1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 人を赦せない私たちのために

人を赦せない私たちのために

2024年9月29日

マタイによる福音書 第18章21-35節
柳沼 大輝

主日礼拝

「赦し」とは、私たちが日々人生を生きていくなかで避けて通ることのできない事柄であります。私は、趣味で、最低でも月に一本、小説を読んだり、映画を観たりしているのですが、昨今の小説や映像作品などを見てみますと、この「赦し」を題材とした作品が非常に多いことに気づかされます。例えば、娘を失った母親の自分の気持ちを理解してくれない家族や自分の娘を失踪に追いやった加害者への思い、事故で恋人を奪われた女性の憤り。しかし、そこで扱われているテーマは赦すことの大切さや和解の喜びではありません。その多くが、読者や視聴者に訴えるもの、それは赦すことの難しさ、葛藤であります。あるいは、赦せなくてもそれでいいのだ、仕方がないのだ、その憤りを抱えながらも、それでも前を向いて生きていこうと赦しの可能性を否定する作品も少なくありません。

「赦し」とは、このように私たちの日常において、決して目を背けることのできない重要な課題であります。けれども、実際に自分に危害を加えた、自分のことを深く傷つけた、その相手のことを赦すとなると、そう簡単に受け止めることはできないでしょう。みなさんの心のなかにもきっと誰かのことを赦せなかった、あるいはいまも赦せないでいる、そういった痛い経験が一つや二つあるのではないでしょうか。まさに「赦し」とは、人と人との間で多くの憤りや不条理を抱えて生きる私たち人間にとって、非常に厄介な代物であると言うことができるでありましょう。

本日の聖書の箇所が、その厄介な「赦し」を中心とした御言葉であることは、誰でも容易に伺い知ることができます。冒頭21節、ペトロは主イエスに問いかけます。

「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

歯に衣着せぬストレートな質問です。いきなり弟子の一人であるペトロが主イエスに対して、このように問うたのです。それはいったいなぜでありましょうか。その理由は、この直前で主イエスがお語りになった弟子たちへの教えを見るとよくわかります。主イエスは15節以下でこのように言いました。

きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。(18:15~17)

この忠告は何も罪人を見つけて、自分たちの共同体からつまみ出す方法を教えているのではありません。ここで、主イエスが強調していることは、もし誰かが罪を犯して、教会から離れてしまったならば、行ってその人をなんとかしてでも連れ戻そうとしなければならないということでありました。つまり、その人が自らの罪を悔い改めて、その人の罪が赦されるために私に従う者は、教会に生きようとする者は、その人に対してなしうる限りのことをしなさいと、主イエスは弟子たちに教えられたのです。

そこでペトロは具体的にいったい何が自分に求められているのか気になりました。自分はいったいどの「限度」まできょうだいのことを愛しなさいと言われているのか。だから、ペトロは問うたのです。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。

彼は、七回がほとんどの人にとって、回数としては多く、七回も赦せばもう十分だ。そのように主イエスに言ってもらえると期待していたのでしょう。しかし、主イエスから返ってきた言葉は、ペトロのことを称賛するようなものではありませんでした。22節「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」これは、何も七々四十九の10倍490回赦しなさいということを意味しているのではありません。人を赦すことにおいて「限度」はないのだ。七回、赦したからといって、八回目はもうおしまい。そうやって途中で引き下げるといったことはありえない。自分に罪を犯した者を赦すということは、いつかやり遂げてそれでおしまいということではないのだと、ここで主イエスは、はっきりと断言するのです。

主イエスは、その後、いつものように自分の答えにひとつのたとえ話を付け加えられます。家来たちに貸したお金の清算をしようとする王の物語です。清算の日、ある一人の家来が王の前に連れて来られました。彼には一万タラントンの借金、負債があります。

