与えられているものについては見ようとしない。数えない。何故なら、それに価値を見出せないからであります。
これら四つのないものの根本にあるのは何でありましょうか。それは父なる神を愛することのできない私たちの「罪」であります。すでに見たように兄息子は、父親を愛していたから父に対し、忠実に仕えていたのではありません。彼は父親に評価してほしくて、見てもらいたくて働いていたのであります。そこには喜びも感謝も、ゆるしも恵みを数えることもありませんでした。
まるで空しい生活であります。けれど私たちもときに同じような罪に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちだって自分のことを見てほしいのです。正当に評価してもらいたいのです。自分のことを分かってもらえなかったら、当然、寂しい、悔しい、怒りが湧いてくるのです。しかしそこに神への愛はあるでしょうか。父なる神のことを見つめているでしょうか。結局は自分のことしか見ていないのではないか。そんな時、私たちはまるで奴隷のように喜びも感謝も自由もなく、ただ忠実に仕えているだけだったということに気づかされていくのです。そこには、神への愛も、誰かを思いやる隣人への愛もありません。
しかし父なる神を愛し、隣人を愛し、その愛に生きる時、すべてが裏返るのです。たとえ自分の働きが一見、実らなくとも、認められなくとも、それでも喜んで仕えることができるようにされていく。そして愛に生きる時、感謝が溢れてくるでありましょう。世間から見たらつまらない事であっても、心から感謝することができる。そして愛に生きる時、ゆるしが起こる。自分がゆるされていることに感謝し、関わる人の弱さや欠けや落ち度についても、ゆるすことが起こる。本当はゆるせないと思うものです。どうしてもゆるせない人がいるのです。しかし愛に生きる時、ゆるしも父なる神に委ねることができるので、委ねる信仰のうちに、ゆるしというものも起こされてくる。そしてすべてが恵みとしか言いようがなくなる。そうです。あなたが、いまここに生かされていることも恵みでしかないのです。その恵みのなかで私たちは神を賛美し、言わざるを得ないでありましょう。「父よ、私はあなたを愛します」。
改めて、目に見えて失敗した弟のような者だけでなく、目に見えぬ、秘められた傲慢という罪を持つ兄も、弟と同じ「失われた者」であります。主イエスの十字架によって罪を赦し、永遠の命を与える父の愛は、この兄にも注がれています。
父親は愛のない兄息子、怒って家の中に入ろうとしない兄息子を責めるのではなく、そういう兄息子のところに出て行き、兄息子を「なだめる」のです。父親、御自らが兄息子のところに行って、「さあ、一緒に喜ぼう」と言うのです。
この父親の態度は、弟息子だけを特別に愛していることを意味しません。家の中に入ろうとしない兄息子に対しても、弟息子の時と同じように、父親の方から出て行くのです。弟息子を迎え入れた時にも、弟息子の方から父の家に入ったのではありませんでした。父親の方が、まだ遠くにいる弟息子を見出して、そして父親の方から弟息子のところに行ってくれたのです。同じように、怒って家の中に入ろうとしない兄息子のところにも、父親が出かけて行っているのであります。そして弟息子の味わった辛い思いを理解できない兄息子に対して、怒りに満ちている兄息子に対して、「さあ、一緒に喜ぼう。受け入れよう」と家の中に招いてくださっているのであります。
私は思うのであります。怒りに満ちているこの兄息子を愛して止まない、そういう父親だったと思うのであります。怒りのあまりに「私はあなたを愛していない。私はあなたの奴隷でしかない」と、思わず、親の愛を踏みにじってしまうような愛のない兄息子に対して、父はもう一度、諦めず、「子よ」と呼びかけてくださる、そういった愛に富んだ父親だったと思うのであります。
この父の愛を、父の招きを、十字架をもって、実現させる主イエス御自身が告げておられます。残念ながら、兄息子の応答は記されていません。つまり、私たちに投げかけられています。私たちが答えるのが待たれています。あの弟息子の帰りをずっと待ち焦がれていた父は、実は、長い間、兄をも待っていたのではないでしょうか。兄息子が自分の愛のもとに帰って来るのをずっと待ち焦がれていたのではないでしょうか。そして神は「早く来い」と、いま私たちが主の愛に立ち帰るのを待ってくださっています。
しかし、私たちはいくら諭されても、教えられても、どこまでも自分のことしか考えられず、神を心から愛することができず、ろくに悔い改めもできない。すぐに怒り、不平が尽きることはないでしょう。一所懸命に忠実にやっていると思えば思うほど、神の愛から離れて傲慢になっていくでありましょう。人をゆるせない時もあるでしょう。この者の救いは、唯々復活の主にかかっています。詩編詩人の歌にあるように、ただ「主よ、私を憐れんでください」としか言えない者に復活の主が応えてくださる。主は言われます。
「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」(32節)
この言葉は復活の主と差し向いて聞くならば、「失われていたのに見つかったのは、他ならないお前だ。お前がいま、目の前におり、一緒にいる。なんと嬉しいことか。なんと喜ばしいことか。この礼拝は失われていた者が見つかった祝宴ではないか。つまり、この礼拝はお前のための祝宴なのだ」と聞くことがゆるされるでありましょう。
しかし、私たちはそんなにすぐに信仰深くなれない人間です。相変わらず愚かであります。自業自得に罪に陥っていきます。けれどそんな私たちの愚かさ、不信仰さ、頑なさにはるかに勝った父の愛がここにあるのです。十字架によって赦されない罪などないのであります。罪深き者をなお神は愛して止まない。神はなお憐れむ。迎え入れる。これが、主イエスの御言葉であります。私たちに与えられている福音の喜びであります。十字架によって、いま、御前に立つ恵みを、恵みとして見出す目が開かれよ。主よ、憐れんでください。御霊よ、来てください。父よ、私たちはいまあなたへの愛をもって、その恵みを喜んで受け入れます。
天の父よ、あなたの愛を忘れ、あなたを愛することを拒み、私たちは失われた者でありました。しかしそんな頑な私たちのところにあなたが来て下さり、御手を伸ばし、声をかけてくださいました。「一緒に笑おう。一緒に歌おう。一緒に喜ぼう」。ここに私たちの生きる場所があります。帰る場所があります。神様、ありがとうございます。今日も明日もいつの日も、あなたの恵みに生かされ、あなたの愛に生きることができますように。父よ、お守りください。主よ、お支えください。私たちは心の奥底からあなたを愛します。この祈り、主イエス・キリストの御名によって、御前に捧げます。アーメン