一万タラントン、これはものすごい金額です。聖書の後ろに載っている通貨の表を見るとわかりますが、一万を取った一タラントンでさえ、その額は、約6000日分の労働賃金にあたります。もし私たちが週休一日で働いたとして、そこから国民の祝日を引いて、一年で約300日労働。つまり、6000÷300で一タラントンは私たちの20年間分の労働賃金にあたります。さらにわかりやすく計算するために、年収を仮に500万円だとすると一タラントンは500万×20で一億円。そこに最後、先に取った一万をかけて一億×一万でその額はなんと一兆円にまで上ります。とんでもない金額であります。元々、このタラントンというお金の単位は、当時の国家予算を提示するのに使われていたものでありました。勿論、聖書の時代と現代とでは、お金の価値そのものが異なっているでしょうが、そのような桁違いの負債を負った家来が、ある日、その借金を清算するために王のもとに引き出されて来たのです。

当然、彼にそんな大金を返す力はありません。しかし、この膨大な負債を負った家来は、こともあろうに、王に向かって、このように懇願します。26節「どうか待ってください。きっと全部お返しますから」。きっと全部お返しする?本当に時間の猶予さえもらえれば、この家来は、借金を返すことができるのでしょうか。たとえ、家族を身売りしたとしても一兆円という大金、そんなもの、彼に用意できるはずがありません。

この家来は、いま、自分が置かれている状況をまるで理解していないのです。この家来は自分がどれだけのことをしでかして、いま、どれだけの負債を負っているかまるでわかっていないのであります。そんな救いようのない悲惨な状態であるにも関わらず、この家来は「きっと全部お返ししますから」などと平気で宣っている。いまの言葉で言うならば、この家来の懇願は「非常識」極まりないものであります。

しかしここでもっと非常識なことが、私たちの常識を超えたことが起こります。王がしきりに乞い願うこの家来の姿を見て、彼のことを「憐れ」に思い、彼の借金を帳消しにしてしまったのです。そうです。どうしようもなく救いようのない家来のことを、これまたどうしようもなく寛大な王がその負債を、その罪を見事に全部、赦してしまったのです。

この場面を読むとき、私たちは、はじめにどんな感想を持つでしょうか。なんて心の優しい寛容な王なのだろうか。この家来も自分の借金を帳消しにしてもらえたようで本当によかった。そんなふうに感じるでしょうか。本当によかったのか。本当にそう思うか。もし実際に、この現場にあなたが居合わせたとしたら、そして、仮にこの家来の借金があなたに何かしらの具体的な損害を与えているとしたら、あるいは、あなたの大切な誰かを傷つけたお金であったとしたら、あなたはこの家来が赦されたことを心から喜べるでしょうか。本当によかったと言うことができるでしょうか。いや、そうではないはずです。そんな綺麗ごと、口が裂けても、決して言えないのではないでしょうか。

では、私たちが抱く感情とはいったい何か。それは「怒り」であります。王への「怒り」です。どうして、あんなどうしようもない奴のことなんか赦すのだ。自分で借金をしたのだから自業自得ではないか。そのまま、拷問係に引き渡してやればいいのだ。そうやってまた甘やかすから、あいつはすぐに調子に乗るのだ。ほら見たことか。28節で借金を帳消しにしてもらった矢先にたった百デナリオン、約十数万円の借金を仲間から無理やり取り立てようとしているではないか。あんな奴、一生、赦されなければいいのだ。あんな奴、一生、苦しみながら生きていけばいいのだ。このように私に対して罪を犯した人が、誰かによって寛大に赦されるのを見るとき、私たちの心には、抑えきれない怒りが沸き上がってきます。深い憎しみが込み上げてきます。「どうしてあんな奴が赦されるのだよ!」これが私たちの本音ではないでしょうか。

先ほど、新約聖書と共にお読みした旧約聖書ヨナ書のなかで、ヨナは神に怒りをぶつけます。神はヨナに都ニネベに行って、この都はその罪の故に裁かれ、滅ぼされると告げなさいと言われます。ニネベと言えば、ヨナを含むイスラエルの宿敵、アッシリアの首都がある場所です。当然、ヨナはニネベこそ、その罪深さの故に滅ぼされてあたり前だと思っていました。しかし、ヨナがニネベに裁きを告げると、なんとニネベの人々は、王様から最も身分の低い者までみな、ことごとく自分たちの罪を悔い改めてしまいました。このことは、ヨナにとって不満で仕方がありません。神は、彼らの悔い改めを受け入れて、ニネベのことをなんと赦してしまったのです。ヨナは神に訴えます。

「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシュシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているよりも死んだ方がましです。」(4:2~3)

ヨナは、神が恵みに満ち、憐れみ深い方であることを知っていました。しかし、罪の故に滅ぼされるべきニネベを赦してしまう神を、彼はどうしても赦すことができない。神への激しい怒りが込み上げてきます。

ヨナはきっと彼らのこの悔い改めは一時的なものに過ぎない、そう思って、すぐに都の全体を見下ろせる丘の上に陣取って、ニネベがいつかぼろを出さないかとじっと監視します。しかし、そこに灼熱の太陽が照り付け、ヨナは苦しみ悶える。そこで、神はとうごまという木を一夜にして、生え出でさせ、その木の枝によって、ヨナに涼しい木陰を与えます。しかし、神は一夜にして、虫によってその葉を食い尽くさせ、そのとうごまを枯れさせてしまいました。ヨナは、再び、悶え苦しみ「生きているより死んだ方がましです」と言う。そこで、神は、ヨナに問いかけます。「あなたは自分で労することも育てることもせず、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」ここで、ヨナ書の物語は終わります。

私たちはときにこのヨナのように自分に罪を犯した誰かが赦されることを強く拒みます。人を傷つけて、苦しめたのだ。あんな奴、赦されていいはずがない。お前は一生、その罪悪感を抱えて生きていけばいい。それが人を傷つけた代償だろう。そのように私たちは「人と人との関わり」において、激しい怒りを、深い憎しみを感じることがあります。そうやって、私たちはニネベを見下ろせる高い丘の上に登ったヨナのように、人の上に立ち、傲慢にも自分の物差しで誰かのことを裁き出す。人を赦せない自分を正当化し、自分の「正義」を振りかざし、「勧善懲悪」の名のもとに、自分に罪を犯した者を懲らしめたいと強く願う。

しかし、そんなことをいくら続けていても、私たちは、決して救われることなんかないのであります。

頭ではそんなのとっくにわかっているのかもしれない。けれども私たちは誰かのことをずっと赦せずに憎しみに囚われ、悶え苦しんでしまう。それなのに、また平気で他者を裁き、傷つけてしまう私たちがここにいる。人を傷つけてしまった自分に絶望し、自己嫌悪に陥っている私たちがここにいる。

あの日、王の前に連れて来られた、そのまま、牢屋にぶち込まれても仕方のなかった、そんなどうしようもなく救いようのない悲惨な家来は、他でもないこの私ではないか。その事実に目が開かれるとき、私たちの心に十字架の主イエスの御声が聞こえてきます。「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

「憐れむ」この言葉は、聖書のなかで「神の痛み」をあらわす言葉であり、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」はらわた、燃えたぎるように痛み、思わず手を差し伸べずにはいられないという意味の言葉であります。先週も私たちは、この言葉をめぐって聖書から聴きました。マルコによる福音書第6章34節の御言葉であります。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

主の目から見たら、ここにいる私たちはまるで飼い主のいない羊のようであるかもしれません。怒りに心を囚われ、他者を裁き、その憎しみによって、悶え苦しんでいる。ときに自分自身さえ赦せずに自分のことを責めて傷つけてしまう。自らが神によって赦されていることを忘れて、一万タラントンの負債を赦されたのに、仲間のたった百デナリオンの負債を赦すことのできなかったあの家来のように人を赦せない。そんな右も左もわきまえない、ボロボロな私たちのことをご覧になって「お前たちは悲惨だな。従うべき飼い主がいないなんて。怒りに支配されて、自分が進むべき方向さえわからないなんて…。」主は、そう言って深く憐れんでくださったのです。私たちのために心を痛まれたのです。そして、そんな人を赦せない私たちの罪を赦すために、主は十字架にかかられたのであります。十字架の上で釘打たれたのであります。

私たち、プロテスタント教会では、滅多に目にすることはありませんが、カトリック教会、あるいは、私が育った聖公会という教派の教会では、礼拝堂の正面に十字架につけられたままのキリストの御姿をかたどった「磔刑像」というものが吊るされていることがあります。それは実に、グロテスクで、痛々しく、目を背けたくなるような光景であります。

主イエスは、たしかに十字架に釘付けにされたが、死に勝利して、三日目に復活したのだから、主イエスが十字架につけられっぱなしにされているはどこか妙な感じがしないでもありません。実際、私もずっとそのように思っていました。

けれども、学生時代に一度、そのような十字架のキリストを礼拝堂の前方に掲げている教会の礼拝に出席したことがあります。その際、その十字架につけられたままのキリストをまじまじと見つめていたとき、あることを教え示されました。それは一万タラントンがいったいどれほどのものであるのか、私の罪が、いったいどれほど、主イエスを痛めつけ、傷つけたのか、ということであります。私たちは、十字架の主を仰ぎ見るとき、はじめて一万タラントンの借金が桁違いな負債であることに気がつかされるのでないでしょうか。自分の罪がいかに悲惨で大きなものであるかに目が開かれていくのではないでしょうか。

しかし、聖書が証言する福音はそこで終わりません。まだ続きがあります。復活の主が空になった墓の前で嘆き悲しむマリアに「マリアよ」とその名を呼んで、呼びかけてくださったように、主イエスは私たち一人ひとりの名前を呼んでくださる。さらに、閉め切った部屋のなかで「この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない」と言ったあの弟子のトマスの目の前に現れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、その御手を差し伸べてくださったように、主イエスは釘跡の付いた御手を差し伸べて語りかけてくださる。「人を裁くそんな高いところにいないで、私のもとに早く降りて来なさい。私は七の七十倍、何回も、何回も、何回でもあなたの罪を赦そう。なぜなら、あなたのことを心から愛しているから。心を痛めるほどにあなたのことが大切だから。だからあなたはもう怒りに支配されなくていい。憎しみに震えなくていい。恐れることはない。あなたの罪は赦された。またここから立ち上がろう。赦しをもって共に生きていこう。」

これが信仰の生活であります。キリストに従う者たちの、教会の生き方であります。赦し合えない悲しみがあります。愛し合えない現実があります。だからこそ、主の十字架を見上げるのです。私たちの羊飼いである、私の主人である主の御声に聴き従うのです。御言葉によって、人を裁く玉座にいた自分の罪が示され、私たちは悔い改めをもって、申し訳ないという思いをもってそこから降りていくことができる。隣人を愛し、仲間を赦し、他者に仕える生き方が与えられる。これが人と人の間で生きる私たち主に救われた者の、一万タラントンという膨大な負債を帳消しにされた者の証しの道であります。主はいま、語りかけています。「私があなたを憐れんでやったように、あなたも仲間を憐れんでやりなさい」。これはあなたへの罪の赦しの宣言であります。私もあなたも主によって赦されている。今週もこの赦しの宣言を受けて、いま、あなたに与えられている隣人と、そして、この雪ノ下教会の仲間たちと主の赦しのなかを共に歩んでいきたいと心から願います。主はあなたのために、そして人を赦せない私たちのためにこの世に来て、深く憐れみ、十字架にかかってくださった。

 

贖い主なる、主イエス・キリストの父なる御神、
私たちはいま、あなたの十字架を見上げます。あなたの赦しを受け取ります。
あなたによって罪赦されたこの恵みと慈しみを、今度は、私たちが隣人に伝え、仲間たちの間で、証ししていくことができますように。
私たちの歩みを支え導いてください。私たちにあなたの赦しに生きる力と勇気をお与えください。
あなたが私たちを深く憐れんでくださった故に、私たちはいまここに生かされております。あなたを礼拝し、あなたを賛美していく主の道が示されております。神様、ありがとうございます。
もう怒りに負けないように、憎しみに支配されないように、あなたとの愛の交わりのなかで、御言葉に聴き、祈りを捧げ、仲間たちと共に、今日も喜びをもって生きていくことができますように。
この心からの感謝と願いを私たちの主イエス・キリストの御名によって御前に捧げます。アーメン